1月1日・水「あの子はきっと、魔書の中」
彼女の小説が更新されなくなって、一年以上経つ。
それは転生を繰り返す物語。
この世界と、ここではない、異世界とを行ったり来たりしながら。ときにふたりは敵同士で、ときにふたりは恋人同士で。……この世界から転生し、不具の竜として生まれた婭は、同じく転生者の
最後は現世での、巨大な隕石の到来を告げたところで終わっていた。隕石……任那の書いていたのと、同じような。
わたしはパソコンのモニター画面から目をそらして銀縁の眼鏡を外し、軽く目頭を揉んだ。わたしと同じ名前を持った書き手もネットの海に沈んでしまって、戻ってくることはなかった。
「それも、仕方のないことだけれど、ね」
「……何か言いやした?」
わたしの隣で猫と戯れていた夜々子が、顔を上げた。
「芯がお腹空いたって言ってるわ」
「さっきご飯あげましたえ?」
なあ、芯?
夜々子の指先が少しだけ宙に迷い、飼い猫の、芯の耳裏を撫でる。芯は目を細め、ごろごろと喉を鳴らす。
……いつもこんな感じで、甘えん坊の芯なのに。人見知りが激しいからお客様がいると隠れてしまって、出てこない。そういえば。
あの子をこの家に招いたときにも、芯は納戸の奥に隠れて一晩中出てこなかった。
「わたしもお腹が空いたわ」
「……さっき食べましたやん」
「生麩のお饅頭のこと? あんなのご飯に入らないわ」
わたしが言うと、夜々子は困ったように、小さくため息をついた。
「じゃあ、おさんどんしますけど。何か……食べたいものあります?」
「鰻」
「……うちにはようできしません」
夜々子がむっとして、声を上げた。
「だいたい、元日からやってはるお
「そう言えばそうね」
わたしは夜々子の手を逃れて、スカートの端をちょいちょいとつつく、芯の頭を撫でてやった。単調な……少し不器用な夜々子の手は、時々芯を飽きさせてしまう。
「おせちが届いていたんとちゃいますの? 嵐山の料亭さんの……何てお名前やしたか」
「空木?」
「そう、えらい大きなお重でしたえ?」
わたしはじゃあ、それでいいわ、と返して、眼鏡をケースにしまい、パソコンの電源を落とした。
夜々子がお酒に燗をつけるために席を立つ。一度壁の柱に手をついて自分の居所を確認して仕舞えば、あとはもう、たとえ目が見えなくても、家の中で迷うことはない。
ネットの中の月庭一花という作家が遊崎花だということは、すぐにわかった。任那と同じ投稿サイトを使っていたし、異世界ものとSFいう違いはあっても、作風が似通っていた。モチーフまで。その上でどんな作品を書くのか楽しみにしていた。けれども二年前のクリスマスの日を境に、彼女も消えてしまった。何も言わずに。多くのネット小説家がそうであるように。
夜々子が台所の方で、何か諳んじている。
耳をそばだてると、彼女が好きな北條裕子の『補陀落まで』という詩集の……その最後の詩だ。
詩の中に足の苦痛と「風が盲て」というフレーズがあるのとで、よく口にしている。わたしと、そして自分のことを思っているのだろう。
……なる季節 脚をさすりながら 戸袋をあけて そこから通ずる暗がりに あのひとはいるのだろうか
ここにいるよ
ここにいるよ
ささやく声が聞こえて
あのひとが死ぬ間際まで 使っていた化粧水を 今 わたしが使う あのひとの……
夜々子の声が、やわらかく、滔々と流れていく。まるで水のように。まるで、波のように。
わたしはそっと、パソコンの暗いモニターに指を伸ばした。さっきまでは生きて、熱を持っていたのに。今は冷たい、無機質な感触。
……花。
あなた、そこにいるの?
いつの日か、わたしとあなたがいなくなっても。 月庭一花 @alice02AA
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