02. いい湯だな

圭一郎は視界が白い理由を考えていた。瞼を開けたら一面が白くぼやけていて、数秒後にそれが自宅ではない天井の壁紙なのだと理解した。薄くて丸いランプカバーが壁紙の色と同化している。自宅の天井は雨水のシミがある木板張りで、いかにも昭和なデザインの四角い電灯が吊ってある。では職場で眠ったのだっけ。いや、職場の蛍光灯は細長いものが二つ並んだ形式だし、夜明けより早く社員の誰かに起こされるはずだ。今は右手側に遮光カーテンがあって、隙間から射すのは早朝の光に思える……

しばらく放心していた圭一郎は、突如バネのように跳ね起きた。こんなに綺麗な場所にいて良いはずがない。しかも平日の朝に。ベッドの上を這いつくばって眼鏡を探し、あやうく蔓を目に刺しそうになった。レンズはいつもわずかに度が合わず、軽いめまいに襲われる。慣れ親しんだ不調に鞭打って辺りを見回すも、傍らにスマホはなかった。鞄の中だ。どこかに時計はないか。時計、時計、キャビネットの上に目覚まし時計がある。かじりつくようにして見ると朝の7時だった。脳天からざあっと血の気が引き、嫌な動悸が体の内側から圭一郎を殴りつける。

この家までどうやって辿り着いたのか分からない。しかし少なくとも自宅からは遠くなかったし、したがって職場もそう離れてはいないはずだ。今から全速力で向かえば、最悪でも始業には間に合う。圭一郎は足をもつれさせながら寝室から飛び出した。どちらに何の部屋がある? 廊下から居間らしき部屋に駆け込むと、昨晩びしょ濡れにした服一式がソファーの背もたれにかけてあった。それを昨日と全く同じ状態に着こんで、ネクタイと鞄を引っ掴む。

玄関で革靴に足を入れている瞬間が最ももどかしい時間だった。ひもを結ぶ手間すら惜しく思い、適当なコマ結びにしてしまった。そうして玄関の扉を開いて閉じる。癖で鍵を取り出し……いや、ここは他人の家だ。いいから早く。圭一郎はスマホで現在地を調べながら、小走りで最寄りのバス停に向かう。サラリーマンや制服姿の学生を追い越して走ったが、ろくに速度が出るわけでもない。まだ6月の朝だというのに太陽は刺すような攻撃性を持ち、ただ嫌な汗ばかりが背中を流れる。圭一郎は背後から迫っていたバスに間一髪のところで乗った。

バスは混んでいる。冷房も空しく、乗客の服に滲む汗がお互いの服に触れて染みていく。それほど蒸している車内ですら、引いていった血の気のかわりに、背骨を伝って得体の知れない寒気が登ってくるように感じた。スマホのメールボックスにはシステムの障害通知がいくつか届いていた。これを昼までに解消して、バックアップからデータを復旧して、各所に謝罪して今夜から数日は現場で待機、それから、それから……。

頭のど真ん中に、長身で恰幅のいい中年男性が立っている。それは圭一郎の上司である社長だった。彼は学生時代に柔道で全国大会に出て、これまでそのマインドで困難を乗り越えてきたのだとよく語る。その話題はいつでも重力が働いているかのように流れが決まっていて、柔道の後は必ず「君は恵まれている」と圭一郎に言う。人並の体力がなく病弱で、これといったスキルもない高卒の君を雇い、ここまで配慮してやれる職場はそう多くないよ。この会社なら君にも仕事がある。17時以降の業務や休日出勤はスキルアップのチャンスが与えられているということだ。そういった勉強時間にお給料を出すことはできないけどね、今を意欲的に取り組めば将来のためになる。まあこれは一般常識だよ。どの企業だってそうしている。だから、周りに迷惑をかけないよう頑張ってね。

どこかの骨を折りそうなほどに窮屈なバスから抜け出すと、またぎらつく太陽に目が眩んだ。圭一郎はとにかく脚を機械的に動かして進みながら、昨晩にいつの間にか眠ってしまったことを後悔した。いつも穏やかで懐の広い社長には恩があるし、遅刻したら同僚に迷惑をかける。同僚はみんな休まず頑張っているのに。

