孔明と水賊の娘
松岡汪虎
諸葛孔明の婚活
中庭の敷石に、水を含ませた筆をおろす。
淡泊以明志
寧靜而致遠
文字は書いたそばから消えていく。
なにもかもが乾いている。
やりどころのない焦燥感に手元も狂う。
すみやかに対処しなければ
筆を刀のようにして振り回して暴れていると、何者かが
来客は
一言二言会話を交わしたことがあるだけの、親戚の知り合いである。
「ご結婚相手を探しておられるとうかがいまして……」
そうそうそうそう!
なぜそれを知っているのだろうか。
そんなことはどうでもいい。
「はは……
これは
いい嫁が欲しくて欲しくて夜も眠れませんという意味だ。
恥ずかしい。
「うちに醜女がおります。黄頭黒色ですが、才はあなたとお似合いです」
黄頭黒色の醜女。
黄色い髪に褐色の肌の異形の娘か。
そういう姿形の人種は見たことがある。
は? 娘?
この人はそういうはるかかなたからやって来ていそうな女性と
やるなぁ!
黄承彦は
悪い話ではないだろう。
醜女と言ったのも本当に醜いという意味ではないだろう。
これは
百数十年前のこと。
梁鴻の高節を慕って娘を嫁にやりたいと思う家はあまたであったが、梁鴻は誰も選ばなかった。
時に、同県の
父母がわけをたずねると、梁鴻のような賢者に嫁ぎたいと答えた。
これを聞いた梁鴻は彼女を
梁鴻は一緒に質素な衣服をまとい隠遁生活をしてくれる伴侶を望んでおり、彼女も夫がそういう志を持っていることを望んでいたのであった。
つまりだ。
黄承彦は私のことを梁鴻のような高節の士だと言い、自分の娘は孟氏の娘のように君の志に添うであろうと言ったのだ。
「梁鴻の志を
黄承彦は目を細めてうなずいた。
やはり醜女と言ったのは孟氏の娘になぞらえただけだ。
……しかし待て。
本当にそれだけだろうか?
「ご息女にはどこかでお目にかかったことがありましたでしょうか」
決して人を外見で判断したりはしないつもりだが。
「ご心配はごもっともです」
いや心配してないし。
「心配とは」
「互いに相手の顔も知らないままというのはあんまりですから物陰からなりともと思うのですが、この娘は行けば会えますが屈して致らしめることはできません」
「本日遠路はるばるお越しいただきましたので、後日答礼にうかがうことでありましょう」
黄承彦からの訪問を受けたことに対する答礼として、こんどはこちらから黄承彦の家を訪問するということだ。
娘は地元の沔南にいるという。
ここ
遠い。
まあいつも気の向くままにでかけて何日も帰らないこともしばしばだから、うちの者は誰も驚かないだろう。
五日後の夕刻には夏口の埠頭で乗り換えの船を待っていた。斜陽が水面を照らす。
陸では家路を急ぐ人。遠くで鳴く犬の声。
叫びだしたいような焦燥にかられる。
さらに水行すること四日。
夜明け前に
霧が濃い。
あたりがぼんやりと青色に染まり水面と空の境界がなんとか分かるようになった頃、黄色い頭巾をつけた男が柳の葉ような小舟を片足で器用に漕ぎながらスーッと近づきこちらの船に横付けしてきた。
こちらの船頭が当たり前のように私にこう言った。
「旦那、通行料です。二百銭」
「水賊か? 治安が悪いな」
「逆ですよ。あの人たちがいるからここいらは安心して航行できるんです。
この先に洲がありまして地形がちょいと複雑なんですが、彼らに通行料を払っておけば座礁しないように誘導してくれるし盗賊にも遭いません」
「クックック」
「おやご機嫌で」
「通行料を払えば盗賊に遭わないだと?
