想いの向こう…

アキノナツ

想いの向こう…

今日も冷めた料理を見てる。


夕飯を作って、食卓に並べる。


以前はこの時間辺りに帰ってきていた。

きていたのだ……。


初めの頃は冷めていく向かいの皿を見ながら、黙々と食べて、立ち上がるついでにラップをかけて、自分の器を片付けていた。


それがいつの間にか、作った端からラップをかけて、とりあえず、並べて、食卓に着き、それを眺めながらの食事。それも、段々と、食欲もなくなって、自分の品数は減り、この前から、食後のお茶だけ飲んでいる。


全く食欲がない。


帰ってこなくなった訳では無い。


夕飯を食べてくれなくなった。それだけだ。

食べる時間がなくなったという事かもしれないが。


決まった時間に帰ってこなくなった。

夜遅くなった。

早い時もあるが、すぐに出掛けてしまう。


顔を合わすのは一瞬。なので、話もしない。


もうこの関係は破綻している。

オレが出て行った方が良い。

分かってるのに、ここに座って、お茶を啜ってる。


そこに座って二人で食べていた頃を透かして見ていた。

そこで、笑ってオレの手料理を美味しいと言って食べてくれてた顔を思い出して、ため息が出る。


自分の部屋に向かった。


もたもたしていたけど、やっと引越しの準備が済んだ。

明日、ここを出て行く。


合鍵をキーケースから外した。

掌サイズの薄汚れたマスコットを手にとる。


昔、付き合いだした頃、ゲームセンターで取ってくれたぬいぐるみ。


ぬいぐるみについてる紐に合鍵をつける。


彼に貰ったモノは全て処分した。

共有してるものが殆どだから、オレの荷物は随分スリムだ。


なんとなくコレは残ってしまった。


コレぐらいしても良いだろ?


だって、こんなに避けてる意味が分からない。別れたいなら言ってくれたらいいのに。


寝袋を広げて、横になる。


避けられてる意味は分からないが、心当たりがない訳ではなかった……。






仕事に行ったのか……。

朝、誰も気配のない部屋を見遣る。


引越し業者がくると、途端に賑やかになった。

お願いして、運び出される箱を見てる。

最後に忘れ物が無いかチェック。


一緒に出て、鍵をかけて、ドアポストにぎゅうぎゅうとぬいぐるみ付きの合鍵を押し込んで落とし込む。

これだけの存在感があれば、気づくだろう。





引越し先のアパートの部屋は段ボールだらけ。

暫く寝袋かな。

疲れた。


明日は病院行かなきゃ。




役所で引越しの手続きしたりしているうちに、病院の予約時間が近づいて来た。


結局、彼に病気の事は言えなかった。


オレが鬱々としていて、暗くして、暫く上の空だったから…。話もしたくなくなったのかもしれない。


夫婦でも無い。

パートナー制度があるようなところでもなかったから、そういう関係にもならず、愛さえ有ればなんて、乙女な事を言って、一緒に暮らしていた。


一緒に生活して楽しかった。


嫌だった思い出は忘れる事にした。


写真も処分した。

あの部屋にあったオレの写真も処分して来た。アイツの持ち物だけど、早く忘れて幸せになって欲しいから。


「先生、投薬でダメだったら、それ以上は必要ないです」

黙ってカルテを打ち込んでいる。

オレの声、聞こえてる?

オレ喋れてるよな?

カタカタと白い部屋に響く。


親族を連れて来いと言われてたけど、既に誰も居ない。天涯孤独ですから……。


医者は、小さくため息をつくと、パンフレットをいくつか渡して来た。


ホスピスとからしい。

どこもいいところだと思うが、自分には不要だ。


スッと返した。


「必要な人に…」

「あなたに必要だと思いますが…」

沈黙…。


ここ暫くで喧嘩のような言い合いをした事もある間柄だ。

もう引かないのは分かってるのだろう。それ以上は言わずに引っ込めた。


「生きてれば、薬は貰いに来ますよ」

席を立った。

自分で命を絶つ勇気もなく、ここまできてしまった。

先生は何も言わない。





頭が痛くて、目が開けれない。

薬を確認出来ない。

鞄に入れたままのはず、とりあえず、アレを飲めば、楽になれる。


這って、何とか瞼を押し上げ、薄っすら確保できる視界で、休み、休み、たどり着いて、漁る。

霞む視界で確認して、水無しで錠剤を飲み込んだ。


飲み込んだ事で、精神的に楽になったのか、意識を失ったと思う。


目が覚めたという事は、寝てたという事だ。



◇◇◇



帰って来たら、いつもと何かが違う。


今日は夕飯は無いようだ。

冷蔵庫か?


