第4話 世界に鳴り響く音楽

 その夏のことを思い出したというのは適切でないかもしれません。

 いつも頭の片隅にあるけれど、そうであるが故に形を明確にしていなかったある人影が珈琲カップの帆船のなかに現れたのです。


 その年の夏、彼女はある大きな港町の舞台で歌ったことがありました。

 チケットは何カ月も前から売り切れて興業は一週間も続きました。

 その町での舞台は大人気で、毎日が刺激に溢れてあっという間に過ぎてゆきました。


 そのひとと出逢ったのは千秋楽も終わった夜のことでありました。


 仲間たちと一頻り騒いだあと、気まぐれにひとり訪れた小さな酒場に彼はいました。

 彼は彼女を一眼見て狂おしく恋をしました。

 彼女も彼の熱い視線に心を動かされました。

 彼は彼女が有名な歌うたいであることを知りませんでした。

 それなのに、彼女の唇からこぼれる言葉が彼の固い頭蓋骨に覆われた音楽堂のなかで壮大な交響曲を奏で、その振動に気が遠くなるほどの感動を覚えたのです。

 彼は彼女の姿を褒めることが出来ませんでした。

 どんな芸術品に対する賛美も彼女の美しさの前には空々しく感じたのです。

 そもそも彼は芸術を語るような日常を送ってはおりませんでした。

 彼は港町の小さなレストランに働く料理人で、日々奏でるのはフライパンとソースのハーモニーでありました。

 それでも、胸に鳴り響いたものを彼女に伝えようと、彼は開けられる限りの心の引き出しをひっかきまわして言葉を探そうと懸命になりました。

 その努力にもかかわらず彼は彼女の存在に打ちのめされ、ただ黙り込んで彼女を見つめるしかありませんでした。


 彼女は、彼の熱いまなざしの前に立ったとき、どんなスポットライトよりも胸たぎることを知りました。


 不器用な、恋の手管を知らないがゆえの強さが彼女の胸の管弦楽を響き渡らせたのは皮肉でもありました。

 かくして巡り合うこともない二人の男女が、港町の酒場で恋に落ちたのです。

その夜からふたりは毎日会い、語り合いました。

 しばらくは彼女にとって久しぶりの休日であったのです。

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