原付には遠すぎた橋
埃を被っていた年代物のバイクはさすが日本製というべきなのか、いぶし銀のエンジン音を響かせて道を走る。
3人乗ってもビクともしないとばかりにギアの音を高らかに上げるが、それは後ろのもっと轟轟しいものがかき消していく。
「かなり来てるよ!」
張り上げた声で言葉を紡いだのは誰か。おそらく、背中を何度も叩いてくる東台。
死というのが何か、バックミラーに写る干からびた塊に嫌というほど分からされるが、これ以上アクセルは回せない。
いくら3人載せられるぐらいの耐久力はあれど、たかだが125ccという馬力ではいささか力不足。全力で自転車を漕いでいる時のような速度しか出てこない。
それでも、並みの人間では追いつかない速度。だが、『あれ』は目と鼻の先で、涎混じる咆吼をひっきりなしに飛ばしてくる。
メキメキと家屋の壁を割り、バキバキとブロック塀を叩き壊し、バリバリと鉄骨かアスファルトかの構造物を食いつぶしていく音が止まない。鼓膜にぴったりと張り付いて離れない。
どうして、自分たちはまだ捕まっていないのだろう。遊ばれていると言われても、腑に落ちるほど不思議に思える。
それでも、自分たちが首の皮一枚つながっているのは、ここが狭い道であるからだ。
収斂して巨大なヘビのようになった『あれ』は何もかもなぎ倒していくが、狭い道となると潰すものも多く、その分僅かだか勢いが衰えてこちらを掴む一打を妨げている。
自分たちの命がそんなものに繋げられているかとヒヤリとしたものを感じていると、目の前に三又の分かれ道が目に飛び込んでくる。
出発前に地図を暗記していたものの、自分の頭の中にルートが描けない。
だが、それはこちらの役目ではない。
「そこ右!」
東台に右肩を叩かれる。それは示し合わせた右折の合図。3人分の重みを引っ張り、一気に右の道へと飛び込む。
飛び込んだ先はまたブロック塀と褪せたアスファルトと雑草の道。
軽自動車が一台入るかどうかの似たような狭さだが、辛うじて塞がっていないようで道が続いている。
――『あれ』がすばっしこくて、たくさん来るなら細い道に誘導して押し込めちゃえばいいんだよ!
昨日聞いた東台の言葉が思い出される。それを証明するかのように、後ろから壁が打ち崩れた音とは若干違う音があって、一瞬のラグの後に再び音が膨らみ元の音に修復されていく。
バックミラーを目の端に捉えると、未だなお姿は消えてはくれないが先ほどよりも遠くに映っているように見えた。おそらく、曲がり切れずにぶつかったのだろうか。
首の皮が少しだけ厚くなったように思えて、安堵感と自信が沸き立つ。細い道なので挟み撃ちを食らうかもと覚悟していたところはあったが、今のところは後ろに張り付いていてくれている。
基本、東台の土地勘が頼りにはなるものの、何度も何度も曲がっていればおそらく距離を稼ぐことは出来る。
後は迷わずに一本筆でなぞるように行けば、おそらく回り込まれることはないはず。
東台の記憶力は証明された。後は、自分の力を証明することだけだ。
「つぎ、左!」
東台に左肩を叩かれ、目の前に再び十字路があるのをとらえて、一気に体勢を傾け。飛び込む。
また雪崩のような轟音が後ろで劈く。
様子を確かめたいが、先ほどよりも道が狭く一度でも目を離せば、即横転。今だけは前を見て突き進め。
決意を固め、道を踏みつぶしていく。しかしながら、ガタガタと揺れる車体、草が絡まりタイヤが滑る。
前方もそれほど状況が良いわけではないらしい――。
元々人通りが無さそうなぐらいの狭い道となると倒壊した廃屋も多く、そこから吐き出された瓦礫が道に溢れている。無論、踏み場になりそうなアスファルト道路も粉々。
それでも、手間取るのはこちらだけで、『あれ』は臆することなく轟音をまき散らしながら周りにあるものすべて巻き込んで塗りつぶしていく。出来上がっていたはずの距離がもう縮んでいく。
