スーパカ〇とパンジ〇ンドラム

 また朝が来た。


 流れ的に希望の朝とも言うべきところかもしれない。確かに、今までにないほどに気持ちのいい目覚めではあるが、あまり清々しい気分にはなれなかった。


 ――結局、何も思いつかなかった。


 いや、もう考える気をなくしたと言っても良い。

 まるで湖に飛び込んだら空中に立っていたような感覚で――瞼を一瞬閉じたらいつの間にか朝になっていた。


 隣には昨日約束を交わした月見里が安らかな顔をして眠っていて、バツの悪さといえばいいのか焦燥感を覚えて忍びない。 

 結局、時間だけが過ぎ去り、真っ暗闇な空間も掻っ攫われ、昨日見た光景と同じものが寸分違わず広がっている。


 それでも、8時間以上の睡眠を蓄えた頭はやけにスッキリとしてしまっている。そこに明るさもあれば否が応でも周りの印象は変わるものだ。

 

 むしろ、全体図が捉えられるようになった分、昨日の疑問だけは晴れたようである。昨日見た地図は幻でもなんでもなくこのあたりの地域を示したものらしい。


 それは何となく分かっていたことなのだが、写真立ての方はレジ前で見たそれよりも微妙に古ぼったい。

 写っているのはおそらく若かりし頃のおばあさんと、旦那さんと小さいころの息子さん――だろうか。知らない家族が映っていて、気まずいことこのうえない。


 ならば、どうしてレジ前の写真立てには旦那さんがいないのだろうと思えば、昨日やけに黒く見えたタンスの正体に今更ながら気づいた。

 多分、あそこに彼の写真が納まっているのだろう。まったく、嫌な答え合わせをしたものだ。

 こうして家族全員の顔を見てしまうと、人の家に勝手に上がり込んで物色している自分に気付かされる。なんとみっともないことか。


 それが下らないことなのは分かっているクセに、目を合わさないでおこうと、写真立てを伏せる――。


 しかし、彼らの後ろにひっそりとバイクが写っているのを見つけて途端手を止めた。


「もしかして、これで――」

 

 ここから脱出できるかもしれない。そんな絵空図が思い浮かぶ。


 だが、寝起きの思い付きは頼りにならないのが相場である。冷静に見なくも写真に写っているのは頼りないサイズのバイク。

 郵便局員の人がこのバイクをよく街中で走らせているのを目にしたことがある。 

 

 テレビで3,4人乗せていたのを見たことあるので、おそらくやろうと思えば出来なくはないのだろう――。


 そうはいっても、そんな運転スキルは持ち合わせていない。そもそも、ペーパ以下の無免許ドライバーである。


「それにカギもバイクも無いから考えても無駄だな――」

 

 独り言ちて、虚しい。それでも、第三者がポケットから出してくれるわけも無い――。

 そんな下らないことを考えていると、ふと裏口を開けたときの光景を思い出した。


 ――そういえば、あの時黒いタイヤが見えなかっただろうか。


 あの時は焦って扉を閉めたので確認していなかったが、一瞬見えたその造形は確かにバイクだったと思う。

 しかし、それに気づいたところでバイクのカギはない。もし見つけてエンジンを始動出来たとしても、逃げ切れるのだろうか。

 

