第2話 柴田茂保(小西大樹の曾祖父)

 私は柴田茂保しばたしげやすといいます。柴田家長男で、一人息子です。斎藤家に嫁いだ4歳上の姉がおります。

 この度、幾重もの試練を乗り越えまして、ようやく身を固める事が決まりました。

試練とは大袈裟な、と言ったご意見が有るでしょうが、私にはれっきとした試練で有りました。


 まず、身分違いの相手に惹かれてしまったこと。その人を諦められなかったこと。家を、両親を捨てようとまで思い詰めてしまったこと……。

 全く浅はかな、世間知らずの自分に嫌気が差しました。

 もう少しで全てを台無しにしてしまう所でした。佐喜代がそんな私に、良く、付いて来ると言ってくれたものだな、と思います。彼女はとてもしっかりしている。

 もし、私が柴田家を捨てていたら、無一文は当然の事、未来永劫財産を生み出す事が適わない人間に成り果てていたでしょう。

 すんでの所で気付いて良かった。佐喜代に苦しみを味あわせる所でした。

 私は佐喜代を選びましたが、彼女の家とは釣り合いが取れない。ではどうするか。幸い両親も佐喜代を気に入っていました。特に母はとても彼女を女中頭として重宝していました。これは、もしかしたら、上手く行くかもしれません。後は、我が柴田家にその事を承知で嫁いでくれるお嬢さんが見付かれば良い。

 酷い人間だと思われてもいい。佐喜代を、家を、両親を、事業を、果ては一族を守り抜くには、これしか考えられませんでした。


 今年に入ってすぐのこと。私に突然縁談話が持ち上がりました。お相手は我が家の取引先銀行の上層部の方のお嬢さん。二十歳になったばかりの方だそうです。結婚相手としては、少し……お年を召していると思われます。私もそうなので、年齢的にも釣り合うと判断されたのでしょう。

 因みに私は26歳です。佐喜代の縁談話も幾度となく持ち上がりましたが、母があまり乗り気ではなくて、選りすぐり過ぎ、結局行きそびれておりました。私としてはほっと胸をなで下ろす気分だったのですが。

 私は賭にでました。両親に頼み込み、佐喜代を妾として囲いたい、と。言葉が悪いのは百も承知です。佐喜代を囲い者と呼ぶなどと……本来ならばしたくは有りません。

 しかし、彼女の一生を責任を持って預かりたい。叶うなら、共白髪になるまで寄り添いたい。

 正妻となるお嬢さんには申し訳無いと思います。そちらのかたにも責任を持たなくてはならない。出来る事ならば愛情もそれなりに与えなくてはならない。

 それには、事実を告げて、状況を理解した上で結婚をしなければならないだろう。

 婚約式までは真実を伏せる。その後、親戚達に公表し、代田家へお伺いを立てて欲しい。

 あちらがそんな馬鹿な話は無い、この縁談話は無かった事に、と怒鳴り散らすかもしれない。……その時は、その時だ。佐喜代だけでも柴田家を出て貰い、一軒の屋敷を構える所存です。

 「茂保……。お前はそこまで佐喜代を好いているのか」

 「はい。父様が彼女を妾にしても良いとお許し下さいましたので、私はとても嬉しかったです。感謝致します」

 「もし、先様がお断りなさったらどうするおつもり?出来れば佐喜代を手放したくはないのよ。このまま柴田家に置いておけないものかしら」

 「母様……佐喜代を手放したく無いお気持ちは分かります。ですがこのまま、この家で女中頭として勤めさせるわけにはまいりません。他の奉公人にも示しが付かなくなりますから」

 「まあねえ。あの子の事ですもの。朝から晩まで働き通してしまうでしょうね」

 「茂保。お前はそれでいいのか。佐喜代を囲って、正妻を迎えて」

「旦那様、良いも悪いもそもそも選択肢などございませんでしょう。あたくし達でさえ、家の話し合いで婚姻を結びましたのよ?いくら時代が異なったとしても、柴田家の存続を第一に考えて貰わねば困ります」

 「う、ううむ……」

 まるで母親に責められている息子の様な父である。母は武家にも公家にも親類縁者があり、世が代なら「お姫様」として大切に扱いを受けていたらしい。時代は目まぐるしく変わるもの。ふた昔以前の世だとしたら、柴田家には嫁いでは来なかったと推測されます。


