第8話 最終回 対決と終局

 気が付いた時、僕は今何をしているのか何処にいるのかそもそも今がいつなのか、全てが判らず軽く混乱した。脇腹から感じる火傷の跡のような引き攣った痛み、そして自由にならない手足。冷えた空気、湿った土の匂い。これは監禁だという考えに行き着いた瞬間、櫻井みなみが事故に遭ったというキーワードが脳裏に蘇った。

 僕の手足は丁度体育座りをする時の体勢で合成樹脂製のロープでぎっちり縛られていた。鬱血するほどきつくはないが、解けるほどに緩くはない。他に傷がないかと思って痛みなどを確認してみたが、今の段階ではよく判らない。目も耳も鼻も健在だ。次いで僕は事故の件は嘘だったのだなと理解した。しかしこの監禁の意味が判らない。あの少女は僕が僕であることを確認した。ということは目標が僕であることについては疑うべくもなく、そして拉致は首尾よく達成されている。

 では目的はなんだろう。普通ならば、犯人が自らの正体を明らかにすることはない。立場を危うくするだけだからだ。しかし少女は櫻井みなみの親戚を名乗った。姉妹と言ってもいいくらいに似てはいたので、血縁があるというのは正しいだろう。でもそんなに特定されやすい人間を使うメリットというのはなんだろう。

 脇腹の痛みが激しさを増す。その痛みに僕の意識はどんどん明確になっていく。

 「お、気が付いたかい」

 僕がいる正面十メートル先、金属製のシャッターの右脇にあったドアが開いて、そこからスーツ姿の中年男性が笑顔を浮かべながら入ってきた。僕は頭を振って、ここがどこかの倉庫の中らしいことに気付く。

 「いや済まない、ちょっと手荒なことをしてしまった」

 「うちは身代金なんか出さないと思いますよ」

 「いやいいんだ、別に身代金が目的じゃない。金なんて君、自分で稼いでなんぼだよ。そう思うだろう?」

 「そりゃまあそうでしょうが、縛られたままというのはちょっと」

 こいつは油断ならない相手だなと思ってはみたが、こんな状態で油断も何もありゃしないと僕はため息をつく。

 「済まないね、もう少しそのままでいて貰おうか。大した持て成しはできないが、まあ寛いでおいてくれよ」

 「十分すぎる程ですよ」

 僕はうんざりしてそう言った。

 「誰かと間違えてませんか?」

 「いいや?娘がちゃんと確認しただろう、長谷川くん」

 「娘さんて、あのスタンガンを当ててくれた」

 「そうそう、まだまだ慣れていなくてね。ちょっと出力上げすぎていたから、叱っておいたよ。ショック死でもされたら元も子もないからね」

 愉快そうに男は言った。やはり誘拐目標は間違っていない。

 「それは危ないですね。そもそもスタンガンなんてものを持たせるのが間違ってるんじゃないですか」

 「どうなんだろう、だってほら君、クロロホルムってドラマみたいには簡単に気絶しないんだよ。麻袋被せて連れ去るっていうのも、目撃者出たらまずいしね」

 くっくっく、と低く笑って男は僕に近づく。

 「本当は君に迷惑をかけるつもりはなかったんだがね、いろいろと話し合いうまく行かなくてさ」

 話し合いとこいつは言った。相手はたぶん櫻井みなみだ、まず間違いない。この男の娘が櫻井みなみにそっくりで、この間滝沢が荷物を取りに来た時に見たという人物、そして僕も見た少女は同一人物に違いない。ということは、僕は少し前から監視されていたことになる。