通行料を払わない船を襲撃するのも同じやつらだろう。それでありがたがるとは滑稽だ」
小舟の男が苛立ったように声をはりあげた。
「
少年のような甲高い声である。
身体つきも小柄で弱そうだ。
まだ
「払わぬ!」
「ほほぅ。そいつぁ面白え」
少年は黄色い笑い声を立てると、ぴゅうと口笛を吹いて霧の中に消えて行った。
船頭がぼやいている。
「あああ面倒くさいなぁ」
「霧の中なら案内があるほうが楽だったかい」
「そんなのは問題じゃないんですよ。
旦那、そんな絹のおべべを着ているくせになんでたったの二百銭をけちるんです?」
「不法な搾取に屈するなんてみっともないだろ」
「身ぐるみはがれて河へ落されるほうがよっぽどみっともないでしょうに」
「あきらめて離れて行ったじゃないか」
「笑わせないでくれますか。
そこいらじゅうでぴゅうぴゅう口笛吹いてるの聞こえないんです?
これから囲んできますよ」
なるほど。
遠くから近くから、口笛を吹き交わす音がする。
互いの位置を確認しあいながら襲撃の配置につくのだろう。
「命までは取られないだろ」
「しつこく囲まれて座礁するまでおいつめられるんですよ。あああ面倒くさいなぁ」
船頭は囲まれる前に旋回して下流に方向を変えた。
そちらのほうが地形が安定しているからだという。
「もう下船するから泊められそうな場所につけてしまってくれ」
「旦那、耳だけじゃなくて目も悪いんですか?」
霧の中にぼんやりといくつもの黄色い塊が見える。すでに岸へ寄せることも容易ではないようだ。
黄色い頭巾は霧の中でも薄暗くてもよく目立つ。こういう活動にはいい色だ。
船乗りを意味する「黄頭」という言葉があったのを思い出した。
あぁ、黄頭か……
黄承彦は娘のことを「黄頭黒色」と言っていた。
金髪で褐色の肌の我が淑女よ。
私はここでこんなことをしている場合ではない!
「あああ面倒くさいなぁ」
小舟が前に割り込んでくるたびに船頭はぼやいて舵をきる。
「ぶつけてしまえよ」
「船が壊れっちまう」
「あっちのほうが小舟なんだ。ぶつかる前に向こうがよけるだろ。無視して岸に寄せてしまえよ」
「いやもうどっちが岸かも分からねえ」
「なんだと?」
江はいつのまにか湾曲して水平線が見えない。四方がすべて山になったようだ。
水面と陸の色の違いがぼんやりと分かる他には往来するいくつもの黄色い塊しか見えない。
船頭はどこか得意げに解説を始めた。
「すごいでしょう? これが水上八陣です。逃げよう逃げようと進んでいるうちに方向を見失って最後には座礁するんです」
「霧さえなければなんでもないじゃないか」
「彼らはいつ霧が出るかも分かっているんですよ」
「君もこの航路の船乗りなのだからそのくらいは予測できたんじゃないのかい」
「旦那が二百銭払ってくれれば何事もなく通れるんだから問題ないと思ったんですけどねー。
だって旦那、とにかく急いでくれって言ってたでしょう?」
「君も彼らとぐるなのかな?」
「いやいや私はお客様に満足していただいて安全に航行できて船賃さえ頂ければいいので」
答えにはなっていないが。
「今からでも二百銭払いません?
ここまで追っかけっこの手間をとらせたぶんいくらかお駄賃を上乗せしないと逃がしてくれないかもしれませんが」
「賊に屈したとあっては外聞が悪い」
「水の上では水の上の流儀に従うが吉ですよ」
「結婚がかかってるんだ!」
「はひ?」
船頭は変な声を立てて相好を崩した。
「あー、なるほど、ご結婚のお相手に格好悪い話が伝わったら困ると。それはそれは……」
何を喜んだか船頭は目を細めた。
「っしゃあ! この老張におまかせあれ!」
船頭は豪快に前の小舟に突っ込んだ。
舟はすんでのところで交わしていく。
甲高い笑い声があがった。
「どうしたぃ老張、突然張り切って」
「旦那のご結婚がかかってるんだとよ!
水賊に負けたら
四方八方からどっと笑い声がおこった。
「いやまだ許嫁じゃない!
っていうかお前やっぱりぐるだったのか!」
「私ぁカタギの船乗りですよ。
まあ水の上は狭い世界でね、みんな顔見知りです。今日は旦那のために暴れますから船賃弾んで下さいよ!