洗面所に手を洗いに行って、違和感が強くなった。


ーーー彼の物が無い。


手を拭き拭き、キッチンに向かう。

食器棚を開ける。


彼の茶碗とお椀、湯呑みが無くなってた。


彼の部屋の前、立ち尽くしていた。


これまでも、何度も、何度もここに立って、何もできずに立ち去っていた。


俺は逃げてる。

自覚してる。


彼が何かに悩み、鬱々としてるのは分かっていた。

訊いてみようと思ったが、勇気が出なかった。

何か話してくれたら聞こうと思ってたが、聞くのが怖くて、逃げていた。


俺は逃げていた。


ノックをする。


今まで出来なかったノック。

返ってこないと確信しながら、あるかもしれないと、掌にじっとり汗をかきながら、じっと耳を澄ます。


汗ばんだ手でノブを掴むと、ゆっくり、ドアを開けた。

鍵はかかっていなかった。


何もない空間。


ホッとした。

安堵に力が抜ける。


これで何も聞かずに済む。


そっと閉めた。



◇◇◇



頬に畳の痕。


まだ生きていそうなので、寝具を買うことにした。


今日は身体が動きそうだ。

マスクで頬の痕と色の悪い唇を隠す。

近所のスーパーに向かう。

少し大きなスーパーには、寝具売り場まであった。


適当に選んで、配送を頼む。

店員がシーツやカバーは?と訊いてくれた。

ぼんやりしてたので、助かった。

マスクの効果か。ここに座っててと言われ、商品をいくつかカゴに入れて持ってきてくれた。多めに選んで一緒に配送。

伝票をカキカキ。お礼を言って、食品をいくつか買って帰った。


随分体力が落ちたものだ。

帰り着いて、横になったら寝ていた。





仕事は辞めた。

早期退職扱いにしてくれて、退職金やらも出るらしい。有給も限界までとらせてくれた。

あの鬼みたいな上司の計らいだから、人は見た目じゃないなとつくづく思う。


今日は、兼ねてより思ってた事をちゃんとまとめる事にした。

手帳代わりのダブルクリップで留めた紙束をバラバラにして、並べる。


書きたい順にして、下書き。

足りない細かな物を手元に寄せて、ついでに分かり良く一つの箱にまとめていく。

確認しながら、少しずつ、休み休み、清書する。

日付と名前ついでに印鑑も押せば、遺言書の出来上がり。

何度も読み返して、封筒に入れて、きっちり封をする。


忘れず薬を飲み、無くなる前に病院に行く。


薬さえ飲んでれば、動ける身体に感謝した。



◇◇◇



「先生、今日ご予約のあの患者さん、来てないですよぉ。どうしましょう」

看護師が告げる。


いよいよか……。


みまとくんは、……今日は非番だったかなぁ」

「ですねぇ」

「呼んでくれる? 例の件って言えば分かるから」

ここの唯一の男性看護師の呼び出しをお願いする。


「私は港くんの支度が出来たら帰るから。ーーーー暫く、いや、なんでもない…」

そうと決まった訳ではない。





「君はここで。手筈通りに…」

事前に渡されていた合鍵を挿す。


最悪が決まった訳ではない。


間に合ってるかも知れない。


何事もないかも知れない。


ふぅっと息を吐くと、鍵を回し、開ける。


汚物の臭い。

死臭まではいってはないが、予想してた事態ではある。

一旦ドアを閉める。


マスクと手袋、港くんの手を借りて簡易防疫服を着る。


病院に入れるか?

