第5話 仲のいいお友達と未来を見る力
物事は唐突に始まる。
「帰ろうよノボルくん」
その声に教室中の喧騒が止んだ。台詞を発した人間、櫻井みなみ。台詞を向けられた人間、長谷川昇。つまり僕。二人の人間に、周囲の視線が集中した。
「え、おいさく」
途中まで言いかけた僕に、櫻井みなみは絶対零度の視線を送りながらも、表面的には可愛らしくウインクをして見せた。僕の脳裏に【リピートアフターミー】と明瞭な彼女の声が甦り、そして周囲の驚きの視線が突き刺さりまくっている現状に気づく。顎の痛みまで甦ってくるような気がして、僕は背筋に冷たいものを感じた。
「……判ったよみなみさん」
主に男子が戸惑いと失望に満ちたどよめきを発し、次いで女子が羨望と好奇心に塗れた視線を向ける。カップルとしては全く釣り合っていないし、こちらには全くその気もないのだが周囲の人間にはそんなことはどうでもいいらしく、教室に居づらい雰囲気になってしまった。
僕は手早く机の中の教科書やノートをカバンに放り込むと、櫻井みなみと共に早足で教室を出た。しばらくして教室からどっと歓声が沸いたが、僕は振り向かず無言のまま下駄箱で靴を履き替え、自転車置き場まで来て初めて櫻井みなみに向き直った。
「説明が必要だと思う」
「説明は必要かな?」
櫻井みなみはにこにこと微笑みながら言う。
「僕にも、クラスの連中にも説明は必要だと思う。連中は絶対に誤解してるし、僕も正直混乱してる」
自分の声が震えているのが判る。これは怒りではなく、理解不能な現実と状況に精神と肉体がうまく対応できていないのだ。
「誤解かぁ。別にさせておいてもいいんじゃない?」
「よくない」
僕は自分の声の大きさに自分で驚いて、周囲をキョロキョロ伺った。大丈夫、誰もいない。僕は一度深呼吸をして、今度は少し声のボリュームを抑えて、言った。
「よくない」
言ってしまってから、教室の中の好奇や嫉妬に満ちた雰囲気を思い返す。
「もう一度言うよ、よくない。君はクラスの憧れで、僕は【そんな人いたんだ】って感じの存在だ。しかも今まで特に接点も無いように見えた二人が、互いを下の名前で呼び合うなんてこれはもう思いっきり事件だよ」
「そうかな」
笑顔を崩さずに、そして無邪気に返す彼女。
「だって私たちは仲のいいお友達でしょ?名前で呼び合うくらいは、ごく当然のことだと思うな」
「その【仲のいいお友達】っていうのさえ、クラスの連中は知らないんだぜ?それに図書室で君は【二人きりの時くらい】って言ったはずだ。
それからもし君が本気で僕のことを友達だと思っているのなら、クラスの連中に訊かれたときにちゃんとそう答えて欲しい。もしあのノートのことで僕にゆさぶりをかけているのなら、僕は誰にも洩らそうなんて全く思っていないから安心してくれ。だいたい僕はあれが何なのかさえ知らないんだ」
「もし、っていうのはひどいなぁ。私はあなたをちゃんと友達だと思ってるよ。でも説明の必要性については了解したよノボルくん」
ウインクして舌を出し、腰を曲げて敬礼してみせる櫻井みなみ。ここまでの経緯を知らない人間が見れば、実に素晴らしい光景なんだろうなと僕は思う。だが今の僕には、正直裏に隠されたおどろおどろしい闇が漏れ出ているようにも見える。
「まぁ悪いようにはしないから大丈夫、任せて。私だってクラスの中でやりにくくなるのはごめんだしね」
「そうしてくれると助かる。それと」
僕の言葉の続きを聞こうともせず、櫻井みなみは自分のバッグから二つ折りにした薄い座布団を取り出して、僕の自転車の荷台に敷いた。やけにバッグが膨らんでいると思ったら、そんなものを入れていたのだ。座布団をポンポンと軽く叩いた後、横を向いてひょいと乗る。
「さ、帰りましょ」
「いやいやいやいや」
僕は首を横に振った。
「櫻井も自分の自転車あるだろう」
「んー?」
「だから、自分の自転車で学校に来たんだろ?」
「誰が?」
こいつはわざとやっている。僕の口から望む言葉が出るまでとぼける気なんだ。そして僕はこういう厄介事に耐性がない。耐性がない上に諦めも良い。
「……みなみさん」
「なあにノボルくん」
「今朝は自転車で来たんじゃないの?」
「ううん、歩いてきたよ。散歩は体にいいんだよ、特に朝は爽やかだもの」
「そうだね、そうかもね。で、帰りはどうするの?歩かないの?」
「うん、歩かないの。それにね」
櫻井みなみが急に真顔になる。僕も釣られて真顔になる。
「説明が欲しいんでしょ」
櫻井みなみを後ろに乗せ、僕は自転車を走らせる。左手を僕の腰に回し、左側を向いて座る櫻井みなみの影を横目で見ながら僕はペダルを漕いだ。国道の脇を走り農道を抜け大きな川の堤防に差し掛かった時、彼女が停めてというので自転車を停めると、ぴょんと飛び降りた彼女は大きく伸びをして、ぴょこりと頭を下げた。
「ごめんね」
「え?」
突然の謝罪に僕は戸惑った。何に対する謝罪なのか、何を許せば良いのか。
「どうもうまく行かないんだ、君に関すること」
「え」
