陸のカピバラ

Soi

陸のカピバラ

 人は、何かを失うと自発的にそれを細胞レベルで埋めようとする。

 今、建物と建物に挟まれたレンガ敷きの通りに立ち、お月様と睨めっこしましょな彼がまさにそうだった。

 失恋の傷は大きい。世の中には「死ぬこと以外かすり傷」とか言っているふざけた連中もいるが、今の彼を見てそんな事が言えるだろうか?正直言う事ができない。しかし彼の状態はざっくり説明してもメンタル的に重症でしかない。


(俺は、新しい人を見つけるんだ)


 大きな眼鏡をかけた、金髪アシメの男。イケメンかと言われればそうとは言えないのだが、ジャケットやアンクルパンツ、スニーカーを見てみれば小綺麗にまとまってはいる。オシャレ(のつもり)なストールに機能性重視のショルダーバッグは、値段でマウントを取らない優しさを持っていた。

 どうしてフラれたかは、今ここで言う時間が無い。

 そうしている間に、往来で立ち尽くしていた姿を衆目に晒し「滑稽だ」と言われていた彼は立ち直る。細胞が、心の強さが失ったモノを埋めようと動き出す。


(ナンパするか)


 いや、どうしてそうなる?しかし我々はそんな野暮を言う前に、彼の気持ちになって考えなければならない。

 先に述べたように、人は何かを失うと細胞レベルでそれを埋めようとする。読んで字の如く、彼は失った恋をもう一度取り戻そうとしていた。…しかし今しがたフラれた女性に再度アタックしに行くというのは、頭のスペックが壊滅的なレベルのダチョウでも「そいつはナンセンスだろう」と真顔で言えるレベルの事である。

 よって、この男は新しい女性をナンパする事を計画する。

 ぶっちゃけ男女の関係が始まる切欠なんてフィーリングである。「これだ!」と思う女性にアプローチをし、色々とすっ飛ばして関係を作るという何とも野蛮な行程ではあるが、フィーリングさえどこかで噛み合えば上手くいく。

 そうこう言っているうちに、彼は「これだ!」と思う女性を見つけた。


 *


(あの子なら手頃なとこなんじゃないか?丁度暇してそうだし、フリーの匂いがする。)


 長い黒髪をアップでまとめ、ファーのついたコートを着ている女の子。クールな感じで、美的なレベルは高いがそれこそ恐れおののくようなレベルではない。そこのレベルでない事が重要なのだ。南米のジャングルで言えばカピバラ、勢いで押せばいける相手だと脳内計算がそう弾き出した。勘というのは時にどんな数式にも勝る。

 目標を、近くの柱でスマホを弄っている女の子に向け行動開始。


「す、い、まっせーん」


 不意打ちではない、正面に立つ。驚かせては引かれてしまう。


「は?」


 開口一番、ちょっと刃のついたジャブである。その辺の雑魚であればこれで完全にダメージがHPを上回って戦闘不能になってしまうのだが、失恋の傷でちょっとやそっとの痛みでは全くもってダメージ換算されない。街角で非暴力的(もしかしたら言葉の暴力はあるかもしれない)なファイトが始まる瞬間に、心が緊張で締め付けられる。


「1人ですよね。」

「え、ナンパですか?」


 日本の都市圏にいるのか、韓国ファッションの写真集にいるのかみたいないかにも「オシャレしてますよー」的な女性はどうしてか敷居が高い。これがどうしてか説明をするのが難しい訳ではあるが、今声をかけた女の子みたいに、キラキラしているよりかはギラギラしている女の子というのはどうしてか狙いやすい。そしてこういう子の方が面白かったりする。

 簡単に言えば、カピバラみたいなものである。


「誰かいないかなと思って」

「だったらキャバクラでも行って来たらどうですか?ここから10分くらい歩いたらありますよ。」


 ここであしらわれて逃げてはならない。


「そうじゃなくて、貴女と1対1の話をしたいんです。」


 触っていたスマホをしまう。話を聞いてくれる女の子でホッとした。



「じゃあ私、あそこの喫茶店でパフェが食べたいです。」


 失恋という爆撃で荒野と化していた心が一瞬にして満たされる。喜んで叫びたくなる気持ちを抑え、横に彼女が並びながら、歩いて2分の場所にある喫茶店へと到着したまでにそれほどの会話はできなかった、残念。