オフィスのあるビルのエレベーターに乗り、スマホのホーム画面を確認する。始業時間の5分前には到着するだろう。しかし5分前では明らかに遅い。同僚から叱られることを予期して、体は立っているだけで息を切らし、心臓は異様な緊張でリズムを崩している。エレベーターが上りきる前にどうにかネクタイを通し、始業開始の直前でオフィスに駆け込んだ。ふたつ先輩の社員と正面衝突しそうになり身がすくむ。先輩社員は舌打ちをした。

「遅くね。他の皆は早く来てんだけど」

「すみません」

「昨日だって障害連絡あったのに帰ってんじゃねえよ」

先輩社員の靴で脛を蹴られ、圭一郎は体を揺らして床に膝を突きそうになった。

「ごめ…………んなさい、すみません」

「また適当に謝ってんの? どうせ聞こえて……」

先輩社員は何か言いながら半笑いで去っていった。圭一郎は吐き気に襲われながら席に着いた。鞄を置く手が震えている。今度は隣の席の社員が何か言った。

「えっ」

圭一郎が振り向く。隣の社員は机の上の資料を指し、数年続くやりとりにうんざりといった様子で繰り返した。

「だから社長。今日休みで連絡つかないんすよ。承認取れないんで自己責任でやってください。それ全部急ぎなんで。分かってると思いますけど」

「は、はい」

社長が休み。かれこれ5年はここで働いているが、そんなことは一度もなかった。社長は本当に活発な人で、インフルエンザの時ですら解熱剤を飲んで出勤するほど意思の強い人だーー余計なことを考える時間はない。圭一郎は点けっぱなしのモニターに目をやった。作業途中のファイルが無造作に並んでいる。いつもと同じようにあれを開いて……なぜか手が止まった。あれってなんだっけ。いつもはどうしていたっけ。金縛りのように硬直したままデスクトップを見つめると、アイコンがひとりでに移動を始めた。液晶は水面で、その下に屈折で歪んだアイコンがある。それらは渦を巻きながら排水溝に吸い込まれていくかのようだ。

あんなに長い間眠ったりしなければよかった。昨日の数時間で何かが狂ってしまったのかもしれない。脳を直接つねられているかのように頭が痛む。渦はモニターの枠を飛び出し、すでにオフィス全体が回っている。喉の奥から嫌な味が登ってきて、掌で口を押さえようとしたが間に合わなかった。圭一郎はその場で嘔吐した。埃っぽい床に薄い胃液が広がる。

隣の社員が声を上げて飛び退いた。背後の島にいる社員も圭一郎を見ている。皆が揃って同じ、のっぺりとした黒い目をしている。ただでさえ忙しいのに迷惑を上乗せするなという眼差しだった。圭一郎は咳をして、袖で口を拭った。机の上の箱ティッシュから何枚か取り、床と鞄の底に滲んだ液体を拭く。ゴミ箱へ放り込むとき、染み込んだ生温い液体を指で感じた。一度は止んだキーボードの音も何事もなかったかのように戻ってきた。視界はまだ右回りに流れているが、吐き気が少しだけ引いた。車に繰り返し轢かれた動物みたいに全てがぐちゃぐちゃで、頭の中は何ひとつまとまりを成していないが、その死体はある方向へと流れはじめた。死体は何をするのが最も正しく、効率のよいことなのか知っている。

圭一郎は唐突にデスクの引き出しを開け、中を漁った。入社して1年を過ぎた頃に作って引き出しの奥底にしまったもの、その存在をたった今思い出していた。なかなか目当てのものが現れない。力任せに引き出しごと取り外して、中身をデスクにぶちまける。ようやく奥底から出てきた封筒はくしゃくしゃに折れていたので、圭一郎は折れ目から反対に曲げて伸ばした。手元を見た同僚が鼻で笑う。

「なんすかそれ。紬さんが他でやっていける訳ないでしょ」

「…………」

圭一郎は手に持った封筒を少しの間見つめて、それをデスクの上の書類や文具に重ねた。

「……そうですよね」

隣の社員は散らかった書類が吹き飛びそうなほど大きなため息をついて、キーボードのなんらかのキーを強く連打した。その手元の隣で、ペットボトルのコーヒーの黒い水面が小刻みに振動している。圭一郎は汚れた指先で眼鏡を直し、ほんのわずかに微笑んだ。