「おはよう」


 そうして、取らぬ狸から干からびた狸の皮算用に昇華したころに、月見里の眠気の混じった声がいつもの朝を告げる。


「ああ、おはよう」


「……今日は、早いね」


 そう言って、月見里はいの一番の大きな欠伸。


 その隙に時計を見てみると、朝の5時。どうやら、早起き新記録を達成してしまったようである。


 決意を込めた朝は早い。おそらく、東台もまだ上でのんびりと寝ている事だろう。


「まだ寝ておいてもいいんだぞ」


「ううん、せっかくだから起きておく」


 目をこすりアンニュイな顔をする月見里だが、その視線は外に向けられている。


 バリケードから漏れる『あれ』の声は一向に止まる気配もなく、その密度も変化していない。ただ、相も変わらず気怠そうな声をあげている。


 変わらないことに自分は希望を持てばいいのだろうか。今の自分にそんな感情はないが、恐怖もなく、なんだか漠然としている。


 まだ、3日分なら飯はある。余裕自体、まだある。


「今日出るの?」


 月見里もこちらが何も言わないことに痺れを切らしたのか、いよいよ眠気のない真剣味を帯びた声で様子を伺ってきた。


 昨日、月見里に約束した手前、おいそれと脱出を引き延ばすのは気が引ける。


 人間、緊張感を覚えると頭が冴えわたるものだが、容量不足な頭はそれだけでいい案を思いつけない。


 結局、昨日の決意は格好つけ以外の何物でもなかったのだ。それだけ気付く。


 それでも、一度は決意したことだ。何もせずになあなあと出来るぐらいクズにもなれそうにない。


「さあな、まだ分からん」


 自分の中途半端さを感じつつも、ふと文殊の知恵という言葉を思い出した。


 そういえば、彼女がバイクのカギの在りかを知っているかもしれない。いや、俺がバイクがあることに気づいたのはつい先ほどのことである。


 そもそも、彼女がバイクがあることを知っているかを聞いておくのが先か。


「そういえば、裏口のドアの前にバイクがあったの知ってたか?」


「え?バイクなんてあったの?」


 やはり、月見里もこちらと同じ理解度であったらしい。一人で勝手に物色するような子でもないため、当たり前といえば当たり前だが。


「ああ、小さいバイクで――1人乗り用だがな」


「へえ……」


 ぶっきらぼうな返事が返ってきた。彼女の瞳から光が消えて、物憂げな表情を浮かべる。一人で逃がすのは、やっぱり論外だ。


「いくら小さいバイクでも補助輪はついてないからな、お前を一人で乗せるわけにもいかない」

 

 (人のことは言えないが)当然、月見里も免許を持っていない。一応、クラッチとアクセル程度は教えたことがあるが、残念ながら彼女は身長も足りない。


「プフッ、当然じゃん」

 

 月見里はそういって、すました顔を壊して冗談っぽく笑った。お腹を抱えてちょっぴり下品ぽく笑うものだから、相当おかしくてたまらなかったのだろう。


 しかし、そうなると逆にこちらが冷静になって、自分の言った下らない冗談に恥ずかしくなるのがセットでついてくる。


「それなら、一人で逃げてもいいじゃん」


「……冗談言うなよ。それなら、東台に運転させた方がマシだ」


「うわぁ、絶対乗りたくない」

 

「まあ……そういう話も東台が起きてからだな」


「……文殊の知恵」


 こちらが先ほど思い出していた言葉が月見里に移ったらしい。ただ、彼女の場合は皮肉がよく混じっている。

 確かに、東台の知恵を混ぜても、もんじゃ焼きにもならないようなカオスに陥りそうな気もする。


「その前に鍵の在りかぐらいはあるかどうか確認していた方がいいかもな……そこで待ってろ」


「ん、わかった。私も探す」


 カギがあれば、少なくとも動かせる状態ではある。


 ホットロードとかなんだとか思いついたものがあったが、思いついただけでやり方を知らない。そもそも、ホットとロードとはなんだ。


「ホットロードって、知ってるか?」


「……ごめん、少なくともここにはない」


「だよな」


 そんなこんなで正一時間がすぎるが――鍵は見つからない。


 タンスや服のポケットや家具と家具の隙間と落とし物のありそうな場所はもちろん、畳の下などのイレギュラーな場所も探してみたが、成果は無し。


 ただ、ここの住人がどのように暮らしていたのかという解像度だけは高まり、黒く複雑な気分を蓄積していくのみである。


 残されたところは後一つ。だが、それはぴっちりと扉が閉じられた仏壇で、そんなところにあるわけもないし、今抱えている感情もあってとても物色しようと思えなかった。


 待ちぼうけを食らわされた月見里がまた欠伸をあげる。

 彼女の不意打ちにこちらも欠伸で応戦。なんというか、どうしても締まらない。

 

「とりあえず、顔でも洗うか」


「うん」


 ならば、ひとまず朝の日課をさっさとやって、いつもの調子を取り戻していこう。こういう時こそ、水を湯水のように使って顔を洗いたいものだが、無駄遣いできるほどの余裕はない。


 人間、知恵を使うのが一番である。こういう時はタオルに水を吸わして顔を洗ってしまうのが一番だ。

 そう思い立ってみるも、肝心の水はリュックの底の方に仕舞われていて中々に取り出せない。整理整頓も永遠の三番手である。


「私の水使う?」


「いや、待ってくれ――よし。これを使え」

 

 そういって、封を開けて月見里に差し出すが――何故だか当の彼女は熱いものに触れたかのようにすぐさまそっぽを向く。

 そして、次に彼女から見えたのは鼻をつまみ訝しんだ顔。 


「くっさ!なにこれ?気付け薬?」

 

「いや、そんなまさか。気付け薬なんて名前でしか聞いたことがないぞ」


 もしかして消毒液を間違えて入れていたのかと恐る恐る鼻を近づけてみると、アルコール臭でもない独特の匂いが鼻を刺す。


 確かに月見里の言う通り目の覚めるような匂いだが、決してそのような薬品ではなく今の状況でそれよりももっと必要なもののひとつであることに気づくのに時間はかからなかった。


「悪い。ガソリンを渡してた」


「え?ちょっと貸して――本当だ。いつもバイクのところに積みっぱなしにしてるのにどうして?」


「おそらく、前にガソリン補給してから、そのまま入れっぱなしにしてたんだろうな」


「えー……」


 そういうと月見里は若干引いていた。バイクにガソリン補給してもう一週間経つので、ずっと漬けられていたのだろう。

 ペットボトルの密閉性に関心するものはあるものの、それほど軽くも小さくもないものを突っ込んだままにしておける自分の怠け癖に感心するしかない。


「まぁ、なんというか、芸は身を助けるということだな」


「多分、その中にバイクのカギも紛れ込んでたりして」


 月見里は若干呆れた顔をして軽口をたたく。


 しかし、いろんな色がまざって汚くなった絵具みたいな様相を晒す中身を見てみるとさもありなんと思っている自分がいる。なんというか、やるせない。


「……ということだから、水を貸してくれ」


「ということだから、あげる」


「ガソリンも返してくれ」


「はいはい」

 