 *


「チョコレートパフェと、アメリカン下さい。」

「僕はモカマタリで。」


 それほどの会話はできなかった悲しき男の戦いは第一関門を突破し、第二関門に入る。取るに足らない顔をしたセンターパートの男が注文を取って「かしこまりました」と言って立ち去ったら開始の合図。


「こういう風に、声は掛けられるんですか?」

「よく掛けられますよ。」


 自分が狙いやすいと思った相手は、人も狙う。自然界においても街中においても、競争社会の摂理は休む事なく自分達を動かしていた。…今はそんな事実を思い出して打ちひしがれている場合ではない。ツンツンしている彼女が、予想通り冷たい対応をしているのに構えを取る。


「先週も友達と遊んだ帰りに、ホストみたいな人に声を掛けられました。」

「ナンパって、そういう人がよくやるんじゃないの?」


 思わず心の中で、カピバラかよと思ってしまう。

 まさに街を歩けばナンパ目的の男に声を掛けられる彼女は、コンクリートジャングルに生息するカピバラそのもの。逆に声を掛けた自分がジャガーやピューマかと言われれば疑問であるし、爬虫類は苦手だからアナコンダと言われたくもない。

 しかし、今は食物連鎖の上に立たなければ。…強いて言えばイエモンが好きだからジャガーが良いんだけど。


「普通にサラリーマン風の人だって声を掛けてきますよ。オネエサンカワイイデスネオチャシマセンカ、なんて言ってしつこくついてきましたけど。」

「定型文だなー。」

「私、恋愛は素人ですけどそんな言葉で落ちませんから。」


 ここで素人、と言われたら拒否を意味するのか自己開示を意味するのか分かりかねる。トラップはそれがそうじゃないのかそうなのか分からない所だと一層タチが悪い。しかしここで敢えて心の中で自分にGOサインを出す、あえてを選ぶ心の強さを見て欲しい。ぶっちゃけクールそうだが垢抜け過ぎていないように見えるし男性への耐性ないだろうと思ったので声を掛けた。正直に耐性が無いのであれば御の字、あるのであればちょっとだけ年の功で何とかする。


「じゃあどうして、今こうやって一緒に話してくれるのか気になるな。」

「自分の世界がありそうな見た目をしてますしね。」


 女性の言葉には裏がある。この場合の自分の世界は、おそらくこの人の中ではセンスあってユニークだと思っているのだろうがオシャレじゃないし何か変だという意味。実際まあモテるという訳ではないし、ポンコツなところまでバレている。近寄りにくいと言われれば確かに言い返す言葉が無い。


「そんなモノは無いよ。」

「否定しましたね、今のでお兄さんがポンコツなの完全にバレましたよ?」


 耳の痛い話。こっそり置かれたモカマタリを口にすると、エスプレッソかと疑いたくなるくらいに苦かった。ここで彼女が初めて口角を上げて少しの笑顔を見せてくれたのが更に痛い。


「私が1人だと言い当てたから、逃げられないと思ったんだけどな…」


 そんな子が、残念そうにボソッと呟いた。贋作のモカマタリに気を取られる事なく見逃さない、ここで気の利いた言葉が出てくればと思うのだが、今ここでできなかった事を悔やむより目先の問題にどうぶつかるかである。


「私の顔に何かついてます?」

「赤じゃなくて赤紫だと思って、アイシャドウ。」


 アイシャドウの色を答えると、少しだけ彼女が機嫌良さそうに目を開いたのが見えた。赤か赤紫かどうかは分からないラインであったが、ここで2択を当ててしまった。適当なのに!