「でもありがとう。君も私を名前で呼んでくれたから、私一人変な人扱いされなくて済んだよ」
「その調子できっちり説明してやって欲しいな、お友達の件は」
「判ってる。そのあたりは任せて、悪いようにはしないから」
「そうあって欲しいよ。で、どうしてこうなったのかについての説明も欲しいな」
「そうねえ」
彼女は顎に手を当てて、何やら考える素振りをした。
「あなたを私の特別なお友達にしたかったから、という説明では不足かな」
「足りないと思う」
僕はため息をついた。
「どうして僕なのか、なんで今なのか。これはあのノートに関わることなのか、そもそもあのノートは何なのか、それから悪魔ってどういうことなのか。全ての情報が足りないんだ」
「そうよね、やっぱりそうなるよね」
自分に自信がないわけではないけれど、彼女のような人間に選ばれることを当然に思うほど僕は自惚れていない。何か大きな理由でもない限り、彼女が僕のような人間を友人に選ぶメリットなどあるはずもないのだ。それほどまでに櫻井みなみは学年内で目立つ存在だったし、それほどまでに僕はクラス内で埋没した存在なのだ。
「一から説明すると、ものすっごく長い話になるよ」
「お手軽には説明できないんだ?」
「というより、多分信じてもらえない。ノボルくん割と疑い深いでしょ」
「そりゃまあ人並みには疑い深いと思うけど」
「まずね、ノボルくんがノートの中身を読んでないって判ったから、私はあなたとお友達になろうと思った。もしあなたが中身を読んでいたとしたら、たぶん私はあなたと関わり合いになろうとしなかったと思うよ」
「……よく判らないな、でもその話の細かいところまで聞いてしまっていいのかい?本当は隠していたい事なんじゃないの?」
彼女は困ったように笑った。
「うん、隠していたい。でもね、私はずっと前から、いつかこの事を誰かに話さなきゃいけない時が来る、誰かと共有しなきゃいけない時が来るって思ってた。それがきっと今で、その誰かがノボルくん、あなたなんだと思うんだ」
「またよく判らないな。つまり今ここに僕がいるのは必然ってこと?」
「うん、そこは必然。話す相手はノボルくんで間違っていないと思う」
みなみが歩き出したので、僕も自転車を押しながら並んだ。堤防をしばらく歩き、そして雑木林を抜けて閑静な住宅街へと道は続く。
「断定できるんだ」
「そうなの。私ね、未来が見えるんだ」
「未来」
そう来たか、と僕は内心げんなりする。女子の口からこういった話が出る場合、大抵は出鱈目な思い込みなのだ。前世を覚えているだの霊が見えるだの、よくもまあそんな事を思いつきそして信じられるものだと思う。そしてこの聡明に見える美少女が、そんな残念な物件だったのかと思うとがっくり来た。
「あー、ノボルくんはたぶん、私をおつむの弱い美少女だと思ってるでしょ」
「美少女ってところは強調するんだ……」
「いいのよ無理もないわ、こんな話を聞けば誰だってそう思うもの。だけど、私が今こうしている説明においてこれは大前提なの。私は未来が見えるし、枝分かれする未来から最善とは行かないまでも、より良いと思われる未来を選んできた。だからノボルくん」
櫻井みなみは僕の自転車から自分の座布団を回収すると折り畳んでバッグに詰め込み、そして微笑んだ。
「あなたと仲良くなるっていうのは、私の人生において非常に大切なことなの」
「なんだか壮大な話になってきた」
「そうよ、壮大な話。だから今日はこれから宝くじ売り場に行って、スクラッチを一枚買ってね。絶対に損はさせないから疑わないで。さっきの話からそこまで一セットで、説明のための前提条件なの」
「ふむ」
「で、ここが私の家。場所をちゃんと覚えてよね?」
僕の住む家の十倍はあろう広さの敷地に立つ立派な【お屋敷】を指して彼女は笑った。竹林と雑木林に囲まれたそれは、地方の旧家という存在そのもののように思えた。
「じゃあまた明日ね」
と手を振って立派な構えの門の中に櫻井みなみは姿を消した。
僕はひとつため息をついて自転車に跨り、帰る途中のホームセンターに併設されている宝くじ売り場でみなみの言うようにスクラッチを一枚買った。結果として賞金一万円を手に入れた僕は、その晩うまく眠ることが出来ず、次の朝にはぼんやりと霞がかかったような頭のまま学校に行かざるを得なかった。
始業前で教室がざわついているのはいつものことで、そんな雰囲気は廊下からでも容易に察知できた。僕はと言えば、昨日のこともあるので微妙に教室へ入りづらい心持だったが、だからと言ってここから回れ右をして帰るわけにもいかない。成績凡庸、授業参加に対する熱意ほぼゼロの僕と言えど、出席数だけはきっちりと確保しておきたい。
まぁぶっちゃけてしまえばサボるだけの勇気も自信も無謀さも持ち合わせていない単なる小市民的学生にすぎないのだけど、そうあり続けるというのはどんなことでも難しい。継続は力なりとはよく言ったものだよな、などとどうでもいい方向に思考をずらして渋る足を前に進める。
