53話、労いの夜
「ふぅ……」
執務室の椅子に深く腰を掛け、私は長い息を吐いた。
連日、しかも長時間に渡る戦後処理の数々を終え、ようやく訪れた束の間の休息。窓の外には夕日が街を赤く染め、平和で美しい街の風景が広がっている。
「アンネマリー、例の準備はどうなっている?」
私は休憩がてら、同じく書類仕事に追われているアンネマリーへと尋ねる。そんな彼女の横顔はまさに真剣そのもの。その姿に、私は思わず目を細めてしまう。
「はい。領都の酒場を二十件、隊長、副隊長の皆様用に別で一件借り切っております。料理やお酒も十分に用意しておりますし、部隊毎の割り振りも各長へ通達済みです」
「そうか、それは良かった。兵士たちも喜んでくれるだろう」
レーヴァンツェーンとの戦いを制した後、酒場を大量に借り切り
「後で治療隊の所へ顔を出そうと思うのだが、
私は書類へ落としつつあった顔を再び上げて、アンネマリーに尋ねてみた。
「会議でおっしゃってた件ですね」
「ああ」
「ええと、治療隊の皆さまは……ありました。『金の子豚亭』にお集まりです」
金の子豚亭? 聞きなれない言葉に、私は首を傾げてしまう。
なんだ? 豚を出す店なのか? なぜ金なのだ?
悪いが、聞いたことすらない。
酒場に足を運ぶ機会など、まるで無かったからな。
「ほう」
「場所はお判りですか?」
「いや、さっぱりわからん」
「では、私がご案内差し上げます」
アンネマリーが、少し嬉しそうに案内を申し出てくれた。
だが、私はそれを断ることにする。
「いや、いい。アンネマリーも今晩は楽しんで来なさい。君らは君らで飲む店が決まってるのだろう? 簡単な地図だけ書いてくれればよいから」
「それはそうですが……」
僅かに寂しそうな表情を見せる彼女を見て、私は少し申し訳ない気持ちになる。だが折角の機会だ、彼女にも同僚たちと羽を伸ばしてほしい。その思いを優先するべきだろう。
「今晩は、戦いの疲れを癒やす祝勝会だから、思う存分楽しんで来るといい。だから自分の事を優先してくれ。いいな?」
「はい……」
「そう寂しそうな顔をするな。後で顔を出してやるから」
「本当ですか?」
アンネマリーの顔がパアッと明るくなる。
随分と大人になってきたものだと思っていたが、落ち込んだり、喜んだりと、その感情表現の豊かさは昔のままだった。
◇◇
「兄上、こちらが『金の子豚亭』のようです」
店の前に到着すると、ヴァイスは一礼してその場を去ろうとする。
だがそれは許さない。悪いが逃がさんぞ? くく。
アイリーンに見られたらまた『悪そうな顔』と言われてしまうだろうな。
「ん? 何か約束などあるのか?」
私は不思議そうな振りをしてヴァイスに尋ねる。
「特にはございませんが……」
「じゃあ、お前も来い」
「この店は、治療隊の方々が飲むお店では? 私はさすがに場違いかと……」
ヴァイスは、困惑した表情で抵抗を試みる。
だが無駄だ、お前は連れて行く!
これは決定事項なのだよ。
「逆だよ逆、ヴァイスも褒美なのさ」
可哀そうだから、少しだけ種明かしをしてやろう。
そう言うと、私はニヤリと笑ってヴァイスの背中を押した。
「はぁ……兄上、おっしゃってる意味がよく……」
「ほら、行くぞ。入れ」
私はヴァイスの言葉を遮り、彼を連れて店内へと足を踏み入れた。
そしてものの数秒で、来た事を後悔してしまう。
扉を開けると、むせ返るような花の香りに思わずたじろぐ。
視界に飛び込むのは、楽しそうに談笑し、酒を酌み交わしている大勢の女性たち。彼女たちの華やかな笑顔と、
まるで秘密の花園に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほど、そこには女性たちの濃密な空間が広がっていた。
「な、なんだここは……、ヴァイス、女性ばかりではないか」
「なぜか、癒官様は女性が多いようで」
多いなんてものじゃないぞ? ほぼ女性ではないか……。
ヴァイスも、目を白黒させながら呟いていた。
「ヴァイス撤退だ。
撤退を決断した私は、それを我が腹心へ即座に伝える。
即断即決、戦場において最も大切な事のひとつだ。
「主様? まさか、もうお越しくださったのですか?」
出ようとする私の、背中越しに聞こえる麗しき副官様の声。
あぁ、振り向く必要すらない。これはユリシスの声だとわかってしまう。
彼女の声が、こんなに嬉しく無いのはいつ以来だろう?
