吐息 42

阿賀沢 周子

第1話


「紀子でしょ。紀子だよね」

 精神科病棟への渡り廊下から声がした。木戸紀子が振り向くと、防火扉に身体が半分隠れた小太りの女性が立っていた。髪を短く刈上げて、灰色のジャージの上下を着ている。

 紀子は昼休みに仕事が掛かったため、他の職員より遅れて院内食堂へやってきた。食堂の右手は別棟になっている精神科病棟で、本院とは長い廊下で繋がっていた。

「いやぁ。紀子、変わんないね」

 近づいてきて紀子をなめるように見回す。目尻に深い笑い皺を刻んだその女性の、口から漏れた吐息は干草の匂いがした。

「太ったからわかんないしょ。江子こうこ、山村江子だよ」

 紀子は目を疑った。ぼってりとした三段腹。欠けた前歯と薄い眉。これがあの同級生の江子ちゃん。

「これからお昼ご飯かい」

 江子は食堂を覗く。開け放したドアのそばのテーブルに、下げられていない食器が何組か見えるが人影はまばらだ。窓辺の席では、老人夫婦が向かい合ってうどんをすすっていた。

「おばさんから聞いていたよ。紀子がここに勤めているって。会えるの楽しみにしていたんだ」

 紀子の方は母から何も聞いていなかった。

 この春短大を卒業し、地元の総合病院であるここの医事課に就職したばかりだ。紀子が10歳くらいのころ、母はここの厨房に勤め始めた。短大を卒業したら地元に帰ってくるという約束で札幌へ進学させてもらったというのもあり、母の希望通り同じ職場を選んだのだった。毎日顔を合わせるが、江子のことが話題に上ったことはない。

「あそこに入院しているの?」

 かすれてしまったが、やっとのことで声を出せた。江子の背後の渡り廊下を指差しながら尋ねた。

 小学校から中学校と同級生だった二人は、帰り道が途中まで一緒ということもあって仲が良かった。目の前のこの女性が、色黒でやせっぽちで、何時もにこにこと優しかった江子なのだ。なぜここに、それも精神科に入院しているのか。

「うん」

 江子の声が潜まる。紀子の耳元に口を寄せてささやく。

「母ちゃんがあんまり人に言うなって。紀子は友達だし病院の人だから言ってもいいよね」

 絶やさない笑顔も話しぶりも、確かに昔のままだ。近づくと息が臭うのに閉口した。干草のような干した魚のような匂い。

「いつからここにいるの?」

「だいぶになるよ。ほら、卒業して就職で紡績工場へ行ったでしょ。そこから帰ってきてすぐ入院したの。あそこには二年ぐらいしかいなかったから・・・」

 江子の笑顔が消えて、眉間に皺が寄った。どうしたのかと身構えると再び笑顔に戻った。

「3年だわ。最近、忘れっぽくて」

 表情の変化がはっきりしすぎていて戸惑う。心の中が顔に描かれているようだ。紀子は腕時計を見て江子に言った。

「昼休みが終わっちゃうから、ご飯食べてくるね。また今度話しましょう」

「ごめんね。そうだよね。私いつもだいたいあそこにいるから、見たら声かけてね」

 江子は渡り廊下の端を指し示した。長い廊下の手前の窓のそばに小さな机が置いてある。その上のガラスケースの中に小ぶりの白い花と鮮やかな青のハナショウブが活けてあった。

「花を見ているのね」

「生け花を見るのは火曜日。お花の先生が活けた日だけ。毎日庭を見ているの」

 江子は秘密を打ち明けるかのように、筒にした右手を口に当てて話す。

 小机の横の窓からは中庭が見渡せる。渡り廊下の中央についている両開きの引き戸が出入り口のようだった。階段の代わりだろう、ブロックが4個並び、色あせた木のサンダルが揃えて置いてある。庭の中央の煉瓦で囲まれた小さな花壇には、色とりどりのチューリップが咲いている。窓の下に二つある木製のベンチには誰もいない。今は庭のここかしこで、ワスレナグサが青紫の小花をつけている。更衣室へ行く廊下の窓からも中庭は見渡せて、紀子は通るたびに眼をやっていた。はす向かいの窓に江子はいつも立っていたということか。

「花が好きなのね」

「何言っているの。私が花より団子派だってこと、知っているでしょ」

 ドンと背中をたたかれた。その力の強さは、紀子の胸に少しの不安を生む。

「私、行くね。またね」

 紀子は食堂のほうへ後ずさる。食堂から先程の老夫婦が連れ立って出てきた。

「私が見ているのは何だと思う?」

 話が続きなかなか食堂に入れない。思わずまた腕の時計を見てしまう。

 江子の目尻の皺が深くなった。紀子に頓着する様子はない。

「黒猫。野良猫だと思うけど、時々庭に来るんだ。こっそりご飯の残りをあげることもあるから、わたしを見つけるとそばに寄ってくる」

 そう、江子は猫が好きだった。猫も江子を好くのか、子どもの頃出会う猫は必ずといっていいほど江子の足に身体を摺り寄せた。

「私がつけた名前はね『クツシタ』。足首から下がね、4本とも真っ白だから。可愛いでしょ」

 そういって江子は大口を開けて笑った。舌の上が黒く染まってざらざらしている。紀子の顔につばが飛んできたが匂いは干草に戻っていた。

「昼休みの邪魔をしてごめんね。じゃあね」

 いきなり気づかいされたことに面食らうが、子どものころはこんな具合だったと思い直す。江子も、紀子もほかの女の子たちも、自分の話したいことを自由に話していた。泣くのも、笑うのも怒るのも心の儘だった。人の都合を考えて話せるのは、今の自分だからに過ぎない。

 食堂へ入る気持ちになれず、病棟へ帰る江子が見えなくなるまで見送った。『クツシタとはね』長い吐息を漏らし、頭を振った。

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吐息 42 阿賀沢 周子 @asoh

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