 肝心の水がそれよりも深層にありそうなのは分かったので、月見里と軽口の取引で水をもらい、ついでに貰ったガソリンを洗面台の蛇口傍に置いておいた。

 

 湿らせたタオルでまずは剝き出しになってる目元やら耳を洗い、布切れで隠した部分を洗い、残った眠気をぬぐう。

 いつもならカラスの行水にも劣る手捌きでさっさと終わらせるところだが、月見里から水をもらった手前、余さず使っておきたい。


 丸々顔を洗っていると、目の端に歯を磨いている月見里が写った。相も変わらず、ひどく丁寧に磨いている。

 こちらも二度と歯と膝の軟骨の違いが分からなくなりたくはないので、月見里に負けず劣らずの意識で歯を磨く。


 鏡を介してみる自分の姿も彼女の姿もいつもの寝起き姿そのもので本当にしまらない。


 ただ、こうしてじっくりと彼女の姿を見ていると何故だか落ち着いてしまう自分がいる。それは月見里も同じようで、互いの口がカニの口のように泡立っているのを面白おかしく見ていた。


 しかし、水は無駄遣いできないので、己の唾液と舌で口内を洗い、遊んでいたブクブクを吐き出す。きれいにしたはずなのに汚い。


 自重によって、区別することなく泡は沈んでいく。別にみる必要もないのに、どうしてかその光景に目が吸い込まれた。


「汚いね」


「ああ、汚いな」


 それでも、やっぱり汚いものは汚い。月見里も同意見であることは変わりないようである。だが、こちらと同じように何も考えることなく見ていた。


 そういえば、北半球と南半球で渦の向きが変わるのだっただろうか。どちらがどちらの向きかは忘れてしまったが、こちらと月見里の泡の量ではそれを見ることは叶わず、混ざりあってゆっくりと排水口へと落ちて消えていった。やっぱり、水で気持ちよく洗い流したかった。

 

 一体、どこに行き着くのだろうか。もしかしたら、あの干からびた下水道なのだろうか。


「ここから逃げられそうだよな」


「うへぇ、出来たとしても嫌だ」


 ふと下水道に逃げ込むという妙案を思いついて言ってみるが、訝し気な顔をする月見里にぴしゃりと叩き落とされている。確かに、生理的に嫌なところはある。


「東台――さんならここに穴を掘って、マンホール下まで行くっていいそう」


 月見里は生意気な笑みをして軽口をいうが、まさに自分が考えていたことなので苦笑いを返すことしかできない。

 ただ、今だけは体を小さくして排水管へと入り込み、下水道まで逃げるという案を思いつかなかった自分を褒めておこう。


「おはよぉー」


 噂をすれば影というように、背後から東台がデジャブを感じさせる眠気交じりの声で挨拶を返してくる。後ろを見れば、その声とイメージ通りの姿が映っていた。


 いつも早起き出来るしっかり者ではあるが、今回ばかりは月見里が初勝利をもぎ取ったようなものだ。しかし、月見里は不機嫌な顔を浮かべている。


「おはよう。まだ早いぞ」


「そう?でも、2人とも起きてるからちょうどいい時間かもね」


 そう言うが起きたばかりの月見里と同じく眠たい目をこすり欠伸をあげる東台。それを見てると、月見里が欠伸をあげる。こちらもついに欠伸をあげてしまう。皆、どうやら寝足りないらしい。


「もうちょっと眠ってるか」


「んー、二度寝しちゃうと逆に気持ち悪くなっちゃうからいいかな」


 今日は万全の態勢で臨みたいものだが、東台の言葉に月見里も頷いて却下された。確かに、あの2度寝から覚めたときの脳みそが宙ぶらりんになったような浮遊感は味わいたくない。


「それもそうか」


「それで――2人ともここに集まってどうしたの? 」


 その答えは当然歯磨きといったところだが、今外に出ることを離していいか迷ってしまう。


「いや、早起きしたからひとまず歯磨きをしておこうと思ってな」


「確かに、寝起きの口の中でねばついて気持ち悪いもんね。私もぐちゅぐちゅぺーだけしとこっかな」


 そういって、「借りるね」と洗面台に置いたペットボトルをつかみ、勢いよく口に含む。まさしくこちらが置いたもので、中身は水ではなくガソリンである。

 

「あっ、それは」


 言おうとした前に、東台が水しぶきを飛ばして返事を体に浴びせかけられる。


 間髪入れずに東台の尋常ならない咳き込みが足元に浴びせかけられ、全身東台のつばとガソリン塗れで得も言われない。

 

「オウフェェ、なに、これ?」


「ガソリンだ。早く言っておけばよかったな。悪い」


 顔を真っ青にしてえづく東台。このまま死んでしまうのではないかと青ざめたが、顔をゆがませで自分の袖をアイスの要領で舐めだしたところを見るとそれほど危険な状態ではないらしい。