 「多分君が弱点なんだよ」

 「弱点」

 「そうだ。親父やお袋は流石にこういった使い方はできないし、かと言って他に深く関わっている他人なんて他にいないんだ。だから君が唯一と言っていい弱点なんだ」

 「それはつまり、櫻井みなみの弱点と」

 「そういうことだ。君は我々と彼女の交渉において切り札となる。手持ちのカードが少なくてね、悪いが我慢してくれ」

 「成る程、そういうことか。前にも一度、お会いしてますよね」

 「あれ?」

 男は意外そうな顔をした。

 「見えてたかな、顔。ちゃんと隠したつもりだったんだが」

 やはりそうか。夕暮れの物陰から僕の自転車へ飛び出してきたあの時の影はこの男なんだ。櫻井みなみを家まで送った僕になにかしようとしていたんだ。

 「いえ、ちゃんと隠れてましたよ。ただなんとなく、あなただったように思ったので」

 「そうか、君はなかなか勘がいいね。さすがにあの娘が心を許すだけはある」

 僕の脳裏に、絶対駄目だからねと釘を刺すみなみの声が蘇った。彼女が僕に具体的な未来を語らなかったのは、時間がなかったからなのだろうか。それとも……

 「まあ悪いようにはしないよ、彼女の【力】こそが私にとって重要だからね。もし君が説得に協力してくれるんなら、すぐにでも帰してあげるんだが」

 「彼女の【力】?それは一体何のことですか?」

 左頬に激しい衝撃を受けて視界がブレた。次の瞬間、口の中に鉄の味が広がって、僕は蹴られたことを理解した。

 「残念だけど君に選択肢はない。判るかな、ここまで来るのにもこれからのことにも、割と金や時間がかかっていてね。君の青臭い思いなんかには大して意味はないんだ。うちの娘にも多少は【力】があるんだけど、やっぱり本家筋には敵わないわけさ」

 男はそう言うと、右足を軽く浮かせてその足首をくいくいと動かした。

 「しかし君の顔は硬いね、なかなか痛い」

 「それはどうも」

 切れた口の中から溢れる血をペッと吐き出して僕は男を睨んでみた。

 「そういう褒められ方をしたのは初めてです」

 「別に褒めちゃいないがね」

 「とにかく、もう帰してくれませんか。中間テストも近いし、僕はあなた方の計画とやらに興味もない。もしあなたが本当に彼女の親族なら、正当に説得すれば良いだけの話でしょう。まあ多分彼女が首を縦に振るとは思えないんですけど。ここで帰してくれるなら、今ここであったことについて誰かに話すことはないでしょうし、警察に訴えることもしない」

 「それは魅力的な提案だ」

 両手を広げて男は言った。

 「だがそれは無理なんだ。もう全ては動き出している。そして誘い出された君は、人質としてとても有効に機能するんだよね」

 「人質?」

 「指の一本でも切り落として見せれば、あの娘も言うことを聞くだろうし。まぁ君は多少不便になるかも知れないが、それを補って余りあるほどの生活は保障するよ。全てが軌道に乗ったらの話だがね」

 「それは魅力的な提案ではありませんね」

 「減らず口が好きだな君は」

 男はナイフを取りだして僕の頬に当て、すっと横に滑らせた。ちりちりという痛みが始まり、そして生暖かい感触が広がる。

 「私は血を見ることに躊躇いはないよ。自由を奪われているというのに好き放題喋るような、そういうお馬鹿な子供はあまり好きではないから覚えておくといい。他にもいろいろと道具はあるから、試してみたいと言うのなら止めはしないがね」

 僕は男を睨み付けながら、どうにか現状を打開できないか考えを巡らせてみた。合成樹脂のロープはぎっちりと両手首及び両足首を縛り付けていて、到底自然に解けそうには見えない。だいたいこの場所にしたって、気絶していたから何処なのかすら判らない。男以外にこの場所には誰もいないようだが、それはなんでだろう?車に乗った時には少なくとも中年女性と少女がいたはずだ。

 薄暗い倉庫の中に積まれた木箱には、よく判らないアルファベットの羅列が刻印されている。その刻印から中身を知るほどの知識は、僕にはない。まぁ中身が判ったとしても、身動きの取れない現状ではあまり意味がないのだけれど。

 「遅いな。仕方ない、様子でも見てくるか……あ、君はそのまま楽にしていてくれていいからな」

 男はそう言うと倉庫から出て行った。

 「参ったな」

 僕はわざと声に出してみた。この中に誰もいないらしいことは判っているので、不安を紛らわせるために言ってみたのだ。

 ここがどこか、今が何時であるのか。そういった基本的なことすら今の僕には判らない。ところどころに設けられた明かり取りの窓の外が深い群青色に見えるので、恐らくはもう夜なんだろう。そして物音がほとんどしないところを見ると、人里離れた場所か閑静な住宅街か、とにかく歓楽街から離れている場所であろうことは判る。

 床に積もった埃の量を見れば、ここがさほど頻繁には使われていないことも判る。というか掃除の仕方が適当過ぎて埃が地層になっている部分すら見受けられる。定期的に掃除をすることもないということは、本当に半ば忘れられたような存在なのだ、この場所は。

 天井から伸びている太い鎖と巨大なフックは塗装の削れた部分から錆び始めている。油を吸った埃が茶色く纏わりついているワイヤーはもうずっとその姿勢でぶら下がっているのだろう。

僕は手や足に力を入れてみるが、どうにもロープは解けそうにない。しかしこんな不自然な体勢でも、反動をつければ移動することくらいは出来そうだったのでなんとか物陰に隠れて善後策を練ろう、と考えていた矢先に表に車が近づいて停まる音がした。