「でも、死ぬんです」

「はあ? はっきり喋ってもらえません?」

隣の社員は聞き取れなかった様子で、それが彼をいっそう苛立たせたようだった。圭一郎はふらりと立ち上がり、封筒は机の上に置きっぱなしにした。

「それ、ついでに捨ててきてください。臭いんで」

「あ、すみません、はい」

背後で社員たちが笑っている。圭一郎はティッシュでいっぱいになったゴミ箱と、吐瀉物で汚れた鞄を抱えてオフィスを出た。同じフロアのごみ収集区画でゴミ箱を空にし、ゴミ箱をそのまま置き去りにして、吸い寄せられるようにエレベーターに乗ってしまった。そうして圭一郎は来たばかりの職場を後にした。


いつものバス停で突っ立ったまま日光に焼かれていて、圭一郎ははたと顔を上げた。これは違う。今日はこの路線に乗らなくていい。ひとつ隣の通りに移動してバスに乗り、降りてもまだ午前中だった。もちろん外はどこもかしこも明るく、驚くほど人の往来がある。コンビニエンスストア以外の店舗も軒並み営業していて、見慣れない異世界の景色だ。

圭一郎はポケットの中のスマホがいつ震え出すかと無意識に身構えていた。社長がいつものデスクに姿勢正しく座って、圭一郎の方を見ずに言う。辞表を用意した所までは良かったけれど、対面で渡さないのは社会人としてのマナーがなっていないね。戻って来なさい紬くん。君の居場所はここにしかないよ。社長の言う通りだ。圭一郎は勢いのままにエレベーターへ乗ったことを後悔していた。自分は頭が悪くて体も弱いが、社長は自分がどんなミスをしても冷静で、あの会社に籍を置き続けてくれた。死ぬだの生きるだのを選ぶ権利が自分にあるか? 今からいつもの路線のバスに乗り直し、自宅に帰って着替えてもういちど出社すべきだ。川沿いの土手を歩いているとき、そんな迷いが足首に絡みついて立ち止まった。伸び始めた夏草がいやに鮮やかな緑色をしていて、川から湿気とともに蚊柱が上る。圭一郎はシャツの裾を握りしめていた。そういえば、朝にソファからひったくったときは、よく乾いていて新品みたいだった。なぜ乾いていたのかは容易に見当がつく。汗でも吐瀉物でも汚したくなかったな。シャツのことを考えていると、なぜだか頭の中の社長は少しだけ縮んだ。圭一郎はとぼとぼ歩き始めた。あの男に会いたい。


昨晩どうやって辿り着いたのか覚えていないくせに、地面を見て歩いていたらいつの間にかあの家の前にいた。圭一郎はそれを奇妙に思う間もなく、過酷な長旅から戻ったような疲労を抱えてチャイムを押した。インターホンは何も言わない。逡巡してからドアノブに手を掛けると、鍵はかかっていなかった。そっと引く。

「訝さん」

やはり返事はない。射し込んだ光を塵が反射して、廊下はほのかに煙っている。長い間ずっと無人で締め切られていた建物のようだ。圭一郎は今朝の様子を思い出した。そういえば目覚めてから家を出るまで、訝の姿は一瞬たりとも見なかった。昨晩の出来事がすべて何かの夢で、あんな男は存在しないのではないか。今この家にいること自体、ただの空き家に侵入している状態ではないのか。圭一郎はまたしても激しい動悸に襲われ、玄関へ転がり込んだ。背後で扉が閉まる。膝に力が入らなくなり、鞄を手放して土間にうずくまった。圭一郎はもう一度だけ、彼の精一杯に声を張り上げて呼んだ。

「訝さん!」

それは圭一郎の腑を焼くような勇気を要した。それでも応えがなければ、身一つで砂漠に放り出されたも同然だった。

「……つむちゃん!?」

風呂の方向から名を呼ばれた。圭一郎は俄に気力を取り戻し、革靴を脱ぎ捨て廊下へ這い上がった。人間らしい二足歩行を忘れ、廊下を四つ這いで進む。脱衣所から慌てた様子で訝が顔を見せ、下着一枚という謎の出で立ちで圭一郎に駆け寄った。訝は膝をついて屈み、圭一郎を廊下の壁に寄り掛からせた。フローリングのひんやりとした感触に脚を投げ出す。重い鉛の塊を支え続け、ふと腕を下ろしたときのような痺れるほどの疲労が体に覆い被さる。