 ほっと胸を撫でおろしていると、見かねた月見里が彼女に水を渡した。どうやら、月見里も残念ながら被害を免れななかったらしい。

 東台は受け取るやいなやこちらからでも音が聞こえるぐらいに激しく口をゆすぎ、最後にオウェとえずく


 申し訳ない気持ちと共に、ガソリンってどんな味がするのだろうと気になる自分がいるのは何故だろうか。


「ふぅー、ありがとう。唯ちゃん」


「うわぁ、半分も使ってる」


「ごめん、ごめん、後で返すからね」


 そんな風に謝りながらも、月見里はいまだ強張った頬を緩めない。むしろ、これ飲んだから間接キスになるんだよねうへぇとため息まじりの不満げな声をあげている。隣にいるこちらからしか聞こえない小声なので、抗議されているのだろうかと思い肩身が狭い。


「それで、大丈夫なのか?」


「うん、ちょっと口に含んでただけだから」


「その、悪かったな」


「ううん、こちらこそ。多分これ原付のやつに使うものでしょ?無駄にしちゃってごめんね」


 何も聞かずに取っていったので彼女にも多少責任もあるとは思うのだが、これほどまでに素直に謝られると、申し訳なさしか感じなくなる。


「いいんだ――」


 気にしていないと言おうとして口を止めた。そういえば、彼女は何故原付に使おうとしているのを質ているのだろう。


「もしかして、あの原付知ってるのか?」


「え?うん。あの写真のやつでしょ?あるところは知らないけど……。あれ?それなら、どうしてガソリン持ってるの?」


「まぁ、それは念のためのとっておきだ――」


 とっておきも糞もなくが祟った大団円であるので、言っておいてどうしようもなく目が泳ぐ。

 泳いだ先で目が合った月見里の表情はどこか呆れたものであった。


「もしかして、鍵の在りかを知ってたりしないか」


 それは置いておくにしても、鍵の在りかを知っているかどうかは聞いておくべきだろうか。正直、この話の流れを見ると望みは薄い。

 

 いくらラッキーガールの東台といえどあると言われたら、もはやそれはご都合主義の擬人化である。

 

「うん、知ってる」


「ああ、やっぱりな。変なこと聞いて悪かった――」


 彼女のイエスという言葉にそんな都合いいことあるわけないと思い知らされる。

 

 ああ、また振り出しに戻った。最悪、何かを使って床をはがす方法を考えてみるしかない――。


「なんだって?」


 今、彼女はイエスじゃなくて、イエスといっていなかっただろうか。


 固まった月見里の姿を見ても、こちらの聞いた言葉は幻ではなかったようである。目を開いて見た東台はいつもの笑みを浮かべて、手招きしてきた。


「うん、ついてきて」

 

 はやる気持ちを抑え、彼女についていくと先ほどまでいた部屋に戻された。

 

 しかし、先ほどまで散々探したところで、文字通りチリ一つ見つけていたところで狐につままれたような気分である。

 何だか不安になってきた。もしかして、秘密の部屋にでも隠されているのだろうか。

 

 そんなことを考えていると、東台は仏壇に合掌すると、そのままツマミに手をかけていた。


「おい、そこは――」


「うーんと、あったあった」


 こちらの静止を聞くことも無く物色を始めたと思えば、仏壇の開き戸の下にある引き出しを開きバイクのカギらしきものを見せる。


「ん?どうしたの?」


「――いや、いいんだ」


 なんというか、思いっきりがいい。不謹慎だとも思ったが、それでも、抗議するのはおかしいだろう。もうここの住人はいないのだ。


 こんな時に体裁を気にしていては、得られるものも得られない。そもそも、勝手に人の家のものを物色して、勝手に店の商品でバリケードを作っている時点で体裁とかあったものではないのだから。

 これなら、住人の姿を見なければよかった。


「はい、これ渡しとくね」


「ああ、ありがとう」


 そうして、こちらの手もとに鍵を渡された。これで、少なくとも脱出する条件は整う。あのバイクの持ち主が誰かという余計な知識を添えて。

 

「あのバイク何に使うの?」


 彼女の言葉にはっと気づかされる。普段変わらない態度にもう話したような気になっていた自分が恥ずかしい。


 ここから脱出するために使うんだと言えばいいのだが、そうしたら彼女はどんな反応をするだろうか。

 いろいろと不安になるところはあるが、どう想像してみても彼女から驚愕であるとか不安であるとかネガティブな反応をする光景が見えてこない。


 ならば、普通に言えばいいのかと思うが、そう考えると言葉が出てこない。いくら準備が整ったといっても、いつ行くかどうか全く予定を決めていなかったからである。

 

