第7話 返却と人影

 土日を挟み、月曜に登校してきた滝沢の様子は何も変わるところがなかった。姉の見合いについて僕から聞くのもどうかと思っていたので、昼休みに彼の方から近づいてきたことは幸運だった。ざわつく教室の中には、僕と櫻井みなみを真似したのか彼女が作ってきた弁当を二人で食べるカップルが何組か発生しており、中には意外な組み合わせもあって好奇心の対象が分散してくれたのは嬉しい誤算だった。そういったほんわかムードを掻き分けて滝沢がこちらに歩いてくる光景は、まるでモーゼが紅海を割ってユダヤの民を導いているようにも見えた。出エジプト記だったろうか。

 「参った」

 開口一番、滝沢は苦笑いしながら言った。

 「参った?」

 「全てが無駄だったんだ。わざわざ長谷川に面倒をかけたのにな」

 「つまり細工がバレたのか」

 「ああ、しかも全ては誤解で大団円だ」

 「お見合い、うまく行ったんだ」

 滝沢が言うには、確かに見合い相手の御曹司は挙動不審だったらしい。だが出てきた話は彼が内向的で大人しく、覇気に欠けるという話だけだったという。見合いが一段落し、滝沢家訪問となった時に転機が訪れる。弟さんと二人で話をしたいと彼が言い出し、そして不良グッズに溢れる滝沢ルームにて謎の面談が発生した。

 彼は秋葉原のホビーショップ店内で、商品を物色する滝沢を高い頻度で目撃していたという。見合いを行う前に滝沢一家の家族構成を調査させていたらしく、相手の弟がそういった人物であることに偶然ならぬ運命を感じていたそうだ。さらに彼は滝沢と同じ程度の……つまり重度のヲタクであり、ジャンルもほぼ丸被りしていたそうなのだが、滝沢の姉の存在に気づいて三次元に復帰する決心をしたという。彼に纏わる噂は全て根も葉もない出鱈目であり、それを証明できるのは滝沢をおいて他にないと彼は懇願したのだった。

 彼と滝沢は、表面的にはディープ過ぎるヲタトークを小一時間繰り広げた。それは彼が本当にかつて二次元専門のヲタクであったことを証明する戦いだった。何気ないネタの応酬が組み手のように繰り返され、和やかに見えても水面下では高度な駆け引きが続いた。最初は疑いから入った滝沢も、彼の繰り出すネタと見解に心を開いていく。

 そして滝沢ルームの扉が開いた時、滝沢は彼を応援すべく、そして姉に全ての事情を話すべく立ち上がった。弟の心変わりに心底驚いた姉だったが、可愛がっていた弟の話を無視することはできない。

 「姉ちゃん、あいつは俺と同類なんだ」

 滝沢はそう言ったそうだ。滝沢の場合はその容姿のために畏怖され二次元へと安らぎを求めたが、見合い相手の場合は逆にその容姿と立場のお陰で、すり寄ってくる人間たちの心の醜さを嫌と言うほど味わってしまい、二次元に逃避した。きっかけは正反対だが、心の平安を二次元に求めざるを得なかった者として共感した滝沢は、だからそう言ったのだ。