 「やあ久しぶりだね。元気にしてたかな」

 戻ってきた男はにこやかにそう言い、その後ろから俯いたみなみが続く。僕の惨状に気づいた彼女は目を大きく見開いて、一瞬呼吸を止めた。

 「ノボルくん、こんな所で何をしているの?」

 「やあみなみさん。見ての通りだ、これ解けなくてね」

 みなみは溜息をついて男の方に向いた。

 「……で、叔父さん。私をここに連れてきたのは、あのロープを解く手伝いをさせるため?」

 「まぁそういうことだ。君が我々の手伝いをしてくれると誓うのなら、簡単に解けるんだけどな」

 「仰る意味がよく判りません。何のことです?」

 「知っているんだよ、君が持つ【力】のことを。だから今さら誤魔化しても駄目だ」

 「誤魔化す?何を?」

 「まだ言うか。お前が未来を見ることが出来るってことは知っているんだ。お前が幼稚園の頃、未来を探るために使っていたノートが出てきてね。あの頃は何のためのノートなのか判らなかったが、今になって読み返してみればあれは目標とそこへ至るための選択肢だ。ネタは全て挙がっているんだ、誤魔化すのはやめろ」

 「まさか」

 僕はわざと声を上げた。二人がこちらを見たので、僕はわざとらしく続ける。

 「そんな夢みたいな、出来の悪いアニメだか小説みたいな話があるはずがない。そんな力があるのなら、僕がこうやって縛られてるはずもないでしょう。何を言い出すのかと思えば、そんな幼稚園児の落書きを真に受けて拉致監禁までして、一体あなた何やってんです」

 男はつかつかと近寄ってきて、その硬い革靴で僕の脇腹を蹴り上げた。

 「なかなか智恵が回るようだが、今さらそんなことで動揺するとでも思っているのか?こちらだって確信がない限り、ここまでの行動は起こさないよ」

 痛みにうずくまる僕の髪を掴んで、男はわざと苦悶の表情をみなみに向けるように僕の首を持ち上げた。

 「しかしまぁ確かに君の言う通りだ、この状況は確かにおかしい。ひょっとして君、みなみちゃんの彼氏じゃないのかな」

 「いや、ただの友達ですが」

 「本当に?若い男と女だよ?」

 「それはただの偏見ですよ」

 「ふうん、じゃあこの話がうまくいったら付き合うといいよ」

 「下世話ね」

 軽蔑するようにみなみが吐き捨てた。

 「仕方ないだろう、未来の見えない私たち凡人は君のように世俗を超越することは出来ないのだから。でも感謝して欲しいな、我々は君たちを引き離すつもりはないんだ。ずっと一緒にいていいんだよ」

 「それは私たちが決めることであって叔父さん、あなたに言われることではないわ」

 「そうだそうだ」

 相槌を打つ僕をみなみは冷ややかな目で見た。これは多分、彼女の忠告を聞かなかった僕に対する軽蔑だ。

 「目上の者の言うことは尊重するものだ……それにみなみちゃん、君は未来の行き先をちょくちょく変えてるね?うちの藤乃も見るたびに未来が変わるって困っているんだ。不確定要素の彼氏に未来を見る彼女、そんなカップルが他の所で未来を色々いじったんじゃうちの子の足りない力じゃ大変なんだ。だけどさ、君たちが手を貸してくれるなら話は変わる。世の中の動きすら変えられる、全てが思うままになるんだ。素晴らしいじゃないか!」

 「だからそういう関係じゃないって」

 「私の力を自分一人の物にしようとして、両親は死んだわ」

 僕の言葉が終わる前に、櫻井は強く言う。

 「悪意を以て使ってはならない力なのよ」

 「兄貴たちは馬鹿だったんだよ」

 「なんですって」

 みなみの瞳に怒りの炎が見えた気がする。

 「たった三人の家族なんだ、仲よくやればどれだけ素晴らしい未来が待っていたことか。それを、我欲に取りつかれて全てを失うなんて大馬鹿以外に何て表現したらいい?だから私は、みんなで幸せになろうとこうやって頼んでいるんだ」