てっきりまだ寝てるもんだと、と訝は驚いた様子でいる。圭一郎はほんの少しだけ出社したことを伝えた。

「そりゃ大変だったね、ちょっと待ってて!」

足裏がぺたぺたと床に張り付く音を立てながら、訝は居間の方へ歩いていった。しばらくして、同じ足音と共に戻ってきた。それぞれ柄の違うグラスを両手に持っている。

「はい、水分」

「あ……ありがとうございます」

遠慮がちに受け取った液体は麦茶だった。口に含んでようやく、口も喉もからからに渇いていることに気付いた。透明のグラスは早くも結露して、冷気が指のあいだから溢れてくる。冷気は皮膚を通り抜けて、しつこい動悸を宥めてくれた。

「朝からお風呂にいて、起きたの気付かなくて。止めてあげられたら良かったのに」

訝は麦茶を啜りながら圭一郎を見つめた。飼い主が不在の間におやつを食べてしまった犬のような顔をしている。目も髪も不思議な色だ。薄茶と青灰色の間。新たにシルバー・レトリーバーなる品種が作られたら、こんな毛色になるだろうか。訝の肩越しに見える床には湿った足跡が点々と残っていて、それも一層犬らしい……圭一郎ははっとして麦茶に目を遣った。十数秒間も人を凝視するべきではない。

「いえ、あの……気にしないでください、いつも通り出勤したんです」

圭一郎は両手で力なくグラスを握った。身体中を血が滲むほど掻きむしりたい衝動に駆られる。

「でも俺、どうして帰ったりしたんだろう……どうしよう……まだ午前ですよね……」

訝の掌が肩に触れ、皮膚に爪を立てる直前で意識を引っ張り戻された。

「立てる?」

「……あ、ええ、大丈夫です」

「こっち来て」

訝は軽々と立ち上がり、あっという間に脱衣所から手招きしている。彼は重力に足首を掴まれている様子がない。座るときも歩くときもなめらかで、厚い胴体に質量が存在しないかのようにふるまう。圭一郎自身を含めて、彼の周りには地球の何倍もの重力を受け続けている人々しかいなかった。圭一郎は訝を見て二足歩行を思い出した。


脱衣所の奥で浴室の扉が半分開いていた。磨りガラス風のプラスチック板越しに、緑の物体が無数に透けている。訝が先行して扉を開くと、緑はすべて植物の葉や茎の色だった。少し蒸した空気が溢れる。半分閉じた風呂桶の蓋に、壁の小物入れに、窓辺に椅子の上にタオル掛けに、大小の鉢植えの植物が所狭しと並んでいる。日中は窓から光がよく入るようで、圭一郎は浴室の明るさに少しだけ目が眩んだ。

乱反射する緑が浴室を同じ色に照らす中で、足元の洗い場だけはうっすらと赤色だった。その赤の真ん中に見知った顔がある。圭一郎は染みついた脊髄反射で、割り箸を折るように深く頭を下げた。

「あ、お疲れさまです」

「お疲れさまです」

訝は洗い場に膝をつき、その顔に向かって圭一郎と同じトーンで会釈した。

「……………え? あの……ええ?」

圭一郎は玄関から浴室までの間に二足歩行を再獲得し、浴室で言葉を忘れた。社長は瞼を閉じていて、表情はなく蒼白だった。腹の肉がなめらかに切り取られ、鰺の干物のように内臓が消えている。かわりに肋骨と背骨が白く覗いている。胴体から両肩が取り外され、腕は肘でさらに切り離されていた。左足も同様に分割されている。右脚と頭はまだ胴体に残っていた。人間をどれだけ分割すると死ぬのか圭一郎はよく知らなかったが、社長が生きていないことだけは理解できた。

手に持ったままのグラスを割らないようにしなければ。そんな風に、ある種の場違いな神経が働いた。圭一郎は浴室すれすれの位置に爪先を揃え、恐る恐るしゃがんで社長を見た。扱いの難しい間を繋ぐように麦茶を啜り、ついさっきどこかに吹き飛んでいった語彙のページをかき集める。

「…………良い人なのに」

「そうなんだ?」

訝が社長の湿った耳たぶをつまんで玩んでいる。

圭一郎には実際に、喉から音として出した月並みな言葉ほどの感慨もなかった。辞表みたいなものだ。意味はないが慣例として言うべきだから、圭一郎は組み合わさって回る時計の歯車のように「社長は良い人だった」と言っただけだ。町に満ちた埃っぽい空気と彼とが、実体のない半透明の薄膜に隔たれた瞬間だった。彼はその膜をなぜか知っていて、白っぽく滲んだ町をとても懐かしく思った。