その最中、後ろから肩を掴まれる感触を得たが――
「あっ――」
だが、その手はすぐ離れた。おそらく、また何かを言っているが、すべて後続のものにかき消される。
だが、何を言わんとしているかはすぐに分かった。
ぼんやりと目の前に何かが見えてくる。遠目でみると小さな山のようなものが見えるが、徐々にピントが合ってくると、崩落した家屋の屋根で、物の見事に道を塞いでいることに気付く。
もちろん、代わりの道を知らない。アクセルを緩めたくなったが、それを許せるほどの余裕はない。
行先はまた十字路、一つ潰れての三叉路。
どちらかに行かなければならない。もし選んだ先が一本道しかなく、道が塞がれていたら――あとは考えたくもない。しかし、それも調べる術もなく、どちらの道も似たような光景しか広がってこない。
判断力も決断力もない自分が出てくるのは胸を焦がす焦燥感、それが答えを出してくれるわけがない。壁が迫るばかりで、握ったアクセルが緩んでいくのを感じた。
その時、ガツンと後ろから叩かれる。それは左肩で、疼くほど熱い。確かな、左折の合図。
その勢いにのせて、こちらは緩めたアクセルを引き締め、一気に左の道へ突っ込む。
速度が落ちたおかげか、綺麗な放物線を描いて曲がれたが、後ろから聞こえてくるのは歓声のような呻き。
鼓膜を破るぐらいの強烈な轟音と、『あれ』の湿った熱気が肌に伝わる。たかが、数秒速度を緩めた程度でこれほどまでに近づいてくるとは、後一つ無駄な動きをしていたらきっと食われていたのだ。
焦燥感を覚えきる前に右肩を叩かれて、右へと進む。直後、轟音。
それは壁が崩落した音で、後ろではなく前から聞こえた――。
目の前に大きな穴の開いた壁が浮かび上がった。
そこから出てくる『あれ』の姿がありありと映り、こちらを見据えて手を伸ばしている。
飛び掛かってくるまでのあと一手。
「これ使って!」
そんな言葉が胸元から飛んでくる。月見里だ。
彼女から差し出された拳銃を右手でつかみ、勢いママ『あれ』に発砲。当たったのはどこだろうと考える暇もなく、銃声と共に『あれ』が倒れた。掻い潜るようにして通過。
追うようにアスファルトを破砕する音と共に、骨や肉が引きつぶされる音が刹那響く。断末魔にしてはあまりにも情緒がない。
次の『あれ』が、砕けた木の壁を背に目の前に現れ、一息つかずに襲い掛かってくる。
片手撃ちのうえ不整地で揺れる手もとに、バイクの速度とそれに突っ込んでくる『あれ』という恰好で照準を定める時間もなく、やけくそに発砲。
もはや、運試しのような行為だが、『あれ』は倒れる。限定された空間で、なおかつ一直線に向かってきてくれた事がいい結果になってくれたようだ。
このまま銃を持って臨戦態勢を取り続けていたいが、銃の重みで弾切れであることを知らされる。それに、片腕で3人分の体重を支えるのはもう限界だ。
「また頼む」
こちらは月見里の返事を聞かぬまま、銃を彼女の手もとに預けなおした。
――私が『あれ』がどこにいるか見つける。それでも、近づかれたときは銃で応戦して。私が弾も込めるから。
昨日の月見里の言葉が思い出された。狭い道だから適当に撃っても当たるとは言われたが、バイクを支えながらの射撃は肝が冷える。
「左!」
しかし、その時、東台に左肩を叩かれた。今見えるところには左に折れる道はない。もしかして、見逃したのかと左に目を向けると、家の上に一匹の『あれ』。
しかし、銃は弾切れ。回避しようと車体を傾けてみるが、先ほどはアドバンテージになっていた狭い道が邪魔をして、とても避けられそうには思えない。
何も出来ないまま、ミラー越しに『あれ』を見る。いよいよ屋根を乗り越え、ブロック塀へと伝い、陸上選手のような走りでこちらへと迫り、こちらが速度を失うのを今か今かと待ち構えている――。
