第3話 中谷佐喜代(小西大樹の曾祖母)

 私は尋常高等小学校を卒業したのちに、お嫁入り前の行儀見習いの名目で、女中として柴田家のお屋敷に奉公に上がりました。

 私は中谷佐喜代なかたにさきよと申します。実家は小さな問屋を営んでおります。柴田家に出入りをしている行商人さんの口利きで、お勤めに上がれました。

 最初は下働きから始まりましたが、ある日、ひょんな事がきっかけで、旦那様や奥様に私が少しだけ字が読めたり、文が書けたり、算盤や帳簿付けが出来る旨を知られてしまい、いきなり奥向けのご用事を言い付かる様になりました。そして、申し訳なくも未熟者でありますのに、女中頭としてお仕えさせて頂きました。

 旦那様や奥様に勿体なくもとてもご親切にして頂き、身に余る光栄と存じました。

 ……ですが、まさか、まさか、私が一人息子で柴田家の跡取りでいらっしゃる茂保(しげやす)坊ちゃまに……坊ちゃまと……別宅をご用意頂いて、ご一緒に暮らせる日々が来るなどとは…………夢にも思いませんでした。

 その事を知った実家の長兄は、柴田家に顔向け出来ないと取引を返上し、私は勘当されました。実家の両親は既に亡く、一回り以上離れた長兄夫婦に私は育てられた様な者です。

 私には、もう帰る場所はございません。勘当の手紙を知り合いの方を通して受け取りました時は、丁度お屋敷から二里ほど離れた住まいに移って来たばかりの頃でした。それから間もなく、義姉のみさんが、訪ねて来られたのです。


 どなたにも住所をお伝えしておりませんでしたので、私はとても驚きました。兄からは二度と敷居を跨ぐなと言われておりますから、二度と義姉にも会えないと覚悟を決めた矢先の事でした。

 「お…お義姉さん……い、いらっしゃい。あの、良く此処をご存知で」

 「お久しぶり、佐喜ちゃん。ちゃんと食べてる?少し痩せたんじゃないの」

 久しぶりに会うお義姉さんは、何でもお見通しだったのかも知れません。私がこの所、茂保坊ちゃま……いえ、旦那様の妾としてこの住まいをご用意頂くと決まるまで、様々な方にご迷惑をお掛けしたり心苦しくて……心定まるまで、食事が喉を通りづらかったのでした。

 上がって頂き、一通り屋敷の中を確認する様に歩かれたお義姉さんは、私が淹れたお茶をごくごくと一息に飲まれてしまいました。

 「お義姉さん、熱くないの」

「佐喜ちゃん。あんたお屋敷で良いお茶飲んでたねえ。熱すぎもなく、温くない。丁度良いよ。あたしなんかあっつ熱の番茶だよ」

「……え。そうなの」

 お屋敷では、茶碗を温めても熱湯ではお茶を淹れる事はありませんでした。つい、いつもの癖で、お義姉さんにお出ししたのです。

 「あー美味しかった。佐喜ちゃんにお茶淹れてもらう日が来るなんてね。こないだまでこ~んな小っちゃかったのにねえ」

「お義姉さん……それでは私が人じゃなくなっちゃいます」

「あんたも飲もうよ。久しぶりに井戸端会議でもしようよ。でもさあ、あんたこのお屋敷に独りで住むのかい。ちょっと心細くないかい。いくら旦那様が通って来られるって言ったって、毎日じゃないだろう」

 二煎目を一緒に飲みながら、ぽつぽつと現況を話しました。元の同僚……後輩の女中の智子さんが住み込みで身の回りの世話をしてくださる事になっている事、主治医は柴田家のお抱えのお医者様にお世話になる様にと定められている事、柴田家のお許しがあれば、私も手元でお仕事をしても良い事……など。

「はあ。結構肩身の狭そうな話なんだね。もっと自由が利くものと思ってたわ」

「それより、お義姉さん。私は兄さんから勘当された身なのに、お義姉さんが此処に来ちゃって大丈夫なの」

「なあに、実家の兄夫婦が体調悪いから、って嘘ついて出て来たから大丈夫よ。たまにはあの人に家と店と子供たちの世話とかね、あたしの日頃の苦労をわからせてやんなくちゃねえ」

「まっ……お義姉さん、実家のお兄様はもうとっくに……」

そうです。義姉のお兄様はもうすぐ七回忌の法要の時期だと思います。という事は、兄は当然お義姉さんが私の所へ来る事を承知なのでしょうか……。

 「でもさあ、嘘ついて此処に来た甲斐が有ったよ。あんた、少し痩せたけど……幸せそうだ」

「お義姉さん……」 

 熱いものがこみ上げて来ます。兄夫婦にも可愛がって貰い、柴田家の旦那様や奥様に茂保様との間柄をお許し頂いて、この家と、お世話係まで頂いてしまって……兄から勘当を言い渡されたとは言え、こうして兄嫁が様子を見に訪ねて来てくれる……私は幸せ者です。

