むずかる子実体
大滝のぐれ
もたげる
あたりが静かすぎてよからぬことばかり考えている。たぶん払われないであろう年金のこととか、今も遠い地で虐殺されている人のこととか、自分がもっと歳をとったときにこの国がどうなっているのか、ということとか。それらに思考をめぐらすことで安心したかった。最悪ばかりを想像することで、おれはそちらに目を向けることができる。目の前にぽっかりとあいた黒くて冷たい穴を、まるっきり無視することができる。
すべるように動いていたリフトがとつぜん止まり、ぐわぐわと揺れ始める。降り口で誰かが転んだかしたのだろう。おっ、おーっ、こえー。隣に座るミナトが、茶化すような大声をあげる。おれもそれに同調してふたりでぎゃーぎゃーとわめきあっていると、頭を覆っていた『よからぬこと』の霧は自然と晴れていった。あとには、見たくないものだけが残る。
「けっこう暗くなってきたな」
「そうだね」
「どう、筋肉痛は? 昨日そこそこすべったし、きついんじゃない」
「いや、まあそんなかな。そこそこ痛むけど」
「無理しちゃってえ」
「い、いやいや、ミナトだってけっこう派手めに転んでるじゃん。その、無理なターンとかして」
ああ、うん、そうだったね。そうなのかも。その言葉を最後に、リフトはふたたび動き出した。ゆっくりと流れていく景色の中、おれたちの間には沈黙が積もっていく。なんとなく視線を下におろすと、ビンディングでボードに繋がっているおれとミナトの足がそれぞれ見えた。ブーツとウェアにつつまれているせいで、それは見慣れない形に膨らんでいる。
リフトの終点が近づき、あれよあれよという間に「レバーを下げてください」という張り紙があらわれる。ソファーから立ち上がるように。ソファーから立ち上がるように。教えてもらった降りかたのコツを頭の中で繰り返しつつ、横向きに座り直す。ボードが地面に乗りあげ、腰を下ろしていたリフトが少しずつ上にあがっていく。右足を板に乗せて立ち上がると、体がゆるゆると滑り出した。お、いいじゃんいいじゃん。ミナトの声で上半身に力が入りかけ、思わず横に転びそうになる。が、すんでのところで耐えた。バランスを取るために前に出した右足が勝手におっとっと、みたいなリズムで動き、おれと板を降り口から離れたところへ運んでいく。
「成長だよ成長。初めて転ばずリフト降りれたじゃん」
「ん」
ボードに乗ったまますーっと滑り降りたミナトが、すこし離れた場所で手を挙げる。ひょこひょこと彼へ近づき、ゆるく掲げられた手へ勢いよく自分のてのひらをぶつける。グローブによって減衰したぽす、という音。気の抜けたハイタッチ。それは、胸の中の達成感をじんわりと全身へと広げていった。
「さっきはリフト止めちゃったからな」
「みんな最初はそうだから。まあ、これで大丈夫だね」
次からは。目元を覆うゴーグル、首元まであげられたウェアのジッパーと口元をおおうネックウォーマーにより、彼の表情はよく見えない。でも、自分が今どんな顔をしているのかはわかる。それと似たような表情を彼がしていればいいな、と思う。
スノーボードをやるのは今回が初めてだった。ミナトがどうしてもお前と一緒にやってみたいと熱烈に誘ってくるのでしぶしぶついてきたのだが、今となってはすっかりこのスポーツの虜になってしまっていた。こんなことなら、もっと早く始めてちゃんと滑れるようになっておけばよかったとすら思っている。
そう、こんなことなら、だ。この一泊二日の旅行のあいだ、その想いは何度もおれの頭の中で絡まり合い、ひとつの後悔をはじき出していた。もし、自分がスノボ初心者ではなく、すでにそこそこ滑れるような状態にあったのなら。そうしたら、なにか違った景色が見えたのではないか。二日間ミナトと繰り返し滑り降りたこのゲレンデも、もっと別の答えをくれたのではないだろうか。そんなことを考えずにはいられなかった。いまさら、どうしようもないのに。気温が下がって凍り始めた雪に足をとられて転びながら、おれはあったかもしれない、でももう手が届くことはない光景のことを想像しつづけた。体とボードが雪を派手にはねあげ、そこそこの距離を滑り落ちてようやく止まる。無意識についてしまった手に痛みを感じながら、思わずため息をつく。先に行っていいよ、とミナトに言われ、滑り始めた結果がこれだった。意図しない場所で足の力が抜けたせいでボードが直滑降の状態になり、怯えと速度で制御がきかなくなったのだ。