否、飛び掛かろうとしていた。
「装填できた!」
とにかく、アクセルを回してスピードを上げようとしたときに、胸に固いものが当たる。月見里が声を張り上げ、こちらに銃のグリップを突き出していた。
急いで銃を掴み、一瞬だけ視線を移し、ブロック塀の方向に乱れ撃った。
命中したかどうか確認できなかったが、月見里がこちらにサムズアップして撃破できたことを知らせてくれて胸を撫でおろす。
銃を月見里に返し、彼女が手際よく弾倉を変えているのを横目に前に視界を戻して、こちらもお返しにサムズアップ。
昨日ずっとしていたリロードの練習が効いたらしい。索敵も着弾観測も問題なし。月見里もうまくやってくれている。
失った速度を取り戻そうと、アクセルをさらに回す。加速が鈍い気がするのは、気のせいなのかエンジンが古くなっているせいなのか。
少しばかり余裕を取り戻したときに、自分の手が震えている事に気づいた。後、一秒遅ければ、引きつぶされていたのは自分たちだ。
自分の心臓が胸を突き破るほど脈動している。道理で肺が縮んでいるのか、息は酷く浅く荒くなっていた。
パニックは伝染するというが、もう月見里にもバレているのだろう。後頭部を胸元に押し付けられていて、隠す方法がどこにある。
そんな自分に情けなさを感じていると、恐怖とは別の感情を抱えられるのだと何故だか不思議と冷静になる自分がいる。
体の異常を黙らせるために一度深呼吸をした。目の先にある景色は不思議なほどに空いている。まだまだ行ける。そうだ、俺。落ち着け、落ち着け。
まだ作戦通り。万策尽きたわけではない
「東台!もっと狭い道に行けるか?」
出来る限り声を張り上げる。彼女も声を張り上げていたが、何を言っているかは分からなかった。
通じていることを願い、こちらはとにかく道の成り行きに進んでいく。
後は野となれ山となれ。似たような荒れ方をしている道に、変わらぬ破砕音と叫び声。
自分たちは永遠に出口を見つけられず追いかけられ続けるのではないだろうかと、ノイローゼにも似た恐怖に貪られる。
しかし、やがて道の様子が少しばかり変わるのを感じると、東台から肩を叩かれた。すぐ後に、右に隙間があるのをみつけた。
軽自動車一台入れるかどうかの狭い道。行き止まりではないかと不安になる程度のものだが、覚悟を決めて速度を緩め、バイクを引き倒す。
破砕流のような轟音をバックにして、目に飛び込んできたのは荒れた果てた道。錆びた年代物の車に、倒れて粉々になった電柱とブロック塀。アスファルトが剥げ土の色をさらけ出す地面。そんなものが遠くまで続いている。
今まで通った道も大概だが、それに輪をかけて状態の悪いこれを道と呼んでいいのだろうか。どこをとっても一際酷い有様になっているのを見るに、おそらく数十年前から使われていなかったのだろう。家屋の状況を見ても、その予測を補強することしか出来なかった。
昔なら入りたくないような道。しかし、こんな動きを阻害するような狭小で障害物の多い場所が今は命綱か。
不整地とギリギリ呼べる道は上に跨った途端、延々とガタガタ揺れ続ける。年季もののバイクだと部品やらがおちてしまうのではないかと不安にもなってくるが、それでも走ってはくれる。
障害物にぶつからないよう細心の注意を払いつつも、多少勢いをつけられるのが小回りの利くバイクの利点である。
しかし、それでも『あれ』はバックミラーから消えることはない。むしろ、先ほどまでの轟音が序の口だと言わんばかりに、目の前の景色がゆがんで映るほど響かせる。
壁や道路を壊しているような音のように思えず、濁流が後ろで流れていると言われた方がまだ納得できる。
バックミラーに写る姿も、『あれ』の形は映っておらず、黒々とした波から手が伸びてこちらを掴もうとしている。
