第6話 友の頼みと黒い影
滝沢は僕の数少ない友人である。
彼について語るならば、まずはその外見について触れなければならない。彼は生来の強面だったが、幼い頃の自転車練習中に派手に転んで左眉毛の外側半分を失ったことがそれに拍車をかけていた。右眉と左眉の鼻に近い半分は難を逃れたが、全体の四分の一を失ったそれらは著しくバランスを崩しており、それを嫌った彼は右側も対称になるように剃り続けている。
また幼少時に蚊柱へ突入した際、髪の毛の中に多数の糠蚊が入り込んだことがトラウマだと語り、その頭髪もまだ一センチほどの長さに刈り揃えていた。ブランコ遊びの際に、何度も飛び降りに失敗して頭に傷を作ったとも語り、その結果として後頭部を中心に幾条もの傷跡を残しているのも特色と言えば特色だろう。
彼と歳の離れた姉は何某かの拳法だか格闘技だかの有段者で、そんな彼の容姿に将来を危惧した姉はせめて護身用にとその技術を叩き込んだ。それが功を奏して、小学校低学年時に発生しかけたいじめの芽を、彼は自らの手で見事に刈り取ったという。成長していくに従って幼児期の愛らしさは影を潜め、小学校卒業時には中学生の不良集団ですら彼を避けて通るようになっていく。
しかし彼の内面は、その外見とは全く異なる成長を遂げていた。漫画に嵌りゲームに浸りそしてアニメに声優にと見事なヲタとして開花していたのだが、彼と彼の趣味について誰もが深く関わろうとしなかったため、それらが露見することはなかった。
そんな彼が僕とどうやって接点を持ったかについては、恐らく彼は自分からは語ろうとしないだろう。ほんの些細な出来事でしかなかったが、その外見と趣味のギャップに対してそれなりの苦悩を抱えていた彼にとっては恐らくかなりのインパクトを持って目の前に現れたことだろう。彼は僕を知り、そして僕も彼を知った。自分を知ってくれている人がいることを理解できれば、孤独もさほど悪くはない。
彼の内面は外見と反比例するかのように繊細で、実に穏やかな海のようだった。既に彼は三次元の恋愛については諦念を決め込んでおり、二次元への偏愛は目を覆うばかりの熱情が込められていた。そもそも一般的な女子は彼の容姿を見た段階でそこから先へのステップを一方的に拒否するし、またそれでも先に進もうとする女子は大抵ヤンキーだのレディースだのと呼ばれる集団の構成員への成長要素を多分に含む者ばかりだった。滝沢はそういった連中を蛇蝎のように嫌っており、そのアプローチに対する拒絶も強烈を極めた。しかし彼がそのように激しく拒絶すればするほどに【硬派】というパラメータが伸びていくようで、それがさらにそういった婦女子を呼ぶことになる。彼自身はさっさと部屋に帰って魔法少女の変身シーンに現を抜かしたいと願っているにも関わらず、にだ。
だから勿論彼が暴力事件を起こしたということは一切ないし、学校をサボるということさえなかった。そうなると今度はその生活態度が注目され、【全てのワルを極めし者、敢えて普通に挑戦】などという意味の判らない伝説が語られることになったが、その頃にはもう滝沢はそんな外野の反応を完全に無視することに決めていた。
「いつかさ」
滝沢は時々、己の願望を僕に語る。
「きっと俺のことを理解してくれる三次元(の女の子)が現れて、ただ何も言わずに微笑んでくれたなら、きっと俺は二次元(の女の子)と別れることになっても生きていけるだろうな。だがそんな日はきっと来ないだろう。来ないことが判っていても妥協は絶対にしないんだ、俺は俺の旗の下で生きる」
どこかの黒衣宇宙海賊みたいなことを言いながらも、彼の目は携帯ゲーム機の画面上に表示されている萌えキャラから離れることはない。ユーモアと機知に富みながらも、その実力を生かす機会を全く与えられないという他人から見たならば割と切ない人生を、それでも笑顔で歩き続ける彼は、今日もお気に入りのアニメとゲームを心の支えに生きている。
「なあ長谷川」
珍しく深刻な顔をした滝沢が、昼休みで人もまばらな教室の中で櫻井みなみと向き合うように座り、彼女のお手製になる弁当をつつく僕に近寄ってきた。
「ん、どした」
「ちょっと頼みがあるんだが、いいかな」
「構わんよ」
