つきでる

 本来は虫にしか寄生しないはずの冬虫夏草の菌の一部が、変異を繰り返して人間にも感染するようになったのがわかったのが数年前で、それからぽつぽつと症例は増えつつあった。菌糸がどこからか体に侵入し根を張り、冬の間に人間の養分を吸い上げ成長、次の夏に皮膚や骨を突き破ってきのこを生やす。助かる方法はない。一度根を張った菌は神経などを侵してしまうので取り除くことはできないし、生えてきたきのこを切除したところで、そのときにはすでに菌は完膚なきまでに宿主の内部と意識を破壊しつくしてしまっている。


「ごめん、俺来年の今ごろ、きのこになっちゃうみたいなんだよね。どっかで菌をもらってきたみたいで」


 夏の終わり、汗で湿ったおれの胸に顔をうずめながら彼がそう言ったのを、昨日のことのように覚えている。見慣れた自宅のベッドの上。手近にあるローテーブルには先ほど一緒に食べたケーキやデパ地下の総菜のごみが散乱し、その近くにはすこし溶けて短くなった、先端の焦げた赤いろうそくが置かれていた。いずれ忘れられればいいと思う。というか、そうしなくてはいけない。でも、ぜったいに無理ということが今からでもわかる。現に、こうして脳裏に浮かんでしまっている。


「けっこうやったかも。マジで痛いわ、ててて」

 菌糸が体をむしばむにつれ、じょじょに痛覚が消えていく。病院や厚生労働省のサイトはもちろん、アフィリエイト狙いで書かれたコピペだらけの記事までいろいろ読んだおれが、というか恋人であるおれがそれを知らないわけがないのに、彼はまだ転んだことで変な打ち方をしたという腰をなでさすっていた。いやー、しくったなー。軽い声が冷たい空気の中をすべる。なにも言わないでいると、彼はさっさと立ち上がって滑走を再開してしまう。おれがするようなぎこちない横滑りや木の葉滑りとは違い、あれよあれよという間にスピードに乗り、その姿は小さくなっていく。


「ほらー、どーがとってやるからぁ、すべってみそー」

 今おれがいる場所からわりと下、少しなだらかで広くなった部分の端で彼は停止する。先ほどから、自分の滑りを見るためにときどき携帯で動画を撮りあっていた。手を振ってそれにこたえながら、つま先に力を込めて滑り出す。後ろ向きの状態から正面を向き、ゆるゆると横滑りして下っていく。昨日はだめだったが、今の状態ならこれで転ぶことはない。問題なく、ミナトのもとまで下りていけるだろう。ミニチュアのようなサイズ感に見えていた彼の姿が、すこしずつ原寸大に戻っていく。凍りかけの雪を削っていく感触が、ボード越しに足へ伝わる。ミナトが、携帯をこちらに向けていてくれるのが見えた。

 ゆっくりと、左足の力を抜いていく。じょじょにボードの先端が斜面の下を向き、スピードが乗ってくる。先ほど制御が効かなくなってしまった、直滑降の姿勢。そこから、体を進行方向とは逆に持っていこうとする。斜面側を向き、ミナトのほうには背中を見せる状態。つま先側のエッジに体重を乗せ、ターンをしようとおれは試みた。できないのはわかっている。まだ技術も経験も足りない。というか、そもそもこうして脳内で反芻している手順やイメージがそもそも違う気がする。が、成功させなくてはならない。次の冬に、ミナトはもういない。おれはひとりで眠るしかない。その事実をおれはわかっている。認識している。そのはずなのだから。


 バランスを崩し、後ろ向きに回転しながら雪上へ投げ出される。衝撃で帽子とゴーグルがすっぽ抜け、自分がいる場所よりすこし上にそれが残された。体と腕を伸ばすが、ぎりぎりで届かない。ボードを外して斜面を登るか、と思ったとき、上からやってきたボーダーの人がゆるゆると減速したのが視界の端に映った。彼が身をかがめ拾ってくれたそれを受け取りながら、ありがとうございます、と口にする。その声はなんだかすごく震えていて水っぽくゆがんでいて、彼はゴーグルなどの下からでもわかる怪訝そうな表情を浮かべた。大丈夫っすか大丈夫っすかとつぶやきながら、彼はそのまま滑り降りていく。顔はすこしの間こちらを向いていたが、すぐに正面へと戻される。どんどん小さくなるその背中へ大丈夫です大丈夫です、とつぶやきながら、帽子とゴーグルを頭に装着し立ち上がる。そのまま、ゆっくりとした横滑りでミナトのもとへと向かう。大丈夫。心の中でそう繰り返す。大丈夫。口にも出してみる。すこしぶるぶるとした声だったが、まあ許容範囲だろう。携帯を胸ポケットにしまっている彼が、いつもの大きさに戻っていく。こちらを、ゴーグル越しにまっすぐ見つめている。