放置車両もブロック塀も家屋も草木も何もかもを粉々にして、後ろで多種多様に広がっていた色は一つの色に溶かされていく。
もう不整地だとか整地だとかそんな次元では、阻めるものがない。
徐々に、徐々に、ミラーに写る手が大きくなる、増えてくる、鮮明になってくる。
「耳栓をきつく締めろ!」
そういって、こちらは後ろに向けて銃を撃ちまくった。視線は前に置いたままで、慣れない片手撃ちではあるが、『あれ』の苦悶の声が一瞬あって水音がぴちゃぴちゃぐちゃぐちゃ聞こえてきた。それがなんであるかは、あまり見たくない。
そんな音が毎回返ってくる。的が大きくなった分、ブレブレの照準でも全発当たってくれたようで、そこは作戦通り。一匹に当たれば、ドミノ倒しが起こるかと思ったが、ミラーから捉える姿はそれほど変わっていないように見えた。
だが、返ってくる音が微妙に小さくなっているような気がして、効果がないわけではない。今はそれだけでも、ありがたい。
弾を残しておきたい欲はあるが、弾を残したまま死ぬのは馬鹿らしい。一発で一秒一コンマ伸ばせるのなら全部使ってやれ。
「月見里、頼む」
こちらは弾切れになった銃を月見里に渡して、彼女の肩をポンポン叩く。こちらに一瞥暮れることなく、再装填。先ほどよりも動きに張りが出来たような気がした。
そして、その答えは渡して瞬き3つ程度で帰ってきた銃に有り。銃身にこもった熱が冷めぬまま後ろへと連射。再び断末魔と肉の弾ける音が聞こえてくる。
そして、また一部始終にもならずに一瞬で終わり元の状況に戻る。しかし、距離だけはまたわずかながらに伸びているように思えた。
東台から肩を叩かれる。右折の合図。見ると、ここに劣らずの狭い道があった。威嚇射撃に数発後ろに撃ち込んでから、速度を緩め飛び込む。
腐った道から干からびた道へ。再び脱色したようなアスファルトへ乗り上げ、一気に走る。道の状態がよくなったおかげか、バイクもスムーズに走れるようになった気がするが、前方には錆びた車両が大量に放置されていて、視界は狭い。
果たしてこれは放置されたものなのか遺棄されたものなのか、そんな鶏が先か卵が先かのような疑問を覚えてしまったが、そんなものも引き続き後ろの『あれ』が物理的に壊して強制終了。
こちらも応戦して発砲を続ける。直後、金属が悲鳴をあげて、後ろの轟音が一瞬止まった。一体何が起こったのだろうと、ミラーを一目してみると『あれ』の波が僅かばかりに小さくなっていた。
前方に視点を向けたままの射撃だったのでかなりまごついて数発撃てた程度である。
願いが通じただとかメルヘンチックなことを信じるような手合いでもないので、ただただ何が起こったのか分からなかった。
鳴り響いていた音を鑑みるに、車にぶつかった音なのだろうか。発砲したのはその直前あたりだったので、少なくとも『あれ』に命中した手ごたえはあったと思う。
その時に倒れた『あれ』に他の『あれ』が絡まったか何かで動きが阻害されたのだろうか。
そんな予測を立ててみたが、その真相を確かめる前に元の勢いを取り戻し、再びこちらを追いかけてくる。
その間、僅か数秒であったが初めて気のせいではない効果があったことに若干の手ごたえを感じた。
このチャンスをものにしようと銃を構えるも、バイクが跳ねてバランスを崩しそうになったので、慌ててハンドルを立て直す。
障害物が迷路のように立ち並ぶ中、それを避けながら後ろに視線を向けるのは流石に限界がある。
むしろ、今こうやって冷静に考えている自分がいるのも、なんというか不思議な気分だ。これが火事場の馬鹿力というものなのだろうか。
ならば、今のハンドルさばきは人生最高と言っていいだろう。最高でなければ死ぬしかない。
数秒出来た余裕を生かすために速度をあげて、次々と前方に飛び出てくる障害物を一つこぼさないように目に焼き付けて、熱くなった頭で右へ左へと回避して、前へと進む。
そして、前方の障害物が少なくなったところで隙を見つつ、後ろへと銃を乱射。
短い間だが、それでも勢い任せに撃ったため、すぐにカチャカチャと弾切れの音に変わり、また月見里にリロードを任せる。
徐々に徐々に手捌きがよくなり、数秒で返ってくる銃。下手な瞬き一つよりも早くなっているのは、何度も何度も同じことをやってきた成果みたいなものだ。
当の月見里はどうだと言わんばかりにピースサイン――ではなく、4本指をこちらに立てた。おそらく、残りの弾倉のことを言っているのだろう。
その分の成果はあるだろうか。タイミングが良くないせいなのか怯む様子はない。ただ、それでも徐々に距離が開いていく。
これ以上撃ったところで劇的な変化はない。ならば、今出来ている隙間を存分に活用する時だ。
「東台!ジグザク作戦だ!」
東台に拳の形で手を振って合図を送った。東台も返事代わりにこちらの背中を叩く。
そう間もない頃に、十字路の道が拓く。東台から肩を叩かれる。次の作戦の始まりへの狼煙。
そこへと飛び込み、次の指示を待つ。再び分かれ道に行き着く。彼女からまた指示を受けて左折。
そして、また道が開き、右折。またすぐに左折。
――要所要所でルート変えて、かく乱を行い『あれ』を撒く。
口にしてみるとシンプル極まりことだが、実際やろうとすると難しい。馬力不足で加速力もあまりないこのバイクでは現状を維持することが精いっぱい。
多少、引き離せるときもあるが、右左折の時や障害物を避ける時にどうしても速度を落とさないといけないので、その間に追いつかれて元の木阿弥。
一定の距離を引き離せた今がチャンスなのだが、やはり曲がるたびに後ろの音は着々と元の大きさを取り戻している。
このままでもじり貧。銃弾も心もとない。正直、撒くことは出来ないだろう。だが、ただ一つ、『あれ』の轟音は徐々にバラツキが出始めているように思えた。
また東台から指示を受け、左折する。壁が崩壊する音、その音と共に発砲。そして、再び障害物を背にしながら、走り抜ける。再び、東台から合図をもらい、曲がる。
後ろからは金属やら家屋からあがる悲鳴の音がしきりに聞こえてくる。だが、その音もまとまりを失いつつあり、ミラーに映る『あれ』の圧もどこか薄まっているように見えた。
だんだんと狭く閉塞感のあった路地裏が、徐々に広がっていき、古びた家電が散らばっているのを除けばどこにでもあるような普通の道へ移り変わる。
感じていた手ごたえはやがて結果を結んだのだ。
ポッと湧いた希望を胸に抱いていると、前方の散らかった地面の中に嫌なほど綺麗な黒い地面があった。
なんだと、違和感に目を凝らしてみると、穴があった。どうやら、道路全体が陥没しているらしい。
「クソ……」
辛うじて、端っこあたりに棒線のような道が残されているが、遠目で見る限りタイヤが通せるかどうかの幅しかない。
どうしようかと考えていると、後ろから右肩を弱々しく叩かれる。目を凝らして右方を眺めると、穴の少し手前のところに通り道があった。
ただ、それも人がかろうじて入れるかどうかの幅で室外機が置かれる程度の隙間。バイクで通るには心もとない。その先もどうなっているか分からない。
狭い道の先はどうなっているのだろう。東台が指示するのだから何かの道があるのだろう。一つでも障害物があって、それで道が詰まっていたら一巻の終わり。
前方は引き続き道が広がりを見せているので行き止まりのではなさそうだが、バランスを崩せば穴へと落ちて二度と這い上がれないだろう。
一時のチャンスか、一時の安寧か。そんな選択肢が突きつけられている。
どうしようかと悩んでいるうちに、アクセルを緩めてしまっていることに気づいたが、もう遅い。
目端に捉えたミラーには道を飲み込む『あれ』の姿が着々と大きくなっていくのが見えた。