そこから彼らに詫び入れるんで。お若い方の結婚がかかっているとなれば多少のことは金で許してくれるでしょう!」
結局私の金が水賊に渡るのではないか。
まあ、私から直接払うわけではないからいいのか。
私は船頭に船賃を払うだけ……。
水賊どもが楽しそうにどよどよと会話を交わしている。いいんだ……結婚は大事だ!
最初に舟を寄せてきた少年だけが苛立たしげな声で
「
結婚したけりゃアンタがアタシを捕まえに来な!」
水賊からどっと歓声があがる。
そんなに追いかけっこが好きか。
普段どれだけ退屈な暮らしをしているのか?
捕まえに来な、と言っておきながら、自分から舟を寄せて猿のように身軽にこちらの船に躍り上がった。
「よぅ、色男」
小さい足を横に開いて両手を腰に当て、めいっぱいふんぞり返ってこちらを見上げてくる。
声がうわずっている。
「敏捷さには自信があるようだな」
こちらは上背があるうえに腕も長い。
目の前に立つ相手を上から捕まえようとさっと腕を伸ばすと、相手は私の上に跳びあがって一回転して私の背後に降りた。
いつの間にか水賊どもの舟が間近で取り囲み、華麗なる跳躍に歓声を送る。
「
今のは相手の身体能力を測るための小手調べだ。
ふり返らない格好のまま背後に蹴りを入れると、相手はまた上に跳びあがった。
「そこだ!」
私が夏でも冬でも寝る時も食事中にも手放さない羽扇を上に投げると、少年の鉄仮面に命中した。
「ぶはっ!」
外れかかった仮面を手で押さえながらごろごろと転がって船室のほうへ逃げて行く。
私はわざと足音を立てながら入口へ近づき、冠を外して手に持って、頭から船室へ入る人のようなていで冠だけ差し入れる。
少年は入口に見えた冠に向けて跳び蹴りをしてきた。
「そこだぁ!」
やった! 捕まえた! これで結婚だ!
「やった! 捕まえた!! これで結婚だぁー!!!」
意図せず思いっきり叫ぶとともに、奇妙な違和感に気づく。
この……この手触りは??
お前……女だったのか!!!
慌てて手を放すが、女は私の両腕をつかんでしげしげとこちらを眺めた。
鉄仮面は外れてしまっている。
ふっくらとした頬、
くるみのような瞳、
桃色に染まった小さな耳。
………。
女は豪快に笑った。
「アンタ、やるじゃん!
よし、結婚してやる!」
「は? いやいや誤解です」
「誤解? アンタ、アタシに会いに来たんじゃないのかい?」
「いえ、あの、黄大人のお嬢様に……」
「それ黄承彦じゃんなぁ? アタシそれよ、お嬢様」
こう言うと、女は真っ赤になりながら豪快な笑い声を立てた。
ああなるほど、
そういうことか。
船乗りを意味する「黄頭」という言葉があったのを思い出した。
黄承彦は最初から言っていたのだ。
うちに醜女がおり、黄頭黒色。
なるほどなるほど。
黄色い頭巾に、くろがねの仮面。
呆然としながら女に腕を引かれて甲板に出ると、万雷の拍手と歓声に包まれた。
まったく醜女ではないし金髪でもなければ褐色の肌でもなかったが、たしかに——才は私にお似合いかもしれない。
* * * * *
さてこの水賊の縄張りである沔南という地域、のちに
そのさい水賊の知恵が大いに役立ったとか役立たなかったとか。
男が八陣を習ったとか、川にいつ東南の風が吹くかを聞いたとか、それはまた別のお話。
※黄頭黒色=鉄仮面の船乗りという解釈はXのフォロイーの泉陵哭哭生さんのご考察より。そちらから着想を得てこういった形の小説とさせていただきました。ご本人様ご了承済。
※作中において外見等に関する不適切な表現がありますが、原文のニュアンスを尊重してそのままとしました。古代中国の話としてご理解下さい。
孔明と水賊の娘 松岡汪虎 @matsuokaouko
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