「おかえり。派手に転んだねえ。帽子とか拾ってもらってたでしょ」

「うん」

「まあほら、なんかあとはコツのような気がするから。大丈夫だって。俺だってこんなふうにそこそこ滑れるようになったんだから。続けるのが大事だよ」


 わかっている。きっとできるようになるだろう。今は無理でも、そう遠くない未来にある程度滑れるようになるだろう。なんの確証もないが、そうなることは明白だ。でも、そのときには、もうミナトはいない。人間に寄生する謎の菌のせいで、本来なら迎えることができたはずの次の冬が、おれたちのもとにやってくることはない。


 なんでだよ。口にした言葉がまた水っぽくなってしまう。彼に聞かれたくなくて、でも言わずにはいられなくて「なん」の部分で声を抑えたつもりだったのだが、距離が距離だった。ぬっとミナトの両腕が伸び、おれの背中をとらえる。あたたかい息が耳元で崩れ、ゆっくりと体重が体にかかる。そのまま、おれたちは雪の上へ折り重なるように倒れた。ある程度準備ができるようにしてくれたものの、アイスバーンしかけている雪はそれなりの硬さがある。急なことだったから、体のどこかをすこしは打ったはずだ。が、不思議とどこも痛まない。

「あぶな、なに、急に」

「ごめんごめん。いや、なんかこうしたくて」

 ごめんな。ミナトの笑みが、内側から溶けるように崩れていく。それと同時に、腕の力が強まった。まあ、マジですこしも、痛くないんだよね。絞り出すようなミナトの声。おれとおそろいの響きを持ったそれが、硬く締まった雪に落ちて転がっていく。


 彼の体へ腕を回し、負けないぐらいの力を込める。そうしないと、なにかを取りこぼしてしまいそうな気がした。くそったれなきのこが巣食いつつある、大好きな人の体。それはまだここにあり、隅々まで大切なものが血液よろしく駆け巡っている。でも、それはいずれ消えてなくなってしまう。頭ではわかっていることを、うまく飲み込めない。おれは雪へ顔をつける。冷たさの向こうに、それに付随する痛みはやはりない。胸の中でわだかまる気持ちに、心の中で舌打ちをする。なんでそんな余計なことをするのだろう。あのときみたいに、すんなりと事実を『事実』だとしてほしいのに。おたがいに抱き合いながら、おれたちは細かく身じろぎをする。そのたびに、外ではなく内側からくる筋肉や節々の痛みは存在を主張してくる。そう、そうしてくれればいい。そうすれば、受け入れて進むことができるのに。


 どこへ? どっちへ?


「とりあえず早く降りよ」

「うん。もうこれで最後にするよね。温泉楽しみだなー」

「いや、もう一回滑る」

「いいけど、大丈夫なの。筋肉痛が」

「大丈夫じゃない。でももう一回滑る」

 だって、どう考えても納得がいかないから。体のあちこちで暴れる気持ちをおれは認める。でも、それを口に出したりはしない。きっと、あふれてしまうときはくるだろう。脳や骨を突き破り、見えなかったはずのものがたしかな輪郭をもって頭をもたげるときがくるのだろう。よからぬことばかりを考えたい。でも、隣にいてくれるやつのせいでそれはかなわない。あまりにも、うるさくなりすぎてしまった。


 すばやく小刻みにS字カーブをしながら、のろのろと横滑りをしながら、おれたちはおのおの斜面を下っていく。ウェアとグローブの間の皮膚をつねってみる。ぴり、とした痛みが体を走り抜けた。とっくに下へたどりついたミナトが、こちらに大きく手を振っている。やっぱり今はなにも考えたくない。すべてをわかっていても、なお。










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むずかる子実体 大滝のぐれ @Itigootoufu427

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