引き戸を勢いよく開けると、クラスメイトたちの視線が一気にこちらへ集中した。視線の圧力に内心僕はたじろぐが、顔に出さないよう留意していたのでそのまま自然と思われる表情を維持して自分の席に向かう。
ざわざわと雑音の中から、色々な単語が耳に飛び込んでくる。男子の嫉妬、女子の噂。席に着いた僕の所へ、滝沢がにやにやと締まりのない笑顔を浮かべながら近寄ってきた。ポケットに手を入れてガニマタで歩くその姿はまさにチンピラそのものだが、彼の中身は単なるヲタ野郎だ。
「いよう長谷川、今朝は元気かね」
「よう滝沢、まぁいつも通りだ」
「しかしやるもんだね旦那」
「なんだよそれは」
ひっひっひと下卑た笑いを継続したまま、滝沢は続けた。
「まさかお前が櫻井とねー……どうやったんだよ、どう考えてもフラグ立たないだろ」
「フラグとか言うなよ、ゲームじゃあるまいし」
それでも僕は今、滝沢にある意味感謝していた。と言うのも、その外見から彼は不良と誤解されており、そんな彼がいの一番で寄ってきてくれたおかげで他の人間が僕に近づけなくなっているからだ。つまり好奇心に対するバリヤーとして作用してくれているわけだ。
「それに、別に付き合ってなんかないぞ」
「付き合ってるかどうかなんて関係ないんだよ。相手があの櫻井みなみだからな、それだけでギャラリーは盛り上がってるんだ」
「え?それだけでか?」
「お前にも見せたかったよ、昨日お前たちが出て行った後のクラスの連中の反応をさ」
さも愉快そうに言う滝沢の背中の向こうに櫻井みなみを見つけた僕はげんなりする。彼女がこれまで見せたことのないような、素敵な笑顔で小さく手を振っていたからだ。周りの女子共がきゃーきゃー言うのも聞こえる。
「今まで地味にやってきたお前も、これで一躍クラスの有名人ってわけだ」
「お前にだけは言われたくないよ」
「俺は三次元には全く興味ないんでな、競合しない分素直に応援するぜ?」
「勝手に言ってろよ」
「ま、落ち着くまではうろついててやるよ。お前は大事な友だからな」
自分の役割を判っているというこの発言。滝沢は見た目が怖いが実際には暴力反対、平和主義な人間であり濃厚なヲタクだ。そんな彼が僕を友と認めて憚らないのにはいくつか理由があるのだが、その説明についてはまた別の機会にしたい。とりあえず今はこいつの厚意に甘えておくとして、少しでも早い時期に櫻井みなみを捕まえて真意を問いたださなければならない。
だが残念なことに、授業間の10分休憩で僕が櫻井みなみに近づくことはできなかった。事情を知りたいという欲求に駆られた女子生徒達が櫻井みなみ周辺に鉄壁の人垣を築いてしまうからだ。そしてそんな僕の状況を察してくれているのか、それとも単に新しく発売になったゲームのヒロインについて語りたいだけなのかは判らないが滝沢が僕の周辺にいてくれるので、みなみを巡った男子による無用なトラブルは発生しなかった。
午前中最後の授業が滞りなく終了し、教師が退出すると教室の中は一気に騒がしくなる。昼休みの時間は、いつも餓えた獣たちのざわめきで教室は満たされるのだ。
僕は通常独りで学食を利用しているのだが、今日は面倒なことになりそうだと事前に察知していたので、朝一でコンビニに寄り菓子パンを買ってある。相も変わらず女子の人垣に櫻井みなみは囲まれたままに見えたので、僕はため息をついて鞄から菓子パンを取り出そうと手を伸ばした。
「ノボルくん、お昼にしましょう」
その声に顔を上げると、そこには満面の笑みを浮かべながら弁当箱を二つ持った櫻井みなみが立っていた。
「さく……みなみさん」
目が一瞬で殺気を放ったので、僕は慌てて言い直した。
「お弁当、作ってきたよ?」
きゃーと黄色い歓声が沸きあがり、男子の舌打ちも散発的に発生する。この櫻井みなみがする一連の行動の裏にある真意といったものを測りかねる僕は、その表面的な可愛らしさとか嬉しさとかそういったものを一切真正面から受け止めることができない。表面上の親しさが重なるほどにその違和感は増大していく。
確かにこいつは悪魔だ、と僕は思った。ここまで僕は、別に自分から積極的に彼女に関わろうとしたわけではない。むしろ彼女の側から何か僕に対して思うところがあってか接近してきているわけであって、しかも彼女の持つ秘密めいた能力を一方的に打ち明けられて、さらに逃げることができない立場へと追いつめられている。
「あんまり自信ないんだけどね、お口に合うといいな」
「おい櫻井」
僕は周りに聞こえないように囁く。
「これは一体どういうつもりなんだ」
「ピーマンとトマトが苦手だったよね、だから入れてないよ」
「なんでそんなこと知ってるんだ」
彼女はするすると包みを解き、弁当箱の蓋を開いた。中身は実に美味そうな、驚異的にきっちり作られた模範的お弁当と呼ばざるを得ない代物で、その完璧さに僕は一瞬息を飲んだ。
「いいねー長谷川、学年一の美少女お手製のお弁当で楽しくランチってか」