 両親の承諾を得て、叔父に事の詳細を代田家へ告げて頂きましたのは、それから二月後のことでした。

 事実を代田家に告げて貰ってからしばらくして、あちらの御当主の従兄弟にあたる方が回答を持って来られました。

 私は生憎と留守にしておりました。

 「茂保、茂保は何処です。おミツ、成保をあたくしの部屋へ呼びなさい。直ぐにね」 

 母は、普段よりも忙しなく女中に私を連れて来る様に言い付けた様子でした。

 「坊ちゃま、お願い致します。お早く奥様のお部屋へおいで下さいまし。どうかお早く!」

 おミツは息せき切って私の元へやって来て、私を母の部屋へと促しました。

「母様、成保です。入ります」

 襖越しに告げると、母はいきなり襖を開けて、「茂保、遅かったではないですか!あたくしは待ちくたびれましてよ!」と、大声を上げました。

 いえ、それより母様、御自分で襖を開けるとは驚きです……ああ、いつも傍に居た佐喜代がいないのでしたね。いつもこの部屋の近くに待機していた彼女は、人が近付くとこの襖の前に座って居ましたね。

 今までは、佐喜代は母の部屋近くに自分の部屋を与えられていましたが、その部屋は私の部屋とも近く、両親に近く仕えている者達には私と佐喜代の関係を知られていますから、結婚の話が浮上してからは、余計な荒波を立てない内に、後輩の今後の指導も兼ねて、女中たちの近くに彼女の部屋を与えて、そこから用のある時は奥へ来て貰っていました。

 いつも母の傍には佐喜代がおりましたから、なんとなく寂しい気分でした。

 「何を呆けているのです。早くこちらにお入りなさい!今日はあちらのお返事を持って代理の方がいらしたのよ……本当にこれで良いのかしら」

 母は、長椅子の肘掛けに躰を預けると、着物の裾を整えながら私に向かいの長椅子に腰掛ける様、手で仕草をしました。

 すると、聞き慣れた足音と共に聞き慣れた声がしました。

 「失礼致します。奥様、お茶をお持ち致しました」

 佐喜代の声でした。……この数日間は同じ屋敷内に居ても会えませんでした。

 「ああ、丁度良かったわ。お入りなさい」    「……はい、失礼致します。……あ……」「佐喜代。久しぶりだね」

「坊ちゃま……お帰りなさいませ」

 佐喜代は少し俯くと、母と私にお茶と菓子を給仕して、退室しようとしました。もう少し……と思っていましたら

「佐喜代。お前にも関係がある話です。あたくしが許します。茂保の隣にお座りなさい」

 母が珍しく、同席を許しました。

 「……は、はい、失礼致します……」

 佐喜代はおずおずと、私の近くではなくて長椅子の端に腰掛けました。……佐喜代……。

 「何です。そんな端に座っては、あたくしが話しづらいでは有りませんか。遠慮などせずに茂保の傍にお座りなさい。そんな事ではこの子の妾になどなれませんよ。今から慣れておきなさい」

 「お、奥様……あの……申し訳ございません。それでは、失礼致します……」

可哀想に、佐喜代は真っ赤な顔をして、私の隣の隣くらいの距離に近付きました。

 あと、もう少しです。そこは私から近寄りました。母は呆れて物も言えない、と言った表情で、お茶を飲んでいました。

 しばらくして、母がほう、とため息をついて、長椅子の上にあった濃い紫の布包みを、そっ、と座卓の隅に置きました。母がその包みをほどき、佐喜代の前に広げて、無表情で彼女に向かって信じられない言葉を口にいたしました。

 「佐喜代。先ずはお前に話が有ります。お前には問いたい事が二つ有るのです」

 先ほどまで顔を赤らめていた佐喜代は、今度はその広げられた金子きんすや紙幣と母の表情を見て、即座に青ざめてしまいました。

 「母様、それは!」

「お前は黙っておいでなさい。あたくしは佐喜代に問うているのです」

「……はい」 

母は何を聞きただしたいのだろう!