「あ、あぁユリシス。そうなのだが、少し用事を思い出してな……」
「えええ、閣下?」
「うそーっ」
「ああっ、ゼーレヴァルト様も!」
「きゃー! ゼーレヴァルト様ぁ!」
瞬く間に店内から歓喜の声が上がり、あっという間に私たちを取り囲む女性たち。どうやら敵は相当やるようだ。我らをして、もはや逃げ出すことすら叶わんとは。
っ、ならば仕方が無い、本来の目的を果たすとしよう。
「皆、楽しんでるところをすまない。少し時間を貰っても良いだろうか?」
大勢の女性が私を見つめる中、私はユリシスへと視線を向けた。
「皆さん、少し静かにしてください。主様から、皆様へ労いのお言葉がございます」
察したユリシスの言葉に、女性たちは一瞬で静まり返り、期待に満ちた視線を私に向け始める。
「治療隊、そして運癒隊の皆、此度の戦い本当にご苦労だった」
私は言いながら、彼女たちの顔一人一人を見つめていく。
「戦争とは、まさに破壊の権化。人々が殺し、奪い合う、古来より延々と続く最も愚かな行為だろう。だが、そんな中にあって、君たちだけが傷ついた兵士たちに恵みを与え、生きる希望を繋いでくれた」
私は、込み上げてくる感情をあえて抑えず、話続ける。
「皆が戦場で示してくれた勇気と、献身的な治療に多くの兵士が命を救われ、再び家族の元へ帰ることができたのだ。こんなに嬉しい事は無い。貴女たちに救われた兵士とその家族に代わり私が言おう。心から感謝している。本当にありがとう」
私の言葉が終わると同時に、店内に静寂が訪れた。次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出す者、顔を覆って肩を震わせる者が続々と現れる。
「主様……ありがとうございます」
ユリシスが代表して深々と頭を下げる。彼女の目にも光るものが見えた。
「閣下、このようなお言葉を頂戴し、大変光栄に存じます」
コルネリアがハンカチで涙を拭いながら、震える声でそれに続く。
「私たちは、ただ自分の役割を果たしただけです。なのに、閣下からこのようなお言葉をいただけるなんて……」
他の女性たちも、次々と感謝の言葉を述べ始める。
「君たちがやったことは、本当に素晴らしいことだ。生涯誇っていい。そして、叶うならばこれからも我がローゼリアを救ってくれると嬉しい」
私は、一人ひとりの顔を見つめながら、心からの賛辞を贈った。
「主様、せっかくですので、少しの間だけでも皆とご歓談されませんか?」
ユリシスは涙で潤んだ瞳で、優しく微笑みながら私に提案する。
そんな顔で頼まれて、嫌と言える男がいようか……。
「少しだけ付き合うとするか」
私は、彼女たちの熱意に応えるように、笑顔で頷いてみせた。
「ありがとうございます、主様!」
ユリシスは喜びの声を上げ、私たちを女性たちの輪の中へと導いて行く。
一刻ほど付き合えば十分だろう。
後はヴァイスに任せるとしよう……。必ず任せるからな……。
◆◆
領都の一角に、ひっそりと佇む高級店があった。
その名は「琥珀」という。
長い年月を経て使い込まれ、丹念に磨き上げられてきた内装や調度品の数々が、深い琥珀色のような、しっとりと落ち着いた光を湛えている。それはまるで、長年樽の中で熟成された古いブランデーのような、円熟した艶を放っていた。
時を経るごとに深みを増した深い琥珀色の空間は、
そんな『琥珀』の片隅の、革張りのソファに深く腰掛け、静かにグラスを傾ける者たちがいる。宴もたけなわとなり、兵士たちが心置きなく楽しめるようにと、早々に酒場を切り上げた隊長たちだった。
「閣下のご結婚について、何か話は出ているのだろうか?」
ヴァールハイトの言葉に、他の隊長たちは一瞬静まり返る。
彼の臣下であれば誰もが一度は、心の中で考えたことがあるに違いない。そして、あえて口に出してこなかった話題でもあった。
「何も、聞いたことすらありません」
オスヴァルトが皆に変わり、静かに首を振り否定した。
彼の眉間には、わずかな皺が刻まれている。
「ふぅむ、ローゼリア家はいまや閣下お一人なのだろう?」
ヴァールハイトは、真剣な表情で周囲を見渡す。
この男に悪気は一切無い。
ただ、主君への忠誠心と、家門の未来を想っての言葉だった。
「はい、ご両親は既にご他界され、弟のアルザス殿は現在行方が知れません。まぁ、いても後を継ぐことは許しませんが……」
アイリーンが、苦々しく答える。
彼女の口調には、裏切った弟アルザスへの憎悪が滲んでいるよう。
