12月24日・日「補陀落渡海」
「頂けません、こんな高価なもの」
わたしは言った。梅乃さんが悲しそうな表情を浮かべたが、こればかりはどうしようもない、固辞しなけば、と思った。
「もう、虹那が着ることはできないから……花さんに譲りたいと思ったの。明日で花さんも十八、成人になるのだから。わたしからのお祝いだと思ってほしいのだけれど。……どうしてもだめかしら」
それは加賀友禅の振袖だった。
青い富嶽に瑞祥の花鳥図。落款を見れば、高名な工芸家の手によるものだとわたしにだってわかってしまう。
白地が多い図柄は大胆。けれどもその筆は緻密にして精緻だった。青く澄んだ富士が中央にシルエットのように描かれており、取り巻く薄い紫雲は全体へと螺旋状に配置されている。その雲間を群れ飛ぶ白い瑞鳥。写実的な紅白の牡丹。わくらばも儚げで、優美さをいや増していて。思わず息を飲むほどに美しい着物。……ううん、衣桁にかけられたそれは、もはや一幅の絵のようだ。
今までも高価な着物にたくさん袖を通してきた。虹那の残した着物は本当に質のいいものばかりで、中にはお仕立て代を入れずに、生地だけで百万を超えるようなものもざらだった。でも、わたしにとって、それらは高級な貸し衣裳というくらいの気持ちだったのだ。自分のものにしようだなんて、一度も考えたことはなかった。
わたしが自分の思いを伝えると、梅乃さんは、じゃあ、こうしましょう、と言って、手を打った。
「十八歳で成人しても、閖町の成人式は二年後でしょう? 花さんにお式で着てもらえたら、わたしはとても嬉しい。虹那も嬉しいと思うわ。それでね、それまでのあいだ、この着物を預かっていてもらえないかしら。いつでも好きに着ていただいて、構わないから。それなら……今までと、さほど変わりはないと思うのだけど」
正直、ずるい、と思う。
でも、……ここまでの梅乃さんの好意を、頑なに拒否してしまってもいいのだろうか、とも、思ってしまう。
「わたしには、何も……梅乃さんの好意に対して、お返しすることができません。それでも、いいんですか?」
わたしは言った。言ったそばから、胸が苦しくて、涙がこぼれそうになる。
「見返りを期待して贈り物をする人なんていないわ」
本当だったら、虹那が着るはずだったもの。
振袖用の襦袢も、うさぎ柄の鼻緒の草履も、オリエンタルな柄の、まるでタイルを張り合わせたような可愛らしいゴブラン織の帯も、……何もかも。
「全部、大切にいたします。……お式のときには、是非、……梅乃さんも」
「ええ、楽しみ」
わたしはそっと、着物の袖に触れた。
指先から、何か、あたたかい、想いのようなものが入ってきて、わたしの心の奥底に、すとん、と落ちた。
クリスマスのイルミネーションが、どこまでも続いている。
ちらちらと雪が舞っている。傘をさすほどじゃなく、すぐに止んでしまいそうな気配だけれど穏やかな気候の、海辺の閖町に降る雪は珍しくて。道行く人たちの顔が、誰も皆、一様に明るい。でも、
「お誘いしてしまって本当に良かったのかしらって、心配でしたの。……花さんはもしかして、何かご予定がおありだったのではなくて?」
隣を歩く龍烏さんは少しだけ不安そうに眉を寄せて、わたしに訊ねた。
「ううん。そんなことないよ。誘ってくれてありがとう。クリスマスの季節に……というかさ、明日誕生日なんだけど、ひとりだと寂しいなって、思ってたから。嬉しい」
「それならいいのですけど……何だか冴えないお顔をしていらしたようにお見受けしたものですから」
わたしはそっと自分の頬を、無意識に撫でた。まだ、昼間の……梅乃さんとのやり取りを、引きずっていたのかもしれない。
とてもありがたくて、嬉しいのに……逆に胸が詰まってしまって、どうしたらいいのかわからなくなる。好意が重い、というのとも違う。もっと純粋な不安。……どうしてこんなに気持ちが、心が落ち着かないのか、自分でもわからない。
でも、もしかしたら……それは母のせいなのかもしれない、と思う。無償の愛。無垢な愛情。それをわたしにくれた母は、自分の身を粉にして、そして、死んでしまった。だから。
