ありきたりなサラリーマン、ありきたりな人生


 他の人の腕や足がぶつかりそうな雑踏。袖振り合うのも何か縁があるらしいので、周りの人に目を向けてみるが、目が合うことも無く自分の両サイドを通り抜けていく。


 その光景がひたすら寂しいと思ったのはいつ頃だっただろうか。自分の着てるスーツにまだ光沢があった頃かと、自分のくたびれたスーツに苦笑しつつも今の自分と同じような想いを持っている人がいたら嬉しいなと温かな笑みを浮かべている自分がそこにいる。


 今日は娘のお誕生日。懐は寒いが、リュックサックを背負った背中は温かい。きっと、あの子も喜んでくれるかな。

 まぁ、ただのぬいぐるみだから、早熟な女の子にはちょっと歳不相応なるかな――そういえば、あの子っも今年で――。



 やっぱり、ぬいぐるみよりもゲーム機を買ってあげた方がいいかもしれない。まぁ、そんなの選ばなくても両方渡せば文句は言われないよなと、足をおもちゃ屋に戻そうとしたが、どうしてか動かない。


 ああ、そういえば、今電車の中にいるんだっけな。にしては、室内にいる感じがない。

 そうだった。途中で電車が止まったんだっけ。それで、避難のために線路を歩いているはず。それなら、どうして俺は白線引かれたアスファルト道路の上にいるのだろう――。


 いや、そんなことを考えている場合じゃない。きっと妻も心配している。かなり遅くなってるから電話しておかないと。

 初夏で冷たくなった手でおそるおそるスマホをつかんだ。


 不幸中の幸いか、電源は結構残っているようだ。しかし、自分の指が震えていてうまく押せない。でも、全然寒くない。暑くもない。

 電話番号は何番だっただろうか。 確か、ちゃんと登録していたはずで――。



 パネルに触れた途端、指がピタリと止まった。体が覚えているはずの動きがどこにもない。


 開いた電話帳の中にはたくさんの人の名前が入っている。そのはずなのに、俺は妻の名前が思い出せなかった。

 まだアラサー入ってまもないぐらいだぜ。もう認知症か。大事な日だっつってんのに、空気読めねえな俺。



 ――いや、俺があの子を忘れているはずがない。


 彼女と俺が出会ったのは高校の時だ。確か、1年の時。中学の友達がいなくなって心細くなって高校デビューとかいう黒くて恥ずかしいことやって、からかわれたのが出会いだった。俺がムキになって雑誌とか漁ってぎゃふんと言わせられるような髪型や服装をしてみたけれど、結局揶揄われる。

 挙句の果てに、私がもっとましなものを見つけてあげますとかムカつくこと言われて、休日に繁華街の方まで引っ張られたはいいものの荷物持ちをやらされて――今にして思えばあれが初めてのデートだったんだな。


 その後は、彼女のお眼鏡にかなったのか、その後も放課後とか休日に一緒に行動することもあったりして、運動会とか文化祭とか縁日とか修学旅行とか、少なくとも普通の人と同じような青春を彼女と過ごした。

 でも、俺たちは彼女彼氏の関係と友達の線引きを跨いだり戻ったりするような関係だったから、周りはやきもきしてただろうな。結局、そんな外圧に屈するタイミングもなく、そんな心地よくもやきもきする関係性に終止符をうったのはそれぞれ違う大学に合格した高校卒業間近。

 返事よりも前に、飛んできたのは彼女の腹パンと遅いという言葉だったのを痛みと共に覚えている。


 昔なら遠距離恋愛の始まりらしいが、一駅二駅程度で結局は高校の時の延長戦みたいなものである。それは分かっていたくせに、それでも告白したのはケジメみたいなものだったのだろう。

 少なくとも、バレンタインやクリスマスというイベントにかこつけてことをするようになったのは、それからである。

 

 同じ学生という呼び名の癖に、授業をコマと呼ぶのと同じく、変わるところは変わった俺たち。学生バイトでちまちまお金をためて某ネズミランドみたいなテーマパークや水族館行っていたのに、車が運転できるようになると神社とか温泉とか行きだすようになったのは自分たちが大人になったからなのか。