洗い場の床にはいくつかの道具が使いかけで置いてある。もっとも目立つのはバールだった。全体は概ね青で、とがった鉤状の方は赤でペイントされた普遍的なものだ。床にはバールの他にも鋏や包丁が置いてあった。どれもホームセンターで手に入る廉価な道具たち。個性を剥奪された道具たちは皆、簡略化された絵文字で鉄板を型抜きして作られたもののようだ。訝はその中から出刃包丁を選んで手に取った。圭一郎が彼と出会ったときにも持っていた。

「本当に殺したんですね」

「まあね」

訝は出刃包丁を握り、社長の股関節あたりに滑らせた。皮膚がぱくりと口をあける。切り口は深い赤でありながら、血が吹き出すようなことはなかった。太腿の付け根で刃を何周かして丁寧に切り開くと、中央に骨の節が現れた。訝は包丁をバールに持ち替え、L字の尖った先端で何度か骨を叩いた。ある所でしっかりと握り直し、てこでバールを持ち上げる。すると軽い音を立てて脚が外れた。叩いていたのは関節の軟骨に狙いを定めていたらしい。ごろ、と床に落ちた脚を持ち、訝は同じ手順で膝から下を切り離してゆく。

圭一郎は朝から今まで頭が一杯で、訝が下着ひとつでいる理由を聞きそびれていた。それも今になって合点が行った。服を着なければ汚れないという訳だ。屈んで作業を続ける訝は、圭一郎の顔色をほんの数秒窺った。

「うまく帰ってきたね。本当はもう一人か二人くらい殺そうと思ってたの」

汚れた鞄を持ってゴミを捨て、そのままエレベーターに吸い込まれたのだと圭一郎は思い返した。皆つむちゃんが帰ったと思わなかったんだよ、と訝はけらけら笑っている。そう言われてみれば、帰り際には誰からも声をかけられなかった。鞄と服を洗いに行ったと誰もが考えたのだろう。そしてその全てが重なったとしてもーー社長がいつものデスクに座っていたら、エレベーターには乗らなかっただろう。

「社長は幸せでしたか」

「とっても」

訝は微笑みながら、包丁にこびりついた脂と薄い血を指先で拭った。

圭一郎は脇にグラスを置き、視野いっばいの観葉植物を眺めた。植物の種類には詳しくない。鉢からいくつかの茎が伸び、先端に穴のあいた大きな団扇がついているもの。長い蔓にハート型の葉が互い違いに並んでいるもの。幹が三つ編みに絡み合ったもの。何一つ名前が分からない。空調から遠い風呂に満ちる湿気と生ぬるい空気が、緑とともに熱帯雨林を仕立てている。ここが熱帯雨林でないことを証明するものは、水捌けをよくするための凹凸がついたプラスチック製の床と、シャワーで薄めてなお漂う鉄の匂いだ。

「水やりが楽なんだ。枯らすのも勿体ないし」

訝が他愛もないことを囁く。切り離された四肢が浴室の床に並んでいる。訝は社長の頭に手をやった。両の口角を耳のあたりまで切り開き、下顎の関節を外す。社長は大口をあけて喉と舌を見せた。訝は道具をペンチに持ち替え、鳥の嘴のような先端で前歯を挟んだ。左右に何度か揺らして歯根を痛め付けると、歯は頭蓋骨にしがみつくのを諦めた。穴のあいた歯茎は食べかけのトウモロコシに似ている。穴の隣で次の歯が怯えている。そうして順調に歯を抜き終え、社長が入れ歯を外した老人のような風貌になってしまえば、もはや胴に頭をくっつけておく理由がなくなった。歯を抜いている間は訝の片手と首と胴の重さでうまく固定していたが、今の頭部は最も重い胴体に約6kgを加重する余計なパーツに過ぎない。訝はペンチを包丁に取り替えた。皮膚と筋肉をぐるりと切り開き、骨と骨の間に隙間なく詰まった軟骨に刃を立てる。そうでもしなければ、首の骨にはバールどころか包丁を挿し込む隙間もないのだろう。何度か刃を突き立てて隙間を作り、そこでバイオリンの弓でも操るような仕草でなめらかに刃を引き、押しては引きを繰り返す。やがて首は名残惜しそうに胴体から分かれた。

訝は社長の肘から下を手に取った。出刃包丁で両手と両足の指先の肉だけを注意深く削ぎ落とす。この行程で発生した爪ほどの肉片を20個、血のついた歯と共に黒い小袋へ入れて口を結ぶ。