「脱出に使うの」


 しかし、こちらがどのように言おうかと思案していると、月見里が代弁してくれた。


 そうすると、東台はこちらの予想に反して、大きく目を見開いてこちらを見た。


「本当に?結構小さなバイクだと思うけど――いつ出発するの?」


 脱出するかどうかの話ではなく、バイクの搭乗員数が気になっていたようだ。不思議ではないが、ツッコむところがまずそこなのかと変な気分になる。

 それにしても、日にちは本当にいつにしてしまおうか。


「いや、どうだろうな。早めに行くに越したことはないんだが……」


「なら、今日出るのが一番かもね」


「……」


 東台が当然のような顔でそう言ってきた。さも、あっけらかんに。

 

 月見里も気になっているのか彼女に対して怪訝な表情を向けることなく、静かにこちらの顔をのぞき込んでくる。


 確かにこれほどまでに早起きもしたのだ。おそらく、今から出発すれば昼過ぎぐらいには街を出られるだろう。

 だが、勢いで行動しても良いことはない。まず可動するかどうかが分からないのだ。最低5年ぐらい放置されているバイクが、ガソリンを少し入れた程度で果たして動いてくれるのだろうか。


 ただ、あのバイクはサラダオイルを入れても動くという頑丈なものらしいので、そう考えるとエンジンが横に張り出している珍奇な愛車が動いているのだからまともな形をしたこれなら当然動いてしまうだろうと思えてしまう。


 結局は一度動かしてみないと分からない。しかし、そうなると外に出ないといけなくなるわけで、包囲された中、一回試してダメだったから家に戻って他の方法を考えるみたいな悠長な行動は出来ないだろう。


「一発勝負になる」


「……そっか、それなら出来ないか」


 そういって、東台は笑みを浮かべるが、どこかこちらを元気づけるさせているように見える。月見里もだんまりを続けている。


 それでは、他に何かいい方法があるかと言われれば、無い。このまま何も行動せずうじうじとしていれば、食料が尽きて何もできないまま飢え死んでしまう。


 ああ、頭がパンクする。まるで穴だらけの船をこいでいるような気分だ。あちらをふさげば、こちらから水が出てくる。ああ、クソ――。


 頭にひどい熱気を感じていると、ぱぁんという音が耳の奥で弾ける。


 それがこちらの頭が破裂した音ではなく、東台の手から出てきたものであったということに気づくのに少し時間がかかった。


「まぁ、そういうのは朝ごはん食べてからにした方がいいよね?ほら、お腹すいているときにしゃべるより、ご飯食べながらしゃべる方が楽しいでしょ?皆で考えようよ」


 そう東台が女神のような顔で言った。


 渡りに船とはきっとこのことを言っているのだろう。正直、今答えをすぐ出せるような自信はない。

 でも、本当に答えは出せるのかそれでは彼女たちに選択の責任を負わせるような気がして、落とそうとしている頭を寸前で止めることしかできなかった。


「ね?唯ちゃんもそう思わない?」


 独りで興奮しているこちらを横目に、月見里へと話題を振る。しかし、彼女は何故だかこちらの出方をうかがっているのかこちらの方を見て口をモゴモゴさせていた。


 そんな彼女の姿を見て、こちらの決意が沸いた。


「悪い。俺は文殊の知恵に頼りたい」


 こちらはそういって、頭を下げた。


「いや、別に頭なんか下げなくても」

 

 東台の困った声が頭上から聞こえてくるが、こうもしなければきっと気が済まなくなる。

 自分は、2人の命を預かっているのだ。今更、自分のプライドを気にしている場合ではない。


 それにみんなで話し合うと以前決めたではないか。相談だったような気もするが、こんな大事なことに彼女たちを参加させない方がおかしいというものだろう。


 誰一人、一声をあげることもなく、沈黙が流れる。

 自分の頭はあがるどころか、気まずい空気が頭を押し付けているような気がしてずっと下がりっぱなしだ。


 昨日月見里に檄を飛ばされ決意をしたというのに、早々と人に頼るとは月見里もほとほと呆れかえるばかりだろう。頭を下げたのはきっと彼女の表情を見たくなかったからだ。


「なら、お腹に何か入れとく」

 

 いよいよ、頭上から月見里の声が聞こえてきた。予想していた冷淡なものではなく、照れくささの孕んだ温かな声であった。


「ん、それじゃあ、今日は何がいい?」


 何か返事をする間もなく、東台がそう聞いてくる。しかし、こちらも照れくさいのがあって、どうしても顔を上げることができなかった。


「昨日の乾パン粥が……」


 しかし、口だけはなぜか動いた。きっと、食欲に正直なのだ。

 確かにあの味を思い出すと涎は出てくるが、頭を下げて懇願するほどではない。


「うーん、どうしよっかなぁ」


「乾パン粥がいい」


 焦らす東台を前にもはや隠す気もなく、懇願した。先ほどの誠実な態度はどこにいったのだろう。我ながら見る影もなく、変なテンションになっているところもある。


「ん?聞こえなかったな。もういっかい!」


 まるで歌のお姉さんのように煽ってくる東台。ええい、ままよ。上げようとした頭をますます下に落としサラリーマンの丁寧なお辞儀を繰り広げて見せる、


「乾パン粥が食いたい!」


「ふふん、残念ですが、乾パンは昨日使い切っちゃいました」


 その言葉を聞いてやっと顔を上げるも、目に飛び込んできたのは月見里の呆れた顔だった。


「東台さん。早く2階いこ」


「おっけい」


 がっかりと気まずさのコンボを受けて満身創痍の状態になる中、3人ともに2階へとあがり食事の席についた。

 