それでも決心がつかずにふと目線を下に落とすと、月見里の後頭部。彼女は銃のグリップをこちらに向けて、いつでも万全だと態勢を整えていた。
こちらの覚悟を今か今かと待っている。
こちらは銃を彼女の手から奪いホルスターに収めて、彼女の手をバイクのボディにしっかりと握らせた。
「しっかり掴まれ!突っ込むぞ!」
叫んだ。檄を飛ばせるような出来のいいものにはならず、『あれ』の叫びにも劣る叫び。だが、虚勢を張るには十分だった。
限界までアクセルを引き絞ると、徐々に穴の様子がはっきりとしてくる。不自然なほど綺麗な四角形を帯びていたらしい。その中にはパイプのようなものが転がっており、どうやら元は下水道であったようにみえる。
しかし、正体を知っても決して状況がマシになるわけではなく――。やがて、穴の全体が見えてくると、思わず息をのんだ。
綺麗な地面と見まがった穴は、近づいてしまうと深い深い粘着質の泥の底に視界が埋め尽くされる。
向こう岸まで一体どれぐらいの長さになるだろう。ふと学校のプールを想起したが、それよりもまだ長い。
そして、それに掛かるようにしてあった道のように見えた一本の線のような物体は、排水管に変貌していることにようやく気付いた。
だが、もう分かれ道は過ぎた後で、後もう少しで排水管にタイヤが付く距離。もう引き返せない。進むしかない。
覚悟を決めた瞬間、タイヤは凸凹した固い地面から滑らかで心もとないパイプへと接地する。一瞬でも気を抜けば、一つでも体を動かせば、バランスを崩して真っ逆さまに落ちてしまいそうな不安定感。タイヤにかかる遠心力だけでどうにかパイプの上を走る体が取れている。
そんな首の皮一枚繋がったような状況に覆いかぶさるように、『あれ』の叫び声は徐々に肉厚的になってくる。
走ることだけに集中しなければならないが、パイプの継ぎ目でタイヤが跳ね、ガリガリとパイプの錆びを削る。もはや集中も何も生きた心地がしない。
足元から轟轟と鳴っている反響音は、果たしてエンジン音なのだろうか。
緊迫とした状況のなか、周りの風景が泥に浸かったように重たくなっていくような気がした。
顔にぶつかる風が無くなり、音さえ体から遠のいて、自分の鼓動だけが聞こえてくる。
規則的な速度で、場違いなほどゆっくりな脈動。どうしてか、自分は安堵感を覚えるのだろう。部屋の隅で小さく身を寄せているような、あの感覚に似ている。
しかし、自分がそうなっていないことを自覚できているのは、自分が子供ではなくなったからで、目の前で必死に身を縮める月見里の姿があったから。
アクセルの握る感覚だけに集中して、強すぎず弱すぎない状態を保持する。
そんな中、視界に月見里の赤みがかった長い髪が映った。どうやら、髪を纏めていたゴムがちぎれてしまったようである。なんとも変なタイミングで外れたなと、こういう時でも人間は気が抜けてしまうのか。
その時、浮遊感に襲われた。落ちてしまったのかと焦ったが、周りの景色は明るく穴の向こう側に見た景色。
再び時間は元に戻り、自分たちが落ちていなかったことに生きた心地を取り戻しつつも、後ろの『あれ』を思い出して、急いでアクセルを最大まで回す。
それでも、一度失われた速度はなかなか戻らず。『あれ』は再び距離を詰めてくる。 どうしようかと、考えていると、こちらの胸になじみ深い固い感触が当たった。
先ほどまで体を縮こまらせていた月見里が、間を置くことも無くすぐに元の態勢に戻ってくれたようであった。
彼女の手に孕む僅かばかりの震えも一緒くたにして掴み取り、後ろへと引き金を引いた。
相変わらず後ろの視界が取れないままの発砲だったか、今度は今までに聞いたことのない破砕音が返ってきて、音が止まる。
音が止まった。まるで本当に時が止まったかのように。
「うわぁ……すご」