 「頼むからあいつを最初から否定しないでくれ、拒絶しないでくれ。せめて多少は知った上で判断してやってくれ」

 それは多分、滝沢自身が一番願っていることだ。滝沢自身が一番そうして欲しいと思っていることだ。そして誰もが心の奥底で思っていることなのだ。

 「滝沢くんは優しいね」

 「いやいや、俺の優しさなんて長谷川のそれと比べたらゴミ同然。だけどまぁ、そんなゴミでも人様の役に立てれば嬉しいものさ」

 みなみの言葉を受け流すようにそう言うと、滝沢は手をひらひらさせて自嘲的に笑った。

 「ただ、全部最初から言ってくれたら、俺はコレクションを整理することもなくて済んだと思うと複雑なんだ」

 「ああ、二軍を解雇したんだっけか」

 「予備もオークションで手放したしな」

 ふう、と滝沢は溜息をつく。

 「まあいいんだ、塗装技術を磨いているうちにロボット系も面白く感じてきたしな。俺の世界も広がった。最近じゃロボ娘のプラモも出ていて、敷居が低くなってるぞ」

 「そっか、じゃあ今晩あたり引き取りに来るかい」

 僕はあえて滝沢の振った話に乗らず、本題の続きを求める。脱線するといつまでも果てしなく話が続く、それがヲタクというものだ。

 「うむ、そうさせて貰おうと思って来たんだ。やはり抱き枕も添い寝シーツもない生活というのは、つらい」

 「つらいか」

 「長谷川の環境に例えて言うならば」

 「言わなくて良い」

 「聞きたいなー」

 「お黙り下さいみなみさん」

 どうしよう、という感じで一瞬戸惑った滝沢だが、うむと一つ頷いて口を開いた。

 「例えて言うならば、こっそり想っている片思いの相手が遠い親戚の家へ泊まりがけで出かけてしまったようなものだな。会いたい、でも会えない。しかもこちらではどうしようもない理由と来てる。募る感情が焦がれる感じだな」

 「なるほどなるほど、それはきっとものすごくつらいことね」

 「そうなんだ、だがそれも今日で終わると考えると心躍る。長谷川の環境に例えて言うならば」

 僕は溜息をついた。止めてもどうせ言うんだこいつは。

 「……やめておこう。まだ俺の素敵なアイテムが実際に帰ってきたわけじゃないから、その心情を正確に表現することは出来ない」

 「なるほど」

 みなみは妙に納得したように頷く。ではまた夜に電話をするからと言って滝沢は去り、再び二人の食事が再開された。

 「でもまあ上手く行って良かったよね、お見合い」

 「うん、噂と誤解っていうのは怖いな。人の本質とは関係ない部分、表面的な物事だけで全てが理解されたみたいに扱われるって、物凄く悲しいことだと思う」

 「でもね、第一印象で判断してしまうことを全て悪と決めつけるわけにもいかないよ。そうすることで未然にトラブルを回避できることもあるんだし」

 里芋の煮物を口に放り込み、もぐもぐと咀嚼する。味は非常に僕好みの薄味だ。

 「そうなんだよな、だから第一印象は大事だとしても、それだけで判断しないように心掛けなきゃ駄目だってことだ。でもさ」

 僕はサラダの中からプチトマトを箸で探り出して、渋い顔をみなみに見せた。

 「プチトマトはトマトより駄目なんだよ僕。これものすごく酸っぱいでしょ」

 「そうなの?」

 「第一印象でトマトに似ているから駄目だとは思ったんだけど、まぁ違うかもと食べてみたらトマトよりよっぽど酸っぱくてきついんだ。これと比べたらトマトの酸味なんてお子様ランチみたいなものだ、まぁ僕はそのお子様ランチも食べられない離乳食野郎と罵られても仕方ないんだけどさ」

 「私はそんなこと言わないよ」

 僕が掘り出したプチトマトを箸でひょいと掴んで、みなみは自分の口に入れた。

 「でもそんなに酸っぱいかな」

 「ひょっとしたら、前に食べたプチトマトが格別に酸っぱかったのかも知れない。でもさ、一度苦手ってイメージがつくと、なかなか覆すのは難しいんだ」

 「そうね、一度下された評価ってなかなか変えられないもんね。でも、変えようと思ったならちゃんと再評価をしようね」

 「その時が来たなら、トマトもピーマンもきっちり再評価するよ。だけどそれはまだまだ先の話だと思う。他人の評価を気にして自分の中の基準をぐらつかせ過ぎるのは、たぶん個人のアイデンティティの崩壊につながると思うんだ。或いはレゾンデートルの否定」

 「たかが食べ物の好き嫌いをそこまで大げさに言うのはノボルくんくらいだと思うよ」

 僕のサラダから埋蔵されたプチトマトを次々と発掘しては食べるみなみ。その代わりに、ブロッコリーがみなみの弁当箱から移籍してくるのを僕はもしゃもしゃと食べた。

 「理屈と膏薬はどこにでも貼り付くんだ」

 これは自嘲である。自己正当化のために理屈を振り回す様子は、多分というか確実に格好の良くない行いであると判っているので、ついそういう風に自己弁護をしてしまうことに対する自嘲である。