訝は床に整列する部位を袋に詰めてゆく。脚、胴体、頭、服。すでに口を塞いである袋には、最初に掻き出された臓器が入っているのかもしれない。圭一郎は憧れの眼差しで黒いポリ袋を見た。小さく分解されてあの中に入るとき、自分は何も感じず、何も考えずに済む。

「今すぐ殺してもらうには、どうしたらいいですか。通報したら、口止めに殺してもらえますか」

気持ちだけは捲し立てているつもりが、実際は大声を出す体力も素早く言葉を並べる気力もなく、印象は必要以上に間延びした。

「そしたら……どうしようか……幸せな人しか殺せないんだ、本当にね」

はっとした圭一郎は訝の手首を掴んでいた。圭一郎自身、脱衣所から一体どのように浴室へ転がり込み、訝が言い終えるまでの間でどのように手を伸ばしたのか覚えていなかった。その数秒間に唯一考えていたことといえば、目前の殺人鬼に困惑の色を見て、それが彼をどこか遠くへ連れ去るシーンだけだ。なにもかも今更だとしても失望させたくない。見捨てられるのは恐ろしいことだ。

「ご、ごめんなさい、お願いです。いなくならないで。もう通報なんて言いません、絶対いいません、どこにもいかないで」

圭一郎の手指はすべてが細長く骨張っていて、それがわずかに震えながら訝を捕らえている。しかし圭一郎は熱い鍋にうっかり触ったかのように手を引っ込めた。そして不躾に掴んだことにも謝った。洗い場に額がつくほど小さくうずくまり、土下座の姿勢で何度も詫びている。圭一郎はすっかり壊れたカセットテープになって、巻き戻ったり飛んだりしながら同じフレーズを繰り返した。延々と積み重ねるほどに罪が許され、憐れみを得られると信じて行う口祷にも似ている。このままでは世界のすべてに一言ずつ謝罪してしまうだろうと思い、訝は圭一郎を慰めた。

「いなくなったりしないよ、約束だもの」

引っ込めても体の下に収まらなかった腕が見えている。訝が肉も脂もない棒切れのような腕を軽くつつくと、体はいっそう縮こまった。ひどく湾曲した背骨と肩甲骨がシャツの上からでも見て取れる。

「かめ……」

訝は唐突に動き出すと、放置されていた社長の残りを黒い袋へ機敏に放り込み、床に置いてある道具を風呂桶の蓋の上へ丁寧に並べた。そして少し考えた風な間のあと、圭一郎の首筋をつついた。

「もしもし」

その次は背中、次は脇腹を控えめにくすぐる。圭一郎は思わず身をよじって手足をばたつかせ、浴室の壁に踵をぶつけたりしながら姿勢を崩し、最後には勢い余って上半身を起こした。背を壁にぴったり張り付けて落ち着きなく訝を見る。緊張に満ちた無言の一瞬を通過し、またしても蟷螂拳のような素早さで脇腹を狙われ、圭一郎は浴室で転げ回った。

「な、なにを」

「片付けて着替えて、アイス食べよ」

「あっ、ご、午前から」

「アイスはいつ食べてもおいしいよ」

「確かに、そうです」

訝は大ぶりな八重歯を見せて笑った。

圭一郎をその場に立たせ、シャワーで足元の薄い血だまりを流す。自身の腕で乾いた血飛沫もすっかり洗い落として、シャワーをホルダーにかける。呆然としている圭一郎をしばらく窺い、その首元に手を伸ばした。ネクタイの結び目の手前でわずかに宙を漂い、結び目とシャツの間に指がするりと潜る。圭一郎はネクタイのよれた結び目が、目覚めた黒蛇のようにとぐろを解いて去るのをただ見ていた。

「……あとで…………これを洗って、新品みたいにしたいんです」

自然の摂理で、ネクタイの次にシャツのボタンがふたつ外されたところだった。圭一郎は慌てて先回りして三つ目のボタンを外した。

「真っ白にできるよ」

「俺でもできますか」

「もちろんね」

圭一郎は残りのボタンをすべて外し、絞った靴下や何やらとシャツを一緒にして洗濯かごの縁へかけておいた。


空調のきいた居間にうつり、ひんやりとした濡れタオルで体を一通り拭った。層になった古い皮膚がシャツと共に剥ぎ取られたようだった。今は空気すらざらついて痛いほどに感じ取れる。圭一郎は借り物の軽いスウェットに手足を通し、少し着古したスウェットの柔らかい毛羽を確かめた。四肢を取り外された人体を見たせいか、服を着るという動作が奇妙なものに思えた。