「シュウウエムラのやつです。」

「あ、僕の名前だ。」

「は?」


 確かに「は?」だろうな。化粧品のブランド名を言ったと思ったら自分の名前だと言われるなんてあらゆる可能性をシミュレートしても思いもよらなかった事を言われれば思考回路が一瞬イカれてそんな言葉しか出てこない。そんな反応されたって本当に上村修という名前なのだから仕方ない。


「本当ですって!免許証見ます?」

「変な人…!」


 第二関門に到達後、10分36秒が経過した時点でようやく彼女が声を上げて笑った。予想外の出来事に焦って出た偶然の一手がここで決まる。いわゆる会心の一撃とかクリティカルヒットとかいう奴。状況がどうであれ歓迎すべきだ。


「お兄さん、本当にナンパする気あります?」

「いや、そのつもりなんですけど。さっき彼女にフラれたばっかりで新しい人を探そうって思ってたんだけどな…。」


 彼女が前のめりになって頬杖をつく、これは「話をしましょう」という合図。


「もしかして、声かけられまくった安い女じゃ物足りませんか?」


 いけると思わせるような事を言ったすぐから、そうやって答えに困る事を言われるとメンタルがやられそうになる。しかしここでやられたら普通の紳士、傷心により無敵状態だからこそできる事がある。


「安くないですよ。それだけ魅力的だと人の目に映るんでしょう?」

「じゃあ、何で私にさっき声かけたんですか?」


「本当にフィーリングです。さっきフラれたって話したけど、隙間ができたんですよ。男女関係ってお互いに隙間があるから成り立つのであって。…貴女がツンツンしてるのも、何かある気がして。」


 正直な言葉が、彼女を動かした。もう一度笑顔を見せ、こちらの目を覗き込んでくる。


「上村さん。」

「はい?」

「麻耶です、片木麻耶。」


 ここまでの段階で「よくナンパをされる」以外にようやく話をしなかった彼女が、ようやく名前を教えてくれた。

 自分の世界のど真ん中に陣取っている将軍様が、立ち上がって軍配を前に振り下ろす。1人しかいないのに「者どもかかれ!」の号令、この20分弱でデレてくれたこの子を前に勝負に出る事にした。


 俺、いざ出陣!



 *



 あれから上村さんは私が注文したアメリカンの発祥について丁寧に教えてくれたけど、正直私は目の前のパフェに夢中だった。

 上村さんの言葉は、バニラアイスで冷えたチョコソースのパキパキや、筒状のお菓子のサクサクで目立たなくなっていく。咀嚼しながら話すのはお行儀が悪いと思われかねないので、話の区切り(と思われる箇所)で言葉少なめに相槌を打っていた。バナナに板チョコと生クリーム、そしてコーヒー。これが黄金比である。思わずうーんと唸ると、なぜか正面から聞こえる声がワントーン上がっていた。

 チョコムースの滑らかさに目を見開いたタイミングでちょうど上村さんの話がオチたらしく満足そうな顔をしていた。彼がさっきまでどういう話をしていたかは思い出せないし今はどうでもいい。それよりも最後の最後に砂糖不使用のコーンフレークが残ってしまい、無理に食べたせいで口の中の水分が奪われてしまったことに悩んでいた。渋々コーヒーで流し込んでいく。

 私に笑顔を向けていた上村さんは空になったパフェをちらりと見て、カップを置くタイミングで話しかけてきた……ような気がした。


「それ飲み終わったら近くの公園で散歩しない?」

「今日はもう予定がないのでいいですけど、どうしてですか?」


 ここは好きだけど君が窮屈そうだから、とのこと。確かに、じろじろと観察されるのはとっても窮屈。場所を移すだけでも何か変わるかも。

 私が化粧直しから戻ってきたとき、会計は済ませたから行こうと言われた。さっきまでなんとなく頼りなかった上村さんだったけど、女性慣れはしてるのかと残念に思う。どうして残念に思ったのかは後からお金を返す返さないの押し問答で忘れてしまったし、出ていく直前に飲み残したモカマタリの残りを見て「残念」は別の形で上書きされてしまったのだった。

 