 「佐喜代。包み隠さず話しなさい。このこはお前にお渡りをしましたか」

 「……お渡り……?」

「母様!私は貴人などでは有りません!それ以前に彼女を侮辱しないで下さい!」

「お黙りなさい!あたくしが今、話しているのは佐喜代ですよ!」

 佐喜代は、私と母の会話から、その意味を悟ったようでした。……つまり、私が夜に彼女を訪ねたか、と。

 「め、滅相もございません!そんな……そんな事、坊ちゃまは為さいません」

 佐喜代は弱々しく、しかしはっきりと否定しました。

 私は傍らで何度も首を縦に動かしました。当然です。私には身に覚えが無い。

では、その金子きんすは何なのだろう。

 「宜しい。二人を信じましょう。ところで佐喜代。何も聞かず何も云わずこの包みを持って実家へ帰れ、と言ったならばどうしますか」

「!!」これには私も佐喜代も互いに顔を見合わせてしまいました。絶句致しました。全く言葉にも出来ません。確かに父は佐喜代を妾にしても良い、と許してくれたはず。

 佐喜代は、はらはらと両目から涙を零して、俯いてしまいました。 

 「佐喜代……これは違う。私の意思では無い!私はこの様な事は絶対許さない!」 「……お前の意見は聞いておりません」

「母様!いい加減に……!」佐喜代が私の腕を弱く掴んで、首を横に振りました。

「……奥様……私はお暇をさせて頂かねばなりませんでしょうか……」

「佐喜代。あたくしが聞きたいのは、こちらを渡せば田舎に帰るか否か,です」

 佐喜代は激しく首を横に振り続けました。

「もし……私がこのお屋敷にお仕えさせて頂けないのでしたら、こちらはお返しして、そのままお暇を頂きたいと……」

 佐喜代の言葉は嗚咽を含み、言葉になりません。

「佐喜代、それは駄目だ!そんな事では私が困る!」離れて暮らすなど、考えられない!

「ぼ……坊ちゃ、ま、で、ですが……っ、……」

 「……佐喜代?まだ気付きませんの。おかしいわね……」

 無表情でした母の顔が曇っておりました。

 「は、はい……?」

 佐喜代は涙をつぅ、と零しながら、訳が分からないといった顔を私に向けました。可愛い……。しかし再び嗚咽がぶり返してしまう。このような佐喜代を見るのは初めてでした。

 母は、しゃくり上げながら泣いてしまった佐喜代を見ては、くうを見つめ、また彼女を見てを繰り返しておりました。私はとうとう我慢が出来ずに彼女を抱きしめて、背中を優しく……のつもりが、少し強かったでしょうか、佐喜代がふうっ、と息を吐きました。

 「佐喜代……こんな事は有り得ないから。大丈夫だから。私の本意では無いから。安心しなさい」

「…………」

 佐喜代は声も出せません。はらはらと涙がとめどなく溢れて、私の胸を濡らさぬ様に、自分の袖で顔を覆っていました。

 「……佐喜代。まだ思い出さないのですか」

 母がやっと、絞り出す様に言葉を発しました。

「……はい?おくさ……ま?」

 私の胸の中から顔を上げ、袂で顔を拭うと、私の腕を優しくほどいて母に向き合いました。

 「お前はあたくしよりも記憶力が長けていたはずですよ。おかしいわね……」




 全ては母の嘘の芝居でありました。

……後日、母と佐喜代から詳細を聞いた話では、二月前に母が彼女を連れて芝居見物に出掛けたのだと。

そこで、身分違いの恋の最中の主人公たちの背景が、当家と似ていた、と。芝居の中で、両親が金子を見せて、主人公たちの覚悟を確かめる場面が有ったのだと。

 その芝居は、最後は大団円で終幕になったとのこと……。母曰く、その場面を再現すれば、母の祝福の気持ちが彼女に必ずや伝わると思い込んでいたこと……!

 なんという茶番劇でしょう!母の思慮目論見は、全て裏目に出てしまいました。それなのに母は、

「佐喜代が本当だと信じてしまったのは、あたくしのお芝居が真に迫っていたからなのね?あたくしには才能が有るのかしら。ほほほ」

……私と佐喜代が脱力致しましたのは想像に難くないと思われ。




 それから、肝心な本題である代田家の返事を聞きました。

どうやら、当家に嫁いでみえる予定のお嬢さんは……少々世間一般の方々とは……かけ離れた方の様でした。

 婚約者は、私の妻となった後、将来ずっと、佐喜代と何の障害も無く往き来出来うる関係で有ること。

 それが姻戚関係を結ぶ為の条件だと言うことでした。

佐喜代をどの様にして守るべきか?一難去ってまた一難とは言い得て妙です。

 私はただ、佐喜代と夫婦になりたいだけなのに……大団円、とまでは行かなくとも、せめて誰もが納得出来る形に治まらないだろうか。甘い考えであるのは百も承知です。

 私は様々な観点から、私達の将来を考えねばなりませんでした。

 

 母曰く『代田家のお嬢さんは少々変わったお人柄のようですこと。したたか者かもしれなくてよ。まあ、それぐらいの気性でなくては、この柴田家では嫁として務まらないでしょうけど。ほほほ』と……。そのまま一字一句変えずに母様にお返しして差し上げたいです。


 兎にも角にも、私は柴田家この家から、母から、妻となる女性から、佐喜代を守らねばならないのだと改めて肝に銘じました。

 願わくば、穏やかな柴田家我が家でありますように。

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