言う僕の口元に付いていたらしいご飯粒を、すっと手を伸ばしてみなみが取り、自分の口に放り込んだ。
「ゎぉ」
滝沢の顔から深刻さが消えて、いつものにやけ顔になる。
「本当に君たちは仲がいいよな、見ているだけでご馳走様という気分だ。これで付き合っていないというのが信じられない」
「お粗末さまでした。でも私たちは清い友人関係だから、誤解なきようにね」
にっこりと返すみなみ。彼女には、滝沢がどんな人間であるかを僕から説明してあるので、彼女もまた滝沢に対してごく普通に接している数少ない人間のうちの一人ということになる。
「実はな、うちの姉が見合いをすることになった」
「あれ、もう大学卒業したんだっけか」
滝沢の姉は僕も何回か会ったことがある。武闘派という触れ込みとは全く正反対の、そして実の弟とは全く似ていないすらっとした美人だった。
「既に就職して働いてたんだが、どうもそこの跡継ぎに見初められたそうで」
「なんだ玉の輿じゃないか、めでたい」
「うんまぁそう言われればそうなんだろうが、実は姉は全く乗り気でない」
「なんでさ」
滝沢はふうと大きく息を吐いた。
「伝え聞く話でしかないんだが、どうにも相手の素行が宜しくないらしい。まぁ創業からの三代目という話だから、巷には良く転がっている類の話なんだろう」
たこさんウインナーを噛み締めながら、僕は滝沢の言葉に頷く。
「とにかくまぁいきなり断るのも失礼だという話で、とりあえず一度は見合いの席を設けることになったんだがな」
そこでもう一つため息をつく。滝沢にしては珍しい行動だ。
「姉のやつ、俺に不良のような格好をさせた上で同席させることにしたんだ。こんなのが親族になるんだがそれでも良いかという脅しに使うわけだな。確かに俺はこんな外見だし、姉の役に立つのなら多少泥を被ってもいいとは思ってな、だからまぁ俺としてはそんな形でも姉のためになるのなら、嫌われ役を演じ切ってみせようと思ったわけだ」
「偉い」
みなみは大真面目にそう言って、うんうんと頷いた。
「なかなか出来ることじゃないよ、滝沢くんは優しいね」
「まぁ俺の優しさなんて長谷川のそれに比べたらゴミ同然だけどな。だがしかし、ここから先が問題だ。相手の三代目が、見合いの後にどうしても我が家を見に行きたいとゴネまくってくれたお陰で、何故か全く関係のない俺の部屋まで大公開される運びになってしまった」
「大公開時代の幕開けってことだな」
「いまいちだね」
みなみの辛辣な評価を受け流して、僕は滝沢に続けるよう目で促した。
「そんなわけで、俺の大切な限定DVD-BOXや大量のゲーム機や愛しいフィギュアやタペストリー等を全て一時撤去しなくてはならないのだ。無論抱き枕も添い寝シーツもだ。正直、それらと離れることは身を切られるより辛い。だが姉は既に俺の部屋に飾るダミーとしての不良グッズ類を手配していて、即刻ヲタグッズを撤去せよと命令するのだ。しかし我が家に全てを隠せるような置き場は無く、貸し倉庫などには不安で置けない」
「つまり、僕のところに置かせてくれと」
「すまん!頼めるのは長谷川くらいしかいないんだ、ほんの二、三日で構わない」
「いやまぁ構わないけどさ、貸し倉庫が信頼ならないってレベルでどうしてうちが選択肢に挙がるんだ?普通逆だろ」
滝沢は真剣な顔になる。こいつはこんな表情でも冗談を言える男なので、あまりその言葉に動揺してはいけない。
「いや、DVDや雑誌、ポスターなんかは押入れに入る。ゲーム機は茶の間に、パソコンは父の書斎に紛れ込ませた。問題はフィギュアたちと抱き枕、添い寝シーツなんだ。彼女たちを一見の、信用ならない連中に預けられると思うか?あいつらは物を預かるのに金を取るような連中なんだ、信用なんかできるものか。お前の状況で言うならば、心の中にこっそり秘めた片思いの相手を、軟派でチャラチャラした軽薄野郎共の中に裸ワイシャツとニーソックスで放り込むようなものなんだぞ」
「なんなんだよその具体的なシチュエーションは、お前そういうのが好きだったのか?それに貸倉庫が金取るのは当たり前だろ、それを商売にしてるんだから。それからサラッと変な話を混ぜるなよ、誤解する奴が出てくるだろ」