朝からほとんど裸でいた訝はようやくTシャツとカーゴパンツを身に付け、今はキッチンで冷蔵庫を探っている。

「フルーツのシャリシャリしてるやつと、チョコのとね……バニラのソフトクリームもあるよ。どれがいい?」

「あ、じゃあ……えっと。フルーツのをいただきます」

訝はソファーで待つ圭一郎に2種類の袋を差し出した。紫色の方を受け取ると、訝はオレンジ色のもう一方を開封してソファーに腰かけた。圭一郎はよく食べ慣れたアイスキャンディーの濃いブドウ味にほっと息をついた。素朴さが少し懐かしいような気もする。美味しい。

「……ありがとうございます」

訝は熱で融けた飴細工のように脱力していて、アイスの棒を咥えたまま圭一郎に微笑む。

「早起きしたから眠くなってきちゃった。でも最後の作業もやらないとね」

黒いポリ袋たちが待っている。今は声を上げることはなくとも、日中の蒸し暑い風呂場では数日で袋が膨れ上がり、死体が望まずとも賑やかに破裂してしまうだろう。

「これが山奥なんだけど、結構遠くてさ」

訝はソファーの背もたれに首を預け、いただきますの要領で圭一郎に手を合わせた。

「一緒に……来てくれたりする?」

「ええ、はい。ぜひ」

「ほんとに!?」

訝の表情は花でも咲きそうなほどの綻びを見せたが、それはむしろ圭一郎にとって願ってもない申し出だった。視界に捉えておけないということは、その間ずっと訝がどこかへ去ってしまう恐怖が続くことに等しい。朝から何もしていないのに疲れきった体でも、今ならどんなに恐ろしい場所だって二つ返事で同行するだろう。


梅雨の天気はイヤイヤ期の子供のような理不尽さで機嫌を損ね、雑巾色の雲から雨粒がこぼれ始めた。大気はわずかに振動し、すでに遠雷の気配すらある。

目的地までは往復で数時間を要するのだと訝は言った。一軒家の駐車場には白と黒の軽自動車があった。訝は後部座席のさらに後ろにある申し訳程度のスペースに、社長が入ったポリ袋を積み重ねていく。圭一郎は先に後部座席へ座り、その作業を眺めていた。訝の背は圭一郎より低いが、がっしりとした腕はこの程度の肉体労働ではいくらも堪えないようだった。後部座席にいる圭一郎の隣に、あぶれた最後の一袋が並んだ。二人と一人分が白い車に乗り込んだのは正午を過ぎた頃だった。

圭一郎は窓を流れていく景色を眺めていた。ラジオも音楽もなく、エンジンの音だけ。どこかから冷房の風がかすかに届く。外は午後の焼け付くようなアスファルトに小雨が加わり、飽和するほどの蒸気で満足に呼吸もできないだろう。しかし一枚のガラスを隔てて、車内はまるで異世界だった。道中の訝は案外に口数が少なかった。お腹すかない? 冷房寒かったら教えてね。眠ってもいいよ。その程度だ。沈黙には話題を提供するのが一般的な礼儀だろうか? 殺人鬼とどんな会話をすればよいのだろう。なぜ出刃包丁を使っているんですか? バールやペンチと同様にホームセンターで買えるものだから、と返ってきそうだ。それ以上会話が続かない気がする。どうして目も髪も不思議な色をしているんですか? これは個人の出生に関わる事柄かもしれない。見たところ純粋な日本人ではなさそうだし、失礼な詮索をしたい訳ではない。すごい筋肉ですね、鍛えているんですか? ほぼ初対面の相手に肉体に関する質問をするなどもってのほかだ。社長の前に殺した人のことを教えてもらえませんか? 答えを聞いてもいないのに、漠然とした嫉妬がぐらぐらと熱く煮えるように感じた。これも雑談には不向きな質問だ。

それでも隣のポリ袋が礼節について語ることはなく、圭一郎も結局何もしなかった。時間を持て余すかに思えたが、同じ通勤ルートと家からコンビニの往復を数年間繰り返していた身では、ベッドタウンの住宅街にすら興味を引かれた。地味なベージュやグレーの家と低いビルが道路沿いに隙間なく並び、歩道を人がまばらに歩いている。窓の外を見つめていたおかげで、圭一郎には道路の雰囲気が変わりつつあることがわかった。ぎゅう詰めの本棚のようだった住宅街は何冊かが抜き取られ、歯抜けの割合が増えてゆく。インターチェンジを介して高速道に乗ると両脇の建物はすっかりなくなり、しばらくすると道は狭まって蛇行をはじめた。