「ああ、ほら、あたしは佐喜ちゃんを泣かせる為に来たんじゃないんだから、ね?」「は、い……だって」

「ねえ、泣き止んでおくれよ。こっちまで涙腺緩んじゃうよ」

 最近おかしいのです。涙腺が緩んでしまって。ひとしきり、二人で目を赤くして。そして笑って。変わってないわお義姉さん……。血は繋がっていなくとも、母親代わりの兄嫁です。久しぶりに肉親の有り難さを味わいました。



 「……何だって?佐喜ちゃん、あんたまだちゃんとした妾になってないのかい」

ちゃんとした、とは正式にというお話ではなくて……まだ、関係を築いておりませんでした。

 「はい……だって、茂保覚まの御結婚が本決まりになって、来月にはお式が執り行われますから、先ずはそちらを優先致しませんと」「それは、柴田家のお言いつけかい」

「いえ……それは、私のお願いを茂保様が聞いて下さって」

「だろうね。あんたが考えそうな事だよ。全く似たもの兄妹だよ。変なとこでお堅いんだから。旦那様も大変だね」

呆れ顔のお義姉さんはお茶を飲みながら目の前のお茶請けに手を伸ばします。

「そんな。ただ、あちらの奥様になられるお嬢様が、私の事を認めて下さる条件に、その方と私が何の障害も無く、いつでも往き来出来る関係であること、と仰ったそうなんです。ですから余計に……奥様の先を越そうなどとは私には考えられなくて」

 お義姉さんは、目を見開いて、手に持ってい た沢庵の古漬けの炒め物を取りこぼしてしまいました。

 「あらら、て。えっ?何だって?奥様と佐喜ちゃんが障害無く往き来する、て聞こえたけど……?」

「はい、言いました」

 お義姉さんは、動揺して、落とした沢庵を食べてしまいました。嫌だわ、洗って差し上げたのに。

「……変わった若奥様だねえ。普通さあ、正妻と妾が往き来するわけないじゃない」

「はあ……私も驚きました。茂保様も戸惑ってらっしゃって。実は、来月にお式が済みましたら、私は柴田のお屋敷にお伺いしなければいけないのです」

「えええ……もう、かい」

「はい、若奥様のご希望なんです」

「また風変わりなお嫁様が来るもんだねえ。酷い扱いを受けなきゃいいけど」

「それは……あの」私は恥ずかしくて、次の言葉が出ませんでした。それを見たお義姉さんは笑っています。

「なんだい。旦那様が守って下さるとでも言ったかい」

 言い当てられました。私は尚、恥ずかしくなって、お義姉さんのお顔が見えませんでした。 確かに、茂保様……旦那様が、お約束して下さったのです。私の事をお守り下さる、と……。

 「あらまあ、ごちそう様だこと。ま、新婚さんだものねえ。存分に旦那様に甘えといで。新婚さんなのは今しかないからねえ」

 お義姉さんが嬉しそうに言っていましたが、私は顔が熱くて、熱が出そうでした。坊ちゃま……いえ、旦那様に甘えるなんて……私には許されるのでしょうか?

今までお仕えさせて頂いた方が旦那様に。私の家を用意して下さり、何不自由無く暮らして行けるなんて……恐れ多くて。その上甘えるだなんて……罰が当たってしまいそうです。

 「なんにせよ、若奥様だけは敵に回しちゃなんないね。佐喜ちゃんは柴田家に上がっていたから良く分かってるだろうけどさ。いくら旦那様が守ってくれるから、って言ってもさ。こればっかりはね。お姑さんよりも先ずはそっちだね。あんたも苦労するねえ」

 苦労……?そうなのでしょうか……?

 「お義姉さん……これは苦労なんですか?」

「まあ、佐喜ちゃんはね。苦労を苦労と思わないかも知れないけどさあ。あたしだったら若奥様とご対面なんざお断りしたいくらい嫌だよ」

「そうですか……」

 私は、若奥様が会いたいと仰って下さって、少しほっとしたのです。これで若奥様にお詫び申し上げる事が叶う、と……。ご挨拶が出来る、と。 

 お義姉さんは、嫁姑問題には疎いけど、と前置きして、心構えや絶える秘訣を教えてくださいました。

 「まあね、佐喜ちゃんのご両親は早世しちゃったからさ、あたしが偉そうに言えたもんじゃないんだけどね。一般論だからさ」

 それでも私のことを心配してくれているお義姉さんの気持ちが嬉しくて。また涙腺が緩んでしまいそうでした。

 その夜はたくさんたくさんお話しをしました。母が生きていたら、お嫁入り前はこんなふうに二人きりで色々と話が尽きないくらいに過ごしたのかしら、と胸がいっぱいになりました。夜明けが大層早かったです。

 一晩我が家に泊まって、お義姉さんは翌日の早朝、朝もやがたちこめる中を出発されたのでした。 

「ああ、佐喜ちゃんとゆっくり話せて良かったよ。本当はさ、こんな広いお家の掃除でも手伝ってやりたいんだけどねえ。実家に帰る、って嘘ついて出て来たからさあ、一応本当に寄ってって来るわ。佐喜ちゃん。色んな人に可愛がって貰うんだよ。それがあんたの取り柄なんだからね?後は無理すんじゃないよ。あんたの兄さんもああは言ってるけど、あんたの事は気に掛けてるんだからね」