 しかし、こうやってどかりと座布団に落ち着けてみると、先ほどの万能感は嘘のように冷めてしまった。


 文殊の知恵が借りたいと高らかに宣伝したものの、一体何から説明して、一体何を彼女たちから聞けばいいのかと。

 高揚と決意が逃げ出した自分の頭の中には困惑しか留まらず、こちらに期待の籠ったようなまなざしを向ける彼女たちに萎縮してしまう。

 

 カニは食べるとき無言になるというが、自分たち3人の荷物にそんなものはなく、おそらくこちらから言葉が出るのを待ちながら並びたてられた缶詰はシーチキンと、サンマと、イワシと、後はガソリンの隣人であったコーンの缶詰。


 コーンの缶詰は量がたくさんあるからと選んだものであったことを思い出したのは、きっと気分を紛らせるためだ。


「だいぶ、少なくなってきたねえ」


 東台が独り言ちる。しかし、そこに不安げな声色はなく、天気予報を伝えるキャスターのようにどこか他人事のように聞こえた。


「今日含めて3日ぐらいしか持たないって知ってるか」


「へえー、そうなの?」


 そう驚く東台は何か皮肉のようなものが表情に浮かび上がっている様子もなく、純粋に目を丸くしているように見えた。


 我ながら深刻なことを言っていると思うのだが、この淡白な反応がいつもの東台であることに変わりがない。ただ安心する反面、なんだかむず痒い気持ちを覚えてしまう。


 一体、この子はどういう気持ちで聞いているのだろうか。しかし、皮肉にもそれが重くなる口を軽くしていくれているので何だか複雑だ。


「ああ、だから、その前にこの家から出ようと思うんだ」


「そっか、それでいつここから出るの?」


「…………」


 東台はまるで当たり前のように聞いてくる。先ほど答えられなかった質問がまた帰ってきた。


 しかし、どうして自分は何も考えず何かを言葉にすることが出来ないのだろう。


 答えはもうすでにあるはずなのだが、言おうとするたび喉の奥に引っ込んでしまうような気がして言葉にできなかった。その頭の中にある


「まだ考えていない」


「そっか」 


 東台はまた淡白に返事する。上っ面も下っ面も本当に平然としたものだ。


 何だか肩透かしを食らわされるが、どこか安堵感を覚えている自分が嫌だ。それでも、胸を燻るような焦燥感が湧き上がってくるも、やはり妙案が見つかるわけもなく、やはり口を噤むしかない。


 エグみのある沈黙。


 東台に何か案を出させるような環境でもなく、月見里は視線だけを机に移しウンウンと考え事をしているように見える。正直、こちらも状況説明以下の世間話程度しかしていない。本当にうだつが上がらない。


「それじゃあ、いただきまあす」


 そうして、煮え切らぬまま、東台の合掌に続き二人合掌をして朝食タイムが始まった。


 早く起きたためか、胃だけは元気なようで肉が食べたいと主張している。しかし、残念ながら所望のスパム肉はなく、タレに漬けられた魚肉しかない。後は、味のない黄色いぶつぶつ。


 正直、これで最後の晩餐が出来るかと言われれば、きっと未練しか残らないだろう。

 こちらと月見里は安定の魚介系を選ぶが、東台はまさかのコーン。

 

「お前、そのコーン食うのか?」


「たまには野菜も食べとかないとね」


 黄色い粒々をスプーン一杯に盛ってほおばる東台。おいしそうに食べているが、野菜全般好きではない自分にとってはあまりご馳走のようには思えない。

 

「八雲も食べる?」


「いや、いい」


「そっか、結構甘くておいしいよ?」


「野菜の甘みを感じられないたちなんだ」


 そういって、こちらは差し出されたスプーンを丁寧にお断りする。素材本来の味というが、そんなものよりスープかポップコーンか加工本来の味を楽しむ方がいい。


 しかし、東台がこちらに向ける顔は、外国人を初めて見たときのそれとまるで変わらなかった。


「ええ?それなら、サツマイモも甘く思わないの?」


 彼女の衝撃的な言葉に自分のスプーンが転がる音を聞いた。しかし、こちらが言葉にする前に、月見里から同じ言葉が飛んでくる。


「あれって、野菜なの?」


「ああ、そうだ。あれは野菜じゃないだろ」


 あんな甘いものが野菜であるはずがない。スイートポテトとかいうスイーツが野菜で作れるものか。しかし、東台は先ほどの表情を崩すことはなく、ますます誇張していた。


「ええ……それなら、サツマイモは何だと思ってるの?」


「ジャガイモが果物化したやつだろ。多分」


 こちらはそう言い返したが、東台は困惑を通り越した驚愕の表情でこちらを見ていた。助け舟を求めようと月見里を見るが、彼女も彼女でこちらを助けてくれそうな表情はしていなかった。


