魔術研究棟の男
クインシーと分かれたソフィアは、暫く進んで魔術研究棟と銘打たれた場所に着いた。
魔術研究棟。事前に聞かされていたヴィオラの情報が正しければ、下男とやらのいる場所のはずだ。貴族の城、特に力のある幹部を持つ貴族の城は、それぞれのブロックが、担当する吸血鬼の内面を投影するようになっている。
整頓された清潔感漂う魔術研究棟は、人が何百人と入っても余裕がありそうな程広く、壁や床そのものが淡い光を放っていて、一面が純白で覆われている。見ると、木製の長机が部屋の端から端まで一分の狂いもなく配置されている。そして、机の上にある様々な実験器具は誰も触らぬのにカチャカチャと音を立てて動いていた。
ソフィアは軽く周囲を見回して、自分の真上から不自然な影が落ちてきている事に気づき、顔を上げる。すると、どうしたことだろう。なんと、天井にはまるで床と鏡映しになるように長机が張り付いていて、やはりそこにも用途不明の実験器具が
魔法薬の実験だろうか。ソフィアはそんなことを考えながら、その光景を眺めるともなく眺めていた。魔法薬は、今の時代科学と併合されて、最も魔法と科学の区別のつかぬ領域である。彼女は簡単な薬こそ作れるものの、専門ではないためにここで何を作っているのかまでは知り得なかった。
「それが、気になりますか?」
聞き覚えのない若い男の声。振り返ると、そこにはコートタイプの白衣を身に纏った青年がいた。彼は目の辺りまで伸ばした癖毛がちの白髪で疲れたような赤い瞳を隠している。ひょろ長の背は猫背気味で、首にかけたサソリのペンダントが印象的だった。どうやら吸血鬼の気配はないらしい。彼は隈のできた目を見開き、ソフィアの美しさに思わず見惚れてほぅと溜息を零すと、それを振り払うように首を振って、また口を開いた。
「それは、記憶を保ったまま体の時間を戻す薬の実験です。ここの城主は美というものにご執心のようですから。そんなもの、とても完成しそうにはありませんが。と、貴女はここでは見たことがない。どうやら化物共の一味では無いみたいですね? 僕はコルツ。攫われた妹を追って城に乗り込み、そのまま捕まって研究をさせられている哀れな魔導具師兼薬師です。貴女は?」
彼は自嘲気味に吐き捨てると、前に進み出た。視線はソフィアのことを観察するように動いている。
「ハンターの仕事でここへ来た」
「ハンター? そうか、ハンター。なら丁度いい。君ハンターなら僕をここから出してはくれませんか。もちろん報酬は払います。魔導器を一つ差し上げましょう。貴族の使うあらゆる装置を停止させる優れものだ。これは貴族が機械を作るときに残す独特の残り香を探知して効果を発揮するものだから、絶対ですよ」
コルツは自慢げに語っている。
クインシーと分かれた今、この男一人のためだけに戻る時間は惜しい。
だが一方でこの申し出には確かに利もあった。貴族の技術は人間のものと比べ百年は先を行っていると言われている。この城を見ても、鼓動するエントランスや重力のおかしいこの研究棟などは超常の力で作られたとしか考えられぬものだ。今でこそそれがソフィアに牙を向けることはなかったが、今後のことを考えれば貴族の使う装置を停止させる魔導器は、あれば便利に違いない。
しかし、この申し出を受けるにしても、残酷な事実をこの青年に告げる必要があった。
「……村は、吸血鬼にやられた」
「えっ……そうか、なるほど」
彼女から告げられた事実は、コルツを酷く動揺させる。彼は顔を落として、絶望と怒りと諦観の混じった表情を隠すが、声は少し聞いただけでも震えていることが分かった。
暫しの沈黙の後、彼は握った拳を震わせて、覚悟を決めたように顔を上げた。
「……ここの吸血鬼を見れば予想はできたことです。大凡、あのドロテアとか言う趣味の悪い吸血鬼がやったんでしょう。あなたの仕事、僕にも協力させてください。報酬としていた魔導器は今差し上げます。さ、こちらへ」
✙
コルツの案内でたどり着いたのは先の場所と同じくらいの大きさの部屋だった。中からはバナナの様な果実臭が漂ってくる。