「ほほう、ノボルくんは恋をしてるんだ。誰かしら、相手は」
さっそく食いつくみなみを無視して、僕は滝沢に話しかける。
「で、どれくらいの量があるんだ?あんまり多いとさすがに難しいぞ」
「いや、もうね」
「そんなに大量なのか」
「見てるこっちが切なくなるくらいの密かな片思いなんだ。残念ながら俺の口からは言えないな、当人がちゃんと言わなきゃだめなんだ」
「いやその話を広げるのはやめろ、僕が片思いしていようが型崩れしていようがこの話には全く関係ない」
「そこまでならさっさと告白しちゃえばいいのにね。頑張りなさいよノボルくん」
ファイト、と両手を握りしめて僕を見る櫻井みなみに、滝沢はやれやれといった感じで首を振った。
「それはあれだ、男の純情って奴だ。判ってやってくれ櫻井さん、こいつは見たまんまの不器用な男だから、イタリア人のように常に情熱的ではいられないんだ。それが九州男児って奴だよな」
「いや確かに僕の母は九州出身だからある意味ハーフの九州男児だけど、でもそういうのは今の話に全く関係ないし、イタリア人に対しても失礼だろ」
「次はイタ公抜きでやろうぜ」
「世界大戦のジョークみたいなのはいいから」
「でもさ、イタ飯ってなんだか【痛んだ飯】の略みたいで気持ち悪いわよね」
「みなみさんも乗っかるのをやめなさい」
「じゃああなたに乗っかっちゃおうかなノボルくん?物理的に」
「セクハラは不許可!」
わざとらしくしなを作る櫻井みなみの頭頂部に軽くチョップを当てて、僕は滝沢を睨んだ。
「話を元に戻すぞ。で、僕はどれくらいの量を預かれば良いんだ?」
「うむ、その話なんだが」
滝沢は襟を正す。
「まぁいい機会でもあるので、コレクションを一部整理したんだ。不要なものについてはオークションで新たな持ち主の元へ旅立ってもらい、残ったものが段ボール箱に三箱と言ったところか」
「それでもまだそんなにあるのか」
「断腸の思いだよ」
ふうと大きく息を吐く滝沢。彼の苦悩を理解するのはなかなか難しい。
「例えば展示用と保存用に二つ買ってあったものがある。展示用は経年劣化で色が褪せてきているが、その色褪せは俺と共に在った時間の証のようなものなんだ。だが保存用は今でも購入時の輝きを失っていない。本来ならば展示用を処分して保存用をメインにすべきなんだが……しかしそうなると、そのフィギュアと共にあった俺の時間をも捨て去るような気がして、かと言って改めて見比べてしまうとその色褪せも気になる。しかも保存用をメインにしたとして、いつかまた色が褪せてしまうのは確実なのだ。ならばやはり両方ともに今のままで置くのが良いんじゃないかとも思ってしまうし、それでは話が本末転倒なのだ」
「UVカットのコレクションケースを買ったらどうだ」
「なんだそれ」
「あれ知らないの?紫外線をカットして、色褪せを防ぐクリアケースがあるんだよ。埃も防げるし一挙両得だ。縦に積めるものもあるから、置き場も稼げるぞ。まぁ完全に色褪せしないってわけじゃないんだろうけど、売れてるってことはそれなりに効果があるんじゃないか」
滝沢の顔がぱっと明るくなって、また深刻な表情になる。
「それをもっと早く知っていれば……いやいいんだ、こうやって失敗を重ねて男は成長していくものなんだ。俺はお前と言う友達を持って本当に良かったと思っているよ」
「そうか、それで結局どうすることにしたんだ?」
「あ、ああそうだな。で、とりあえず俺はエアブラシを一式買い揃えた」
「は?」
エアブラシの名前くらいは僕も知っている。プラモデルやフィギュアの塗装に使うツールで、筆塗りや缶スプレーに比べ薄い塗膜と調色のし易さで一段上の仕上がりとなる道具だ。エアコンプレッサーを使う割と大がかりな機械なのだが、本腰を入れて模型製作をするのであれば必携と言っても過言ではないらしい。
「で、色褪せしたものについては再塗装をする。その練習でガンプラを作りまくって塗りまくっているが、なかなか塗装は難しくて面白いな!」
「そ、そうか」
「で、保存用はそのまま保存することにした。再塗装の際の比較用サンプルとしても使いたいしな」
「じゃあ減ってないじゃないか」
「いや、それ以外に【予備】として買っているものがあってな」