「花さん?」
「ちょっと、死んじゃったお母さんのことを思い出しちゃって、それで、ね」
途端に龍烏さんが暗い顔をしてしまったので、わたしは慌てて手を振って、違うの、と言った。
「や、ええと、違う……というのも違うんだけど。ごめん、せっかくのデートなのに、わたし、気が利かないことばかりで」
「……デート?」
きょとん、と龍烏さんが首をかしげる。
「って、言ってなかったっけ?」
「わたし、デートって、言いました?」
見合わせた顔が、なんとなく気まずくて、二人揃って赤く染まる。
「行きましようか。せっかく誘ってくれたクリスマスマーケットなんだもの。楽しまなきゃ、ね」
「そ、そうですわね」
わたしが手を取ると、なぜか一瞬、びくん、と。龍烏さんの肩が震えた。
手袋越しで、指の温かさが伝わってきた。こうやって、龍烏さんと手を繋げるのが、単純に嬉しい。わたし、……人嫌いだったはずなのに。男も女も大嫌いだったはずなのに。……変な気持ち。
龍烏さんも、今日はこの天気だし待ち合わせが夕方だったから、日傘をさしていない。日傘が無粋とは言わないけれど、わたしたちを邪魔するものは、何もない。
クリスマスマーケットには、色々なお店が出ていた。わたしたちにはまだ、もう少しだけ年齢が足りないけれど、ホットワインの甘く、スパイスの効いた香りが漂ってくると、幸せな気分になってきたりして……手をつないでいるからだけじゃなくて……心が踊るのがわかる。
「あ、これ……」
わたしは小さなお店の軒先に飾られた、木製の……なんだろう、頭のところにプロペラみたいな羽根の付いた小屋のような……不思議な形の作品に目を惹かれて、思わず立ち止まった。
「クリスマス・ピラミッドですわね」
「ピラミッド?」
ピラミッドというと、どうしてもエジプトなどにある、あの三角形の、巨大な建造物を想像してしまうけれど……形は全然似ていない。どちらかというと、縦長のメリーゴーラウンドみたいに見える。
「周囲に幾つか台座がありますでしょう? ここに蝋燭を立てて火を灯すと、その熱で空気が動いて、上の羽根が回りますの。ドイツとチェコの国境付近の山地が発祥の、伝統的な工芸品ですわ」
中を覗き込むと、マリア様が幼子のイエス様をお抱きになっていて、東方から来た三人の博士が聖者の生誕を祝福している場面が模型で再現されている。二階では羊の群れを追う羊飼い。そのさらに上階部分では、天使たちが歌い、ラッパを吹いていた。
「結香さん詳しいんだ。へぇ……結構いい値段するね」
「手作りですもの。仕方ありませんわね」
わたしたちは手をつないだまま、まじまじとそのピラミッドを見つめていた。
「かわいいけど、これってなんでこの形なんだろう。随分縦長だよね」
「確か、クリスマスツリーの前身なのだと聞いたことがありますわ。キリスト教以前の、メイポールの名残だとか」
ということは、元々はもっとずっと大きくて、この周囲を人々が回り踊るものだったのかもしれない。
わたしが感心しながら見ていると、
「プレゼントいたしますわよ? 花さんの誕生日のお祝いに」
龍烏さんが上部の羽根に優しく触れながら、小さく微笑んだ。
「こんな高いもの、もらえないよ。それに、壊しちゃいそうで怖い」
「なら、こちらは? 花さんには少し無骨かしら」
龍烏さんが手にしたのは、小さなプロペラがモチーフになっている、首飾りだった。ペンダントトップは木製で、作りはピラミッドのものの小型版だが、全周が銀の輪に覆われていて、一見すると車輪のよう。大きさはわたしの人差し指と親指を繋いで丸を作ったくらいか。言われてみれば確かに無骨な気がしないでもないが、銀の輪には彫刻がしてあって、細工はとても美しい。
「わたし、ネックレスとか、したことない」
「でしたらこれが最初ですわね」
そう言うと、龍烏さんはするりとわたしの手をほどいて、ささっとお会計を済ませてしまった。
わたしは恐る恐る、差し出された小箱を手に取った。