 それは分からないが、そこから嫁と夫の関係になるのは大学3年のころ。

 高校の時と同じく殴られるかと思って身構えてみたが、グーもキックもなく、恐る恐る薄目を開けてみると今までで一番の赤面が灯っていた。もしかしたら色が残るんじゃないかという怖さ半面の照れくさい感情が当時のまま自分の中に残っている。


 今思えば、彼女に告白したのはケジメじゃなく、きっと独占欲だ。


 友人たちには驚かれつつも、もう実質夫婦みたいなもんだったしすんなりと受け入れられて、俺たちって公衆の面前でも結構いちゃいちゃしてたんだなと顔が熱くなったことを覚えている。

 でも、甲斐性もなかったので、彼女と俺の薬指に指輪がはまったのは就職した後のことで、お互い働くつもりだったし子供を作ることもまだ考えていなかったのでやっぱり殆ど変わらなかった。多分、これが通常運行ってやつなんだろう。

 まぁ、でも、嫁の父親に挨拶行くときは本当に緊張したし、あの人の岩のように固まった顔を端に留めながら口に含んだビールの苦みは今でも忘れられない。 

 多分、あの時彼女がいなかったら、とても頭を下げる勇気は出なかっただろうな。まぁ、彼女のお母さんも優しくフォローしてくれたの事にもきっと助けられたんだろう。

 彼女の笑顔はお母さんに似たんだろうな。それでいて、怒った顔は父親の方に似たんだろう。どっちも可愛いけど、出来れば怒った顔の方はいろんな意味で見たくない。

 

 そういえば、今着ているスーツって、確かその挨拶の時に着ていったものだよな。初心を忘れないっていうのはいいことかもしれないが、最近腹が出てきてパツパツになってきた気がする。俺の初心は本当に働き者だ。


 それなのに服がヨレヨレなのは、おかえりと行ってらっしゃいの時に娘に引っ張られているせいだ。お互い忙しくて30半ばで授かった子供だけど、わんぱくな女の子で俺も嫁も毎日振り回されぱなしでおっさんに片足を突っ込んだ体ではとても太刀打ちできない。筋肉痛がなかなか消えない体を抱えていると、もうちょっと若いうちに生まれていてくれたらと思ってしまう。

 あっ、でもそうなると、会えなくなっちゃう可能性もあるかもしれないのか、それなら30半ばで生んだのは大正解だったな――。


 早く帰りたい。あの温かな家庭に。そんな昔ながらの温かな気持ちを抱きながら、ふと手もとを見るとくすみのない銀色が薬指で光った。

 

 娘の誕生日が過ぎれば、次は結婚記念日だ。娘の喜ぶ顔も一生ものだが、嫁の喜ぶ顔もまた格別なものだと思う。

 もうずっとからかわれていた俺だが、頭が薄くなるぐらいともに過ごせば多少の釣り合いは取れるものだ。特に結婚記念日の時期は唯一俺が彼女をからかえる時期でもある。

 女の子というのは記念日とか形のないものを大切にしたがるが、倦怠期になりそうな時期に差し掛かっている今でもその例から外れることがない。


 その日が近づいてくるとしきりにカレンダーと俺を交互に見たりして、それでも俺が気が付かなければ夕飯の時に自分の指輪を指で叩いて意地でもこちらに気づかせようとしてくる。

 そんなことしなくたって俺は覚えているのだが、そんな彼女の可愛い反応見たさに見ていないふりをしてからかってしまう。どうだ、これが大人デビューした俺だぞ。

 

 いつもの仕返しが出来てご満悦といいたいけれど、やっぱり当日にいの一番に帰ってプレゼントを渡したときに見せてくれる満面の笑みが一番好きだ。ああ、やっぱり俺は一生彼女に勝てないんだなと思わされてしまう

