第2話 名もなき旅人として
歌うたいとして訪れたきた街を、今度は名も知られぬひとりの老婆として旅する冒険の思いつきに、彼女は少しばかりわくわくしておりました。
自由を愛すると言って来た彼女でしたが、思えば行く先々の街で彼女を知らぬ者はなく、どこへ行っても写真を撮られます。
歌うたいの名を捨てた今こそ、本当の自由なのだと彼女は考えました。
ある街ではかつて王様が彼女のために建てた金の音楽堂で、若い歌うたいの舞台の最中でありました。
この国の王様はとくに彼女の贔屓であったので、彼女は用心深く、濃いガラスの色眼鏡をかけスカーフで口元を隠して客席に座りました。
舞台では若い歌い手がライトを浴びて高らかに歌います。
今日の舞台の歌い手は、昔彼女が練習を見てやったことのある娘でした。
あの娘も立派になったものね。
彼女はアンコールの拍手の前にこっそりと席をたちました。
誰かが彼女に気づいて大騒ぎになるかと恐れましたが、彼女に気がつく者はひとりもおりませんでした。
客たちは若い歌手に夢中であったからです。
こうしてかつて彼女を招待した街々を訪れて、若い歌い手たちの舞台を何度か見てまわるうちに、彼女は色の濃い眼鏡やスカーフで顔を隠すことをしなくなりました。
そんな事をしなくとも誰も彼女に気がつくことがないとわかったからです。
あぁ、今こそ本当に自由だわ、と彼女は思いました。
ただ、見聞する舞台がもっと聞きごたえのあるものなら、もっと満足出来たのに。と残念に思うのでした。
ある街では音楽ではなく、映画館に入りました。
若い人の歌に飽々してきたこともありましたが、その映画がかつて彼女に求婚した俳優の演じた映画のリバイバルであったのを思い出したのです。
いまは彼女と同じく年老いているはずの俳優が、銀幕のなかでは若々しくうっとりするほど魅力的に演技をしていました。
映画は残るからいいわね、と彼女は思いました。
数えきれないほど歌を歌って来た彼女ではありますが、レコードというものは一枚も残っていませんでした。
若いころはその場で聞く歌こそ真実だと思っていたからです。
そんな彼女ではありましたが、かつての自分の歌声がもうどこにもないことを少し寂しく思いました。
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