 「頼む態度には思えませんね」

 僕はうんざりして言った。

 「なんだかんだ言って、あなたの言うことは全部あなた中心だ。僕やみなみさんの都合なんか一切考えていないくせに、みんなで幸せにとか胡散臭いんですよ」

 「そりゃそうだ」

 男はさも当然だという風に答える。

 「人はまず自分の幸せを考えるものだ。他人を優先するなんて有り得ない。だけど、自分の幸せを達成できる見込みがあるのなら、他人にだって優しくなれるものだ。衣食足りて礼節を知る、まずは自分の頭の上の蠅を追うことさ。だから私はまず私自身の幸せを考える。次に家族の幸せだ。その次くらいには、君たちのことを考えてやってもいい」

 「傲慢ね」

 「ああ、傲慢さ。そもそもこれは交渉ですらないんだからね、私はただみなみちゃんが従うと言ってくれるのを待っている。そのための人質が彼だ。そのための場所がここだ。君が必死にここから未来をずらそうとしていたのも知っているよ。だが藤乃の【力】が勝った。みなみちゃん、君がここに来たということは、私たちに従うしかないという未来が正しい未来だからなんだよ」

 「どうかな」

 僕は首をぐるりと回した。関節がぽきぽき音を立てる。

 「あんたは僕を【不確定要素】って言ったろ?でも違うんだ、僕は不確定じゃない。僕はみなみさんにとって、そして僕にとってマイナスになるように修正された未来こそをプラス方向に持っていく。そしてその僕がここにこうしているということは、それはこの場がもうあんたの用意したステージじゃなくなってるてことだ」

 「なんだと?」

 「言ってたでしょ、あんたの娘一人に対してこっちは僕とみなみさんの二人なんだ。おびき寄せたつもりが罠に嵌ったんだよ」

 これは全てハッタリだ。話のアウトラインは見えたので、適当にそれっぽいことを繋ぎ合わせて喋っているだけなのだ。相手の言っていたキーワードとこちらが持っているカードの類似点から適当な話を捻り出す。冷静に考えればただの思考ゲームでしかないのだが、自信と確信を言葉に込めればそれは力となって相手の心を折りに行く。

 こいつの目的はつまり、【力】に方向性を持たせて未来改変をより意のままに行うことなんだろう。しかし櫻井みなみよりも【力】の劣る牛島藤乃が行動しても、その積み重ねた選択肢に対して全く無関係な場所から【力】を行使する櫻井みなみが偶然とはいえ干渉してしまえば、未来は望む方向に辿り着きはしない。そういう意味では実に邪魔な存在の櫻井みなみだが、味方につけてしまいさえすれば【力】はより強固に未来を手繰り寄せるだろう。

 そして櫻井みなみにそんな気は全くないようなので、僕も乗っかってそれらしいことを適当に述べることにしたのだ。

 「そうね、その通り」

 櫻井みなみが言葉を継ぐ。

 「それはそうと……叔父さん、今何時です?」

 「ん?午後九時過ぎだが」

 男は腕時計を見て答える。

 「ノボルくん、私今日、帰りになんて言ったっけ?」

 「決して家を出ないこと」

 「それから?」

 「……八時半に滝沢に電話すること」

 「した?」

 「この状態で出来るんならしているさ。見れば判るだろうに」

 「じゃあしてないのね」

 「そういうことになるな」

 「それがどうしたんだ」

 男が多少苛ついた声を上げた時、倉庫の表で悲鳴が上がりシャッターに何か重い物がぶつかる音が数度、響いた。

 「何だ!?」

 「ノボルくん、そういうことよ」

 「成程」

 僕が納得したその瞬間にばりん、と安い合板を踏み抜く音がしてシャッター脇のドアが蹴破られた。青白い月明かりに逆光となって現れたそのシルエットに、僕は当然心当たりがある。

 「滝沢!」

 「よう長谷川、なかなか面白い格好をしているな」

 ニッと笑うその顔は、僕にはとても頼もしく勇ましく見えたのだが、彼のことを知らない人間が見れば血に飢えたチンピラが獲物を見つけてにやつくように感じられただろう。その証拠に、このみなみの叔父を名乗る男はびくっとして腰を浮かせた。