「なればこそ、我々臣下からもご結婚を言上した方がよいのではないか?」
ヴァールハイトの言葉に、隊長たちは一斉に頷く。
皆、ローゼリア家の未来を真剣に案じていたから、それはわかっていたのだ。
「慣例通りなら、相手はやはり他家のご令嬢か、他国のご令嬢となりますよね」
ここでリンハルトが腕を組みながら会話に混ざる。彼の目は、どこか遠くを見つめているようだった。
「本来ならそうだ。だが、帝家はあの通りで無理だろう? 帝国六雄家のうちゲーベンドルフ公爵家とゲルドリッツ大公家も論外。オルフェン侯爵家やフンベルト侯爵家に妙齢の娘はいないはず」
ヴァールハイトは、一つ一つ可能性を潰していく。
彼の表情は、次第に険しくなっていく。
「それなりの家格で、閣下と丁度同じくらいの年の令嬢か……意外といないもんだな。私が知る程度であればノルデンブルク辺境伯家か、先のワンベルク伯爵家くらいかもしれんな」
「外交を考えれば、シュマリナ聖教国のユーリア様も宜しいのでは? お優し気でお美しい、文句ないお方と思われますが」
リンハルトが、希望を見出すかのように提案する。
彼の声には、かすかな期待と願望が込められている。
「言うねえ、リンハルト君。だが、ユーリア様はお立場上無理ではないかな? さすがに国を捨てては来てくれんだろう。閣下が向こうへ行くのであれば、可能性はなくも無いが……」
ヴァールハイトが現実的な意見を述べる。
さすがに聖皇女様は無理だろ……と、彼の言葉には諦めが混じっていた。
「確かに……そうですね」
彼の言葉にリンハルトは、そっと肩を落とす。
「あのう……」
議論が白熱し始めた頃、ホルガーがぽつりと呟く。
彼は普段は寡黙だが、稀に核心を突く発言をすることがある。
「アレクシス様に、好いた女性がいるなら優先して差し上げるべきじゃ……」
ホルガーの言葉に、皆がハッとする。
彼らは、主君の気持ちを置き去りにしていたことに気づいたのだ。
「ホルガー、君は何か知っているのか?」
ヴァールハイトの問いに、ホルガーは慌てて首を振る。
「い、いえ、何も。ただ、勝手に決めるのはどうかと思いまして……」
彼の言葉には、主君への深い思いと我が身への葛藤が見て取れる。
彼には慕う女性がいるのかもしれない。
「むう、振り出しに戻ってしまったな」
ヴァールハイトは顎に手を当て、考え込むように目を伏せた。
「仮に、閣下にご結婚をお勧めするとしたら、誰がその任を?」
アイリーンの問いに、皆は互いの顔を見つめ合う。
誰もが責任の重さに気圧され、口を開くことを躊躇っていた。
アイリーンの問いに、皆が見つめ合う。
「私は新参だし、リンハルト、君はどうだ?」
ヴァールハイトは若き参謀リンハルトに視線を向ける。
彼の瞳には、若者を試すような光も宿っていた。
「いえいえ、私も新参ですから。ここは長く閣下にお仕えしてきた方々がされるべきでしょう。
リンハルトは、謙虚に頭を下げる。
けどその表情には、どこか自信のなさが見え隠れしているよう。
沈黙が場を支配しようとする中、ホルガーがまたぽつりと呟いた。
「ツェツィーリア様がいいんじゃない?」
ツェツィーリアは、アレクシスと幼馴染であり互いに親戚の間柄、信頼も厚い。誰もが納得する候補だった。
「と言うか、ツェツィーリア様がよいのでは……?」
オスヴァルトが、静かにグラスを回しながら確信めいて呟く。
「そういえば、ユリシス様も中々良い感じだと思わない?」
アイリーンが身を乗り出して言う。
彼女の頬は、興奮でほんのり赤く染まっていた。
「なるほど、外では無くて内か! 先代様もおられぬから、ありかもしれん!」
ヴァールハイトは、興奮のあまり勢いよく立ち上がってしまう。
ローゼリアの未来を案じ、主君の伴侶について熱く語り合う臣下の者たち。彼らの忠誠心と献身は、琥珀色の空間で静かに燃え上がりをみせていた。
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神崎水花です。
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ローゼンクランツ王国再興記 〜前王朝の最高傑作が僕の内に宿る事を知る者は誰もいない〜 神崎水花 @MinawaKanzaki
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