 「でもまあいいわ、まだまだノボルくんについて知るべきことがたくさんあるっていうのは、私としてはとても楽しいことなんだから」

 「僕の方も、まだまだみなみさんについて知る必要があるんだろうね」

 「そう簡単に教えないから覚悟してね。女はミステリアスな方が魅力的って言うし」

 本当にミステリアスですよと僕は心の中で呟いて、残りの弁当を平らげた。



 櫻井みなみが弁当を作ってくれるので、僕は両親から支給を受けている昼食代の半分以上を貯金することが出来た。一日五百円、月・水・金曜日に弁当が出るので一週間に千五百円も浮く計算になる。しかしこれを全て着服することはさすがに気が引けたので、五百円だけ貯金し残りの千円は材料費の足しにとみなみへ渡すことにした。だがみなみは最初、金銭の受け取りを拒否した。弁当は純粋なる友情の表現であり、そこに何らかの取引が発生することはその純粋性を失うことになるというのがその理由である。話を聞けば彼女は一般的な高校生……つまり僕のことだが、本当に僕が一般的かどうかは判らない……の約十倍ほどの小遣いを支給されており、材料費など全く金銭的負担になっていないというのが受け取り拒否のもう一つの理由であった。好きで料理し研究しているのだから全部任せてと彼女は言ったので、ならば君の好きなことに少しだけでも協力させてくれという半ば揚げ足を取る形で毎週千円を受け取らせることに成功した。

 残りの五百円については、とりあえず貯めておくこととした。貯金は有るに越したことはないし、いつまとまった金額が必要になるかもわからない。

 五百円玉を一枚、【十万円が貯まる貯金箱】に放り込んだ時スマホに着信があった。滝沢からの在宅確認で、あと少しで着くというので僕は自分の部屋から彼のコレクションが詰まった段ボール箱を三つ玄関に移し、彼の到着を待った。

 「よう」

 チャイムが鳴ったのでドアを開けると、ニヤけた滝沢がそこに立っていた。

 「おう、引き取りに来たぜ。本当にありがとう」

 挨拶もそこそこに段ボール箱を姉の軽自動車へ積み込む滝沢。その必死な顔を見て、滝沢の姉は苦笑する。

 「長谷川くん、ありがとうね?聞いてると思うけど」

 「ええ、お付き合いされることになったんですよね」

 「そうなの。まだ結婚とかそういう話ではないけれど、とにかく少し付き合ってみようかなってね。前評判よりずっとまともな人で良かったわ」

 「それはおめでとうございます」

 「ヲタクは弟で慣れてるしね」

 悪戯っぽく笑う滝沢の姉。すらっとした美人の彼女が、未だ滝沢でも敵わない武道の腕前を持つとは一体誰が想像し得るだろうか。

 「長谷川くんはフィギュアとか興味あるの?」

 「いや、ガチャガチャとか食玩程度なら買いますけど、滝沢が買うような本格的なものはそれほどでも」

 「ふうん……ああいうものと仏像とかの彫刻との差ってどこにあると思う?」

 「時間の経過ですかね。信仰を価値に変えて永らえてきた時間そのものの価値。形として存在し続けたその存在感という歴史が、フィギュアにもそのキャラクターにもまだないだけだと思っています」