 「そう見えるか?」

 「都会で流行りのエクササイズか、それともみなみ嬢との過激なプレイか?まぁどっちにしたってそこのそいつは邪魔者だな」

 そこのそいつ呼ばわりされた男は、ポケットからナイフを取りだして僕の喉近くに向ける。

 「誰だか知らんがお呼びじゃないな、とっとと出て行け」

 「そうかい?俺はそこのみなみ嬢に呼ばれてここに来たんだがな。パーティーに参加する権利くらいはあると思うが」

 「残念ながら親族だけの内輪パーティーなんだ、帰れ」

 ふう、と溜息をついて構えを解き、滝沢はやれやれと言った感じで肩をすくめる。

 「なんてこった、わざわざ夜に出てきたって言うのに……こんなこと言われてるよ姉ちゃん」

 僕の視界に足が飛んだ。滝沢の影から瞬時に飛び出して男のナイフを蹴り飛ばし、男の顔面を床に叩き付けたその影は、見まごうことのない滝沢の姉だった。

 「じゃあせめて交通費くらいは負担して貰わないとね?無駄足になっちゃって悲しいわ」

 転がるナイフを素早く拾い、姉に駆け寄ってパスする滝沢はそのまま俯せに倒れる男に馬乗りになって、その左腕を逆手にねじり上げる。滝沢の姉はすっとナイフを走らせて、僕の手足を縛るロープを苦もなく切り裂いた。

 「そしたら、交通費代わりにこの子はもらっていくわね」

 可憐にウインクをする滝沢の姉。滝沢は男の腕をさらにねじり上げた。

 「ちょっと足りないな。だからみなみ嬢も戴いていく。文句あるか?」

 「手前ら、無事に済むと思ってんのか」

 「お前こそ無事に済むと思ってんのか」

 そう返す滝沢を横目に、滝沢の姉はナイフをぱちんと折りたたんで上着のポケットに突っ込むと、にっこり笑ってスマホを取り出した。

 「せっかくだから、お巡りさんも招待しちゃおうかな?」

 「メンツ増やして楽しんだって構わないんだぜ、こっちは。まぁそっちのお仲間は、表でノビてるけどさ」

 僕は立ち上がって、痛む体の節々を伸ばす。縛られていた手首と足首がひりひり痛むが、関節を自由に動かせる幸せを取り戻せたことは幸いだ。

 「さて」

 僕は押さえつけられている男の顔を見下ろすようにしゃがんだ。

 「もう二度と関わらないと約束するのなら、このまま帰してあげてもいい。どっちにしろあなたたちの力が僕たちに及ばないのは、今見た通りだ」

 「ガキが」

 「ガキで結構」

 僕の返事を待たずに吐き捨てた滝沢が、さらに男を締め上げる。

 「しかし長谷川は優しいな、こんな奴を五体満足で帰してやろうなんて。だが俺のそれは、長谷川に比べたらゴミみたいなものなんでな……とりあえず腕の一本でも貰っておくか、円滑な交渉のために」

 ごきり、と鈍い音がして男の左腕が肩からあらぬ方向に曲がり、男は悲鳴を上げた。

 「外しただけだから、病院に行けばちゃんと治るぜ。二ヶ月くらいは動かしづらいかも知れんが」

 滝沢は事も無げに言うと男の左腕をぽいと離し、今度は右腕を掴んで体勢を整える。

 「どうする?長谷川の優しさを受け入れるか?それとも両方行くかい?左右整ってる方がいいってんなら、ご注文に応じるぜ」

 「わかったわかった勘弁してくれ、もうやめてくれ!」

 「じゃ、ちゃんと言って。録音するから」

 みなみがスマホを取り出して言った。

 「もう二度と私たちに関わらないと。この町からも出て行くと。藤乃ちゃんが【力】を使うのは構わないけれど、それはどこか遠くでやって頂戴」

 男は泣き声で誓約し、みなみはその録音された音声をその場で再生して確認した。それから表に転がっていた男の妻である中年女性とその娘を、僕の拉致に使った白いライトバンの中にあった合成樹脂製のロープで父親と共に縛り上げてから倉庫の中に転がした。

 「まだ寒くないから一晩くらいはここで頭を冷やすといいわ叔父さん。じゃ、もう会うこともないでしょうけど、お元気でね」

 呪詛と怒号を背にして、僕たちは滝沢の姉が運転する軽自動車でその場を後にした。既に時計の針は十時過ぎを差していた。



 「ほら、動かないで」

 狭い車内で、みなみは必要以上に体を密着させながら僕の頬を濡らしたハンカチで拭う。傷に水分が沁みて痛みが蘇るので、つい腰が浮いてしまうのだ。

 「これくらいなら傷、残らないよね」

 「どうだろう、まあ僕が男で良かったよ」

 されるがままの僕を、助手席の滝沢が身を乗り出して笑う。

 「本当に君たちは仲がいいよな、見ているだけでご馳走様という気分だ」

 「お粗末様でした」

 みなみはにっこりと返す。運転している滝沢の姉がクスリと笑った。

 「しかしあれだな、遺産を巡っての骨肉の争いとは、よくあるネタだとは思っていたがまさかこんな近くでお目にかかることになるとは思わなかったよ。金というものの魔力は恐ろしい」