僕はなんだか頭がくらくらしてきた。
「まずはその【予備】について処分した。そして、そういう風に多々買いしていない物件もあって、まぁ俺的に言うならば【二軍】だな。こいつらはもちろん二軍なので表には出していないが、気になるっちゃなるので押さえておいたという物だ。中にはその後の展開で一軍に昇格したものもあるし、逆に一軍から転落したものも混ざっている。具体名を出すと角が立つからやめておくが、まぁ二期とか続編とか劇場版の展開で扱いの変わったものだな。そんな【二軍】も解雇した」
「いや解雇って表現はおかしいだろう……」
「俺としてもかなり思い切ったんだが、まあ別れは次の出会いを呼ぶとも言うからな、とにかくそうやって選りすぐられたメンバーが段ボール箱に三つあるというわけだ」
「ある意味呪いの箱だな……」
「蠱毒か。だがそうやって箱の中で勝ち抜いた最強の萌えキャラが俺の元に来てくれるとしたら、それはある意味諸手を挙げて大歓迎すべきことなんじゃないか?」
狭い箱の中で笑ったまま殺しあい血みどろになったフィギュア達の姿をちらっと想像して、僕はなんだか嫌な気分になってしまった。
「抱き枕カバーと添い寝シーツも入れてある。もちろん防虫剤も完備しているが、決して長谷川宅が信用できないというわけじゃないんで気を悪くしないでくれ」
「いやいや、開けないから大丈夫だ。だいたい箱の中身たちだって、お前以外の人間にまじまじと見つめられたくはないだろうしな」
「本当に長谷川は優しいな。何か困ったことがあれば言ってくれよな、必ず恩返しさせてもらうから」
「そんなに気にすんなよ」
感動している滝沢を尻目に、僕は弁当の残りをひょいひょいと口に放り込んだ。もうじき昼休みも終わってしまう。そんな僕の様子を見て、みなみも食事を再開した。
「じゃあ今晩持っていくから、よろしく頼む」
「ああ、来る前に電話かメールしろよ」
「合点」
滝沢が去って行っても、もはや僕と櫻井みなみの関係について色々詮索しようとする人間が近づいてくることはなかった。それはもちろん、彼女が淡々と二人の関係について核心を除いた部分のみのざっくりとした説明をしたからで、その垣間見える意志の固さに不満を漏らす男子も皆無だった。みなみにも勿論女子の友人はいて、授業間の休み時間については彼女たちと、そして昼休みと放課後は僕と共に過ごしている。バランスは取らないとねとみなみは笑うが、その笑顔の下には割と多大な気苦労があるように思う。だからせめて、二人の時間では彼女のペースに合わせないとな、と僕は思うのだ。
そうこうしているうちに午後の授業が始まり、そして終わる。
自転車の荷台に合うサイズの座布団を、櫻井みなみは自分で作っていた。普通サイズのものを折り畳むと安定性に欠ける上バッグに仕舞い辛いということで、丁度良いと思われるものを自作したのだと言う。流石に登校から二人乗りは恥ずかしいので帰りだけね、と言われても僕にはその差がいまひとつピンと来なかった。多分朝は全校生徒がほぼ同一時間帯に登校するが、下校については部活動や委員会などで散らばることが理由なのではないかと推測している。どっちにしたって校門から出て大きな国道に出るまでの道は学校の敷地に沿っているから、テニス部やら野球部やらが練習をしている横を柵一枚隔てて走り抜けることになるし、呼ばれれば笑顔で手を振って応えているのであまり衆目から逃げているようにも思えないのだけれど。
とにかくそんな感じで帰ろうと自転車の荷台にみなみを座らせてロータリーを抜けると、突然校門を塞ぐように他校の女子生徒と思しき制服が三人ほど進路に立ち塞がった。
「うおっと」
僕は慌ててブレーキをかける。まだ距離はあったので急ブレーキにならないよう、後ろのみなみを振り落とさないよう細心の注意を払ったつもりだが、いまひとつその注意が反映されたような減速度にはならなかった。背中につんのめるみなみの体重を感じ、僕は内心にんまりする。嬉しいアクシデントというやつだ。
「ふふん」
顔を上げると、中央の女子が腕組みをしたまま、ずい、と前に出た。勝ち気そうな釣り目が印象的な、今風の美少女である。しかしその微笑みは親愛の情ではなく、敵意を含んでいるように見えた。