 それでも、娘が生まれからは前よりは構ってくれなくなって、ちょっと寂しい。


 だけど、娘が立ったり歩いたり喋ったりするのを今か今かと彼女と一緒に一喜一憂して、それで、あっという間に成長した娘が他の子と楽しそうに一緒に遊ぶ姿を微笑ましく眺めて、卒園式で卒業証書を受け取る娘を見て、入学式の時に泣きべそをかいていた姿を思い出して、いつの間にか成長していた娘に気づいて2人涙を流して――。


 自分の中には幸せしかない。本当にそれしかない。


でも、ハイハイから年長さんになるのが早かったように、子供から女になるのもまた早いんだろうな。本当、思春期に入ったらどうなるんだろう。ランドセルに背負われなくなった――あの子の姿は。


 パパのパンツと一緒に洗わないでと蔑んだ表情と共に怒鳴られて、一人寂しく洗う未来が目に浮かぶ。まぁ、それもいいじゃないか、それはちゃんと大人として成長していく過程なのだから。不安ではあるが、楽しみでもある俺はやっぱり変だ。

 でも、そのぐらいに歳になったら、恋人の一人や二人出来ちゃうんだろうな。彼女の娘というのもあるとは思うが、俺自身あの子は美人に育つという絶対の自信はある。


 いつかは嫁が俺に見せてくれているような笑顔を誰かに見せるんだろうな。それが想像の中だけであっても、娘が遠くに行ったような気がして胸にくるものがある。

 

 どこの馬の骨とも知らない奴が挨拶にきて、娘をくださいとくるもんだ。その時になったらあの時のお義父さんのような顔をしてその子と飯でも食うのかもな。でも、俺の場合は緊張で味とか分からなくなりそうだ。

 

 そんなことを考えていると、寂しい感情もあるけれど、どこか楽しみな感情も――あるわけない。やっぱり寂しい。ああ、もう今の歳で止まってくんねえかな。


 叶いもしない想いに悲壮感はあるけれど、それでもこの温かな気持ちは消えない。

 嫁と、そして娘と共に築いてきたこの想いは、きっと、これからどんなことがあっても一生消えない。

 


 それなのに、どうして俺は何も思い出せないんだ。

 彼女の笑顔がこれほどまでに自分の胸を震わせ温かなものにさせるのに、どうして俺は嫁の名前を思いだせない。


 生まれてきたときに俺に負けず劣らずの泣き声をあげて、俺はこの子の父親になったのだと奮い立たせてくれたというのに、どうして俺は娘の名前も思い出せないんだよ――。


 自分の名前もなんていうだったんだろう。俺の帰る場所はどこにあるんだ。


 もう何もかもが分からない。一体、何を分かればいい。あったはずのものが確かにそこにあるというのにどうしても掴めないそんな虚無感。

 

 そんな感情に気づいて、俺はどうすればいいのかとただ茫然と突っ立つことしかできなかった。いや、突っ立ってのは元々だったのか。

 

 そうだ――今は外にいて、周りに人がいる。その人たちは、自分を通り過ぎていく。俺の中を通り過ぎていく。

 自分が透き通っているような気がして、果たして俺の中に俺はいるのだろうか。


 考えがどうしても堂々巡りで、脳みそが回されているような気持ち悪さに耐え切れなくなった俺はそのまま地面に倒れてしまった。

 それでも、周りの人は俺に声をかけることもなく、革靴の音が俺の上を通り過ぎていく。

 雑踏に俺が押しつぶされていく。もうこの固いアスファルト面に俺が溶けて行っているような――もう俺はいないのか。


 まるで受話器口でオレオレ言っているような、自分が剥がれ落ちていくような感覚に襲われて気持ち悪さを覚える中、ふと背中に重みを感じた。


 そうだった。俺はぬいぐるみを背負っているんだった。今日は娘の誕生日で、今はその帰りだ。娘も喜んでくれるかな。

 まぁ、ただのぬいぐるみだから、早熟な女の子にはちょっと歳不相応なるかな――そういえば、あの子も今年で――。


 

 そんなことを考えていると、人の歩いていく方向からたどたどしいモータ音のようなものが聞こえた。首だけを起こして音の方を見ると、そこには小さな火の玉がよちよちと歩いていた。いや、あれは、アヒルのおもちゃだろうか。