 「そうねー、うちは大丈夫かしら」

 見合いの結果、玉の輿に乗る可能性が出てきた滝沢の姉が溜息をつきながら言う。

 「どうなんでしょうね、その時になってみないと判らないかも知れませんよ」

 しみじみと言うみなみに、成る程、この二人にはそういう説明をしたのかと僕は納得した。ある意味自然で辻褄の合う嘘だ。

 「昔は優しい叔父さんだったんだけどな」

 寂しそうに言うみなみの頭を、僕はぽんぽんと軽く叩く。

 「仕方がないよ、こういうこともある。人はいつまでも同じじゃいられないんだ」

 「だがな」

 滝沢が言葉を挟んだ。

 「変わってはいけないと自制すべき部分もある。そして奴は多分そこを踏み越えた。そういうことだ、変わることが当たり前というのは違う。欲望に本質を売り渡してしまうのは、人が一番してはならないことなんだ」

 「そうね、その通りだわ。でも人はみんなそんなに強いわけじゃないし、いつも立ち位置を確認しながら生きているわけでもない。仕方のないことは仕方がないと諦めて、それでも強くあろうとする人と幸せになることを願うしかないわ」

 滝沢の姉がしみじみとそう言って、車内の四人はほぼ同時に大きく溜息をついた。全く、どうしてみんなで仲良く暮らせないんだろう。どうして他人を羨み妬み奪うことを考えるのだろう。たぶんその答えは永遠に出ないだろうと僕は思った。



 反省会をしますと言うみなみに、僕は放課後の屋上へと呼び出された。黙って屋上からの風景を見つめるみなみと二人きり、沈黙したままの状況に耐えきれず、僕は口を開いた。

 「涼しくなったな」

 僕はわざと事も無げに言う。

 「もう少しで冬だ」

 「そうね」

 素っ気ない返事をするみなみに、僕は内心慌てる。

 「僕は暑いよりも寒い方が好きだけど」

 「ノボルくん」

 「はい」

 振り向いた彼女の声が思ったよりも怖いので僕は立ちすくんだ。

 「どうして私の言うことを聞いてくれなかったの?」

 「ごめん。でもあれだよ、君が事故に遭ったって言うものだから心配になってさ。それに……あの子は親戚だって言うから」

 「絶対駄目だからね、って言ったよ」

 「ごめん」

 すっ、とみなみが視線を切ってふらりと歩き出す。そしてそのまま、僕の胸に飛び込んできた。

 「みなみ、さん?」

 僕は自分の両手をどうすべきか逡巡する。抱きしめて良いものなのかどうなのか。思い切れもせずに僕の両手は空中を掻き毟る。

 「ノボルくんは優しいね。本当は、私が責められるべきなのに」

 「そうなの?」

 「本当はね、私には全部見えていたの。あなたが私を心配して家を出ることも、あの倉庫に連れて行かれることも。だから滝沢くんにお願いして、そうなってしまった時のために、助けに来てくれるようにしたんだ」

 僕の頭の中に巨大なクエスチョンマークが飛来する。

 「あれ?でもそしたらキャンセルの電話なんていらないんじゃないの?」

 「うん、それに関しては未来を変えてなんとかするつもりだった。あなたを巻き込まない解決方法のために、私は色々なことをしてきたわ。それでも今回は今一つ確信が持てなくて、どうにもうまく調整ができなくて。だから滝沢くんに助っ人をお願いをしたんだけど」

 「確信が持てない」

 「何をやっても思った方向に未来が進まないの。こんなことは初めてよ、さっき見えた行き先が次の瞬間には変わってる。着地点がどんどん変わって、積んだ選択肢がどんどん無駄になっていく」

 「ああそれはあれだ」

 僕はあの男が言った台詞を思い出していた。

 「君の従姉妹にも同じ【力】があるって言ってた。それで向こうも未来を変えようとしていたんだね。だから、思うようには行かなかった」

 「そうね、そうなんだけど……」

 俄かには信じられないといった感じで、みなみは両掌を見る。

 「たぶん力の差があって、大局としては君が望む未来の方には引き寄せられていたんだろうけど、細かい部分で違いが出たというのなら従姉妹さんの【力】がそれなりに強かったと考えたほうがより自然だと思う。そういう意味では、今までと同じに行かないことで不安になって、助けを用意してくれたのはファインプレーだと思うよ」

 「でもね、でもそんなことじゃなくて、最初から全部あなたに相談してさえいれば、もっとちゃんと、そしてあなたは傷つかずに解決できたんじゃないかと思うの」

 「それは結果論だよ」

 僕は静かにそう言った。

 「君が未来を見たとしても、僕がその通りに歩くとは限らない。そんなことは最初から判っていたことだし、全てを君と話し合って決めることは時間的にも空間的にも不可能だった。

