第7話 黄色い帆船



 客は主人の他にはカンターの片隅にひとりの酔っ払いがいるだけでした。

 彼女は少し躊躇ったあと、うなづきました。

 歌を辞めてからもう、随分練習もしていないの。上手く歌えないかもしれないわ。

 

 いいんです。どうか、ぜひ。と主人は言いました。


 彼女は歌いました。

 伴奏もないもない、客もいない小さな酒場で。

 自分のために。若い時になくしたひとつの恋のために。この街にただ一人かもしれない彼女の贔屓のために。


 それはかつてのソプラノではなかったけれど、どこか悲しみを誘う歌でありました。


 いい歌でした。主人は彼女にもう一杯の赤ワインを差し出しました。

 いままでで聞いたあなたの舞台のなかで、一番こころ打たれました。


 そう言ってもらえたら、もう歌に未練がないわ。これが最後の歌になっても。

いま、本当に歌いたいことを歌えた気がするの。

 そう言って彼女は酒場を後にしました。

 とても清々しい気持ちでありました。

 歌うことでこころに刺さっていた棘が解けて消えてしまったようにも思えたのです。


 彼女が帰ったあと、店の片隅でうつぶして飲んでいた客がひとり顔をあげました。

 彼は涙で頬を濡らしておりました。


 彼は、あの夜の彼であったのです。

 昼間、街を歩く彼女を見つけ驚き、後をつけて酒場まで来たでありました。

 彼はずっと彼女に謝りたいと思っていました。あの朝、彼は彼女に謝るために波止場にいたのです。

 激しい恋にまかせて奪い去りたいと思った彼もまた、彼ひとりのものではありませんでした。

 彼には家族を捨てて旅立つことがどうしても出来なかったのです。

 波止場に彼女がやって来たら謝り別れるつもりでありました。

 ですが、彼女が現れることはありませんでした。


 彼女にとっても、ひとときの恋のために将来を捨てることは出来ない選択だったのだ、と彼は思いました。

 いやそうではない、繊細な感覚で彼のなかに不実を悟ったのだと思いました。

 それでいい、それが人として当たり前の選択であるのだ。と彼は考えようとしました。


 恋など、一時の情熱に過ぎない。すぐに日常に埋もれて忘れ去ってしまうものだ。

 そう考えて彼は彼女と出ず前の日々に戻りました。


 ところが思いとは裏腹に、選ばなかった選択ほど心に残り締め付けるものはなかったのです。

 彼は選ばなかった黄色い帆船の旅立ちに悔やみました。

 そのうち、彼女の歌の評判は彼の小さな街にも届くようにり、世界中の街が彼女の歌を求めていることを知りました。

 よかったんだ。と彼は思おうとしました。

 彼は家庭を守り仕事を続けて同じ街で同じ日々を繰り返しました。

 今日、偶然に彼女をみかけるまでは。


 街で彼女を見かけた彼は矢も立てもたまらず後をつけました。

 彼にはもう守らなければならない者はおりませんでした。妻は他界し、子どもたちは独立して違う街に住んでおりました。

 今ならば、彼女と暮らすことも出来るかと。夢中で後をつけました。


 そして彼女の歌を聞いたのです。


 素晴らしい歌でありました。魂を揺れ動かすとはこのことだと思いました。

 気がついたらただ、泣いていて、彼女は去った後でした。

 彼女は、心底歌うたいなのだ。と、彼は思いました。


 それからまもなくして、彼はカムバックした彼女のレコードを買いました。

 ジャケットの写真の彼女はショートカットの白髪で黄色い帆船の絵の珈琲カップを持って微笑んでおりました。

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歌うたいの黄色い帆船 秋喬水登 @minato_aki

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