 「作り手が聞いたら喜ぶかもね」

 滝沢はさっさと三つの段ボール箱を軽自動車の後部座席に積み込み、額の汗を拭って満足そうにため息をついた。

 「さて、これで完了だ」

 「家に着くまでが遠足だぞ」

 「判ってる」

 滝沢はニヤリと笑ってサムズアップをする。僕はそれを見てうむ、と頷く。

 「じゃ行こうか。長谷川くん、またね」

 滝沢の姉が手をひらひらさせながら軽自動車の運転席に乗り込み、ドアをばたんと閉めた。滝沢は軽自動車に向かって一歩進み、そして振り返った。

 「ん?」

 「そうだ」

 訝しげに首を振る滝沢。

 「さっき、俺たちがここに来た時のことなんだが……お前の家の前に櫻井みなみ嬢がいたんだが」

 「え?」

 「いや、声をかけようかと思ったんだが、こっちに気付くと慌てて走って行ってしまった。なんだかずいぶん暗い雰囲気だったが、何かやらかしたか?」

 「いいや、今日もいつも通りにまっすぐ送って行っただけだけど」

 「そうか、いつもと随分雰囲気が違うので、何かあったのかと思ったんだけどな。まあそうでないなら見間違いだろう。俺も愛するフィギュア等を受け取れる喜びで浮かれていたからな」

 「そうか」

 また明日な、と軽い挨拶を交わした後に滝沢とその宝物たちを満載した軽自動車は走り出し、夜の闇に消えていった。テールランプが角を曲がって見えなくなるまで見送った僕は、やれやれと右肩を回しながら家へ入ろうとする。

 その時、隣家のカーポート脇に生えている電信柱の向こうに、何か人影のようなものを見た気がして僕は足を止めた。薄暗い中じっと目を凝らしてみると、小柄な人影が慌てた様子で逃げ出していくのが見えた。

 薄暗い街灯に照らされてちらりと見えた横顔と後姿は、確かに櫻井みなみのように思えた。でも幾分悲しげな、僕の知る彼女とは何か違うような雰囲気のおかげなのか追う気にもなれずに、僕はその後ろ姿をただ呆然と見送った。



 「昨日?」

 学食でラーメンをすすりながら、合間に彼女は言った。

 「昨日は帰ってからずっと本を読んでいたよ」

 「そっか、なるほど」

 僕はみなみに、昨日は帰ってから何をしていたかと聞いてみた。その返答は特に不自然な雰囲気もなく、それ以上詳しく聞くと藪蛇になりそうな予感がしたので、話を別の方向に変えることにした。

 「昨日、滝沢が荷物を取りに来たんだ」

 「へえ」

 「もう傍目で見ても浮かれているのが判りすぎるくらいにルンルン気分でさ、見せたかったよあの軽やかなスキップを」

 「あのさ」

 箸を置いて、櫻井みなみは僕の目をじっと見た。

 「判ってるから」

 「え?」

 「何を聞きたいのか、何を見たのか。でもお願い、聞かないで。もうすぐ全部解決するから。そしたら二人で遊びに行きましょ」

 「解決?何かあったのか?」

 こういう所がまだぎこちないよな、と僕は思う。彼女の言う【力】関連なんだろうなとも思うが、こういう時に相談にも乗れないのは、まだ僕たちが本当の意味での親友同士でないからなんじゃないかと、その土台の脆さに心細くなる。

 「ううん、大丈夫。でも少し時間がかかるかな、って感じ」

 「そうか」

 その心細さがあるから、僕はここで強く出られない。いいから相談しろよ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで、僕は心と裏腹なセリフを吐く。

 「まぁみなみさんがそう言うなら大丈夫なんだろうね」

 そんなはずはないと僕は直感している。あの時見た、自転車に乗った少女からは何か不吉な気配めいたものを感じた。少なくともそれは、この間出現した三人組の持つ能天気な雰囲気とは全くの別物だ。

 「うん、一人で平気」

 でも、お願いだから放っておいてと彼女の笑顔がそう無言のうちに語っていたので、僕はもうその件について何も語れなかった。二人の時間は表層的には楽しく面白く流れて行ったが、言いたいこと聞きたいことは淀んで溜まっていく。そんなどろどろした感情のことを人は不安と呼ぶんだろう。僕は悲観的な人間ではないけれど、楽天家というわけでもない。楽しい時間を過ごせば過ごすほどに、その不安感は募っていく。でも聞けないんだ、僕には彼女の事情に踏み込むだけの勇気も、事情を一緒に背負うだけの覚悟もない。タナボタで出来た友人だからどうしても受け身になるのは仕方ないと自分で自分を納得させて、それで本当に良いのだろうかと自問自答する日々が続いた。