「絶対違うと思う」


 そして、その表情に似合う言葉でぴしゃりとこちらの説を叩き落とす。


「じゃあ、月見里はなんだと思ったんだ?」


「米と同じような分類だと思ってた」


「米って野菜じゃないのか?」


「米は米じゃないの?」


「唯ちゃん。米は野菜だよ。あれはみずみずしくないし」


「嘘だろ。瑞々しいから野菜って……じゃあ、トマトはどうなんだ」


「トマトは果物でしょ?」


「なんでだよ。あんな苦くてグチョグチョしてるのが、果物なわけないだろ」


「ええー、トマトは甘いよ。それに、国も言ってたもん。トマトは果物ですって」

 

「いや、嘘だろ。トマトがスイーツになるもんか」


「いやいや、トマトソースはスイーツだって裁判所が――あれ?海外の裁判所だったかな?」


「じゃあ、本当にトマトって果物なの?」


「うーん、自分で言っておいて恥ずかしいけど、海外だからグレーゾーン的な?感じかな」


「じゃあ、だめだ」「じゃあ、だめじゃん」


 ムキになっていろいろと議論してみるが、結局会議は踊りだしお囃子が聞こえてくるぐらい混沌めいてしまう。


 そもそも、最初の議題はなんだっただろうか。そもそも、こんな下らないことを長々と議論してもいいのだろうか。

 そもそも脱出するための方法を考えなければなかったのではなかろうか。


 今更ながら思い出した自分に情けなさを覚えながらもどうやって軌道修正しようかと頭を捻っていると、コンコンとくぐもった反響音がなった。

 

「ふぅー、ごちそうさまでした。よしこれで準備ができました」


 どうやら、缶詰をスプーンの柄尻で突いている音のようである。東台は自信満々げな顔をしているが、何をしているのだろう。


「なにしてるんだ?」


「んーとね。これでパンジャンドラム作ろうと思って」


「パンバンドラム?」


 復唱してみてもその言葉の意味が分からなかった。スプーンで叩いていたし、名前にドラムとついていたので楽器か何かを作るつもりなのだろうか。

 朝食後の余興にはいいかもしれないが、人が何かを思い出しているときにはやめてほしい。


「ん、知らない?ロケットの力で飛ばす地雷?みたいなやつ」


 彼女の言う地雷やロケットと缶詰の関連性に思い至らず、説明される前よりも困惑さが増す。缶詰はなんとなくわかるが、ロケットはどうするのだろう。


 彼女の奇行の解明に頭を砕いていると答えに行き着く前に、彼女が脱出の話題に戻してくれたのだと気づき、自分が情けない。

 

 心の内で悶えるのを我慢しつつ、ひとまず彼女に聞いてみることにした。

 

「そのコーンが入ってた缶詰でどうやってそのジャムドラムっていうのを作るんだ?」


「うーん……八雲さ。爆弾貸してくれない?」


「フゥフゥ、フゥン!」


 こちらが答える前に、横から凄い勢いで分け入ってくる月見里。月見里はいつ食べ終わったのだろうと思っていたが、まだ食べていなかっただけなようである。

 何を言っているかはちゃぶ台を勢いよく叩く音でよく聞こえなかったが、かねがね彼女と同意見である。


 東台も察したようで、にへへと後頭部をかいて苦笑いを浮かべた。


「だよねぇ。まっ、それならこの花火をこうつけて、中に小さな花火を入れたら、はい完成」


 人間、妥協も必要である。穴に成りそこなった凹をどこからか持ってきたのかゾウさんのテープでこれまたどっかから持ってきた花火を張り付け、線香花火を中に放り込み、おそらくジャムドラム缶が出来ている。


 同じ火薬を使っているが、一体何に使えるのだろうと頭をひねるしかなかった。


「フゥンフゥ、フゥフゥフゥフゥフゥン?」


「そうだ。花火は陽動に使えるから、捨てられると困る」

 

 なんで花火をゴミ箱を入れているのと月見里。確かにそう言われた方が納得が出来る。だが、花火も立派な道具になるので捨てられるのは困りものだ。


「あはは、いつもながら手厳しいなあ。花火って意外と目立つから自走陽動爆弾みたいな感じのを作ろうとしてたんだけど」


「それなら、2階からその花火を投げた方がいいんじゃないのか」


「うーん、これパンパン鳴るようなタイプじゃないから、外にいる全員をおびき出すのはちょっと難しいかもね」


「ん、ごちそうさま!それなら、あちこちに花火を撒いて目立たせるようにすればいいじゃん」


「いいかもね!……でも、こん中の花火は線香花火みたいなのがほとんどだから散らばさせすぎると逆に目立たなくなるかもね」


 そういって、東台は袋に入っていた花火をぶちまける。まるで紐をぶちまけて見えたのは中身がほとんど線香花火とその仲間であったせいだからだろうか。

 

「さすがにこれはな……」


 そのどれもが陽動向きではない。ジジジと小さな羽虫が出すような音が『あれ』に効けば話は別だが、今の『あれ』はゴキブリが顔にまとわりついていようが気にも留めないだろう。 