「お義姉さん……お義姉さん、どうも有難う御座いました。お義姉さんも兄さんもお身体に気を付けて下さいね。章ちゃんや律ちゃんにも宜しく言って下さい。お元気で。お気を付けて。ご実家の皆様にも宜しくお伝え下さい」

 お義姉さんは、痛い膝を庇いながら、ご実家へと向かわれました。



 朝食の後片付けをしておりますと、玄関先で、どなたかのお声が聞こえました。木戸を叩く音もいたします。

 あまりこの家には人は寄り付かない様になっておりますから、恐る恐る玄関先に参りました。

 「ごめん下さいませ。佐喜代様、智子です。朝早く申し訳ございません」

柴田家の女中の智子さんでした。

「まあ、智子さんでしたか。お早うございます。いらっしゃい。どうぞお上がり下さい」

「お早うございます。こちらにお伺い致しますのが遅れてしまい、申し訳ございませんでした」

 智子さんは、この家に住み込みでいらして下さる事になっておりますが、茂保様の御結婚のお式やその後のお屋敷での様々な用事、後輩の女中の引き継ぎを終えるまでは、それは適わないと伺っておりました。

「もうお屋敷の方は宜しいのですか。お疲れになったでしょう」

「あ、佐喜代様、洗い物など私が致します!佐喜代様はどうぞお部屋でお休み下さいませ」

 今まで自分の事は自分でいたしました。その上でお屋敷の皆様にお仕えさせて頂きました。

 自分の部屋で寛ぐなど、とても私には恐れ多くて、出来そうも有りません。

「……でも、智子さん……」

身の置き所が無いとはこの事でしょうか。

 「佐喜代様、あなた様は茂保坊ちゃま……いえ、旦那様の奥様におなりなのです。こちらのお屋敷の女主人なんですから、私を顎で使って下さらないと……私が旦那様にお叱りを受けてしまいます」 

「ま……そんな事を……」

「はい、佐喜代様にはそれ位のお心でいらして頂きませんと」

 智子さんは冗談とも本気とも判断のつかない可愛らしい笑顔で私から仕事を奪ってしまいました。

「あの。お式は来月なのに……もうこちらにいらして大丈夫なのですか」

 「佐喜代様、私にその様なお言葉でお尋ねなさらないで下さい。お願いします。大奥様が、来月まで佐喜代様お一人では、色々危ないし、旦那様のお渡りもお式の後と決められたとかで……茂保様からも是非、私だけでも一足先に佐喜代様の元へ伺う様に、と仰せつかりました。司さんが送ってくださいました。凄い車に乗れて緊張しました。いつも奥様や旦那様が乗ってらっしゃるお車ですよね!怖かったです……」

 大奥様が……茂保様が……。いきなり独りきりでこの家に住む事は、心細く寂しい心持ちではありました。

 「有難うございます。嬉しいです。実は……心細かったのです」

 後輩の女中であった智子さんは本来ならば、尋常小学校を卒業するかしないかの歳の筈。ですがとても頼りになる娘さんなのです。一層笑顔になって私の目の前にやって来ました。

 「良かったです!私、一生懸命仕事の引き継ぎをして参りました!早く佐喜代様の元へ来させて頂きたくて!さ、あちらでお座りになって、お待ち下さい!今お茶をお淹れ致しますから」

 「えっ、お茶なら、わた……」

「奥様はそんな事はなさいません。さ、こちらですよ、奥様」

智子さんは、私の背を押して、台所から追い出してしまいました。

 それからも、必ず「お願いしますから」と一言添えて、私が動こうとすると、止められました。

 まるで指南を受けている様でございました。

 いずれは一家の主として、少しずつ心構えを学ばねばならないのでしょうが、直ぐには難しいことです。

 来月、若奥様にお目通りが適います。

 自分の立場を弁えた上で、きちんとご挨拶が出来ますかどうか……今から不安でございます。

 茂保坊ちゃま、いえ、旦那様のお立場も考えて、私の出来る精一杯のことをさせて頂く所存です。


 「智子さん、私には『奥様』の言葉は使わないようにしましょう。旦那様が混乱なさいますからね」

 「えっ、でも……奥様……」

 可愛い顔で口を尖らせている智子さんを見ていると、微笑ましくてつい笑ってしまいました。

 「おく、じゃない、佐喜代様っ……」

 「はい、そろそろお茶にしましょう。ひとりで頂いても味気ないから、あなたの分も用意してね」

 「!……はい、かしこまりました。佐喜代様」  



 二人でにっこり笑いながら頂くお茶は、とても美味しゅうございました。

 旦那様と三人でお茶を頂ける日が今から待ち遠しいで限りです。

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小西大樹のルーツ探索 永盛愛美 @manami27100594

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