第3話 或る町の骨董屋

 映画館を出てあてもなくその町を歩いているうちに、一軒の骨董屋が目に入りました。

 ショーウィンドウに飾られた珈琲カップが気になったからでした。

 帆船の絵が描かれた瀟洒なカップは貴婦人が持てばさぞ似合うだろうと思われました。

 あのカップを見せていただきたいの、と彼女が言うと、店の主人は訝しげに彼女を値踏みしました。

 名のある絵師が描いたものでかなり値のはるお品ですが、と言いながら出されたものは、たしかに風を受けて今海に出ようとする帆船の躍動感を感じさせるものでありました。

 彼女はどうしてもその珈琲カップが欲しいと思いました。

 相当な値をふっかけた店主に言値を払うと店主はころりと態度を変えて、さすがにお目が高い、と揉み手をしました。

 簡素な格好をしているが遺産をたっぷり持った未亡人か何かだろうと想像したのです。

 このカップに描かれている帆船はハプスブルグ号といいまして、かつては一世を風靡した船でございます。世の貴婦人はこぞってこの船の旅で行われる舞踏会に呼ばれたがったのですよ。この珈琲カップはそのような貴婦人の愛用であったものでしょう。

 ハプスブルグ号。そんな名前であったような気がする。

 美しいクリーム色で塗装された船体に真っ白な帆を膨らませて、青い空を背景に港に泊まっている風景が彼女の脳裏に思い出されました。

 珈琲カップを買い求めたのはまったくの気まぐれであったのですが珈琲カップに描かれた帆船を見て、彼女のこころに刺さったままであった古い棘がちくりと痛みました。

 それは彼女の名が売れ出して間もない、若いころのことであります。

 俳優や大富豪たちの求婚を断り続けていた彼女にはひとつの悩みごとがあったのです。

 それは恋の歌を歌う時に少々色気が足りないといわれることでありました。

 恋の痛みを知らなければ本当の意味で恋の歌を歌うことは出来ない、ただ、いい声で囀っているだけでは本当の歌い手とは言えないよ、と、彼女の師匠はいうのです。


 発声の練習なら幾夜と頑張って習得することが出来ましょう。

けれど恋の練習など聞いたことがありません、と、彼女は訴えたのですが、年老いた彼女の師匠は、ただやさしく微笑んで首をふりました。

 若く成功してしまったあなたには、当たり前の日々がないのがかわいそうね。と言うのです。


でも安心なさい、恋は求めずとも空から落ちてくるものよ。

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