京子ちゃんはめんどくさい

藤井杠

京子ちゃんはめんどくさい

「ねぇ見て。あの走ってるトラック、右側はトラックの影が出来てるのに、どうして左側はオレンジ色に光っているのかな」

私は大きくため息をつく。

「それはね、左に出ている夕日の光をトラックの荷台が反射しているからだよ」

「どうしてオレンジ色なのかな」

「オレンジ色の光が、私たちの目を通して脳に届くからだよ」

「何でいつも見ているのに、今日はゆで卵じゃなくて生卵の黄身みたいに濃い色をした夕焼けなんだろうね」

「それは……」

あぁ、めんどくさい。なんでこんなこといちいち考えるんだろうか。


京子けいこちゃんはめんどくさい子だ。

クラスの他の子達と違って、色々変なことが気になって、すぐいろんなことを聞いてくる。

でも、スマホで答えを調べようとすると、京子ちゃんは少し怒って

「それやだ。答えがすぐに分かっちゃうの、面白くないし、なんだか信じられないの」

長くも短くもない制服のスカートの端を揺らして、京子ちゃんはスキップをする。

「自分で考えて、調べて、なんとなくそれっぽいの思いついた方が、楽しいし、キラキラしてるでしょ?」

地平線のそばで溶けていく夕陽が京子ちゃんの頬を眩しく影濃く照らす。

高校1年生にもなってそんなことを言ってるから、京子ちゃんの周りにはあまり人が居ない。寄りつかない。

廊下の隅で、前髪を揃えたクラスメイトが言っていた。

『京子ちゃんってさ、なんか幼稚園児みたいだよね、変なの』

『話合わないし、疲れるんだよね』

『この前なんか一人で喋ってたよ』

『本当に? 変なのー』

笑顔と薄影混じりの声は、通り過ぎた私の耳に深く刺さっていた。

おかしいのは京子ちゃん。皆は正しいことを言っている。当然のこと。

そう胸の中で繰り返すほどに、いつまでもつけ慣れない制服のスカーフが少し絞まるような感じがした。


ホームルームが終わって、運動部の賑やかな声が廊下の向こうへ弾んでいく頃。

京子けいこちゃんは教室の真ん中の机でノートを広げていた。

ノートの内容には触れずに、私は京子ちゃんに声をかけた。


京子けいこちゃんって、めんどくさいよね」

「ねえ。『めんどくさい』って、どう言う意味?」

「えっ」

「みんなよく『めんどくさい』って言うけどさ、ちゃんとした意味って知らないなーと思って」

めんどくさい、めんどくさい、と口にしながら、京子ちゃんはノートに消しゴムをかけていく。

私は手元に置かれたスマホに手を伸ばす。けれど彼女はそれで納得しないことを知っているから、でも適当な言葉も思いつかなくて。咄嗟に逃げた視線が教室の後方を捉えた。

本棚から国語辞典を手に取る。ずっしりとした重みを久し振りに手首に感じた。

『め』のページを開く。

「めんどくさい……じゃなくて、『面倒くさい』とは、手間や困難さを考えて気が進まないこと。億劫なこと」

「なんだか余計こんがらる言い方だね」

そう言って京子ちゃんは笑った。手の小指側が黒く滲んでいた。

手元のスマホで、京子ちゃんには見えないように一応調べる。ほら、やっぱり同じことが書いてあるじゃん。

めんどくさい。どうしてわざわざこんな分厚い本を開かないといけないのか。辞書を掴む。

どうしてかさっきよりも手首から伝わる重みが、少し軽くなった気がした。

よし、と京子ちゃんは満足げに皺の増えたノートを閉じる。手を洗ってくるー。と誰に言うわけでもなく口にしてスタスタと廊下に出ていった。

一人になった広い空間で、なんとなく温度の残る机をひと撫でして、私は足元の鞄をゆっくりと掴み、教室を出た。


あぁ、めんどくさい。

屋上で、人がまばらになったグラウンドを、景色を静かに見つめる。

夕陽がフェンスの向こうでゆっくりと、でもじっと見つめているとあっという間に地平線に溶けていく。

後ろで錆びかけたドアが開く音がする。胸がぐらりとかすかに確実に揺れる。でも後ろを振り返る気にはなれなかった。

「帰らないの?」

京子けいこちゃんだった。その声ですぐに分かったけれど、答える元気が出てこない。

「ねえ、どうしたの?」

京子ちゃんは私との間の距離をつめる。

「どうして涙が出ているの?」

やめて、近づかないでよ。

どうしてなんでもない京子ちゃんのことで、こんなに涙が出るの。

どうして何にも関係ない私が、ここから消えちゃいたいって思うの。

咄嗟に私はその場にしゃがみ込んだ。夜の始まりを告げる冷たい風がスカートの間を無造作に通り過ぎる。

「ここ、寒いね」

京子ちゃんはどうして、とは聞いてこなかった。


京子ちゃんは私の隣に腰を下ろす。京子ちゃんは皆みたいにスカートを抱えて座らない。

京子ちゃんは黙って私の頬に手を伸ばした。

「きょうこちゃんのほっぺは、あったかいね」

にへへ、と言って京子けいこちゃんは笑った。

熱を誤魔化すように、頬を涙が伝った。

「ねえ、一緒に帰ろうよ。夕陽が溶けて無くなっちゃう前にさ、明るいうちに帰ろうよ。星空はパジャマを着てさ、あったかい部屋の中で一緒に見ようよ」

思い出にも無いココアの甘い香りが鼻をくすぐった気がした。

私の足はスッと軽くなった。夕陽はもうすぐ消えてしまう。

錆びついたフェンスと扉が、私たちの後ろで静かに震えていた。




京子ちゃんは、今日も生きている。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

京子ちゃんはめんどくさい 藤井杠 @KouFujii

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