第七夜【終わり】
曇りガラスがネオンと街灯、高層ビル群の明かりを乱反射させ、イルミネーションの様に光り輝いている。それを爛々とした目でじっと眺め続けている女の横顔をまた、男はじっと眺め続けていた。
残り数本となった高速バスに飛び乗った2人は、着の身着のまま東京を目指していた。
失神する輩の懐から通帳を抜き取り、そのまますぐ金を下ろして駅に向かい、1番早い便に飛び乗ったのだ。男はそもそもホームレスで足取りも着きにくいし、女も似た状況故に見つかる事はまず無いだろう。あの男達は地元で幅を効かせる以外に生きる道が無いからだ。
女は外を見つめたまま呟いた。
「本当に東京に行けるのね……夢みたい」
昨日の夜に見たキラキラとした目をしている。まるで子供のようだ。
「夢じゃない。これから君は君の夢を叶えるんだよ」
「ふふっ、変なの」
東京までの5時間強、話す時間はたっぷりあった。2人は自分達がこれまで送ってきた人生を語り合い、空白の時間を埋め合わせていく。
「大変だったんだ」
「まぁあたしはこんな性格だからまだいいけど、妹はね」
女には妹がいるが、病気で長い間入院を余儀なくされているという。その治療費を稼ぐ為にも仕方なくあの仕事を始め、あの男等にこき使われる様になってしまったのだった。
男は女の妹の治療費を出すと言った。勿論女は断ったが、男はそれを押し切り、東京に着いてから金を振り込むと約束した。
「でも本当にどうしてそんなに早くお金が手に入ったの? 育ての親が亡くなったのは残念だと思うけど、普通もっと時間がかかるものじゃない?」
「分からない。いや、多分、これのおかげだよ」
男はバッグからシュトーレンを取り出した。
「これのおかげでお金が貰えたし、君とも出会えた」
言って女を見ると、困惑した顔をしている。それもそうだろう、信じられるわけが無い。
「嘘みたいだけど本当の事なんだ」
「……あのね」
女は真剣な表情になり、男の目を真正面から見た。
「あたしにそのシュトーレンは見えてないの」
「え……え? 見えてない?」
「ごめんなさい、早く言うべきだったのかもしれないけど、あなたが初め取り出した時もそうだし、お風呂に入っている時も今も見えてないのよ」
女は男の手を取った。それは男がシュトーレンを持っていると言った方の手だった。
絶句し自分の手と女を交互に見比べ、バッグの中身を足の上に放り出すがどこにもシュトーレンは見当たらない。
「え!? いや、そんな、でも今確かに手に持って……ええ? 君が取ったのか?」
「ちょっと何言ってるの? あたしが取る訳ないじゃない。そもそも見えないし何を言ってるのか分からなかったんだから。あなたさっき自分の手に持ってたと思ってたんでしょうけど、本当に何も持ってなかったのよ」
男は訳が分からなかった。あの日からずっと食べてきたはずの物が丸っきり空想の産物だったのか。あの香りも柔らかな感触も芳醇な味わいも全てが幻? 俄に信じられない。
だが、どこを探してもシュトーレンは見つからなかった。最早その残り香すら感じられない。
まさか最初から……。
「でもそれがあったとしても無かったとしても、あなたに会えたじゃない。あなたはあたしを助ける勇気があったじゃない。普通出来る事じゃないわ。あんな暴力とセックスと金しか頭に無い人達と違って……あなたには勇気があった。心から愛を教えてくれた。それじゃ駄目かしら」
男は空になった手を見た。違う。あれはシュトーレンがあったお陰なんだ。金も君も男達に立ち向かったのも全部シュトーレンのおかげなんだ。
そう言いたかったが、女の真剣な眼差しがそれを阻んだ。確かに女の言うようにそれはどちらでも良いのかもしれなかった。
あの芳醇なシュトーレンの味を、男はもう思い出せなくなっていた。
「いや、それでいい。それがいいのかもしれない」
東京の空はまだ暗く、朝日が辛うじて空を白く光らせ、烏や名前の分からない鳥が空を飛んでいる。
「いつかあなたのお仲間さんに会わせてね。謝って、いっぱい美味しい物食べてもらいましょう」
女は化粧を直してくると言い近くの公衆トイレへと入っていった。
そのすぐ横にベンチがあり、男は空を見上げて女が出てくるのを待っていた。
本当にシュトーレンは自分の妄想だったのか。手を掲げてじっと見るが、やはりどこにもシュトーレンは無い。重みも思い出せない。少しずつ記憶から姿形が消えていく。
ふと、視界の端に誰かが立っているのが見えた。
上体を起こして見ると、一人の老人がこちらを見て立っていた。
髪も眉も髭も真っ白で綺麗に整えられている。
皺1つ無い丸襟の白シャツに青いボタン、ズボンもまた白であり、鼈甲柄の尖った革靴を履いていた。
見知った顔だった。
「あんた……」
「願いが見つかったようで何より。もう必要無いと思ってあのシュトーレンは消した。いずれお前の記憶からも消えていくだろう」
「……そうか」
この老人が何者であるか、神か人か妖の類か、それはどうでも良い事なのかもしれない。
「1つ聞かせてくれ」
「1つだけだぞ」
「どうして俺なんだ。こんな何の取り柄も無い俺にやって良かったのか? もっと色々いたんじゃないのか」
老人は髭を触りながら言う。
「それじゃあ面白くない。お前の様に何も無い物が最終的に何に使うのか観るのが、私達の楽しみでもあり、賭けでもある」
「何だ、俺は賭けに使われたのか。全く、これだから神ってやつは」
「はは。まぁその副産物としてお前の親代わりを死なせたのはすまないとは思うがな」
「それは正直相当腹立たしいが」
「ああ、だからすまないとは思っている。実際親代わりは間もなく死ぬ運命ではあったから、少しだけ早める事になってしまったが。まぁお詫びと言ってはなんだが、私からもう1つだけプレゼントしてやろう」
「……まさか生き返らせてくれるのか」
老人は高らかに笑った。
「いやいや、それはどうやっても覆せない。だからその他の物で補填してやる。お前が私の事を忘れ、人生に戻った時に分かるだろう」
「今教えてくれないのか」
「それは楽しくないだろう。ま、あの女としっかり愛を育み、よく話せ」
そして老人は瞬きの間に消えた。そのすぐ入れ違いで女が支度を終わらせトイレを出て、男の横に座った。
「誰かいたの?」
「……いや、ただの独り言だよ。行こうか」
「そうね。まずは新居を探しましょう……あたし、頑張るから」
「ああ、俺も頑張るよ」
「まずは身分証からかしら」
「言ってくれるなよ」
色とりどりのネオンを朝日の白い光が霞ませ、ビルの明かりと未だ深い黒を残す路地裏へと男と女は消えて行った。
空には瑠璃色の体毛の美しい鳥が一羽、気持ち良さそうにどこか遠くへと飛んでいった。
神のシュトーレン 久賀池知明(くがちともあき) @kugachi99tomoaki
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