 よくよく見てみると、アヒルのおもちゃに花火が取り付けられ、噴水のように火花を噴出させている。歩いているうちに燃えそうな気がするが、それを防止するためのか小さなヘルメットを被せていた。


 狐というか狐火につままれたような光景に口をあんぐりと口を開けるしかなかったが、すぐに合点がいった。きっと、娘が遊んだままにしたのだろう。そう考えるとヘンテコに見えるデザインも、巨匠が手掛けたものに見えなくもない。

 

 娘に片付けさせたいが、もう辺りは明るく、夜だ。仕方がない。俺が片付けておこう。彼女は整理整頓のしつけに関しては厳しいからなぁ。

 明日、代わりに俺がちょっと怒っておこう。それといい出来だったと褒めておきたい。


 他の人も気になっているようで、寝た子を起こさないように恐る恐る歩みを進めている。こちらも遅れないように若干早く歩を進めて近づいた。


 だけど、それにたどり着く前にまた何かが落ちてきた。見てみると、今度は煙の塊――いや、クマのぬいぐるみであるようだった。何故か、蚊取り線香がテープか何かで張り付けられている。きっと自分のことを呪いの人形だと思っている一般玩具なのだ。

 一体どこから降ってきたのだろうと思えば、きっと2階からだろう。また、娘が落としてしまったようだ。

 

 そういえば、娘が歩けるようになってそう経って無いころに、階段から物が落ちてくる音が聞こえてきて、もしかして転び落ちたのかと血相変えて様子を見に飛び出たことがあったな。

 不幸中の幸いか、無残な姿になった目覚まし時計あって、当の本人は備え付けていた柵を掴んで吞気に笑っていたっけ。


 寝かしつけた後に残りの仕事を片付けようと下に降りてパソコン開いた矢先だったので、小さい子は目を離した隙にどこかに消えるという意味を分からされた。壊れた目覚まし時計の処理に手間取り、帰ってきた妻にメトロノームばりの謝罪をして散々だったけど。それだけで終わってくれたよかった。

まぁ、よくよく考えてみたら、檻みたいなものに閉じ込められているわけだし、不満の一つや二つはあるよな。


 後で、絵本でも読んでご機嫌でも取ってみるかとそれに使づいてみると、なんだかいい匂いがした。線香の匂いはあまり好きではないけれども、そんな感じの臭いではない。

 それが何かはよくわからないけど、どこか懐かしい。でも、そんな遠い記憶でもないような気がして――。


 あっ、思い出した。これは嫁の作ったハンバーグの臭いじゃないか。あの玉ねぎと嫁特製のソースの焦げた匂い。俺の大好物だ。

 

 濃厚だけどどこかほっとするような家庭的な味も好きだけど、いつも大事な商談の時とかに作ってくれたりするし、ケンカして仲直りした後にはいつもよりも大ぶりで出したりしてくれているので、思い出補正もついていると思う。

 

 そうか、ここは俺の家なのか。やっと、俺は帰れるのか。

 

 掴んだドアノブに身に覚えのない感触に、俺は胸がいっぱいになった。

 

 家族の待つドアを開ける前に、電車の音が聞こえてきた。


 ああ、まずい、電車に乗り遅れてしまう。俺は線路を駆けた。線路のアスファルトを駆けた。

 

 しかし、残念ながら電車の姿をとらえたときには既に発車してしまったようである。郵便局の赤いバイクのような音がカタンコトン、遠のいていく。

 それにもう乗れないということに焦りを覚えて、自分は走り出した。近づくたび、嫁のハンバーグの臭いが濃くなっていく、あの肉汁の音が聞こえてくるぐらいに。


 あの子の笑顔が頭の中に浮かんできた。早く、早く帰りたい。


 いつの間にか、他の父親も俺と共に追いかけていた。だんだんとより固まって、まるで自分が大きな山になっているような、まるで大波になっているようで。

 

 まるで、まるで、俺が俺になっていく――。


 俺は、おれは――。






 あ、あががががががあぁああ。

 


 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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