東台の感嘆の声で困惑から現実へと引き戻された。だが、彼女の声が聞こえるほどの静寂に包まれていたことに、一体何が起きたのかとまた困惑を呼び起こすばかりだった。
バイクの速度を徐々に落として、おそるおそる後ろを振り返ってみると、穴があったところに柱が立っていた。
しかし、それは空目で、立っていたのは柱ではなく『あれ』。
いや、違う。そのなれ果て、人体スライムと言ったらいいのだろうか。柱のように聳え立つ『あれ』は上半身だけ形を留めて、他は溶かして接合したように見える。
不純物の混じった粘土のようなボコボコした体表の中に、足のような形も垣間見えるが――いや、確かに、手足と胴体と頭が見える。
これは、生きているのか死んでいるのか――もうぐちゃぐちゃになっているというのに白い目がこちらを恨めしそうに見ていて思わず目を逸らした。
どうやら、穴にはまっているようである。もはや勢いの失った『あれ』は身を波のように蠢かせて必死に抜け出そうとしているようだが、連なって柱のようになったのを揺らす程度でちょっとやそっとでは脱出できそうには見えなかった。
ただただ、こちらに手を伸ばしている――。
なんだろうか、肩透かしというか、思考が真っ白だった。
東台も、月見里からも、声をあげるものはいなかった。ただ、こちらはその光景に脱力感を覚えながら、再びゆっくりとアクセルを開けてその場から遠ざかった。
『あれ』の柱がやがて遠ざかっていくのを見届けて、前へと進んでいくと狭い道から一気に広々とした道へと飛び込んだ。
大通り。それにしては放置車両の少ない道の先に、見慣れたアーチ橋が見えた。
若干距離はあるけれども、たかがそれだけでありありと見せつけられる光明にただただそこにあると捉えるしかなかった。
彼女たちも同じ感情を抱いているのか、誰からも声が発されることはなく残りの道を消化していく。
しかし、この体にこもる熱がなかなかにこそばゆかった。
ああ、あれほどまでに曲がり回ったというのに、大団円と言わんばかりに橋へとたどり着けたのは、ひとえに東台の道案内のおかげだ。
そして、あれほど『あれ』に捕まりそうになる状況になりながらも、今こうして生きて至れるのは、ひとえに月見里が必死に弾込めをしてくれていたおかげだ。
「やったああああ!」
そうして今、歓喜の声をあげているのは誰だろうか。それは紛れもなく――前にいる月見里だった。
「いええええい!」
呼応するかのように東台も歓声をあげる。先走りすぎているような気がするが、これにはもう喜ぶことしか気持ちを表現できない。
「うぉぉぉ!」
ならば、自分もありったけの声をあげた。それは彼女たちのソプラノとは似ても似つかない野太い声で歓声と言うより勝鬨の声に思える。
そうだ、勝鬨の声をあげろ。3人高らかに叫んだ。
何の音も無くなった町、誰もその声を邪魔することはなく、町中に木霊するのがとてつもなく気分が冴え渡る。
あれほどまでにけたたましい声をあげたあれも、あれほど甲高い音をあげたエンジン音も落ち着きを取り戻している。
それでは、昂りは消せない。そう、正にマラソン選手がゴールテープを切ったときのような達成感に満ち満たせ――。
「うわぁっ!」
その直後、バイクのマフラーから爆発音が飛び出しバイクが跳ね、東台の歓喜の声は驚きの声に変わった。
「びっくりしたあ。どうしたの?八雲?」
「ああ、いや」
東台が心配そうにそう聞いてきた。それでも、高揚冷めぬこちらはエンジンが切れたのかと、セルを回したが、弱々しいセルの回る音がするだけで動く気配がない。
恐る恐るメータを見ると、ガソリン残量を示す計器が0に落ちていた。
世紀末でも屑はクズ パクス・ハシビローナ @yakumoKurotobi
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