「お久しぶりね、櫻井みなみさん」
「あら、誰かと思ったら……山田さん」
「山本よ」
きつい調子で訂正する腕組み女子。右には眼鏡っ子、左にツインのお下げっ子を従える彼女の着ている制服が、この地区で一番偏差値の高い学校のものであることに僕はようやく気づいた。みなみは自転車から降りて、僕の前に立つ。
「こんな場末の公立高校で燻ってるあなたが、早速男を誑かしたと聞いてわざわざ見学に来てあげたんだけど」
おいおい今時こんな明確なライバル的存在みたいなのってあるのかよ、と僕は心の中で状況に対してツッコミを入れる。そりゃまあ現実として目の前でそういう光景が繰り広げられてはいるのだが、その非現実さに僕は唖然とする。
「ふふ、よくもまああなたにお似合いの冴えない男子を手に入れたものね?そんなのどこで拾ってきたのかしら、保健所から戴いてきたの?」
割と酷いことを言う女だな、と僕はムッとする。そりゃ確かにこの場で一番劣る容姿の持ち主は僕に違いないけれど、初対面の相手からそこまでの敵意を向けられた経験という物がそもそもない僕にとって、怒りや憎しみよりも【こういう人間もいるんだ】という単純な衝撃の方が大きかった。
「傷つく必要はないよノボルくん。あなたの良さは私だけが理解していればいい。そこの山口さんには一生理解できないし、する必要もないことだわ」
「山本よ」
苛ついているのが手に取るように判る口調で、腕組み女子は訂正する。ああなるほど、こうやって会話の中の主導権を握るのがこの相手に対する攻略法なんだなと僕は思った。
「まあ、県下一の進学校たる我が城西学院に落ちる程度の頭ですものねみなみさんは。そのくらいなら、そこの彼程度がお似合いということなのね」
両脇の手下二人もくすくすと嘲るように笑う。僕も何か言うべきなのかと考えた瞬間、みなみは口を開いた。
「物事を表面だけで判断するのはあなたの悪い癖だわ山根さん。だからいつもイケメンを捕まえたとはしゃいで、結局すぐに価値観の違いを理由に別れを切り出されるんじゃないの?」
痛いところを突かれたらしく、ぐぬぬとたじろぐ腕組み女子。彼女とみなみの過去に存在した対立構造の一端を、僕は垣間見た気がした。
「彼は実に素晴らしい友人よ。私にはね、彼が本当に必要なの。彼抜きでは将来設計が成り立たないくらいにね。それに、私はいつも本当に必要なものしか手にしないってこと、あなたも知っていたわよね山寺さん」
何度も呼び名が変わっていることが、たぶんみなみなりの親愛の印なんじゃないかと僕は思った。関心がないことは割と手短に、失礼の無いように済ませるのが彼女の流儀だとここしばらくの付き合いで判ってきていたからだ。
「でもそれは私の価値観だから、あなたにとって彼がゴミ同然というのもあり得ない話ではないの。でもそれでいいのよ、さっきも言った通りに彼の良さはこの世界で私だけが気づいていればいいし、むしろ他の誰にも理解して欲しくない部分なの。そういう意味では、私にダメージを与えるつもりで言ったあなたのセリフ、むしろ有り難いわ」
褒められているのか貶されているのかいまいち判らなかったが、僕の前に仁王立ちするみなみの言葉が力強く心地よく響いてくるので、まあどちらでもいいかと思い直した。過分に刺激的な言い回しは含むものの、全体としては肯定されているように感じたからだ。
「それに県下一の進学校ね……山下さんあなた気づいてる?平々凡々なうちの学校だって、一流大学への推薦枠はそれなりに確保しているの。あなたがこんな所に出張って無駄な時間を使っている時に、あなたが誇る進学校の同級生たちは何をしてるのかしらね?そして偏差値七十を超えるそちらのなんとかという学校と、偏差値五十程度の我が校ではどちらの方がトップクラスを維持しやすいと思う?まああなたが特進コースに入れたのだったら良くわかる話だけど、さてあなたは何コース?」
たじろぎながらも腕組みを崩さないその根性だけは褒めたものだ、と僕は思う。山なんとかさんと連れの二人は似たような表情を浮かべて立ちつくす。これは焦りと苛立ちだ。そんな様子にひとつ溜息をついて、みなみは続けた。