否、取り敢えず、診るか。


持参の上履きを履き、中へ。


布団の上に辛うじて彼がいた。

うつ伏せで、上掛けは明後日の方向に。

相当藻搔いたのだろう。


枕元の薬と水入れが散乱していた。

飲めたかどうか怪しい。


握り締めたスマホはどこに連絡しようとしていたのか。


吐いた物を喉に詰まらせたのか。

出る物は全て出てしまったようだな…。


さて……診断書を出そうか。約束だからな。


玄関のドア付近にいる港くんと目を合わせる。

頷き、スマホを弄ってる。

事前にお願いしてた葬儀社の者が来る前に終わらせてしまおう。




簡易防疫服を脱ぎながら、港くんが用意してくれてる袋に入れていく。

死後それほど経っていなかった。

出来立ての遺体だった。

痛み止めを頻繁に飲んで、早めに病院に来てくれてたら、病院で倒れてくれてたかも知れない。

最期のバカ話ぐらいは付き合えたかも。

痛みも和らげてやれたかも。

いや、心臓が保たなかっただけかも知れないな。


死亡診断書を来た業者に渡し、清掃をしている者の動きをぼんやりと目で追っていた。


『かも』ばかりだな……。


港くんは、葬儀社と一緒に彼の付き添いと書類の確認の為に同行した。

これも事前に打ち合わせしていた通り。

必要書類も持っている。


さて、彼がそろそろ到着する頃だ。

面倒な事をばかりお願いしている。

仕事だからと言いつつも、苦笑いしている。

離婚問題でお世話になり、今回の件が追加。

古くからの友人とは言え、申し訳なく思っている。





「先生、今困ってたりします?」

なんだってこんな事を訊かれる?

