性癖の歪んだ者たちへ

祇土自明

一話完結

AVが生々しく感じてしまう男子諸君に物申したい。正直に言おう。私もそうである。そのような感情は、女性がどのような状態の時、男が興奮するか、要は性癖の違いによって生じるものである。コーヒーの苦味にだんだん慣れていくのとは違い、これは思春期以前の女性にまつわる経験によって決定される。要は君は性癖を歪まさせられている。

例えば私は小学3年生の時、年末のテレビのクイズ番組で、50人くらいの芸能人が出ている中で1人だけ、肩を露出している女性の芸能人が出ているという場面を見た。その時、なにか衝動が私に走り、以来テレビで肩を出している女性を見る度にそこにエロスを見出し、それを頭に焼き付けては自慰可能か否かを自問自答し続けている。それが幸せであるか否かは人それぞれであるが。

私はそんな肩を露出している女性の内心はどのようであるかを考察したが、一番にきたのは恥じらいという感情である。また、女性は下着としてキャミソールを着用していることが多いため、そのような点から私はAVにおいて服を脱がされる(またはその場の空気でいやいや脱ぐ)、恥じらいという一要素を最重要視するようになった。女性が不本意に露出して恥ずかしがっている/屈辱そうな様子が私を興奮させる。このように、思春期以前の女性に関しての経験は、結果的に後年の性癖の歪みへと繋がってしまうのだ。

しかし、男というのは時折しょうもないことに限ってこだわりの強さを見せる。そのことは一見あまり重要ではなさそうな事へのこだわりの末、繊細な日本芸術が生まれてきたことが証明している。それは性癖においてもそうである。私にとってなんでもかんでも肩を露出してればいいってものではない。例えば、逆に好き好んで肩を露出している女(世間的に言えばはしたない女とでも言うのであろうか)などである。また、海外では当たり前のように肩を露出しているため、私は少なくとも海外のAVには一度もお世話になったことがない。私がお世話になったAVは、例を挙げると、ヌードモデル、水着女子インタビュー、マッサージ系、身体測定系、裸でスポーツテストをさせられる系、彼氏がクイズを間違えたら彼女が脱がされる系など、かなり特殊な分野に偏っている。ではこれはなぜなのか。

理由は簡単である。AVにおいて恥じらいはあまり重要な要素と見なされていないからである。これはAVの性交史上主義の弊害であるが、そもそも私がかねてより言っているように、多くの男は、女体ないし性行為をする女そのものが性癖であるため、AV制作会社達はみな、私のような性交までのその過程の一部分に発情する層を一切無視して、喘ぎ声をビデオ内に挿入しておけばいいと思っているのだ。何なら私は性交自体が不要であると思っている(服を脱がされる、同調圧力で脱がされるまででいい)のに、不思議なことに同じ声を全く聞いたことがないし、結局多くの男達はAV会社の思惑通りに発情するのだ。実に浅い。(こういう男は多分思春期以前に性癖を歪まされてないのだろう)また、「恥じらい」というワードがタイトル名に入っているAVの多くは人妻・熟女モノであるという始末。これまた実に浅し。よって私は、オカズ探しに多くの時間を費やさざるを得ないのであるし、女性が恥ずかしがりながら脱がされる所までしか基本視聴しない。AVは実のところ、私のような性癖歪曲者にとってかなりコストパフォーマンスが悪い。あの日見た女性芸能人の名前を、僕達はまだ知らない。はっきり言うとただの♂︎︎ ♀の性行為だけでオナニーできる男ほど羨ましいものはない。

そうはいったって、ストレス兼女性自立社会の中で日々女性と付き合いたくても付き合えないし、不容易に性交もできない性欲モンスターこと男性諸君は、最終手段でありながらもあたかも当たり前であるかのような涼しい顔をしながらAVに頼ってしまうのだ。お好みのプレイをしてくれる彼女など何処にもいないのである。結局我々は性欲に忠実で従順に生きた結果、射精までに莫大な時間をとられ、結果的に「オスは男性器が本体!もはやパラセクト!」、そのようなフェミニストの指摘通りの人生を歩むしかないのか。AVなしでは明日が不安だ。AV全面禁止法ができたらどうすればいいのか?頭を抱える。そこでかの有名な物理学者のアインシャセイン博士は言ったのである。「答えは簡単だ。自分なりのAV(シチュエーション)を頭の中で作り上げ、それを定石としてストックすることである。喩えるならそう、将棋の譜面のように。(英訳だと将棋ではなくチェス)」

「???」となっている男も多いことだろうが、アインシャセイン博士に代わって私にとっての簡単なアプローチ方法を、私のシチュエーション(例)を交えながら説明していくこととする。

まず、身近な女子(学生生活を共にした女子など)を登場人物とすることである。年代は中学生が一番良いだろう。(これに関しては個人差あり)「もう顔なんて覚えてねえよ!」という者は、卒アルを見るべし。(間違っても母校の中学校見学などはしないように。)そして、シチュエーションに関しては、「昭和ならありそう」というギリギリを攻めるのがよい。例えば、小学校6年生という思春期突入しかけのお年頃でも、男女共にパンツ1枚で整列させられて身体測定を行ったなどという(これだけでも十分抜けるが)ことが、昭和では全然ありえたのである。さすがにこの文化は今では残っていないが、「伝統」「意味も無く残っている文化」という設定なら平成での学校生活においても現実感は十分残せるのではないか。性癖が特殊であればあるほど、そのシチュエーションはより非現実味を増していくだろう。例えば私はストックとして、「学校の伝統で体育祭でスク水姿で踊らされる女子」というシチュエーションをもっているが、これは検索しても同様のAVを一切見たことがない。また、自分の性癖に近いAVの設定をいじって、そこに知り合いの女子を当てはめる、ということもできるだろう。

同様のシチュエーションとしては「X線検査でコンテナの中で医者の指示で服を脱がされる女子」(これは実際X線検査の後女子に会った時に、女子が照れた顔をしてたことから発明)、「絵の上手い女子に頼まれ、ヌードモデルをする」 というのをもっている。ちなみに後者において、「おち○ち○おっきくなったー(嬉)」と言われることは100%ないため、私は、口をふさいで苦笑いする、という台本にしている。個人的には性欲の強い女性など実在しないというリアリズム的態度をもっている。このように、いかにAV的発想=童貞的発想を取り除けるかが大切である。

この世間的に言うところの妄想オナニーは、連想の出来か不出来、頭の中で映像を鮮明に流せるかどうかに大きく左右されそうであるかのように思えるが、少なくとも私にとってはそうではないのだ。なぜなら、私にとって大切なのは、その筋書きの現実感、シチュエーションであるからだ。世の中には官能小説というものがあるが、それには基本的に絵はついていない。つまり、昔のAVがなかった頃の人々は、その現実的な文脈で想像をして勃起をしていたのだ。つまるところ、これはAVにも共通するが、いかに自分がそこに入りこめるか、自分が一般通過者、または当事者としてその世界に入り込めるか、というのが妄想オナニーの本質なのである。

以上のように述べたが、結局のところ王道のAVや女優、ただの巨乳、女体を見て射精ができるのであれば、それほど幸せなことはないだろう。しかし、性癖を歪ませてしまった私のようなアダルトチルドレンは、そんな幸せを享受することはできないので、せめてこだわり抜いたオリジナリティ溢れるシチュエーションで、深いコクの精子を創造するべきだ。一度定石を作ってしまえば一生モノになるし、時間短縮に成功してオナニー以外の楽しみを見つけることにも繋がっていくだろう。

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