「無理をして背伸びをして、一旦は先に行くけれど最終的に負けるのがあなたのいつものパターンだったよね山之内さん?いい加減学習して、他人を自分の価値観だけで計るのをやめなさい。私は別にあなたに敵対する意志はないし、あなたの存在についてとやかく思うこともないわ。一方的にライバル視するのは構わないけど、自分を成長させない限りどこへも進めないわよ?そういうのはライバル関係って言わないと思う。それから川本さんと橋口さん」
「川田よ」
眼鏡っ子が反論する。
「橋爪よ」
ツインテールも抗弁する。
「高校生になってまで金魚の何とかみたいにくっついてないで、折角進学校に入ったのだから学業に身を入れたら?まぁやりたくてやっているのなら私に止める義理もないんだけど、もし少しでもおかしいと思っているのなら、相手に合わせるだけじゃなく苦言を呈するのも友人の務めだと私は思うよ」
三人の歯軋りが共鳴して聞こえてきそうな状態になったのを見届けて、みなみは再び自転車の荷台へ座る。
「さ、行きましょうノボルくん。これ以上は時間の無駄。私たちの青春は一度きりしかないんだから、二人でもっと楽しいことしましょ」
僕はなんだかこの三人がものすごく可哀想になってきたのだが、少なくともこの真ん中の腕組みが僕を冴えない男だと評論したことは覚えていたので、それ以上感情移入するのをやめて自転車を漕ぎ出した。
「ああそう」
そして最後にとどめの一言。
「城西学院には願書を出しただけで受験してないの。中学の担任がせめて願書だけでもって言うから、受験料担任持ちで書類だけ出したんだ。最初からあんな学校に行く気なんて、まるでなかったのよ私」
ふふ、と背中の向こうで静かに笑う気配がした。
「お互い、幸せな未来にたどり着けるといいわね」
頑張らせていただきます、と僕は心の中で呟いてペダルを踏み込んだ。
実は、僕は軌間9ミリの鉄道模型、所謂Nゲージに凝っている。元々は海外にいる伯父のコレクションを一部譲り受けたことが始まりだったのだけれど、親戚内に愛好者が出来たことに喜んだ伯父は、通信販売で新製品を購入して僕に送ってくるようになった。こんな高額な物を度々送られては教育に悪いと母は驚愕して抗議したが、伯父は自分のコレクションを預かって貰っているだけだからと全く意に介さなかった。基本的なルールとして壊さない、色を塗り替えない、大規模な改造を施さないという三点さえ守れば自由に遊んでくれと言われていたので、数か月に一度送られてくる新製品を僕は胸をときめかせながら待つのだった。
もちろん伯父のコレクションという前提だったから、僕が知らない形式やあまり興味のない車両の模型が送られてくることもあった。それでもとりあえずはレールの上に並べてスマホで写真と動画を撮り、伯父へ送る。伯父からはその造形に対する感想や、特に気になった部分について再度写真を欲しいとの希望が届く。そして僕はその願いに沿った写真を撮りなおして伯父を満足させる。そんな感じで、僕と伯父は模型についてやりとりを続けていた。
伯父の住む外国まで模型そのものを届けるにはかなり高額な配送料がかかり、またその確実性も微妙なラインということで母に対する説得は行われたらしい。事実、向こうからこちらに届く手紙も二通に一通届けば良い位で、こちらから送った衣服や小物などの包みも到着までに年単位の時間がかかったこともある。インターネットは使えるので、通信販売で注文と決済は可能なのだが商品を確実に受け取れないのでは本末転倒である。
とまぁそういった感じの状況を鑑みた結果、今の状態があるわけだ。僕としてはほぼ無償で最新の模型を楽しむことが出来るし、親戚の役に立つしと非常に満足していた。ただ伯父がいつ帰ってくるのかという点が僅かに気がかりだった。
基本的に僕は管理者であって所有者ではない。返せと言われれば即刻返さねばならない立場なので、そういう意味では所有欲を満たすことは不可能だ。しかも定期的に新商品が手に入る環境に慣れすぎていて、その供給が途絶えたときのことを考えると空恐ろしい。当たり前と思っていることが実は当たり前でないと理解したとき、果たしてこれまでの利権を簡単に諦め切れるものなのだろうか?