道路沿いを杉か何かの植林が深く覆い尽くしたところで、車は森の中の脇道に入った。舗装されていない道に容赦なく揺られていると、途中でフェンスをふたつ横並びにしたような簡素な門を通過した。フロントガラスの視界がわずかに開けたところで、ようやく車が止まった。

訝が車を降り、圭一郎は後を追った。都市部の灼熱と湿気を追い越して来たからか、森の空気はさらりとしている。草を踏みしめると青い匂いが立ちのぼり、苔や木肌や土の匂いとよく混ざりあう。進行方向は木々が少し開けていて、圭一郎はそちらへ引き寄せられていった。道の終わりは低い崖になっていて、その先に広がる景色は彼にダイヤモンド鉱山を思い起こさせた。しかし子細を見れば土色ではなく、安物の箪笥だのテレビだのといった粗大ゴミが一面を埋め尽くしている。遥か遠くで黄色のショベルカーが凍りついていた。圭一郎はここから溢れたゴミが都市に向かって雪崩を起こす様を思い浮かべた。それから、目前の処分場が日本地図のうち何パーセントの面積を占めるのか想像した。きっとほんのわずかな点だろう。

両手にポリ袋を持った訝が圭一郎を追ってきた。訝はポリ袋の結び目をほどいて半開きにしたものを、左右に揺らして放り投げた。訝はおそろしく慣れた様子で、圭一郎がいくつか手伝うべきかと車の方を向いた頃には、トランクはすっかり空だった。すべての袋を車から降ろして、訝は両腕を上げてストレッチをする。

「……夜じゃなくて良いんですね。こういうのって」

「ああ、あんまり考えたことなかったな」

訝は握ったり開いたりを繰り返しながら、落とし物でも拾ったように自身の掌を見つめる。

「みんなには見えてないんだ。多分ね」


都市部から抜け出した雲が霧雨を運んできた。雨は音もなく葉を濡らし、艶の増した緑が色濃く深い影を作る。圭一郎は粗大ゴミの山をぼんやりと眺めていて、ふとポケットに手をやった。肌身離さず持ち歩く癖がついている長方形の塊で、着替えた後に手癖でスウェットのポケットへ移した。社長は崖の下にいる。圭一郎はスマホを取り出し、勢いを付けて力一杯投げた。

「おっ?」

驚いた訝が裏返った声を上げる。圭一郎は腕を降ろし、眼鏡の位置を直した。

「あれはスマホです」

「よく飛んだ!」

訝は額に手を翳し、長方形の塊が放物線を描いて落下するのを見届けた。



同じ山道を辿って都市部に降りた頃、雨雲に覆われた太陽は曖昧に沈みはじめていた。圭一郎は後部座席から、ルームミラーに映る訝の目元と後頭部を交互に眺める。襟足に青白い樹脂のような頭皮が透けている。赤信号で停車し、訝が呟く。

「お風呂、ちょっとだけ血の臭いが残るんだ。今日明日くらい……」

ルームミラー越しに視線が合い、圭一郎は頷いた。訝の処理で壁一面の血飛沫は回避したにしろ、多かれ少なかれ痕跡は残るだろう。近くに銭湯もあるんだけどさ……訝は提案のような、独り言のような調子で言った。ワイパーがフロントガラスをせっせと拭っているが、都市部の雨はすでに大粒だった。圭一郎は昼間の浴室を頭の中に組み立て直し、そこで確かに微かな鉄臭さを思い出した。けれどもそれは明らかに些細な問題で、圭一郎の意識は浴室を占領する鉢植えの方にあった。

「あの……植物が」

「ふふ。植物ね」

訝は笑っているが、どのように浴槽を使うのだろう。すだれのような蓋を半分だけ巻けば湯船に浸かれるだろうか? 浴槽の蓋には象のじょうろが置いてあった気がする。あの象で水やりをしてもいいかと問うと、ミラー越しに訝が頷いた。丸い粒の土がじょうろから注がれた水に浸り、その水面は波打ち際のようにどこかへ引いてゆく。それを湯船から永遠に眺めていられたら良いのにと圭一郎は考えた。

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デッド・シュガリー・アニマルズ @zero_ujino

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