おどけながら滝沢が寄ってきて、周囲にいた興味本位の傍観者たちは散らされた。その様子を彼は軽く鼻で笑うと、半分開いたままの僕の鞄から菓子パンをするりと抜き取る。
「となるとこれは不用品だから、俺が美味しく頂いてやろう。食べ物の美味さには持続時間があってな、美味しく食べてやらないと可哀想だ」
「お、おいこら滝沢」
「滝沢くんって優しいのね?」
滝沢はにんまりと笑ってパンを後ろ手に隠すと、なにやらごそごそした後に缶コーヒーを2本取り出して僕の机の上に置く。
「いやいや、俺の優しさなんて長谷川のそれと比べたらゴミ同然。でもまぁそんなゴミでもさすがにパンをただ食いするのは失礼と思うくらいには恥を知っているのでね、これはパン代として受け取ってくれたまえ長谷川」
芝居がかった調子で恭しく会釈すると、滝沢はそのまますすすっと滑るように歩いて教室を出て行った。滝沢のお陰で見学者がいなくなったので、僕は少し声のボリュームを上げることが出来る。
「みなみさん」
「なあにノボルくん」
僕はひとつため息をついた。
「どういうつもりかちゃんと説明してくれるんだよな?まだ全然説明が足りていないと僕には思えるんだが」
「今は駄目。放課後まで頑張ろうよ」
「頑張ろうって……」
彼女が箸を差し出したので、僕はそれをしぶしぶ受け取った。頼みの綱である菓子パンは先ほど滝沢と手に手を取って旅立ってしまったので、僕はもうこの得体の知れない状況で提供された意図不明のお弁当を食べるしか、空腹を癒すことができないのだ。厳密に言えば、ここで彼女とその手製であろうお弁当を無視して何処かへ食を求め旅立つことは可能だったが、そんなことをしてしまえば午後の僕はいったいどういう立場に置かれてしまうのか、その点が甚だ不安でありすぎるのでその選択肢は自動的に消滅することになる。
僕はアスパラのベーコン巻きを箸でつまみ、口に放り込んだ。ベーコンの香ばしい香りと醤油の微かな匂いが唾液の分泌を促す。
「うまい」
「よかった」
ほっとしたように櫻井みなみが微笑む。実に可憐だが、この一連の流れの中で僕はそれほど素直にその瞬間を受け入れることはできない。次いで綺麗な黄色に焼けている玉子焼きに手をつける。焦げはまるでなく、砂糖の仄かな甘みと卵の滑らかさは極上の絹のような柔らかさを以って僕に迫る。
「これもうまい」
「ありがと」
僕の箸の動きがだんだん早くなってきたのを見て櫻井みなみは満足げに微笑むと、自分も箸を取って食事を始めた。こうなってくると、滝沢の置いていってくれた缶コーヒーの存在は実に有り難かった。
「実はね、お弁当作るの初めてなんだ。まだそんなにおかずのバリエーションを覚えてないから、とりあえず月・水・金だけ作ってくるね。だから次はあさっての金曜日」
「うん、ありがとう……ってみなみさん」
「火曜日と木曜日は学食に行きましょうか」
「そうじゃなくて」
食い下がる僕に、彼女はいたずらっぽく笑いながら弁当箱を片付ける。
「放課後まで頑張ろう?」
「……わかったよ、とにかくごちそうさま」
僕はもう観念した。せざるを得なかった。彼女の中ではもうそんな僕の反応だって全て既定の出来事なんだろう。とにかくそんな感じで昼休みは終わり、午後の授業を経てようやく放課後に辿り着いた僕の精神は既にくたくたにくたびれていた。
「ノボルくんは、屋上って好き?」
櫻井みなみに促されるまま放課後の屋上にやってきた僕に、彼女は問う。
「階段下の掃除用具入れよりは好きだ」
ぶっきらぼうにそう答える僕だが、この質問にどういった意味があるのかと考えることに忙しくて口調までに気が回らない結果がそれだ。
「私も好きなんだ、開放された気がして。今の生活、今の状況。例えそれが仮初めの解放感だったとしても、とりあえずのストレスを解消するには関係ないもの」
「お前もストレスなんか感じるんだ」
「教室の中でずっと息を潜めてたノボルくんには判らないと思うけど、他人から一目置かれるって割と面倒なのよ。期待され、その期待に応える。次はもっと大きな期待がかかる。そして応えてしまう。それを繰り返していくとね、一番下の地層にいたはずの本当の自分が見えなくなって……虚勢と見栄で凝り固まった、自分に似た形の何かがある日そこにいる事に気づくの。でもね、その時にはもう手遅れ」
金網に手を合わせ、櫻井みなみは歌うように続けた。
「私に未来が判るって両親が気づいた時、あの人たちはものすごく喜んで、私に色々なことを予知させたわ。宝くじに競馬、競艇も株も。もちろんその頃の私はまだ何も知らない幼稚園児だったから、両親が喜ぶことが我が事のように嬉しくて言われるままに未来を見た。厳密に言うと、選択肢を設定すればそのどちらがより正解に近いかということが判るんだけど、それでも一つの事柄を限りなく細分化していけば、その数が多ければ多いほどに一つ一つの問題はイエスかノーかに分かれていくの。そしてその積み重ねさえきっちり管理してやれば、成功に辿り着くのは割と簡単なのよ」
