にゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃにゃ
・夕陽とマタタビ
月面、無重力空間での作業効率を追求した結果できあがった宇宙服は繊細な作業に優れたグローブと月の重力に関係なく移動を可能にするブーツ部分を除いて、ぶよぶよとしたゼリー状の膜で身体を覆う構造になっている。ジェリーフィッシュと名付けた夕陽にしても不気味に感じるゼリー部分ではあるが、この猫の液体的流動性を基に考案したゼリーには優れた気密性と豊富な酸素を生成し、高所から落下しても無傷で動き回る猫特有の耐久性にも富んだ優れた宇宙服と呼べた。着用後の粘液に塗れた不快感を無視すれば、まあ、ずっと着て生活していてもいいのではないかとすら思える。
夕陽は月の裏側に位置する『ニューにゃーゲート』建造基地から月面バギーを駆って表面、地球の姿を全貌できる地点で、ぼんやりと青々としたその丸い星を眺めていた。
「にゃー、先生ここに居たのにゃ」
「先生じゃない、教授だ」
どこで嗅ぎつけたか知らんが、マタタビが夕陽と同じくジェリーフィッシュに身を包んで夕陽の隣に並ぶ。
「先生にゃー、その拘りはなんなのにゃ」
拘り、か。はて? 私もどうして、と思考しながらこれが所謂、挨拶のルーティンでありマタタビとのむず痒いコミュニケーションであることに今更ながら気が付いた。
「まあいいさ。マタタビこそこんなところに足を運んでる場合じゃないんじゃない?」
「先発隊のことかにゃ? にゃー、別に特別用意するものもないにゃ。強いてあげれば、心構えぐらいかにゃ」
なんだか武士みたいな勇ましさで胸を張るが、未知の宇宙(厳密には宇宙かすら解らない)に出航するクルーとしてはさぞ心強い存在になるだろう。
夕陽の変わらぬ容貌に比べて、マタタビには変化が見える。茶トラの髪はさらさらと長くストレートに伸ばしている。というのも、ケットシーの髪いじりで様々アレンジできる絹のような白銀に憧れたとことが主な理由として。瞠目するべきは、嫌でも目を惹く、毛量のふわりとした自在に――気分によって――躍動する長い尻尾だった。
ヒトネコ族のような生得的な身体特徴と違い、後天的に生えたこの尻尾について夕陽ですらうまい説明が思いつかなかった。
「おそらく、SASMR――超自律感覚絶頂反応――による結果なんだろうけど。つまり、これは無意識の領域を有意識に活性化することで単なる暗示を現実の現象として引き出すチートっぽい性格を持つものだから、思いもよらないポテンシャルを引き出した、てことなのかな……猫として」
「にゃーもそう思うにゃ」
ジェリーフィッシュの中で尻尾を振って応えるマタタビ。
「そういえば、その猫訛りもついに治ることがなかったよな?」
「治るというか、もともと猫の言語にゃ。自然体にゃ。これでいいのにゃ」
まあ、そうムキにならんでも……。マタタビにはマタタビなりの拘りがある。これも猫の一種の性格なのだろう。そういう、無邪気さこそ猫に求めた気質であり、小鳥遊親子を研究に突き動かした原動力だったはずだ。
そして、今その無邪気さは集合的猫意識として新たなる世界を現前しようとしている。
「顕現っていったほうが、それっぽいけど。猫たちの猫による世界創造だ。きっと危険はないとは思うけど、それでも用心に越したことはないからな」
マタタビは、つと寂しげな眼差しで夕陽のことを見ていた。
「先生は行かないにゃ?」
「さあ。行きたいけど行けない。ここまで来たのにここで終わりだ。無理くり脳を活性化することで肉体的には健常に保てても、精神、魂まではどうにもならなかった。ここいらが人間の限界なのさ」
一番悔しいのは夕陽のことだろうに、マタタビの方が今にも泣き出しそうな顔で。でも、そんな顔を見られることを憚って地球の姿を瞳に映し続けている。
「きみが感傷に浸る必要はない。これは解っていたことだ……ケットシーが顕現したとき正直私は震えた。そして、多くの科学者哲学者が求める集合知の存在を見てみたいと願った。なにも、向こうからやってくるのを待つ必要ない。私たちの方から乗り込んでやればいいんだ」
それからは随分と時間がかってしまった。あと一歩、その一歩が届かなかった。人のため猫の為世の為とあれこれ宣っては来たが、究極のところ、これまでの営みは自身――小鳥遊夕陽の知的好奇心の遊び場だったのだ。シニカルに罵られても仕様のない性だった。それが小鳥遊夕陽であり、猫たちと共に歩んできた道、足跡だった。
「まあ、いいさ。私はやりたいようにやってきた。だいぶ満足している。こうしてきみたち新時代の担い手たちにも、道しるべを示すことも叶った。それが希望になれば、さらになによりさ」
そこまで聞いて、マタタビは小さな笑みを浮かべて夕陽に煌めく瞳を向けた。それは、あの〝温かい〟と呼んだ純粋さ。それそのものを見る、猫の流儀に他ならない。愛らしさの権化が夕陽に訊いた。
「それが先生にとっての狩りだったのにゃ」
はっ、と目を見開いて夕陽もまた純粋な温かさを見る眼差しでマタタビを捉える。全身全霊で魂に刻み込むように、その猫の形を来世にも引き継ぎたいという願望を込めて。
これは小鳥遊夕陽の最後の言葉だ。
「最近思うことがある」
「なにがにゃ?」
「実は私という自意識はきみが見ている夢なのかもしれない。現実には小鳥遊夕陽なんて人間はいなくってすべては夢。きみの主観に過ぎないって」
「にゃー、にゃにを言っているのかよく解らないのにゃ」
「確かに。私もなにを言っているのか解らないさ。ただこう考えることで、それはつまり集合的猫意識によって形作られたものが私なら、その魂はおそらく、『にゃーとぴあ』のどこかでみつかるかもしれないかなって、あはは、感傷的だが私の願いだ」
「見つけるにゃ、きっと……」
「期待しないで、待ってるよ」
「にゃーは、マタタビはきっと長生きするにゃ。解るのにゃ」
猫的な知覚。これは絶対。それは間違いのない現実として。
やっぱり、地球は青いんだな。そうだにゃ。にゃーとぴあはどんな風に輝くんだろうね。きっと三毛猫模様のもこもこだにゃ。冗談! 解らないにゃ? すべてがすべて先生の思惑通りなわけないにゃ。たしかに、それはつまらない。探求心が燃えないな。そうにゃ。はあ、なんだか、様々なことがこの地球で起こったけど……そう悪いものでもなかったな。
ひとりといっぴきの姿が影となり伸びて縮む。月は地球の裏側に沈んでいく。繰り返されることとそうでないこととを包み込んで。
小鳥遊夕陽は一四八歳。彼女が息を引き取った翌日、ケットシー率いるマタタビたち先発隊はこの宇宙を後にした。
ねこねこパンチラッシュ隆盛記 由良 となえ @kyo-ka
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