だから僕は、とにかく模型をいじる時に別のことを考えないようにしている。今はこれに集中する、それでいいじゃないか。何かあったらその時だ。
そして今日、そんな僕の時間になぜか櫻井みなみが存在していた。
「すごいねこれ」
小さいながらも銀色のロッドを動かして、実物さながらに動く蒸気機関車の模型を見つめてみなみは感嘆の声を上げた。ここ最近の製品はさらに精密度を増しており、その圧倒的な情報量の前に人は圧倒される。
「男の人がこういうのに夢中になるのって、なんだか判る気がする。世界がぎゅっと小さくなったみたいな感覚」
ため息をつきながら彼女は言った。
「なんだろうね、見ててわくわくする感じっていうのかな?」
「うまく言葉に出来ないけど、こういうのってなんだか楽しいんだ」
「うん、楽しい」
しばらく周回軌道を巡る列車を二人で眺めてから、共働きの両親と部活動に熱心な妹が帰宅する前に櫻井みなみを彼女のお屋敷へと送り届け、暗くなるのがずいぶんと早くなった町を一人自転車で駆け抜ける。街灯が点り、夕餉の支度があちこちで良い匂いを放ち始めた街角に自転車を滑らせたその時、道の左側にある電信柱の影からいきなり飛び出して来た黒い影に、僕は驚いてハンドルを切った。
こういう時にフルブレーキは僕の経験上、危険だ。その飛び出してきた何かが明確な意思を持って立ち塞がろうとしている場合には、大きくフェイントをかけながらでも速度は落とさないほうが良い。
右に顔を向けてそちらに行くと思わせておいて、一気に左……つまりそいつが潜んでいた方向へと一気にハンドルを切る。つまりその影は反復横跳びを強いられる格好だ。だいたい反復横跳びなんて体力測定の時くらいにしか登場しない運動だから、不意にやれと言われてもそんなに上手くいくはずがない。まぁこんなものは単に理屈を並べたに過ぎないから、もしこの影がバスケットボールやサッカーをしっかりやり込んでいる者ならたぶん通用しないだろう。それでもこういう闇討ちに近い卑怯さは、そういったスポーツマンとは程遠い地平にいる者の仕業だと思うので、こう対応したまでだ。
目論見は成功し、僕は見事に影の左側三十センチの距離を通過した。そしてその手が荷台の金具を求めて伸びるのを、一気に加速してすり抜ける。心臓がばくばくと激しく鼓動をするが、僕はもう影の正体など暴くつもりもなく、そのままの速度を保ったまま自宅へと自転車を走らせた。角をいくつか曲がり、橋を渡って馴染みのある町内へと進入する。ポケットの中でスマホが振動し着信を知らせたので、僕は自転車の速度を落として電話に出た。
「おう長谷川、俺だ。そろそろ行ってもいいかな」
「ああ、判った。手伝わなくていいのか?」
「姉の車に積んで行くから大丈夫だ」
「ん、じゃあ待ってる」
暢気な滝沢の声を聞いて、僕は落ち着きを取り戻し始める。そしてさっきの影について思いを巡らせてみたが、どうせ単なる変質者か不良の仕業だろうと結論付けて自宅へ帰った。もう周囲は暗く、今更正体を確かめに戻る気にもならなかったからだ。
家に帰り、部活から帰った妹が料理を始めているのを適当に手伝っていると玄関でチャイムが鳴った。
「滝沢かな、ちょっと出てくる」
「はいな」
深めのフライパンを振り回しながら答える妹を台所に残し、僕は玄関へ向かった。重いドアを開けると、そこには段ボール箱を抱えた滝沢が、全く似ていない姉を伴って立っていた。
「よう、早かったな」
「ごめんね長谷川くん、無理な頼み聞いてもらって」
「いや、段ボール箱三つくらいでしょ?問題ないですって」
「ほんとねー、この子も三次元に興味持ってくれるといいんだけど」
「それは言わない約束だぞ姉ちゃん。だいたい俺がそっち方向に走ったら、何もしないうちから完全に犯罪者扱いされるのは目に見えてんだよ」
ぼやく滝沢は、ぶつぶつ言いながら段ボール箱を玄関に置いた。
「それに、俺はまだ若い。今後宗旨替えしないとも限らないだろう?そういうのは自発的に変わるのを待たないと、また妙に歪んだ人間になっちまうんだ」
「言うことだけは一丁前なんだから」
その言葉に反論せず、滝沢は表に停めてある軽自動車の後部座席から二つ目の段ボール箱を持ってきて、積んだ。
「いやでも、僕も滝沢に色々助けてもらうことがあるんで、これくらい何てことないですよ」
「へぇ、そんなこともあるんだ?」
「まぁ長谷川は俺の数少ない三次元の友だからな。信用には信頼で応える、それが俺のやり方だ」
実に格好の良い台詞を吐いて三つ目の段ボール箱を取りに向かう滝沢。その段ボール箱の中身がヲタグッズでなければ、と思ったがそれはきっとどうでもいい事なんだろう。この己を弁えた誠実な男の本質は、その趣味の方向性で変わるものではないからだ。
僕は滝沢が僕のことを信頼してくれたことを嬉しく思うし、だからこそ彼のことは第一に信用して行こうと思っている。そういった繋がりを親友と呼ぶのであり、お互いの本質を認め合ってしまえばそこから先は些細な問題でしかない。