みなみの目に憂いが浮かぶ。この娘の魅力は、この見ている他人に対して自分の感情を率直に伝えることの出来る瞳にあるんだろうなと僕は漠然と思った。
「そして細分化された選択肢は、まだ幼かった私にその目的と終着点を誤魔化すには充分すぎる量だった。でも両親が尋ねることは私の幸せにも繋がるんだと思っていたから、特に疑問も無く求めに応じる毎日だった。でもね、私はまだ知らなかったの。私にとってどんなに愛しい肉親である両親でも、あの人たち同士は他人だったって」
「それって」
「ノボルくんの思った通りの結末よ。父も母も、お互いに相手を排除して私を独占するためにはどうしたらいいのかを私に尋ねていたのよ。その細かな選択肢自体には大きな意味もなかったけれど、それが積み重なった結果、二人は全てを失った。お互いの存在も、私と生きる未来も、そして自分たちの命さえも」
心なしか、櫻井みなみの瞳がうるんでいるように思えた。彼女にとって、たぶんこの話は心の内に秘めてそっとしておきたい話なんだと思う。それでも話さなければならないと彼女は思っているからこそ、痛みを堪えて話すのだろう。
「私はその時小学二年生で、図工の授業で好きなものの絵を描いていた。もちろん私は大好きな父と母の顔を描いていて、下書きを終えて水彩絵の具で色を着ける直前に、担任の先生が私を呼んだのよ。【櫻井さん、職員室にちょっと来てちょうだい】って。私はなんだろう、ちょっと行ってくるねとその時仲の良かった友達に言って、先生に手を引かれて職員室に行ったわ。あの時の先生の手がぎゅっと私の手を握り締める感触がなんだか怖くて、廊下がとても薄暗く感じたのを今でも思い出す。職員室に着いた私に告げられたのは、父と母がそれぞれ別の場所で事故に遭い、死んだということだった。父は自動車に撥ねられて、母は落石に遭って。それから何ヶ月かの記憶はないんだけど、気がついた時には父方の祖父母の家で暮らしていたわ。昨日、送ってもらった家がそう」
僕はあの立派なお屋敷を頭の中で思い浮かべた。実家がそこまで裕福であっても、人は欲望と無縁ではいられないのかと少しがっかりする。
「勿論学校も転校したし、環境も大きく変わったわ。そして私は、もう未来を見ることを辞めようと思った。幸運なことに、両親以外に私の能力を知る人はいなかったから、意識して見ない様に努めれば未来は見えなかった。大きくなるにつれ、両親が何を願ってどうなったかを理解してしまった私は、もう栄光や名誉なんてものに憧れる事なんて全く無くて、どうにかして凡庸に生きて行きたいと願い続けた。それでも勉強は面白かったしスポーツも苦手ではなかったから、それなりに嗜んだだけでも予想以上の成績を残すことはできた。でも、それ以上はやらなかった。だから私、ノボルくんと同じ帰宅部なの」
「なるほどね」
学業も優秀な彼女がなぜ偏差値的に凡庸なこの学校に来たのか、そして伝え聞く運動能力をもってして部活動に青春を燃やさないのはなぜか。その二つの謎の答えに僕は妙に納得してしまった。
「でもね、無理だったの」
涙をハンカチで拭いて、みなみは続ける。
「結局無意識のうちに未来は見えていたのよ。そしてその未来を選び続けてきた。そうでもなければ、成績も外見も状況も全てほぼそうなりたいと願ったようになるはずがないもの。不自然なのよ、良い成績なのに推薦入試で進学校へ行く話もなければ陸上競技でレコードに近い記録は連発できても、記録そのものを塗り替えて大きな話題になることはない。大きな事故にも不幸にも遭うことは無く、ぎりぎりの所で表舞台に立つことを避けるくせに、自己顕示欲を満たせるだけの結果は必ず手に入れるのよ。全て私がそう願ったから、そうなりたいという未来に向かって歩いてきたからそうなり得た」
「それは自意識過剰なんじゃないか?」
僕はあえてわざと口を挟んだ。
「そうね、そうも思った。ただ単に自分の力が及ばないことを、何か不確定で見えない何某かの力のせいにしているだけなんじゃないかって。でもそんなことは証明不可能だし、だけど一度疑ってしまえばもう後には引けない。私は一生、この力の誘惑に耐えて生きていかなければならないし、それに負けたら両親のような不幸を増やしてしまう。神様とか悪魔とかそういったものを心から信じる気にはなれないけれど、きっとたぶんこの力をくれたのは神様なんかじゃないのよ」
「だから【悪魔】か」
金網に背中をくっつけこちらを向いた櫻井みなみの隣に、僕はゆっくり歩いて並び空を見た。天高く馬肥ゆる秋、どこまでも空は高かった。
「まぁとりあえず前段としてそこまでは判った。君が持つ力、そしてそのために起きただろう悲劇とそして現在に至るまでの決意。そこまでは君が君の中で決めて君のために起こした行動と結果なんだね。だとして」
僕はもう言葉を慎重に選ぶことはやめようと思った。もし彼女の言うとおりに世界が動いているというのなら……いや、彼女が言うとおりに世界と接しているのなら、ここで僕がどう動くかは全て彼女の予想範囲内であろうからだ。でも本当にそうなのか?
