第6話 濡れない雨よりも

 久しぶりに訪れるその港町は記憶のなかの街よりも、ずいぶん廃れて古ぼけた町でありました。

 かつてにぎやかに栄えていたその町は今は面白いものなど何もなく、時間も散歩するともう見るものもありません。

 宵闇が訪れ始めた時刻、飲むには早いかと思われましたが彼女は酒場のドアを開きました。

 あの夜訪れた酒場には色褪せた看板と壊れた灯りが灯って、いまもつぶれずにやっているようでありました。

 酒場の主人はたいそう年老いており、おそらく当時のままの主人であると思いました。

 主人は彼女に気づくこともなく、ご旅行ですか?こんな何もないところにと言いました。

 彼女は赤ワインを頼み、ずっと昔に来たことがあるのよ。と言いました。


 彼はまだこの街に住んでいるのだろうか、と彼女は思いました。


 彼女はあの朝、本当は彼の後を追ったのでありました。黄色い帆船が汽笛を鳴らし、海に出てしまったその後に。

 いまは歌うことをやめられないけれど、いつか一緒になりたいと告げたかったのです。

 そして彼の戻った家の窓を覗いた彼女は、そこに別の女と小さな子どもを見たのでありました。

 彼の捨てると「いままで」を、彼女は想像できておりませんでした。

 彼女の心は大きく動揺しました。

 彼が隠していたことの大きさよりも、心を切りつける嫉妬の激しさに彼女は打ちのめされたのです。

 いますぐこの家の扉をたたいて、彼はわたしのものだと叫びたい気持ち以上に、彼が彼女よりも妻を選んだ時を思い浮かべて、彼女は恐怖に震えました。

 ある夜突然落ちてきた恋は受け止める前に粉々に砕け散ったことを彼女は知りました。


 それから彼女は幾度となく恋の浮名を流しすのですが、いつも折り畳み傘を鞄に忍ばせる人のように恋の雨に濡れることには用心深かくなったのでありました。


 けれど不思議なものだわ。と彼女は思うのです。

 うまくやった恋よりも無残に砕けたことの方が懐かしく大切に思えるのね。歳を取るということは。


 あの、もしかしたら。と主人は彼女に言いました。有名な歌うたいの方では?


 あら、歌を辞めてから、身元がバレてしまったのは初めてよ。内緒にしておいてね、と彼女は言いました。


 よろしければ一曲、歌っていただけませんか、あなたのファンだったのです。この街のために。どうか。

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