 だいたい君の【力】に干渉するものを相手も持っているなんて僕には予想外だし、僕と君と従姉妹さんの三人の力が図らずもぶつかり合うことになったんだから、そんなものは最後のネタばらしを待たないと誰も状況を理解なんてできっこないさ。

 でも、過程はどうあれ望む方向に結果は出たじゃないか、多少余計なことはあったかも知れないけど」

 僕が感じていたみなみの中の怒りが、最初から彼女自身に向けられていたことに僕は気付いてため息をつく。

 彼女が全てを抱え込んだこと、自分一人でなんとかしようとしてできなかったこと。でもそれを言うなら僕の側にだって非はある。僕はまだ、そういう意味では彼女の全面的な信頼を得るに至っていなかったのだ。それは僕の不徳の至りだと思う。

 「そうやって思いもよらない出来事を繰り返して生きていくことを君は望み、そして僕はここにいる。それでいいじゃないか、誰もが傷つかないことは理想かもしれないけれど、全部一人で抱え込むのは間違ってる。不意を突かれたっていい、思いもかけない出来事が起きたっていい。そんなものを笑って乗り越えられるくらいに、強くなればいいと思うよ。だいたい君が言うような力が僕にあるんだとしたら、やっぱり今回の事はマイナスではなくてプラスになっているんだよ」

 「そうね、たぶんそれが正しいんだと思う。だからこれから私たちは、お互いにもっと信頼し合って行きましょう、幸せな未来のために」

 僕の頬に残る一筋の傷跡を、みなみはその白魚のような指でそっとなぞった。幸いにして傷は浅く、しばらくしたら綺麗に消えるだろうというのが医者の見立てだ。

 「幸せな未来」

 僕は彼女の言葉を繰り返した。それはいったいどこにあるんだろうか?探して見つかるものなんだろうか?

 「つまり」

 僕は、頭の中に浮かんできた言葉をそのまま口にする。

 「君が僕と仲のいい友達になりたいって言ったのは、この結末のためなんだね?」

 「ええ、そうよ」

 櫻井みなみは僕の目をじっと覗き込むように見た。

 「私が望んだ未来。私を理解してくれる相手、その上で一緒にいてくれる相手。困難を乗り越えて信頼を勝ち取る相手。それがあなたです、ハセガワノボルくん」

 「そうか」

 「さて、ではノボルくん、正直に答えて」

 「は、はい」

 突然の詰問口調に、僕はただ吃驚する。

 「誰か好きな人はいるの?」

 「いや、今のところ特に」

 「隠さないで」

 「隠してない」

 射るような視線に、僕は心の奥まで覗かれているような心持になる。こういう状況というのは実に居心地の悪いものだ。

 「クラスの中で、この子いいなーとか思う子いるでしょ」

 「そりゃまぁ少なからずそう感じたことはあるけど、だからと言って恋愛感情を持つとか親しくなりたいと思うとか、そういうのはないな」

 「私は?」

 「いやまぁ、凄い美少女だなとは思ってたよ。勉強も運動もマルチで得意だし、住む世界が違うんじゃないかと思うくらいに」

 「私を彼女にしたいなーとか思わなかった?」

 「思わなかった」

 みなみはずっこける。

 「な、なんで!?」

 「いやその、なんていうか」

 それでも食らいついてくる櫻井みなみに、僕は心底苦笑せざるを得ない。

 「あまりにも世界が違いすぎて、そういうことを考える地平にすら登らないってこともあるんだよ。テレビの中のアイドルに近いっていうか、そもそも前提条件が違いすぎて、そこに手を伸ばそうなんて考えもつかないんだ。思ったとしても【彼女だったらいいな】程度で、自分からどうこうしようだなんてそれはとても烏滸がましいことだ」

 「そう考えちゃうか」

 櫻井みなみはふうとひとつため息をついた。

 「下の名前で呼ぶし、お弁当も作るし、一緒に帰りもするし、私としては君から告白させようとずいぶん色々努力をしてきたんだけどな」

 「薄々は感じていたよ、君のそういう悪戯っぽい感覚は。でも僕は、それは僕の考えすぎなんじゃないか、自惚れてるんじゃないかと思ってあえて無視してきたんだ。今のままでも十分に楽しくて嬉しいものだから、そんな関係を壊したくないと思った。夢なら醒めて欲しくないと思ったんだよ」