「君がどうして僕に執着するのかが判らない。いや、ある意味君のここまでの告白である程度説明されているとは思うんだけど、そこにはいくつか矛盾があるような気がしてならないんだよ。例えば……これはものすごく自己中心的で自意識過剰な推論だから、これが本心だと思ってもらっては困るんだけど、君が僕を選んだ理由がその【正解に近い未来を知る力】によるものだったとして、じゃあその【力】のことをどうして僕に話す必要があるんだ?」
並んで立っているので、櫻井みなみの表情を伺うことはできない。彼女が押し黙ったままなので、僕はそのまま言葉を継ぐ。
「君は【両親のような不幸を増やしたくない】と言ったけど、だったらこの力を使おうが使うまいが、全てを自分の中に閉じ込めてしまえばそれで済むはずなんだ。わざわざその存在を他に知らしめて、状況が好転するとは到底思えない。ただ共犯を増やすだけでね。他人が君の【力】の存在を知らないことっていうのはたぶん、君が平穏に暮らす大前提なんじゃないかと僕は思うんだけど、どうしてこうも派手なことをやらかすのか」
櫻井みなみはまだ動かない。
「ある意味正解ではあるんだ、ああいう風にクラスを巻き込んでしまえば、僕に拒否権なんてものは存在しない。しかも合法的に僕と二人きりになれる状況を作れるわけだから一石二鳥だろう。でも判らないのは、どうしてそこまで君が僕に執着するのかだよ。もっとソフトに言うならば、なぜ僕が選ばれたのかが判らないんだ」
「その点に関して言うならば、あなたでないとダメだったのよノボルくん」
みなみの声には寂しげな色が見え隠れする。それが演技かも知れないと疑うのは、それはまだ僕の疑問が解けていないからだ。
「より正確に言うならば、私が【力】の呪縛から逃れようと思うのなら、あなたと一緒にいることが必須だからかな。抽象的に言うならば、あなたは私にとってこの世界でただ一つの希望なのよ」
「君がそう思うのは自由だし、君なりに確証があってのことだと思う。僕が欲しいのは、それについての説明なんだ。
正直、まるでライトノベルみたいな展開に僕は多少浮かれる部分もあるんだけれど、でも本当に正直に言うならばその得体の知れなさに迷惑して戸惑っているんだ。確かに君は可憐で美しいと思う。クラスで言うなら高嶺の花で、僕なんかの手に届く存在ではそもそもないはずなんだ。
別に卑下するわけではないけれど、実際僕はあまりクラスの連中と馴れ合うようなこともしていないし、個人的な付き合いがあるのは滝沢くらいだ。そんな僕にどうして君が着目したのか、その理由こそが今の僕が最も欲している答えなんだよ」
さっと櫻井みなみは身を翻して、僕を金網に押し付ける。体を密着させて、僕が逃げないように。
「それはね、あなたが私の【力】を跳ね除ける力を持っているからよ」
「跳ね除ける力……?」
「もしくは、私の見た未来を覆す力をね。私はあの日、授業をさぼって帰るための選択肢を選び続けた。それは別に何の理由があるわけでもなくて、ただ【力】の発動と影響範囲を再確認するためだけの、他愛のない戯れでしかなかった。【力】を使えば、出席日数を減らすことなくさぼることだって出来るのよ?
実際私は一学期に何回か授業に出ていないんだけれど、多分誰も気づいていないわ」
「そんなことが」
「だからね、あなたが私に話しかけてきた時に、正直かなり動揺していたの。既に選択肢も最終段階で、後はただ始業のチャイムと共に教室をそっと抜け出すだけで全てが終わるはずだった。
なのにあなたは私を見つけて、積み重ねてきた選択肢の効果を帳消しにしてくれた」
「いや、それはなんていうか、ごめん」
櫻井みなみの吐息を頬に感じて、僕は思わず謝った。
「そして日曜日の書店よ。あそこで私は知り合いに会うことがないように、そういう未来に向かって歩いていた。なのにレジ前で話しかけてきたのはまたしてもあなただった」
「いや本当にごめん」
「そしてあなたは、決して取ることができないはずのぬいぐるみを取った。私の見た未来では、あなたは財布の中のお金を使い果たしても取ることができないはずだったのよ。
ノートの件もそう、置き忘れたことに気付いた時、見えた未来はノートの中身に感づいて驚愕するあなたの姿だった。でもあの日あなたはノートを開いてさえいない」
「信用がないんだな」
「そういうことじゃないわよ」
みなみの笑顔が近い。なんでこんなに顔を寄せてくるんだこいつは、と僕は思った。いくらなんでも男子相手に無防備すぎるだろう。でも、この状況を転じてどうこうしようというほどに僕は飢えていなかったし、そんな行動を起こす勇気も無謀さも野生も、何もかも僕は持っていないのだけど。
「誤解の無いようにはっきり言うと、【力】を使って見た未来というのは基本的に確定されたものなの。明日誰かが怪我をするという未来を見たのなら、それはそれを覆すための選択肢を重ねなければ、ごく当然の予定のようにその人の身に降りかかる。
確定された未来を覆すための行動を取らないあなたが、私の見た未来の通りに動かないというのは本来有り得ないこと。勉強しなければ定期テストでいい点は取れない。なのにあなたは満点を取ってしまったという感じかしら」
「そんな、それは偶然じゃ」
「二度までは偶然かもしれないけど、三度目以降でそれはないわ。私はそれを必然と感じて、これは一体どういうことなのかを考えることにした。そしてたどり着いた結論が、あなたには私の【力】を払いのける、もしくは私の見た未来を乗り越える力が備わっているということよ」
「あれか、あのことだな。ガラスが割れた時」
僕は思い出していた。校舎裏にごみを捨てに行った時、ガラスが割れて飛び散った事を。もし僕が靴紐の緩みに気付いていなかったら、ガラスの破片を浴びて大怪我をしていただろう。
「私が見た未来では……あなた軽い怪我をするはずだったの。ガラスの破片はごみ袋が受け止めるんだけど、大きな破片が腕を掠って全治一週間の切り傷」
「ところが僕は無傷で戻ってきた」
だったら最初から止めてくれよと僕は思った。というか、あの時ごみ袋を寄越したのはこの櫻井みなみ当人ではなかったか?