早く立ち上がらなくては、と思うが、なかなか体が動かない。二日間滑り続けたことによる疲労で、あちこちが悲鳴をあげているのがわかる。筋肉痛も、こうして動いてみると思ったよりひどかった。体が、動くことに対してやんわりとNGを突きつけてきているのを感じる。
でも、『最後』なんだぞ。ナイター照明によって白く浮かび上がった雪へ仰向けになりながら、おれはうなる。自分の体に雪が積もってゲレンデに埋まり、そのまま発見されずに春や夏を迎える、という想像が頭をよぎる。足に固定されたボードごと回転してうつぶせの状態になろうと奮闘しながら、おれはネックウォーマーの中でにやにやと笑う。雪が溶けたり地中から発見されたりしたおれの体からは、きっと背骨が成長してそのまま突き出たかのような見た目をしたものが生えていることだろう。ひょろ長くて生白くて、先端だけがぷっくりと膨らんでいるそれはとんでもなく不気味で、発見した人はきっと腰を抜かして叫び声をあげるだろう。
黒い空から絶え間なく落ちてくる雪を受けながら、そんなばかげた想像を繰り広げる。『ばか』ではなく『ありえない』ならどんなによかったことか。乾いた笑いをあげながら顔についた冷たい粒を払い、体を起こして膝立ちになる。通常営業とナイターの合間の時間だからか、ゲレンデに人は少ない。というか、今この瞬間は誰もいなかった。肝心のミナトも、まだあらわれない。膝立ちのまま、白い雪と照明、暗くて冷たい夜のあわいでおれは立ちつくす。ウェアのおかげで寒さはそこまで堪えない。でも、おれはひとりきりでぶるりと震えてしまう。
昔、ミナトと出会うずっと前。たぶん大学生のとき。もうこいつと一緒になれないなら未来も命もなにもかもない、自分が自分ではなくなってしまう、と思うような恋人がいた。当時は彼が死ぬと言ったら一緒に死んであげようと思っていたし、殺すと言ったらこっちも殺してやると本気で考えていた。右といえば右。黒といったら黒。そのような感じだったから、おれたちはおたがいがおたがいであることを忘れて、ずるずるに溶け合ってしまっていた。どちらかが理由で音信不通になったことも、バイトや授業を休みまくったことも、一緒に住んでいた家で激しい喧嘩をして警察沙汰になったこともある。周りにとっては迷惑極まりない存在だっただろうが、おれたちはそれでよかった。何人たりとも引き裂けないし壊れることもない、地球上でいちばんたしかで完璧な存在だと思っていたから。
が、そんな存在にも、神みたいな誰かが決めた『運命』はお構いなしにやってきた。たしか、付き合い始めて一年半以上が経過したときだったと思う。久方ぶりのバイトから帰宅し、飯でも作ろうかと思ったおれの目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「ねえ」
「ん」
「きくらげ」
「は?」
「きくらげ、食べた?」
「ああ、冷蔵庫にあったあれ? 食べたよ。昼にもやしと一緒に味覇といっしょにチンして。適当に刻んで入れてみたけどうまかった」
食べたよ。チンして。適当に刻んで。冷気を体に受けながら、彼の言葉を頭の中で転がし続ける。いちごジャムとピクルスの瓶の間の不在をじっと見つめながら、おれはその場からまったく動けずにいた。