部屋の内部には、床や壁、天井に至るまで全てに剥ぎ取られた人の皮が少しの隙間もなく敷き詰められている。壁に一定間隔に飾られている女の顔は油気のない乱れた髪をだらりと落とし、皆一様に苦悶の表情を浮かべながら、外れんばかりに開いた口に緑色の火を灯していた。家具は机も棚も全て人骨が使われていて、様々な魔導器が無造作に置かれている。
「作った奴の気が知れませんよ。悪趣味な」
彼は嗚咽を抑えて言った。
「……貴族の道楽に意味はない」
無感情に言うソフィアに、コルツは若干苦笑いをして、「そうでしょうね」と言うと、不意に具合が悪そうに顔を歪めて部屋の端にある人骨で作られた棚へ向かい、赤い錠剤を取り出して飲んだ。
「失礼、最近この薬が無いとまともに体が動かなくて。十分程記憶が飛ぶこともあるし、何よりあの吸血鬼達に渡された物なのであまり使いたくはないのですが、致し方のないことです」
コルツは自己嫌悪のような、諦めのような表情で吐き捨てると、「さて」と区切りをつけて机の上から月桂樹の冠を取り出した。
「先にも説明した通り、これは貴族が作った機械につける匂いに反応して、機械を停止させるものです」
技術は貴族にとって力をアピールするための一つの手段である。其の為に、奴らは機械に誰が作ったかわかるよう、印をつける習慣があった。
「どうぞ」
ソフィアは片手で冠を受け取った。冠は淡く光っていて、よく見れば胸のブローチと共鳴している。彼女は試しに共鳴する冠とブローチを近づけてみた。すると突然、ブローチは教会の時のように赤黒い光を放ち出した。光は部屋の凸凹とした生皮の影を消し去りながら冠を飲み込むと、やはり何事もなかったかのように収まってゆく。
「今のは……!?」
「ブローチが呪いを取り込んだ。害はない」
余りにも突然の出来事だったために、コルツが驚くのも無理はない。
しかし、魔法も呪いの一つであると考えれば、呪いを分解、吸収し、その力を我が物とする力があるソフィアのブローチが冠を取り込んだこの結果は必然である。彼女はこの時点で解呪、扉の封印、貴族の機械の停止の三つの能力がブローチによって使えるようになっていた。
「そう、そうですか……何にせよ、これで貴女に貴族の機械が牙を剥くことは無い。どうか、どうか村の皆の、そして妹の、アデリナの仇を……どうか」
「君の妹は……」
「僕の目の前で、化け物へと変えられました。あの子は、僕の、希望だった。天使の様な、かわいい、たった一人の家族だったんです。最後まであの子は僕の名を呼んでいました。だが、私は、私は恐怖で何もできなかった……」
コルツは唇を嚙み千切らんばかりにして、震える手で顔を覆った。重く途切れ途切れのその声は、貴族を、何より自分の無力を何よりも強く呪っていた。
「僕がここで研究をすることで何とか妹の自我だけは保証されましたが、それもいつまで保つかわかりません。もし、僕の妹に合って、もし、あの子が身も心も化け物に成り果てていた時は……せめて魂だけでも、平穏を与えてやってください」
白髪の隙間から虚ろな目が覗く。彼が気持ちを整えるように溜息を吐くと、彼の表情は感情という感情が全て抜け落ちたかのように無に近くなった。そして少しの間を置いて頭や喉を掻きむしり、据わった目を棚へ向ける。
「ああ、薬、クスリを飲まなくては。ダメだ、この甘い匂いは」
彼は正しくドラッグ中毒者の様な足取りで、薬のあった棚へと意味不明なことをぶつぶつと言いながら向かっていった。
「……やめておけ。用量を守らなければ薬も毒だ」
ソフィアの言葉の聞こえているのかいないのか、彼は手に山の様な錠剤を取り出して、それを次々と喉に流し込む。大きめの瓶に入っていた錠剤を全て飲み切った彼は、二、三歩よろめくと、吐血してうずくまる。
「……」
そして、それを助け起こそうとしたソフィアにも異変が起こった。
彼に近づこうと一歩踏み出した途端、足の感覚が突然消え去り、彼女はその場に倒れ込んでしまったのだ。視界は霞み、息が苦しい。小さく呻きながら、力の入らぬ手で喉を抑え、何とか状況を把握する彼女に、声がかかる。