 少しばかり期待したせいか、がっくりと肩が落ちる。しかし、月見里は何故だか摘まんだ線香花火を困惑した表情を浮かべていた。


「これって何に使うの?」


「ん?これはね、火をつけると小さい光の玉が出てきて、それをじっと眺めて楽しむために使うの」


「えー……楽しむだけって――何のために存在してるの?」


 なんとも不思議そうに引っ張ったり縮めたりして訝しむ月見里。


 そういえば、月見里と花火で遊んだことがなかった。花火自体はバンバン打ち上げているが、結局は陽動のためだけでその後に出てくるものなんて見てる暇もなかった。

 

「じゃあ、ここを出られたらやろうか」


 なんとも慈愛に満ちた笑みを月見里に向ける東台。否、同情されているといった方が正しいのだろうか。

 月見里は馬鹿にされていると思ったのか、少しばかり眉をひそめた睨みで返していた。


 確かにまだその季節には早いが、夜中に映える花火はいつ見ても美しいものだと思う。

 それに何かご褒美的なものがあったらいいだろう。それならば、ゴールテープを切ったときに鳴らされる号砲のようなものがいい。


「……下はおもちゃ屋だ。きっと音がなるものもあるだろう」


「下はぬいぐるみ屋だと思うけど?」


「ほら、昔あっただろ。ひたすらワンワン泣きながら歩く犬のぬいぐるみ」


「あーね。じゃあ、唯ちゃんが食べ終わったら探してみる?」


「ふぅん、ふぅふぅふぅぅ、うんん」


 歯磨きしてからねと月見里。食後の歯磨きはいつであっても大事である。


 いろいろ回り道はしたが、終わり良ければ総て良し。ただ、何も終わってないことが問題だが。


 そして、彼女の頬が可愛いハムスターから美少女のほっぺに変わったころに、一階へと降りた。




 文字通り、一階はおもちゃ箱をひっくり返したような様相になって、それを片付ける母親の重労働を体感する羽目になった。


 換気扇から漏れる光は薄かったはずなのにもうオレンジに色づいている。自分が座る床が温かく感じるのは一日中日が当たっていたせいか、畳であるためか。 少なくとも、正座をするにはかなり楽な材質である。

 

 いや、楽であるのは、もう足の感覚がマヒしているせいだろう。夕方まで散々店を物色しつつ、作ってワクワクハラハラの工作をするのはとてつもなく体力を使った。


 もうクタクタで燃え尽きた感はあるが、自分の中には達成感しかない。そんな風に締めてみるが、実際のところ人様のぬいぐるみをバリケードにした挙句、生き残りを自分たちの道具にするという悪行に達成感は罪悪感と鬩ぎ合っている。


 先ほどまでは達成感が勝っていたが、目の前の光景のおかげで敗北を喫した。


「今からなにするの?」

 

 隣の月見里から困惑した声。呼びかけられた東台は目の前にいて、その前には仏壇。


「そうだねぇ。あの人たちと同じ供養みたいなもんかな。あと、めちゃくちゃにしてごめんなさいってご挨拶」


「私たちが神社でいつもやってるのと同じ感じ?」


「うーん、ちょっと違うかな。あれは祈りだけど――これはうーん、近所の人にこんにちはっていう感じのやつ?かな?」


 そういって、小首をかしげた東台がこちらを見てくる。悪いが、自分でもあれが何をやっているのか分からない。そもそも、今こうして他人の旦那さんの仏壇に対面しているのか分からない。


「分からんな。そもそもどうして、こんなことをするんだ」


 言いながら、それをやろうとせがまれた時の東台はどこか神妙な顔つきで言っていたのが未だ頭の中にちらつく。

 月見里が聞いた時もこちらが聞いた時も滅茶苦茶にしたことに対する謝罪と東台は言っている。だが、それをする意味がよくわからない。

 

 だが、こんなことをしても、自分がやらかしたことの清算になるわけでもない。結局は自己満足だ。どうしようもない、自己保身なのだ。

 それをやらないこと自体に、後ろめたさはあるかもしれないが、自分だけ許された気分を得るというのは卑怯な行為のように思えるからだ。


「少しぐらいけじめをつけた方がいいと思ってね」


 そういって笑みを浮かべる東台はどこか儚げに透き通る。


  自己満足。彼女の言葉と表情を見ても、考えは変わらない。かといって、東台に辞めさせる気もなかった。


「……そうか、わかった」


「ん、ありがとね。じゃあ、いくよ」


 東台の合図にこちらは手を合わせた。月見里も訝しみながらも、こちらと同じく合掌。月見里は何を考えているのだろう。

 こちらの頭の中に何か謝罪の言葉があるわけでもなく、自分の瞼の裏をただじっと見ているのみである。


 黒い景色の中、仏壇のお椀がなる音が響く。


 それはどこか冷たくて温かい、そんな二律背反した音が自分の耳の奥まで響いてきた。


 


 

 

 

 


 


 



 

 


 

 

 


 


 

 

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