デッド・シュガリー・アニマルズ

@zero_ujino

01. acid rain

紬圭一郎は死にたかった。けれどもそれは希死の形をしていなかった。彼は生きているよりは死んでいる方が当然のように感じているだけだった。ところが彼の思う「あるべき姿」に落ち着くためには、店を選び、丈夫な縄を選び、適切な結び方を選び、最期の場所を選ぶ必要がある。死んでいる方がより正しい状態でありながら、そこに自然と吸い寄せられるような好都合の力場はない。こうした唯一の決断には多くの労力を要する。世間も人は積極的に生きている方が正しいと主張する。それで圭一郎はまだ生きていた。

そもそもホームセンターというものは、開店も閉店も早い。こういったまともな縄を売る店は、圭一郎が帰宅する時間には軒並み閉まっていた。一方で、無限に繰り返される労働に新たな決断は求められない。圭一郎はこれがちょうど良い長さの縄だったらと考えながら、毎朝ネクタイを締めて職場に向かう。ネクタイは首に巻いて自宅のドアノブを縛るには長さが足りなかった。肌触りは良い方だったのに。圭一郎はネクタイを見るたびに少し落ち込むようになった。そして日付が変わった後にはへとへとに疲れていて、夜道を歩いて自宅へ帰ったり帰れなかったりする。

夜の空気はじっとりと湿っていて、下着の中に嫌な汗を呼ぶ。昼に見た業務用PCのモニタの端に、夏至を知らせるポップアップが表示されていた。画用紙を切って貼ったようなヤシの木と海、太陽のイラストが添えられていて、圭一郎は海のことを考えた。陽気に晴れた海の記憶はない。毎年、いつ梅雨が明けたのかすら分からない。今日は自宅の玄関にビニール傘を干したまま忘れていて、ちょうど帰りの時間になって小雨がちらつき始めた。雨粒は次第に大きくなり、昼の潜熱を吸収したぬるい塊として落ちてくる。

圭一郎は通りがかった歩道橋から眼下の道路を眺めていた。街灯は明るく、大通りに車はない。濡れた欄干に肘をついて片手のアルコール飲料を呷った。酔った感覚はない。ふと缶のラベルが視界に入り、彼は自宅の有り様を思い出した。この歩道橋から離れて自宅に帰ったとして、六畳には同じラベルが無数に転がっている。なにかと時間がないと言い訳して、空き缶と惣菜のパックを床に重ねて放置している。キッチンのシンクは真っ先にいっぱいになって、そこからはみ出たすべてが床にあるという訳だ。服だの雑誌だのもすべてが床で混ざり合っていて、あれらを拾い集めて捨てなければいけないと思って数年経過した。ゴキブリとクモもよく出る。掃除も洗濯も食事もそうだ。ほんの少し努力すれば誰でもできることを、自分はなぜやらないのだろう。第一、明日も仕事なのだ。終電後に自宅と職場を往復する時間を考え、汚い自宅に帰るメリットを考えたら職場に泊まるべきだったのは明白だ。自分の頭の悪さに辟易する。

圭一郎が俯く先にはアスファルトが東西まっすぐに走っている。深夜は4車線にも軽自動車ひとつ通らない。夜な夜な這い回る虫やネズミもあの地面にはいないだろう。黒々とした真新しいアスファルトの下には、あれを敷くときに熱を加えるせいで草も虫も焼き殺されて何もいない。まだ鋭く深い砂利の凹凸には塵や埃や人間の痰など少しも積もっていない。特有の焦げた油っぽい匂いが歩道橋まで上がってくる。あの上にうつ伏せで寝そべってみたいものだ。圭一郎は少しだけ身を乗り出した。けれども彼はとても疲れていて、脚を持ち上げられなかった。通勤ルートの汚れた道路で靴底を削りながら歩くのが精一杯だった。

「この高さじゃ、下で轢いてもらわないと」

男の声で誰かが言った。確かにそうだ、しかしなぜ轢かれないといけないのか。圭一郎はそれぞれを同時に思った。まるでここから落ちる前提のような口ぶりだ。命を粗末にするのは良くない。人は貰った命を真摯に生きるべきで、それは誰にとっても当たり前のことだ。そして本来は最初に来るはずの「誰?」という感想がなぜだか最後に現れ、圭一郎は能天気な声の方を振り向いた。彼同様に欄干へ両肘を置いて、見知らぬ男が下を見つめている。濡れそぼった男は片手で出刃包丁を玩んでいた。世の中には異常者がいるもんだ。

「ねえ?」

男は声をかけたくせに圭一郎の方を見もしない。周囲に人がいないから、消去法で圭一郎を相手にしていると判断できるだけだ。男は同じ話を繰り返した。

「落ちるだけじゃ死なないよ。轢いてもらわないと」

「はあ」

圭一郎は曖昧でどっち付かずな音を発した。相変わらず飛び降りる前提で話が進む。実は新興宗教の勧誘か何かで、樹海や海辺や歩道橋で突っ立っている奴に片っ端から声をかけているのかもしれない。これから命の大切さを説いたりして、その後で高価な壺でも買わされるんだろうか。壺を売るために包丁が必要とは思えないが、圭一郎は世間の勧誘事情に詳しくなかった。包丁のような小道具を用いる手法が流行っているのかもしれない。

「落ちたくないの?」

「それはそうでしょう、一般的に」

「一般的にね。下を見て」

反抗する理由もなく、圭一郎は憧れのアスファルトを見つめた。街頭のオレンジの灯りに照らされた水たまりで、無数の雨がひっきりなしに波紋を作っている。男は歩道橋を歩いて圭一郎のとなりにやってきた。男が包丁に指を滑らせると、刃先が街灯を銀に反射した。圭一郎はアスファルトから視線を離して刃を見た。ぬるい大気の中でもひんやりと光っている。綺麗だ。