 *


 夜の公園はもっと暗いと思っていた。今夜は空気が澄んでいるみたいで月の光が優しく公園を包んでいた。人の気配はほとんどなく、歩いているとたまにすれ違う程度。目をつむって深呼吸をすると植物の匂いがする。耳を澄ますと茂みが揺れる音や鳥が羽ばたく音が微かに聞こえてくる。静かなところは好き。この公園のことは知っていたけど来たことはなかった。もっと早く来ておけばよかった。この辺は仕事でしか来ないし、仕事だって入社してから約半年しか経っていない。街灯は少ないけど、目が慣れると暗いのも大したことはないし、何かあったときには(少し頼りないかもしれないけど)横に騎士がついている。今ならなんだってできそう。私は月に笑顔を向けた。

 そういえばさっきから上村さんが話しかけてこない。振り返ると彼は数歩手前で驚いた顔をしていた。


「えっと、上村さん?」

「……え、あ、月、が」

「月?」


 空を見上げると、雲が月を覆い隠そうとしていた。「そうじゃなくて」と困った声。


「月に照らされた君があんまり綺麗だから……」


 今日は月明かりの綺麗な夜。上村さんが立っているところから後ろは木陰でできた道が続いており、私たちはちょうどその方向から向かってきた。私が固まっていると慌てた様子で「いや!深い意味はないんだ!」と視線を泳がせている。まさか夏目漱石にでもなったつもりなのかな。ロマンチックな上村さんがあんまり似合わなくて声をあげて笑った。しばらくそうしてしまったのは失礼だったかもしれないけど、その後話も弾んだから反省も後悔もしていない。


 *


 それから時間は少し進み、月明かりが消え、少々肌寒い時間帯へと突入した。鋭い風がわずかに残った落ち葉や枯れ枝をかき集めている。

 上村さんが用を足している間、自販機でホットのミルクティーを二つ買い、近くのベンチへと腰を下ろす。

 上村さんは喫茶店でモカマタリを飲んでいた。モカマタリはコーヒーなので当然カフェインが含まれている。カフェインというのは、植物に含まれているアルカロイドという苦み成分を持つ興奮剤であり、覚醒作用、解熱鎮痛作用、強心作用、 そして利尿作用がある。カフェインは腎臓に作用し、水分が体内に吸収されないようにすることができる。こうして余った水分を外に出すために尿の量が増えるという仕組みだったはず。この利尿作用はデメリットにされがちだけど、余分な水分が流れることでむくみが解消されるというメリットもある。長時間同じ体制でいると血流が悪くなりむくみの原因になるみたいだけど、仕事中にコーヒーを飲むことは集中力を挙げるだけじゃなくてむくみ解消にもつながるから理にかなってるんだと思う。つい最近友達がカフェイン中毒になったのがきっかけで調べたことを思い出した。ちなみに私の場合、実は後からこっそりデカフェを頼み直したので利尿作用はほとんどなかった。だって外が寒かったから。

 しばらく待つと彼が建物から出てきたので、隣に座るように言った。ミルクティーを渡すと、驚いた顔をされた。


「どうしてミルクティー?」

「上村さんがコーヒー苦そうに飲んでたからですけど」


 ついニヤリとしてしまうと、上村さんはため息をついてうなだれた。そろそろいいだろう。

 ミルクティーを一口飲むのを観察し、一息ついたところを見計らう。


「正直に申し上げると、貴方のしていることは空回りしているように見えます」


 いろいろと慣れているのは本当なんでしょうけど、と小さな声で付け足す。


「もしかして今も傷心中なんじゃないですか……明日は仕事休みなんで、話を聞いてあげなくもないですよ」


 私なりに心配したつもりだった。上村さんには上手く伝わったようだ。


「君ってやつは、まったく……」


 彼は苦笑しながらも身の上話を始めた。

 ぼそぼそとした口調で聞き取りづらかった。少しの肌寒さも相まってさりげなく近くに座り直した。



 上村さんの話は一言でいうと、やりきれないものだった。

 元カノとは合コンで知り合い、同棲までしていた。付き合ってから一年経たない頃にこう言われたそうだ。


『好きな人ができたの』


 この人なんだけどと渡された写真には、金髪で堀の深い女性が映っていたそうだ。



「その女性は今?」

「来年、海外で挙式を挙げる予定なんだってさ。今まで何人もの女性と付き合ってきたけど、あんま続かなくて……あの子とだったらずっと一緒にいれそうだと思ってたんだけどなあ」