「まあ確信というほどではないけど、私には勝算があった。あなたが無事に戻ってくるってね。私の見た未来を好転させて」
「もう偶然じゃなくて必然だと」
「その他にも何回か、私が見たマイナス方向の未来をあなたは乗り越えている。あなたにとってアンラッキーと思える出来事は、実はそれを上回る災厄を乗り越えた結果なの。だいたい、全ての未来を覆すのならスクラッチで一万円は当たらないわ。プラスはそのまま、マイナスだけ乗り越えるのならもう最強じゃない」
櫻井みなみの顔が高揚して、ほのかに上気しているのが判る。頬がピンク色に染まり、その瞳は情熱的な色に燃える。
「例えば私が未来を見ても、決して明るい結末にならない場合もある。乗り越える選択肢が浮かばない未来もある。今まではそういったことが自分の身に降りかかることはなかったけれど……
でも、きっとあなたとならそんな未来も乗り越えられる、私の【力】も及ばないような運命に対して、あなたとなら打ち勝つこともできる。決まった結末を回避することしかできない私に、そんな選択肢を飛び越えた何かをあなたなら示してくれる、そう思った時に、私はもう行動せずにはいられなかったのよ」
「……いやまぁそう言ってくれるのは嬉しいけどさ」
瞳をキラキラと煌めかせて顔をさらに寄せて来る櫻井みなみに、僕は苦笑した。
「それこそ偶然って可能性もあるし、よしんば君の言う状況に直面したとしても、僕なんかじゃ全く役に立たないかも知れない。そもそも僕にそんな能力があったとしても、君が意識して【力】を使えるようには作用しないかもしれないし、能力に対するコントロールを訓練する努力なんてものを義務付けられても困る。
ぶっちゃけて言えば、確かに今の説明で理屈は通るのかも知れないけれど、納得は出来ない。まぁその点に関して言えば、その【力】が実在するとして、そういったものと長く付き合ってきた君とスクラッチで一万円を当てさせて貰っただけの僕ではスタンスがあまりにも違いすぎるから仕方のないことなんだろう。でもやっぱり、それだけの理由でここまで話を大げさにするのは、どうも腑に落ちないんだよね」
「でしょうね」
「いや、でしょうねじゃなくってさ」
「そこから先については、まだ言えない。でも、私にはあなたが必要で、あなたの身柄を確保しておく必要があるの。だから親しいお友達になるの」
「まだ判らん」
僕は首を捻った。別に、僕が特別話の判らない、理解力に欠ける男というわけじゃないはずなんだけれど、何を彼女が言わんとしているのかがさっぱり飲み込めない。
「君が【未来を見る力】を持っているとして、そして悲惨な未来が待っているとして、僕がそこにいればその未来が変わるかも知れない、という事なんだろう?ここしばらく君が僕を観察した結果がどうもそんな感じだから、僕と親しくしてなるべく近くにいよう、と」
「打算と言われればその通り。計算づくと言われれば返す言葉もない。でもあなたを確保しておきたいの。一方的で迷惑な話だとは思うけど」
「でもそれで未来が望む方向に行くとは限らないんだろう?だいたい、こんな話だって僕にこっそり打ち明けてくれれば済む話だと思うんだけど、どうしてあそこまで公にしなきゃならないんだ、弁当まで作ってさ」
「そこもね、色々とあるんだよ」
悪戯っぽく笑う。悪意こそはないようだが、まだ彼女は何か隠している。そんな気がして、僕は少しムッとした。
「状況を作って逃げられないように囲うことが、確実にあなたを捕まえるために必要だったんだ。なにしろ未来は不確定になっちゃうから」
「つまりは」
僕は無い頭を必死に働かせる。こういうのはどうも苦手だ。
「君が見た未来も僕が絡めば変わってしまうことがある。君が未来を望んだ形へ変えるために積み重ねた努力を、僕が乗り越えてしまう以上に、、さらに積み重ねた保険が昨日の帰りと今日の弁当だった、とそう言いたいわけか」
「そういうこと。少しオーバーになっちゃったけど、こうやって屋上に連れ出せたから成功ね。そして私とあなたは本当に仲のいいお友達になる。なりましょ?」
「いや、なりましょって言われてもほら、男女の友情って難しいんじゃないかな」
「どうして?異性として意識しちゃう?」
可愛い顔をしてなんてことを言うんだ、この女は。
「好きになってもいいよ、それに応えるかどうかはまた別の話だけど」
「軽く言うなぁ」
「だってほら、人を好きになるって素晴らしいことよ」
「一般論としてはそうかも知れないけど」
「報われぬ愛だったとして、でもノボルくんは暴走してストーカーになったりはしないでしょ?」
「わからんよ」
僕はわざと俗っぽく言った。
「僕の人格なんてまだ発育途上だから、どんな風に歪むか判ったものじゃない」