「俺は落ちるより、轢かれるより確実だよ」

男の言葉は甘すぎる菓子のようで、途端にそれが脳を強く揺すった。圭一郎が濡れた歩道橋に膝をつくと、男が追って跪く。男に一理ある、と圭一郎はぼんやり考えていた。自分を轢くトラックドライバーもたいへん気の毒だし。轢く? 飛び降りは一般的にしてはいけないことだ。命を粗末にするのは良くない。圭一郎は欄干の鉄パイプを両手で握りしめた。目眩で景色が回転していくから、世界がひっくり返ったときに空へ放り出されたらいけないと思ってのことだ。男は圭一郎の背中に掌をそっと重ねた。掌は雨より少し熱い。

「一緒に来て。幸せにする」

男は囁いた。

「最後は必ず、殺すから」

幸せの意味は分からなかった。だが殺すという一点については、包丁を持っているからそれなりに説得力があった。授かった命は大切にしなけりゃいけない。人は幸せになるよう努力しなけりゃいけない。常識だ。殺されるのは事故で轢かれるより確実で良い。圭一郎は自身が男へ頷いたところまでの記憶がある。雨がシャツに染み込んでいって、そこから先のことはよく覚えていない。



男の家が歩道橋からそう遠くないことは確かだが、圭一郎は道順をさっぱり覚えられなかった。左右に広い空き地と公園、裏に低いビルの背中がある一軒家で、六畳のアパートよりはるかに大きい。圭一郎は玄関の土間で、招かれないと室内に上がれない吸血鬼のように突っ立っていた。服も靴も鞄も濡れている。男も同じくらい全身びしょ濡れで、しかしいくらも気にせずフローリングに上がった。湿って色の濃くなったカーゴパンツから雨水が滴り、包丁も持っているし、どこか強盗の様相を呈している。男は靴箱の上に包丁を置いた。濡れたTシャツをひっぺがすように脱いで、廊下から洗面所に放り投げる。

「お名前は」

「紬圭一郎です」

「じゃあねえ、うんとね……つむちゃん」

小学生の頃と同じニックネームだった。隣の席の子にそう呼ばれていた。

「……あなたは」

それが一応の礼儀かと思い、圭一郎も男の名を聞いておく。

「刑部島訝。ごんべんに牙」

「では刑部島さん」

「も、もう一声」

何を言わんとしているのかは理解できるが、圭一郎には良い案が思い浮かばなかった。刑部島ちゃんや訝くんと同じクラスだったことはないので、妥協案にファーストネームを選択する。

「訝さん」

「よろしくね!」

妙に朗らかで馴れ馴れしい男だ。互いに自己紹介などしてしまったが何をよろしくするのだろう。

一旦脱衣所に消えて現れた訝は、ものの数秒でハーフパンツに履き替えていて、間抜けなキャラクターがプリントされたバスタオルを振り開きながら玄関へ戻ってきた。タオルが頭の後ろを通って圭一郎の肩を覆った。洗剤らしい芳香と、かすかな紫煙の匂いが鼻を擽る。それは訝からのようだった。

「おいで」

「……」

「こっちだよ」

髪と足から雫を拭い取り、熱い湯船に爪先を入れるような慎重さでフローリングに登った。訝が廊下の突き当たりの部屋を指しているので、圭一郎は言われるがままに部屋へ入った。部屋にはコンビニ弁当のプラスチック容器はなかった。例の空き缶もないし、虫もいない。ただのベッドときれいな布団があった。この日この部屋にはベッドと布団以外に何もないような気がしていた。キャビネットやら目覚まし時計の情報を処理できていなかっただけだと気付くのは、もう少し後のことだ。

「濡れたのはそのへんに置いといて。なんか着るもの探してくるね。寝てていいよ」

圭一郎はすべて言われた通りにした。あの男が軽快に並べる通りの行動を取るとなぜか楽だった。何も考えなくていい。ネクタイとYシャツをのろのろと脱いで床に放る。スラックス、あと靴下。半裸になったところでベッドへ倒れた。少し湿ったバスタオルをくしゃくしゃにして頭の下に敷き込むと、タオルに頭を包まれているようで気分が良かった。

しばらくして訝が戻ってきた。訝は圭一郎の様子をちらりと見て、抱えていた衣服を脇に置いた。そしてタオルケットをかける。圭一郎は瞼をほんのわずかに開いて囁いた。

「あの」

「なあに」

「幸せにしてくれるんですか」

「うん。幸せな人しか殺せないから」

訝の声は少し掠れている。それが圭一郎に合わせた抑揚のない調子で囁くので、訝と自身のどちらが声を発しているのかよく分からなくなった。

「俺、不幸なんだ」

「うん」

「幸せな人を選べばいいのに」

「いつもはそう。今日は不思議」

訝は笑った。彼は圭一郎と出会った瞬間から穏やかな笑顔を絶やさずにいる。きっと犬や何かと同じで、呼吸するだけでそう見える造形なのだろう。圭一郎は自身の口角までもがわずかに湾曲して、何百年も縁のなかった笑みを作り出そうとしていることに気付いた。不幸。もっと不幸だと言ってほしい。それがとても心地良くて、無意識に笑ってしまう。

「やり残した……色々なことをして、幸せになろう」

圭一郎は眼鏡の固い感触をそっと掬い取られたように感じた。いつの間にか瞼が閉じていて、彼はそのまま眠ることにした。やり残したことなどそう多くはない。両手で数えるほどもないかもしれない。けれども圭一郎はこれを数えた。ひとつ、死ぬ前にきれいなベッドで眠ること。

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