「その人が、忘れられないんですか?」


 上村さんはかぶりを振った。元カノに未練があるわけではないらしい。


「確かに振られたのはショックだったけど、今日調子が悪いのは別の理由かな」


 上村さんの目はまっすぐだった。


「情けないところも見てほしいと思ったのは君が初めてだよ」


 至近距離での熱視線に……ひどく動揺してしまった。


「急、に何言ってるんですか。上村さん、公園に来てから様子がおかしくないですか?」

「そうかもね……なんでだと思う?」

「え……」


 本当はなんとなくわかっていた。でも素直に受け入れるには経験が足りなさ過ぎる。見つめ合う時間は意外にも早く終わった。上村さんが早々に椅子から立ち上がってしまったからだ。


「寒くなってきたな……そろそろ帰ろうか。近くまで送るよ」


 いつだったか、声をかけてきた男が私のことをカピバラだと言ってきたことを思い出した。そのときは太っていると言われているみたいでその場で抗議したけど、その男は私への声のかけやすさを天敵の多いカピバラに例えて評価したみたいだった。後になって気づいたけど、男の言う「私=カピバラ」という図式は破綻していたと思う。だって、私がカピバラなら今まで声をかけてきた誰かしらに食べられているはずでしょ。

 でも、上村さんの前でならカピバラのフリをしてあげる。そう思い食べられる覚悟を決めていたものだから、彼の言葉に拍子抜けしてしまった。私は恋愛において、どのようにナンパを断るかという労力ばかりかけてきた。完全に後の祭りだけど、彼を引き止めることはおろか、夜の誘い方なんて知る訳がなかった。


「……じゃ……か?」

「ん?」


 かろうじて私が何か言葉を発したことに上村さんは気づいてくれた。やっぱ聞き取れないか。うつむいてたし、自信のなさが声に出てたっぽいから。私の頭に響いた声も絞り出すようなものだった。

 一歩近づいた音に覚悟を決め立ち上がった。「どうしたの」と聞く声は優しくて勇気が出た。出過ぎて少し睨んでしまったかもしれない。私は声を張り上げた。


「こんな安い女じゃ、夜の相手は務まりませんか!!」


 途端、視界が広がった。

 否、上村さんが目の前から消え、見えていなかった景色が見えた。

 彼が私を強く、強く抱きしめていたからだ。突然のことに体が固まった。


「麻耶は安い女じゃないでしょ」


 喫茶店で話していた時からは想像もできないほど力強い口調だ。


「最初は失恋のショックを忘れたくて声をかけた。でも話しているうちに麻耶のペースに吞まれた。この俺が、恋愛経験も碌に積んでない君みたいな若者に振り回されてしまったんだ」


 あんまり強く抱きしめられて呼吸困難に陥った私は彼の背中を叩いた。意外と広い背中だった。

 直後に体を離してくれたけど、消えた温もりが名残惜しいと感じる。


「喋ったのは数時間程度かもしれない、でもそのたった数時間の内に俺の記憶は書き換えられてしまった。今はもう、麻耶しか見えない。俺は麻耶のことが……」


 私は、彼の唇に人差し指を立てる。


「上村さんが好き。私と付き合ってください。私だけを見て」


 彼は苦笑しながら「こんな俺でよければ」と一礼した。とても紳士的だった。二人で笑いあい、見つめ合い、やがて声が消えた。


 雲から月が顔を出し一つになった影を映す。

 彼らの駆け引きを戦とするならば、女性側が圧倒的に有利だったのはなぜか。男性側の段どりの悪さや女性側のしたたかさもあるだろう。ひょっとしたら、月の女神が同性に共感したのかもしれない。

 なにはともあれ、こうして彼らの関係は始まりを告げたのだ。

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