第5話 約束の朝

 遠いところに行こう、と彼は彼女に言いました。

 彼女の休日が終わり明日からまた歌うたいに戻るという夕暮れのことでありました。

 港には一艘の大きな帆船が夕陽をうけて泊まっておりました。

 おたがいのいままでを捨てて、これからはふたりで暮らさないかと彼は言ったのです。あの黄色い帆船に乗ったら地球の裏側の誰も知る人のない街で生きていけるのだと。


 彼は彼女のためだけに、彼女は彼のためだけに。


 明日の朝、船が出る前に波止場で待っているから。


 そう約束したとき、夕陽は帆船の帆を染めながら海に沈んでいきました。

 空には白く細い三日月が何も言わずに光っておりました。

 明日、月の船が櫂を無くして彷徨う朝に黄色い帆船は地球の裏側に長い旅にでるのです。

 いままでを捨てて彼とともに帆船に乗ったら、この休日はずっと続くのでしょうか。

 それとも長い夢を見ているのでしょうか。

 彼の言葉はいつか歌ったことのある恋の歌に似ていると思いました。


 東の空がうす桃色に染まる時刻、彼女はひとり小さな旅行鞄を持って、波止場の見える街角に立っておりました。

 本当に彼は来るのでしょうか。

 いえ、それよりも。

 本当に自分は歌を捨てて彼と生きていくつもりなのか、彼女はずっと考えておりました。


 波止場を見守る彼女より少し遅れて彼も波止場にやって来ました。


 朝の光の中で小さな鞄と色褪せたズボンの彼は、ずっと彼女を待っていました。

 もしも私が行かなければ。と、彼女は思いました。

 彼はひとりでもあの黄色い帆船に乗るのかしら。ひとりで地球の裏側に行ってしまうつもりかしら。

 そうしたら、彼はわたしのことを嘘つきだと思うかしら。

 いますぐに彼のもとに駆け寄ろう。

 そう思っているのに、彼女は彼の方に歩み出て行くことが出来ませんでした。

 なぜか、足が動かずに、彼を呼ぶ声も発することが出来ずに、彼女はただ、彼の姿を物陰から見守ることしかできないのです。


 ほどなく帆船は汽笛をあげて港を出発し、その船に彼は乗ることはありませんでした。

 船が出て行った後、彼はひとり街に戻って行きました。

 

 帆船が汽笛を鳴らして海に出ていき彼が後ろを向いて街に戻って行くのを、彼女はずっと見ておりました。

 彼に、約束を守れないことを謝まることも出来ませんでした。

 

 黄色い帆船の珈琲カップは、ほろ苦い若い日の思い出を彼女に呼び起こしたのです。

 そして珈琲カップを眺めているうちに、彼女は今まで訪れることを避けていたあの港町に行ってみようという気になったのでありました。

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