第32話 技術論5
三十六、小説五者論
前回までは小説やプロット自体にどういう技術が必要かということを説明した。今回は作者、つまりあなた方自身に必要な技術について触れておきたい。これを身に着ければ、小説だけでなく、あなた方の人生自体にも幅広い自由を与えられることだろう。
大昔の話になるが、わたしが高校生のとき、ある予備校の講師が、「講師は五者でなければならない」という話をしたことがあった。五者とは「学者」「役者」「医者」「易者」「芸者」であり、講師はその五者を兼ね備えていなければならない、ということを説いたのである。当時はインターネットが家庭まで普及していなった時代であるのでこのような理論は有名ではなかったが、今では「教師五者論」と検索すれば出てくる話であるから、知っている方もいるかもしれない。
わたしはその話にダイレクトに感銘を受けたわけではないのであるが、その後自分なりの解釈という思考を繰り返した結果、五者を「兼ね備えて」ということではなく、「切り替える」ことによって、五者の自分がパラレルに存在できるのではないかということに気が付いた。それまでは自分という者は一つであり、一つでなければならないという妙な常識に囚われていたのであるが、このような役割を担った自分を理論的に切り替え、実際に演じてみることで、対人関係や物事を見ていく深さが劇的に向上した結果、この考えは是であると確信したのである。
やがて人生における考え方で有効であるのなら、小説にも適用可能ではないかと思い、これをいかに小説に使えるかを考えた。その結果、これがわたしの創作スタイルのひとつになったわけである。
今回は五者のうち「役者」「医者」「芸者」の三つについて説明してみたい。
小説を大勢のスタッフで製作するひとつの映画作品だと考えた場合、作者は脚本家ではなく、監督ということになる。監督は作品全体を設計・管理し、すべての要素――たとえば、役者、映像、音声、小道具、進行など――に目をやらなければならない。当然それには限界があり、細かいところまでは目が行き届かないのは当然のことであろう。
大規模な映画製作であれば仕方がないが、自分で書いた小説であれば、作家としての監督のまま作品を粗く見るのではなく、役者つまり登場人物の単位で見直すことができる。作家は一時監督業をやめ、役者つまり主役になって演じてみるわけである。
主役目線で小説を追いかけると、話に矛盾があったり、主役自身の演技のバラつきに気が付くことがある。監督の自分は作品を仕上げるので精一杯であるが、自分が主役になりきってみると、「なんでこんな演技をしなければならないのか」という点を感じるようになる。これによって監督であったときには見えなかった、「ストーリーの一貫性」をチェックすることができるというわけである。
主人公だけではなく、ヒロインや他の登場人物になって検証することも非常に重要である。そのキャラ自体の矛盾の炙り出しもあるが、対人関係の設定がおかしかったり、性格がそれぞれ違うはずなのに、全員が「監督の性格」ということも発見できる。大抵のアマチュア作家が登場人物が書き分けられていないのは、すべて監督の立場でのみ書いているからである。こういった作品の単調さに気がつくのは、自分が「役者」なってみることでしかわからいものなのである。
アマチュア作家のほとんどは持っていない視点が「医者」である。医者は患者の状態をいかに正確に把握し、最善の治療方法を提示できるかが重要である。つまり小説において「医者」の役割というのは、いかに作家が描きたい作品の本質や原理原則からブレずに、それをどう表現しているかのチェックをする仕事を担っているというわけである。
カクヨムでは、他人の作品に対する批評や講評あるいは批判、そしてアドバイスをする作家は少なくない。わたしもその一人である。しかしながら、この「医者」という能力がないと、評価をする対象の本質にせまることができず、ただ感情的な感想をもっともらしく論評することしかできない。キャリアの浅い作家ほど講評したくなるものであるが、大事なのは感想を書く場合、「医者」としてその作品の本質にどれだけ迫れるかなのである。句読点がどうとか人称がどうとか表面的な上辺の感想というのは校閲みたいなもので、批評される作家が求めるものではなく、批評する作家も「医者」としての能力がないことを公衆に晒しまっているわけである。
自作に対し「医者」という役割から見直すことは、結果的に物事の真相や原理原則に辿り着くことによって分解をしてくということである。あなた方が書いた作品という連続した文字列から、本質あるいはテーマを抜き出し、全体を分解することで治療していく。その治療が結果的に健全つまり完璧に近い作品に仕上げていくというわけである。
小説のみならず、普段から「医者」という役割で物事を見る努力は非常に重要である。悪い意味での感情的、短絡的な小説を書かないためにも、インテリジェンスのない人間だと思われないためにも、是非とも「医者」という役割を意識してみてほしいのである。
最後に「芸者」であるが、これについてはわたしが今までくどいほど言っている、読者を意識するということに他ならない。読んでくれるのは読者であり、読者がいかに楽しんでくれるかに腐心するのが作家である。もちろん趣味であればそんなことは関係ないが、賞なり書籍化したいのであれば、いかに読者に読んでもらう作品を書けるかにかかっている。
だから、あなた方が小説を書き終え、「役者」と「医者」の観点で見直したら、最後に読者として読み直してほしい。そこで初めて客観的に作品に向き合える時間が設けられるからだ。その時、「これは面白い」と思えたら完成だと思っていいだろう。おそらく自画自賛かもしれない。だが、少なくとも読者として面白いと思えたのであれば、その作品は人に読ませる価値があるのだろう。
もし、読者として読み直して、つまらないと思ったら「芸者」の登場である。読者として感じたつまらない点を改善し、「芸者」として面白いものに変えていく。そういった演出や脚色を「芸者」として行っていけばいいのである。難しいことはない。人を楽しませたい。その純粋な気持ちのみで見直せばいいのである。
自分という単人格を分化し、五者それぞれを単独の観点で小説に向き合わせる。それによって一人作業では考えられないチェックやブラッシュアップが可能になる。これこそが小説における五者論の効能ではないだろうか。
作家の作業は孤独で偏っている。だからこそこういった理論によって補う必要がある。あなた方には理論によって作品の品質を上げるという方法があることを、是非とも知ってほしく説明してみた。
今回はこれくらいにしましょう。要点は説明しましたので、あとは自分の力で考え実行してみてほしいと思います。
ちょっと厳つい創作論 犀川 よう @eowpihrfoiw
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。ちょっと厳つい創作論の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます