1月1日・水「あの子はきっと、魔書の中」

 彼女の小説が更新されなくなって、一年以上経つ。

 それは転生を繰り返す物語。

 この世界と、ここではない、異世界とを行ったり来たりしながら。ときにふたりは敵同士で、ときにふたりは恋人同士で。……この世界から転生し、不具の竜として生まれた婭は、同じく転生者のシンに心の臓を奪われる。それは竜の宝玉。メアリ・シェリの人造宝石で九死に一生を得た婭は同時に人の体を手に入れ、復讐の旅に出る。前世で恋人同士だった彼女を、殺すために。無理に作られた体、眠ることのできない体がやがて彼女を蝕んでいく。長い冒険の末、惕を殺した婭は、前世の記憶を思い出して、自ら命を絶つ。目をさますとこの世界に生まれ変わっている。なら、……も? あれ、……って誰のことだろう。思い出せない。でも、とても大切なことだった気がする……そんなふうに、この物語は永遠に続いてく、はずだったのに。

 最後は現世での、巨大な隕石の到来を告げたところで終わっていた。隕石……任那の書いていたのと、同じような。

 わたしはパソコンのモニター画面から目をそらして銀縁の眼鏡を外し、軽く目頭を揉んだ。わたしと同じ名前を持った書き手もネットの海に沈んでしまって、戻ってくることはなかった。

「それも、仕方のないことだけれど、ね」

「……何か言いやした?」

 わたしの隣で猫と戯れていた夜々子が、顔を上げた。

「芯がお腹空いたって言ってるわ」

「さっきご飯あげましたえ?」

 なあ、芯?

 夜々子の指先が少しだけ宙に迷い、飼い猫の、芯の耳裏を撫でる。芯は目を細め、ごろごろと喉を鳴らす。

 ……いつもこんな感じで、甘えん坊の芯なのに。人見知りが激しいからお客様がいると隠れてしまって、出てこない。そういえば。

 あの子をこの家に招いたときにも、芯は納戸の奥に隠れて一晩中出てこなかった。

「わたしもお腹が空いたわ」

「……さっき食べましたやん」

「生麩のお饅頭のこと? あんなのご飯に入らないわ」

 わたしが言うと、夜々子は困ったように、小さくため息をついた。

「じゃあ、おさんどんしますけど。何か……食べたいものあります?」

「鰻」

「……うちにはようできしません」

 夜々子がむっとして、声を上げた。

「だいたい、元日からやってはるおたながどこにありますのん」

「そう言えばそうね」

 わたしは夜々子の手を逃れて、スカートの端をちょいちょいとつつく、芯の頭を撫でてやった。単調な……少し不器用な夜々子の手は、時々芯を飽きさせてしまう。

「おせちが届いていたんとちゃいますの? 嵐山の料亭さんの……何てお名前やしたか」

「空木?」

「そう、えらい大きなお重でしたえ?」

 わたしはじゃあ、それでいいわ、と返して、眼鏡をケースにしまい、パソコンの電源を落とした。

 夜々子がお酒に燗をつけるために席を立つ。一度壁の柱に手をついて自分の居所を確認して仕舞えば、あとはもう、たとえ目が見えなくても、家の中で迷うことはない。

 ネットの中の月庭一花という作家が遊崎花だということは、すぐにわかった。任那と同じ投稿サイトを使っていたし、異世界ものとSFいう違いはあっても、作風が似通っていた。モチーフまで。その上でどんな作品を書くのか楽しみにしていた。けれども二年前のクリスマスの日を境に、彼女も消えてしまった。何も言わずに。多くのネット小説家がそうであるように。

 夜々子が台所の方で、何か諳んじている。

 耳をそばだてると、彼女が好きな北條裕子の『補陀落まで』という詩集の……その最後の詩だ。

 詩の中に足の苦痛と「風が盲て」というフレーズがあるのとで、よく口にしている。わたしと、そして自分のことを思っているのだろう。


……なる季節 脚をさすりながら 戸袋をあけて そこから通ずる暗がりに あのひとはいるのだろうか


ここにいるよ

ここにいるよ

ささやく声が聞こえて


あのひとが死ぬ間際まで 使っていた化粧水を 今 わたしが使う あのひとの……


 夜々子の声が、やわらかく、滔々と流れていく。まるで水のように。まるで、波のように。

 わたしはそっと、パソコンの暗いモニターに指を伸ばした。さっきまでは生きて、熱を持っていたのに。今は冷たい、無機質な感触。

 ……花。


 あなた、そこにいるの?

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いつの日か、わたしとあなたがいなくなっても。 月庭一花 @alice02AA

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