ただまあ彼が暴走するような場合には止める事もあるし、諌める事もある。その点については、行動力のある滝沢が主に暴走し積極さに欠ける僕がブレーキをかけるという感じの役割分担が成立しつつあるのだが、多分僕が暴走したとしても滝沢は止めに入ってくれるに違いない。
滝沢の姉がお見合いのことを話題に出す様子がないので、僕からあえてその話をする必要もないと思った。事情に深入りできるわけもないし、する必要もない。例えば僕が昔から彼女に対して憧れていたとか初恋の相手だったとかそういう因縁でもあれば話は別なんだろうけど、残念ながらそういった状況は一切無い。親友の姉でしかない彼女のプライベートな話題について、わざわざ僕が出しゃばる必要などどこを探したって見つかりようがないのだ。
「ここでいいのか?部屋まで運ぶが」
三つめの段ボール箱を積んで、額に浮いた汗をハンカチで拭いながら滝沢は言う。
「いや、ここでいいよ。後は僕がやる」
「そうか、じゃあ頼んだ」
「ああ」
遠ざかる軽自動車のテールランプを見送って僕は家へ入り、自分の部屋へ段ボール箱を三つ移動した。中身はフィギュア類と聞いていたので、重さはそれほどでもなく割と楽に移動し終えた頃にリビングから僕を呼ぶ妹の声が響いた。今日の夕食はカレイの煮付けとほうれん草の胡麻和え、あさりの味噌汁と大根のサラダという献立だった。
結婚後、働いていた母は僕と妹の子育てのために休職していた。僕が中学生になった時、簡単な家事くらいは僕に任せても良いだろうという判断で復職し共働きに戻った。そして僕が高校生になり、妹が中学生になったのでその役割を妹に引き継ぐことになった。簡単な下ごしらえやメニューの組み合わせなどは母が決め、また材料の買い出しなども全て母がやってくれているので実際の作業だけで済むというのは負担が少なくて良かったと思う。これで全てをやらされていたとしたら、とてもじゃないが部活も友人と遊ぶことも不可能だったに違いない。
父譲りの几帳面さを持つ妹は、僕が中学校に上がった瞬間から家事をやらされていたのを見ていたので、自分にもその運命が降りかかることについては心の準備を終えていたらしい。そして割と手を抜くことの多かった僕を研究していたらしく、僕の数段上の完成度を初っぱなから見せつけて家族を驚愕させた。
「だいたいね」
妹は僕にいつも文句ばかり言う。
「お兄ちゃんはいつもいい加減過ぎるのよ」
「そうか?」
「ちゃんと事前に調べて、どう動くかをシュミレートしておけば限られた時間でちゃんとできるんだから」
「そうか。でもシュミレートじゃなくてシミュレートだ」
「揚げ足取らなくていいから」
いつものことながらお前の料理はうまいな、と褒めただけでこんな調子である。僕にはとても無理だと言うと、妹はいつも頬を膨らませて文句を言うのだ。
「いつもいつもそうやって無理だって諦めちゃってさ、ちゃんとやればこんなの誰にだって出来るのに」
「その【ちゃんとやる】ってのが難しいんだよ」
「あのね」
妹が苦言を呈するのは、多分僕にちゃんとした兄になって欲しいからなんだろうと思う。いや、ただ単に駄目な兄貴に駄目出しをしているだけなのかも知れないが。
「失敗は成功の母っていうけど、それは失敗を失敗のままにせず反省して、そしたら成功するっていう話だからね?お兄ちゃんみたいに失敗のまま放置してたら、うまく行かないのは当たり前なんだから」
「別に放置してるわけじゃないぞ、ただそこまで改善の必然性を追求しないだけだ」
「追求しなさいって」
「まあそういう意味で言うならば、つまり僕はお前のために失敗してやってるんだぞ」
「何それ」
「つまりだな、兄であるところの僕があえて失敗をして見せることで、妹であるお前はそれを糧に成長できるんだ。自分の身を痛めずに伸びることができるなんて、幸せ者だな」
「屁理屈」
そんなことは百も承知だ、と言おうとしてやめた。これ以上の開き直りを見せると、妹はいつも泣く。泣いた妹には家族の誰も敵わない。
「ま、僕も高校生になったことだし、これからはそれなりに反省することにするよ。それでいい?」
「うん」
あと三十分もすれば両親が帰ってくる。それまでに僕と妹は食事を終えて、次に食卓につく両親のために準備をしなければならない。急がず慌てず食事を終えて皿を洗い、後を妹に任せて自室に戻る。後は寝る前に一度居間に向かい両親に挨拶をするのが僕の日課だ。
明日の授業に向けて教科書と副読本を用意し、カバンに詰め込んでから宿題のなかったことを頭の中で再確認する。僕だっていつまでもグダグダのままではいられないことくらい、判っている。未だに現実とは信じがたい彼女の存在がその理由だ。その存在をもっと現実味のある事象として受け入れるためにも、僕はもう少ししっかりしなければならない。彼女の旧知の人間に、彼女が失笑されないためにも。
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