きくらげ。たかだかきくらげだ。いつもは一五八円だけど昨日だけ特売で九八円だったやつ。乾燥させたやつではない。生、きくらげだ。水で戻すものより肉厚でおいしいし、食感もだいぶ違う。それをいったいどう調理してやろうかと、バイトでカスみたいな客の飲むお冷をついだり食うものの注文を取ったり皿を運んだりしながら、ずっと考えていた。たかが、きくらげのことを。でも、ただの黒ではない、小学校の理科のときに見せられた黒雲母のような複雑な色をしたあのきのこは、特別好きなものではないのに、なぜかおれの心をぎゅっと掴んで離さなかった。だから、だからこそ、しっかりとした調理を施したかった。レンジでやるのも手軽でいいけど、このときはそうではなかった。そうではなかったのだ。
冷蔵庫の扉を持つ手に力が入る。部屋の奥に目を向けると、そこに置かれたベッドに寝そべって携帯をいじる彼が見えた。口が開き、なにかをおれは言いかける。が、バイトに出る直前、買い置きのお茶を飲むため冷蔵庫を開いたときはまだあったきくらげを思うと、胸からせりあがってきたその気持ちは急速にしぼんでしまった。ずっと続いていくのか、これが。初めていだく感覚におれはとまどう。思い浮かべたことのなかった気持ちや言葉が、つぎつぎ頭に生えてくる。なにかの締めくくりのように、おれは深くため息をついた。止める間もなかった。
「無理。別れる」
は、え、なに? 自分が発した信じがたい言葉と、上半身をベッドから起こした彼の声を耳が拾う。気がつくとおれは部屋を出て外にいた。煙草を吸ったり散歩したりする公園とは違う、すこし離れた別の公園。すぐ横に建っているマンションの住民向けにつくられたであろうそこへたどり着くと、砂場の近くでおれは崩れ落ちた。地面に立てた膝が、履いているカーゴパンツ越しに冷たさを伝えてくる。今日は都心部でも雪の恐れが。バイトの帰り、電車で眺めた天気予報に書いてあったことを思い出す。
別れる。あいつと? なにを言っているんだ。そう思うのに、心や臓器や体などといったところに収められたおれの『そういう部分』は、すでにその言葉を違和感のないものとして消化しつつあった。むしろ、「今更ですか」と言われているような気すらした。引き裂かれる痛みも、なにかが失われたことによる不安も、なにも感じない。地面に置いていたてのひらを、強めに指でこする。冷え切ったそこからは、爪がひっかかってもぼんやりとした痛みしか返ってこない。積もるものはきっとあったのだろう。それはとろけた日々のなかでもうすうす感づいていた。でもこんな、きくらげを勝手にレンジで調理されたなんてことがきっかけで崩壊するとは思っていなかった。が、いくら切り口を変えて考え直してみてもその事実はたしかな納得感をともなっており、どうやってもくつがえすことはできそうになかった。
そのときのこと、意外にあっさりと破局を受け入れた彼とのその後の顛末は、数ヶ月で笑い話になった。付き合って半年あたりでミナトにも話してみたことがある。じゃあ、お前もきくらげも適当な扱いしないようにしないとな。彼はそう言って笑っていた。
「のわあーっ」
聞きなれた声が耳を打つ。いつの間にか滑り降りてきていたミナトが、おれの前あたりで派手に転倒する。細かく崩され巻き上げられた雪が、ぱらぱらとおれの眼前で散ったり顔にぶつかったりした。
「ててて……お待たせ」
「ゲッダンみたいだったよ」
「え? ああ、たしかに。俺いま三回転くらいしてたしね、変な背中の打ち方しちゃった。いたた……」
本当はまったく痛くないくせに。そう思いながら、おれはあの公園とこのゲレンデの差異を呪わしく思う。違う点がたくさんあることはいいことだ。でも、それだけではだめなのだ。肝心な点があのときと同じなのであれば、幸福な要素がいくつあっても意味はない。
だってそうだろう。この雪がすっかり溶けて夏がきたら、彼は頭からきのこを生やして死んでしまう。二人で一緒に眠ることなど、かなわなくなってしまうのだから。
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