今は、彼の困り事の話をしていたはずだったんだが。


「どうしてそんな事を?」

嫌な顔をしてたと思う。

本当に頭を悩ませる事があった。個人的な事だ。


「左手の薬指の指輪跡。最近外した感じ。その件で先生は、お困りだったり?」

ニカッと笑ってる。

こういう顔もできるのか。


「君は探偵か何かかい?」


ふぅと息を吐いて、腹を括る。

否、聞いて欲しかったのかも知れない。

信頼関係を築いて、手術に持っていきたい。

自分に言い訳をして口を開いた。


「もう分かってるのだろうが、離婚したんだよ。慰謝料で揉めてる」

「慰謝料だけ?」

「子どもはいなかったから、養育費はないよ」

「ふ~ん」

「私は医者だけど、そんなに裕福って訳じゃ無いんだよ」

苦笑い。


沈黙が怖くなって、言葉が転がり出る。

「弁護士まで立てたよ」


「オレ、先生の手助けが少し出来るかも」

「……」

「オレのお願いを聞いてくれたら、オレの全財産進呈する。微々たる物だけど、足しにはなるかも?」

暫く、沈黙が続いた。


気不味い沈黙は、看護師の登場で破られた。


「先生考えておいて」

さっさと帰って行った。


次の診察の時、彼の提案を聞くだけと言って話を聞いていた。


彼はもう決めていた。

先を全て。

しかし、それは一人では出来ない。ただそれだけだった。


協力者を探していた。私だといいなと思っていたようだが、話すきっかけがなかったのだとか。

神様は、最後にオレにギフトをくれたと話を締め括った。


私が協力してくれると、確信してるようだ。

ああ、協力するよ。


そうだな。ここまで決意が固ければ、こちらの説得など無意味だろう。

なら、少しでも希望に沿ってやってもいいのではないだろうか。


倫理観……この感情にこれは無意味な気がした。

私は、誰かの意思に沿ってやりたかっただけだったのかも知れない。


何も出来ない事への贖罪か何かだろうか。


私はウソをついた。

子どもはいた。

事故で亡くなった。

彼女は私の所為だと言う。

そうでも言わなければ、彼女は正気を保てないのかも知れない。

私だって……。


離婚に応じた。


しかし、多額の慰謝料は無理だ。

無い袖は振れない。出してやりたいが無理だ。

出来るだけ近い額を提示したが、首を縦に振らなかった。


彼女は何かと戦ってる。

慰謝料がいる訳じゃないとも言うが、払ってという。


私は、彼女の為に何が出来るのだろう。


友人に愚痴ったら、弁護士として受けると言ってきた。

今、間に入って話をしてくれている。

第三者が必要だと言ってくれた。

友人には感謝しかない。


私には、誰かの願いをちゃんと叶えてやれる事は出来ないのだろうか。


自分の贖罪なのか。

違うな。

なんでもいいから彼を助けてやりたかったんだ。





「立ち会いでいいんだな」

「ああ、そうだ」


部屋に入って、押し入れを開ける。

幾つかの段ボールの前に梱包された箱。『遺言書在中』と書いてある。

なんともシュールだ。


ガムテープを剥がす。

中から遺言書を出して、二人で中を確認した。

約束通りの事が書かれている。

所々、荷物の処分の事とか、心情とか、お礼とか、差し込まれていた。

ちょっと笑いを誘われる。


二人で和やかに確認して行く。


大家さんにも連絡したからもうすぐ来るだろう。


箱の中には、通帳と印鑑が数本、スマホの契約書類、ここの賃貸契約書、生まれて今までの戸籍謄本が、入っていた。

賃貸契約書の保証人は私だ。


到着した大家さんには、ここの始末はすぐ済む事を伝える。来る必要も無かったが、様子を見たかったようだ。

手を合わせている。


さて、この箱と遺言書は一旦、友人に預けた。


通帳の中身の金額に少し驚いていた。

全て終われば、私への報酬など殆ど無い、もしくは、足が出るだろうと思っていたが、しっかり後始末出来る金額だった。


後の手続きは、彼の知り合いの司法書士がしてくれるらしい。


私は自腹でこの後始末をする訳だが、早々に口座の凍結は解除されるだろうと友人は言う。


彼は本当に準備万端で…。


空を仰ぎ見た。



◇◇◇



奇妙な電話を貰った。


病院の先生だと言う。

彼の事で話をしたいと病院に呼び出された。


薄暗い廊下を進む。


今日は休診日だが、入れてくれた。

呼び出したんだから当たり前か。


最初は断ろうと思ったが、彼が今どうしてるか知るには、このもやもやした気持ちを整理する上でも必要に思い、言われる日時で了承した。


会社を休んで、ここにノコノコやってきた自分は一体なんなのだろう。




面談室のようなところで、机を挟んで白衣の医師と対面している。

机の上には、スマホと指輪。

どちらも見覚えがあった。


「あなたは、あの人との関係というか、なぜこの住所に?」

カルテからコピーしたのか、住所と名前だけの紙を提示された。


「ただの同居人です」

薬指の指輪を触っていた。


「………これは貴方に渡すのが一番良いと判断しました」

スーッと指輪が、医師の指で俺の前に押し出される。


その指輪をじっと見るだけで、手は出なかった。


「スマホは見ますか?」

首を横に振る。


「か、彼は……」

漸く、声が出た。

掠れた声だったが、聞こえたようだ。


「亡くなりました。お寺の住所、お教えしましょうか?」

首を横に。


「急に居なくなったので、心配してたのですが……亡くなったのですか…」

自分でも呆れるほどしっかりした声が出ていた。


「ただの同居人なので、出てったって事は、同居を解消しただけです。何か支払いとか残ってるのですか?」

よくもまぁ、ペラペラと……。自分で呆れる。


「何も」

キッパリと医師が答える。


「何かとご迷惑をお掛けしたようですね。先生が最期を?」


「ええ…」

「そうですか。……ありがとうございました」

席を立った。


医師も静かに席を立つ。

俺は深々と一礼すると、踵を返して、部屋を出た。

ドアを閉める時も、視線を下にして、医師を見なかった。机も見ない。指輪も。


医師は席を立った場所から一歩も動いてないようだった。


薄暗い廊下を出口に向かいながら、指輪を外して、ポケットに捩じ込んだ。


ーーーーもう帰って来ない。


関節が白くなる程に握りしめていた。掌に爪が食い込む。痺れて感覚がない。


帰って来ない。



◇◇◇



閉まるドアを見てた。


全て終わって、痩せ細った指から抜いた指輪をどうしたものかと、スマホと一緒にして処分を先送りにしていた。


診察の時いつも左の薬指にはまったシルバーのシンプルな指輪を触っていた彼。


結婚もしくは同棲してるのかと、親族もしくは近しい人を連れてくるように言った事もあったが、遂には連れて来なかった。


ふと、カルテに書いてある住所に固定電話の番号が書かれているのを見つけて、掛けてみた。

彼のミスだ。

否、ワザとか?

ーーー分からないな。


同居人が居たとして、まだそこに住んでいるのか……?


一か八かでかけてみると、果たしていた。


聞いてみれば、同居人だったと言う。

歯切れの悪さに、なんとなく、呼び出してみたら、やってきた。


彼の指に同じものが嵌まっていた。


そういう事だったのかと、彼の柔らかい笑顔が蘇る。


彼の想い人は何も受け取らず去って行った。


この指輪とスマホは処分しよう。


彼の遺志とは違う事をしてしまったかも知れないが、私はスッキリした。

すまないが許せ。


ふと、窓を見れば、大粒の雨が叩きつけるように濡らしていた。


雨か……。


これは…誰の……



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