「やっとだ」
それは紛れもなくコルツの声だったが、様子がおかしい。声そのものは彼のものだったが、喋り方や、発声の仕方一つとっても先ほどまでの彼ではない。
「貴様……何者だ」
「んん? 事前に情報は仕入れてきているのではないのかね、ハンター? まあいい。私はツルコ。コルツ君の体は私が第二の人格としてこの体に潜伏し、今乗っ取った」
ツルコは体の具合を確かめるように手を握ったり開いたりしている。見れば、先程まで人だった筈の彼の体は完全に吸血鬼のものに置き換わっていて、細すぎる腕は程よく筋肉がつき、肌には艶が出ていた。ニヤリと笑う彼の口の端には鋭い牙が二本生えている。
「この体を奪うのは苦労した……。強情な男でな、奪えても一日に十分が限界だったが、お前と合って安心したところにあれだけ薬を飲ませれば、流石に無意識の抵抗もできなくなったらしい」
どうやらあの薬は体のサポートをする薬では無かったようだ。ツルコは倒れているソフィアを見下ろすと、悪魔の様な下卑た笑みを浮かべて、舐めるように彼女を観察しはじめた。
「時に、ヴァンピーラ。お前は戦いに敗れた女のハンターの末路は知っているな?」
ハンターをやる者に、女性はほぼいない。単純に性別による力や体力の差と言うのも勿論あったが、それだけではない。彼女らは下等な人類を吸血鬼という新たなステージへと引き上げてやるという神の立場にも近い優越と快楽の為に使われ、自身も吸血鬼へと変えられてしまうのだ。人としての尊厳を破壊され、殺される。それはただ戦って死ぬよりもよっぽど残酷な事だった。
「この部屋に漂う果実臭は我ら吸血鬼以外には猛毒。よくもった方さ。どれ、我が主に差し出す前にお前の体を検め、私の子を孕ませてやろう」
ツルコは動けぬソフィアの服を丁寧に脱がしてゆく。露になった透き通るような白い
「もう喋る体力も残っていないか、キ、キ、キ」
気色の悪い笑みを浮かべ、ツルコは彼女のうなじに顔を擦りつける。そして青白い指をねっとりとした動きで頬、鎖骨、胸の谷間、へそ、下腹部と順に滑らせてゆく。
「……」
されるがままにされるソフィアの息遣いは荒く、何かを堪えるように息を切らしている。しかし、それは性的快楽によるものでは無かった。
「ッカ、ァぁ……」
苦しげに口を大きく開く彼女の瑞々しい唇には、伸びかけた牙が覗いていた。死に誘われたソフィアは、本能的に生を求めて吸血の衝動に駆られたのだ。
ツルコはもがく彼女に覆いかぶさるように抱き着くと、彼女の艶やかに輝く首筋にゆっくりと牙を突き立てようとする。
だが、その行動が彼にも彼女にとっても不運の元だった。死に近づき、吸血鬼の本能が、耐えがたい喉の渇きが体の中で暴れるのを抑えていた彼女の視界に、ツルコの首が映ってしまったのだ。
この時、何とか薄皮一枚で保っていた彼女の理性がついに音を立てて崩壊した。
ソフィアはこの世の生き物とは思えぬ恐ろしい顔をして、口元には牙を剥きだし、ツルコへと襲い掛かった。長い髪を逆立てて、血走った眼を見開きながら彼の髪を殴りつけるように鷲掴みにすると、そのまま首を捻って喉元に噛みついたのだ!
噴き出す
✙
暫く経って、彼女は正気を取り戻した。そして、目の前の惨状を見て、自分の身に何が起こったのか、その一切を理解した。そして、自身が一時でも吸血鬼に堕ちたことを、この上なく嫌悪した。
「血は争えんということか……」
彼女は自嘲するように吐き捨てる。その表情には諦観と、絶望の色が見えた。彼女は呆然と周囲を見回して、裸の自分を認識すると、脱がされた服を着て、頭痛を抑えるようにふらふらと部屋の外へと歩きだす。
後に残ったのは、無造作に置かれた数々の魔導器と、一面に広がる血の海と、そこに沈むツルコの遺灰だけだった。
悪魔公女 ソフィア 月咲 幻詠 @tarakopasuta125
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