 「夢じゃないよ、ちゃんと現実だよ?」

 「そりゃそうなんだけどさ。確かに、テレビの向こうのスターに本気で恋をするような人もいるだろう。適わぬ願いと知りながらも、夢を夢見て現実にしようと努力する人もいるんだろう。でもなんていうか、僕としてはそういうリアリティの薄い話に傾倒して、余計な面倒を背負い込んだり、他人に押し付けることだけはしたくないと思っているんだ。

 努力の結果が無駄になることは厭わないけれど、最初から無駄と判っていて努力することの虚しさに耐えられないんだ。僕はこの通りものぐさで外見も中身もぱっとしない男だから、せめてそうでない人々に対して余計な苦痛を与えたくないんだ」

 「……それって実体験から来る悟りみたいなもの?」

 儚くというか華麗にというか無残にというか、とにかく実らなかった恋の痛すぎる記憶が僕の脳裏をよぎったので、とりあえず無言で頷いた。あれは中二の夏のことだった。あの時のことは出来れば思い出したくないくらいに僕は暴走していた。

 もしあの日あの時あの場所に今の僕が立ち会えたのなら、やらかす前に当時の僕をぶん殴って入院させてでもあの惨劇を回避してやりたいくらいの気持ちになる。むしろそうなってくれた方がどれだけ良かっただろうか。

 「そっか、でも大丈夫だよ」

 みなみは笑って僕の手を取った。

 「ここまでの事であなたがどういう人間なのかはだいたい判ったし、私がどういう人間なのかも判ってもらえたと思う。少なくとも私はあなたを裏切らないし、恐らくあなたも私を裏切らない。まぁ未来なんてまだ未確定で不安定なものだけど、でも漠然としていても方向性が欲しいものじゃない?」

 「漠然とした方向性か」

 「そう。私とあなたなら、きっとうまくいくよ。主に私が、次いであなたが」

 確かに、僕はそういったものを無意識に求めていたのかも知れない。間断なく過ぎていく時間というものに対して、僕が自ら意思を持って立ち向かうには、何か指針のようなものが不可欠なんじゃないかと。

 「あなたと一緒にいることで、私の人生は人間らしさを取り戻せると思うの。マイナスに働くこともあると思うけど、絶対あなたを恨んだりはしないわ。もう、意外性と可能性にわくわくしちゃって、今すぐにでもあなたを持って帰りたいくらいなのよ」

 「いや持って帰られても困るんだけど、とにかく君の言い分は判ったよ、了解した。ただ僕は割とろくでなしだし、無神経にも君を傷つけることがあるかも知れない。そういった時にはしっかりと何が良くなかったのか、どうしたらいいのかを話し合える関係になりたいと思う。

 僕もそれなりに関係維持のために努力はするけれど、君からしたらそれはもう努力と呼べるようなレベルのものではなく見えるかも知れない。でも僕はきっと僕なりに頑張るだろうし、だいたい手に入るはずもないと思うからこそ最初から意識の中に置かないようにしていただけで、君と一緒にいられるなんてとても素敵で嬉しいことだと思うよ」

 「じゃあ、ちゃんと目を見て言って」

 「え」

 「言って」

 深く澄んだ瞳が僕を射抜く。その魔力に捕らわれた僕は、視線から目を離すことができない。いや、する必要もない。あの時とは違う、僕の言葉を彼女は待っているんだ。

 「……あの」

 「はい」

 「僕と付き合ってください」

 「はい」

 歓喜に顔を綻ばせた櫻井みなみが僕に飛びつき、こうして僕と櫻井みなみは彼氏彼女という関係に落ち着いた。

 これからの日常がどう変化していくのか、その時の僕たちにはまだ判っていなかったけど、ただ一つ言える事は、少なくともこの選択肢が僕にとってマイナスではないということだ。もし彼女の説明が的を射ているのなら、きっと僕はここで何らかの理由を捻り出して彼女を拒否していただろう。

 なんていうか、僕はそういう風に考えて納得することにした。そうでもなければ、こんな棚ボタな話があろうはずがないのだから。



 兎にも角にも、こうして僕の人生に漠然とした方向性が付与されることになった。あとはその方向にしっかりと歩き出すだけだ。幸せな未来、それがどこにあるのかは判らないけれど、彼女と共になら見つけることができるような気がする。気がしているだけかも知れないけれど、少なくとも闇夜を何の頼りもなく歩くよりは確実に思うのだ。


 まあその前に、目前に迫った中間テストをどうにかしなければならないんだけれど。


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櫻井みなみは何を望むか 小日向葵 @tsubasa-485

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