「でも歪まないわ」
彼女はきっぱりと言い切って、置いてあった鞄から一冊のノートを取り出して僕に差し出した。
「見ていいよ」
そう、それは例のノートだ。何の特徴もない、ごく一般的に流通しているノート。しかしそこに記されているであろう何かが僕の背筋を凍らせた。
「いい、のか?」
「いいよ。そこに書いてあること自体には、それほどの意味はないから」
僕はノートを受け取ると、思い切ってページを開いた。そこには櫻井みなみの字でびっしりと何か書かれている。一つのキーワードから二つの選択肢が発生し、そこから更に分岐し分岐し分岐し……文字が入り乱れ、最初のキーワードが何であったのか忘れてしまうくらいに選択肢が続き、分岐が交錯する。
反対側には別の言葉から収束していく選択肢が書かれていた。いくつもの選択肢を乗り越えたルートが何某かの条件付けを経て変わっていき、そしてノートの余白を埋め尽くす。黒い文字、緑の文字、そして赤い文字。名詞、形容詞、動詞が入り乱れる。凝視していると、まるで文字たちが意思を持って動き出すかのような錯覚に襲われる。
「なん、だこれ」
ページをめくると、その先もキーワードと選択肢、そして言葉に溢れる溜め池のような風景がそこにあった。全てが重く、そして暗かった。その文字の積み重ねから僕が感じていたものは、これは後ろめたさと疑いの念だ。書いてあること自体に意味がないというのは多分そういうことで、ここに書かれているものに僕は未来という存在を全く感じないのがその証拠だろう。
「櫻井、これは」
「判る?」
「ここに書かれているのは、可能性という言葉を否定する未来の存在か」
「いい表現ね。ほんのささやかな未来であっても、変えるには物凄く大変な準備と努力が必要になる。逆に、ごく僅かな努力で大きく変わる未来もある。でも、結局は全て決まっていることの中から選ばれているだけのこと。偶然に見えることも、よく見れば必然の積み重ねによって起きているのね」
「しかし、これは」
「そう、人間が全てを操る事なんて無理。いくら未来が見えても、変える方法があっても、全てを思うように積み重ねていくことなんて出来っこないの。たった一つの未来を変えるために、膨大な数のフラグを立てていくなんてゲームでもない限り無理だわ」
「フラグ」
滝沢のニヤケ顔を思い出して僕はげんなりする。
「それくらい時の流れっていうのは複雑に入り組んでいるの。ノートの中身は、その流れを操るための実験の前段階、つまり拡散していく選択肢と未来を集束させるための手段と選択肢を書き出したもの。父と母がその原理に気づき、そして練り上げた集大成がそれよ。その単語の羅列そのものに意味はないけれど、そこに意思を以て力を送り込めば事態は動く。
そしてノボルくん」
櫻井みなみの瞳に、何か怪しい炎のような影が揺らめいたように思った。
「あなたはそれらを乗り越えて、未来を掴む力を持っている。私はその力が欲しい。だからあなたともっともっと特別なお友達になりたいと思っている」
「お友達か」
僕は内心ものすごくがっかりした。確かにまあここでいきなり友達以上とかそんなライトノベルやギャルゲーみたいな展開があろうはずもない。それでも、櫻井みなみという美少女の口から【お友達でいましょうね】といった類の言葉を聞くのは割ときつい。
「そう、まずはお友達から始めましょう」
無邪気な顔でそう言われると、それでもいいかと思ってしまった。接点などないよりあった方が断然いいし、少なくともネガティブな関係でないならそこから進展する可能性もあるはずだ。
なんとなくもやもやとした、すっきりしない感情を抱えたまま僕は笑顔で応えた。きっとこんな僕の思いも何もかも、全て織り込み済みなんだろう。
まあいいさ、例えうまく行かなかったとしても、青春の蹉跌ってやつだと達観してしまえばそれで済む。少なくとも僕からの持ち出しはほぼゼロなわけで、良い夢を見させてもらったと諦めることは僕にとってそれほど難しいことでもないだろう。
こうやって自前の予防線を作るのが半ば習性のようになってしまっているのは、例の痛恨のミス由来なのだったけど、弱い自分の心を守るにはそうするしかない。そうやって壁を作って逃げていると言われてしまえばそれまでなのかも知れないけれど、あまり対象に入れ込み過ぎて深入りして、手酷い反撃を喰らうくらいなら遠巻きに眺めるだけの方が良い。
「そこから先は」
相も変わらず、素敵にときめく笑顔で僕を指さしながら櫻井みなみは言った。
「キミ次第だよ、ノボルくん」
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