 それは友情じゃなくて妥協だろう、ともう一人の僕が言う。友人と言う立場をフル活用して踏み込むべきだ、それが出来ずに何が親友かと叫ぶ。

 いやいや待つのもまた友情だと別の僕が訳知り顔で言う。彼女の意思を尊重するのが男の余裕と言うものだ、お前だってプライベートに踏み込まれたくはないだろう。親しき仲にも礼儀あり、中途半端に関わって二人の仲がおかしくなったらどうするんだ。

 いくら考えたところで正解が出るわけでもない。悶々とした日々が流れ、中間テストも間もなく始まるといった時に、彼女はさらりとこう言った。

 「ノボルくん、今日帰ったら絶対家から出ないでね」

 「え?」

 いつもの調子で妙なことを言う。

 「今日で全てが終わるから。そしたら全部うまく行くから」

 「あ、ああ」

 確信したような顔で言う櫻井みなみの顔に緊張が走るのを見て、僕はなんだか自分が情けないような気がして、ぎゅっと手を握った。力になれない、相談に乗れない。こんな僕が、彼女と楽しく過ごしていいものなのか?そういった上澄みは、努力の結果に得られるものであって、その努力を彼女に押し付けたままの僕に果たして受け取る資格があるものなんだろうか。

 「だからお願い、絶対に家から出ないでね」

 僕の感じているもやもやはそのセリフで押し込められた。ここで僕は言いくるめられるべきではないと感じてはいたが、それ以上に彼女との関係が壊れることを恐れていた。何せ僕には自信と呼ばれるそれが一切ないのだ。嫌われたくない、捨てられたくない。だから彼女の云うとおりにしよう。それが間違っているのか正しいのか、そんなことはもう僕にとっては何の意味もなかった。関係性を継続させることが目的となっていたからだ。

 「それから、もう一つ」

 しばし考えるように宙を見つめた彼女は、人差し指を立てて口を尖らせる。

 「滝沢くん」

 「え?」

 「夜の八時半を過ぎたら、滝沢くんに電話をして。何か用かって聞かれたら、うまく行ったからキャンセルで、って言って」

 「キャンセル?なにを?」

 「ふふ、秘密。絶対に電話してね、しないと明日怒っちゃうからね」

 何を言っているのかよく判らない。なんで滝沢の名前がこの流れで出てくるんだ?

 考えても答えは出ないだろう。僕はひとつため息をついた。

 「判った。今日は帰ったらもう家から出ないし、八時半ぐらいに滝沢へキャンセルの電話を入れる。他に何かすることある?」

 「そうねぇ」

 みなみはまた何やら考えて、口を開いた。

 「中間テストのための勉強しないと駄目かな」

 「ああそういえばもうすぐか」

 「私と遊んでるから成績が落ちた、なんて言い訳は絶対に聞きたくないからね?じゃ、今日は一人で帰るから」

 「うん、また明日」

 多分これは彼女が見た、規定された未来。鉄道のレールのように未来へ向かって敷かれた確実な道。そして彼女が一人で未来を切り開く道。

 夕焼けの街を自転車で走り帰宅する。まだ妹は帰っておらず、僕は居間のソファに寝転んで目を閉じ、ぼんやりとした頭で櫻井みなみの言ったセリフを反芻する。

 もし彼女が言うような能力が僕にあるとしたら、ターニングポイントはきっとどの時点にでも設定できるんだろう。そしてレールの行き先ではない地平へ向かうこともできるんだろう。その結果何があっても恨みはしないと彼女は言っていた。でも櫻井みなみは一人でやると宣言した。僕は踏み込んで良いものなのかすら判断できないほどに自信がない。

 それほどまでに櫻井みなみの存在が僕の中で大きくなっていることに、その時僕は初めて気づいた。そしてそれほどまでに大事な存在になってしまった彼女が何かしらの事象と対決しようとしている。

