第六夜【禁断の果実】
目覚めると横に女が気持ち良さそうに眠っていた。誰かと横になって眠るのは初めてで、何故か女の事をとても愛おしく感じている。髪を撫でると
「おはよう」
と目をつぶったまま女は朝の挨拶をした。男も
「おはよう」
と返した。それは在り来りな挨拶だったが、男にはそれこそが必要な物なのだと思えた。
歯を磨き、身支度を整えると女も既に身支度を整え終わっており帰ろうとしているのが目に入った。名残惜しさが男の胸を打ち、思わず
「俺と暮らしてくれないか」
女に告白していた。自分でも驚いたが、女はそれ以上に驚いている。はったりではなく本気なのだと、昨夜と同じ様に直感で分かったからだ。この男ならば幸せにしてくれるのかもしれない。何故か女はそういう気持ちが溢れ出て止められなかった。しかし女は断った。
「駄目なのよ。私そんな良い女じゃないし、昨日は女優になるなんて言ったけど、でも私なんかがって思う自分もいて。ううん、なりたいのは本気なの。本当になりたいの。でもその為にこんな仕事して時間は削れちゃうし、正直心がボロボロになってってるのが分かるの。だからあと少しだけお金が貯まったら実家に戻ろうかと思ってて……家出みたく飛び出したから帰らせてくれるか分かんないけど……でもどうしようもないから」
「お金なら出す」
「駄目よ。私なんかに捨てたら。求められて嬉しかったけど、でも」
「君に使いたいんだ。これまでの10数年俺はホームレスだった。空き缶を拾ったりゴミ漁りながら生活してた。でも金が手に入って全てが変わったんだ。やっと人になれた気がして」
「だったら余計自分に使わなきゃ。これからあなたの人生が始まるんでしょ? あたしなんかに使わずもっと有意義な物に使って」
「違う、君と一緒に居たいんだ」
男は女を愛してしまっていた。女もまた男を愛してしまっていた。始まりはどうあれ2人が大まかに同じ方向を向いている。
しかし、歪みの足音が忍びよっているのに男は気づいていなかった。
コンコン
ノックの音が室内に響いた。チェックアウトの時間だと従業員が言いに来たのだろうか。もう一度ノックが響き、男はドアを開いた。
するとそこには数人の男達が立っていて、何か言う前に男の胸ぐらを掴みながらドカドカと部屋に押し入った。
1人が女に
「こいつか?」
と聞き、女は小さく頷いた。それを見て胸ぐらを掴んでいる男が
「おい、金はどこにあんだ? 痛ぇ目に逢いたくなかったらさっさと出しな」
そう言った。男達はこの辺りで幅をきかせていたヤクザ紛いのグループであり、女はそのグループに半ば強制的に働かされていたのだった。
「昨日こいつから電話あってよ、何千万って持ってるって聞いてよ。ちょっと分けてくんねぇかなと思って来た訳。分かる?」
男は女を見た。震えているのがわかる。恐らく男が風呂に入っている間にバッグを漁り、通帳の中を見たのだろう。それで昨日の内に電話してここに至るのか。
「ごめんなさい」
とか細く女が鳴いた。それを合図に男は四方から暴行を加えられ、暗証番号を吐くよう迫られた。指を折られたりはしなかったが、顔は膨れ、体中の隅から隅まで青あざがこびり付いている。
暗証番号を言うと最初胸ぐらを掴んでいた男が
「早く吐いちまえばこんな痛い思いせずに済んだのに馬鹿だな」
と、鳩尾目掛け蹴りを放ち、そして女を連れ立ち去って行った。グルなのか脅迫されているのか、ホテルのスタッフは現れる事も通報することも無い。
男は仰向けになり天井を仰いだ。去年建った建物らしく天井は綺麗で、華美な装飾が壁も含めて一面に施してある。
大きく深呼吸し、男は立ち上がり、バッグを改めた。取られたのは通帳だけだった様で、シュトーレンは変わらず良い香りを漂わせて底に眠っていた。
男はシュトーレンを銀紙から出し1口齧った。
本来するはずの芳醇な香りは無く、血の味が口に広がって喉を通り、体を巡った。
冷蔵庫から水を取り出し一息に飲み干して、男はホテルを後にした。
街は笑い声がそこら中から聞こえ、店の前を通れば香ばしい肉の匂いがクリスマスソングを運んでくる。
フラフラと歩く男は酔っている様にしか見えないのか、誰も気に止める人はいない。
陽は殆ど落ちており、鮮やかなイルミネーションが街を彩っている。
ふと、赤信号で立ち止まり交差点の先を見ると、つい先程まで自分を痛ぶっていた男達と、助手席に座り俯く女が見えた。男に気づいている様子は無く店を見ながら話し込んでおり、次なる標的の店にあらぬいちゃもんでも付けようかと画策しているのかもしれなかった。
今更警察に行っても金が返ってくるとは思えない。
「ーーーー」
男のすぐ真横に1台のタクシーが止まった。そのタクシーは少し高級そうな見た目で、運転手も帽子にネクタイ、ピンなどをしっかりとした、執事風の出で立ちだった。その運転手は運転席を降りて近くのバーに入っていった。そこの客が呼んだのかどうかは分からない。
男はそのタクシーの運転席に乗り込んだ。
車を操縦したのは何時だったか、確か20歳くらいの時に先輩が面白がって運転させたのが最初で最後だった。
アクセルを探しゆっくり踏むと、グゥーーーンとエンジンが雄叫びを上げた。一度アクセルから足を離し、クラッチを踏み、ギアを3速に変える。そしてアクセルを踏み込むがサイドブレーキに阻まれ、ガクンガクンと首を振られた。その音に気付いたのか、運転手が血相を変えて店から飛び出し、ウィンドウを叩きながら出るように叫んでいる。
男はサイドブレーキを外さねばならないのだと思い出して、それを無視しながらサイドブレーキを解除し、アクセルを踏み込んだ。
エンストしなかったのは偶然か神のイタズラか。
車は瞬く間にスピードを上げ、交差点の向かいで停車する1台の乗用車目掛けて突っ込んだのだ。
煙を上げる2台の車。1台は空で、1台には頭から血を流して倒れている男達がいた。
野次馬が集まるその真ん中を突っ切り、路地裏へと駆ける2つの影があった。その影は群がる民衆と陽気なクリスマスソングに掻き消され、夜の闇へと消えていった。
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