 やはり話を聞くべきだ、と思い僕はスマホを手に取る。今からでは遅いかもしれない。でも何もしないよりは幾分ましだ。登録してある番号から櫻井みなみの電話番号を選択して通話ボタンを押す。通話中を示すツーツーという音がする。居間の中を、まるで檻の中の熊のようにうろうろした後にもう一度電話を掛ける。先ほどと同じ通話中の音がする。ため息をつき、冷蔵庫から牛乳のテトラパックを取り出して中身をマグカップに注ぎ、一息に飲み干してからリダイヤルする。まだ通話中だ。ソファに座り、目を閉じてゆっくり三十ほど数を数えてから目を見開き、さらに電話を掛ける。繋がらない。

 僕は髪の毛をくしゃくしゃとかき混ぜて、もう一度ため息をついてみた。何か気分がざわざわして落ち着かない。こんな気持ちになったのは初めてだ、何か嫌な予感めいたものまで受信している心持になる。そんな時、来客を知らせるベルが鳴った。

 「はーい」

 玄関のドアの外へ届くように声を出し、スマホをソファの上に投げ捨てて僕は玄関へと向かった。一体誰だろうか、たまに父母が頼んだ通販の宅配が届くこともあるので、認印をポケットに突っこんで玄関のドアを開けた。

 えっ、と僕は思わず漏らした。

 そこに立っていたのは、櫻井みなみに見えたからだ。

 いや違う。髪型が違う。髪型と言うか長さだ、彼女より長い。雰囲気も違う。櫻井みなみが凛とした芯の強さを可憐さの中に匂わせていたのと違い、この少女から感じるものは儚さと霞のような存在感の薄さだ。一目見た時はそっくりのように思えたが、見れば見るほどにその違いが際立っていく。目も鼻筋も口元もそっくりなのに全く印象の異なる少女を目の当たりにして、僕は混乱せざるを得ない。

 「あの、長谷川昇さんいらっしゃいますか」

 「あ、僕ですが」

 声も似ている。でも違う、何か戸惑っているような、すっきりとしない何かを感じる。これは疑いだ。ここまで櫻井みなみに瓜二つなのに全く異なる印象を持つ存在に、僕の中の何かが警戒警報を発している。頭の芯がチリチリと爆ぜるように痛い。

 「私は櫻井みなみの従姉妹で牛島藤乃と言います。実はみなみが交通事故に遭って」

 「事故!?」

 「一緒に病院に来てほしいんです」

 脳裏に櫻井みなみの笑顔がフラッシュバックする。交通事故、事故だって?頭の中が真っ白になり、手が震える。どういうことだ、悪い冗談か何かか?

 「車がありますから、行きましょう」

 「いやしかし」

 僕の意思とは別に口が動く。

 「どういうことです」

 「私たちにも詳しいことはまだ……さあ急ぎましょう」

 いや待て不自然だとどこかから声が聞こえる。鼓動がどんどん速くなり、息が荒くなる。混乱する自分、走り出したい自分、そしてそんな中で一人冷静になる自分。

 絶対に家を出るなと釘を刺された。しかしこの少女は親類を名乗って恥じないだけの容姿で僕を誘う。判らない、今何が起きこれからまた何が起ころうとしているのか。

 家の前に停められた白いライトバンの運転席から、苛立った様子の中年女性が降りてドアを乱暴に閉め、つかつかと歩み寄って来る。少女が僕の右手を掴んで後部座席に誘う。

 「早く!」

 中年女性の声に、僕の足は脳からの指令を待つことを放棄して歩き出した。これは仕方ないことなんだ、約束を破るんじゃない。僕は彼女を心配しているんだ。

 一度言い訳を思いついてしまえば、後は罪悪感も疑問も発生しない。走り出した車内でどこへ向かうのかを聞こうと思った時、左脇腹に今まで感じたことのない重い衝撃を受けた僕の意識は、隣に座る少女が手に持ち、僕に押し当てるそれがスタンガンであると理解した瞬間に途切れた。意識の湖底から見上げる空が真っ暗になり、ああ気絶ってこういう感じなんだとまるで他人事のように思った。



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