「ありがとう。大切にする」
「そうしてくださるとわたしも嬉しいですわ」
外はこんなに寒いのに。
「改めて、お誕生日のお祝いですわね。まあ、一日早いですけれど。それはそれ、ということで」
頬を染めて龍烏さんが苦笑を浮かべている。胸の奥が暖かくて、それなのに鼻の奥がツンとして、なんだか泣きそうになる。
「つけてみてもいい?」
「もちろんですわ。あ、わたしがつけてさしあげますね」
一度開封して、再び彼女の手に箱を戻す。
龍烏さんに背中を向けてわたしは後ろ髪をゆっくりと掻き揚げた。冷たい空気が後れ毛を撫でる。その次の瞬間、首筋にネックレスの鎖が触れてひやっとしたけれど、すぐに肌の温度に馴染んだ。
「どう、かな」
「大丈夫。似合っていますわ」
「あ、これ……中の羽根が回るようになってる。風車みたい」
思わずはしゃいだ声を上げてしまった。わたしの隣で龍烏さんがくすくすと、上品な笑い声を上げている。
再び手をつないで。
クリスマス・イルミネーションの中を歩いていく。
雪がまだ、かすかに舞っている。吐く息が白い。
ちらりと横を見ると龍烏さんもこちらを見返していて、目と目が逢う。口元がほころんでいる。すべてが優しく潤んでいる。
それらはきっと、いつまでも続く幸福な記憶として、色褪せない思い出として、わたしの中に残るだろう。
だから。
いつまでも。
この時間が続けばいいのに、と。わたしは願った。
帰り着いたアパートの中は冷え切っていた。明かりをつけると寒々しい部屋が浮かび上がる。帰り際に龍烏さんと二人で飲んだココアの甘い名残りが、口の中で少し苦いものへと変わっていく。
帰りのコンビニで自分のお祝い用にと、衝動的に買ってしまった小さな丸い、いちごのケーキを冷蔵庫にしまって、わたしは座卓の前に座り、ぼんやりと天井を見上げた。そして梅乃さんからお預かりした大切な、あの着物のことを考えた。古いアパートに持って帰ってくるのも躊躇われて、蔵の秘密の部屋に置いてきた、あの着物のことを。
指先でペンダントに触れると、銀色の鎖がチャリ、と小さな音を立てた。
今日一日、心が温かくなることばかりだった。それなのに。
あんなに楽しかったのに、あんなに嬉しかったのに。それでもわたしは今、どうしてだろう。リューシカのことを思い浮かべてしまっている。無性に彼女に会いたいと思っている。
今、ここに彼女がいて、一緒にいてくれたら……わたしの誕生日を祝ってくれたら、どんなにいいだろう、って。
そう、考えてしまっている。
どのくらいそんなふうにじっとしていただろうか。何気なく壁掛けの時計に目を向ける。あと二時間もしないで日付が変わる。なぜか、心がざわざわする。居ても立ってもいられなくなる。十八歳になるという現実が、なぜかとても不自然なことに思える。
わたしはおもむろに立ち上がって、脱いだばかりのコートを羽織り、アパートを出ると、再び夜の中へと歩みを進めた。
真っ暗な背戸道を、迷路のような小道を、わたしは焦燥感に駆られながら、いつの間にか小走りで進んでいく。なんでこんな馬鹿みたいなことをしているのか、自分でもよくわからない。この気持ちになんて名前をつけたらいいのかも、わからない。
でも、……行かなきゃいけない気がした。それはまるで、どこか遠いところから何かに呼ばれているみたいだった。
波の音が近くなる。
さぱん、ころころころ……。
さぷん、から、ころろ……。
独特な、海の音。
心を締め付ける、優しい音色。
わたしを苛むように、遠く、近くに。
雪は止んでいる。吐く息だけが白い。急いで歩いてきたせいか、蔵に着く頃には額にほんのりと汗までかいていた。
蔵の瓦屋根が銀色に濡れて、淡い、白い光を放っている。その後ろの海も砂金を撒いたように、きらきらと瞬いている。ここに来るまでの道はあんなに暗かったのに。そう思いながらふと見上げると、雲の切れ間から少しだけいびつな形の、大きな月が浮かんでいた。
そこでわたしは違和感を覚えた。
中心部からやや外れたところに、月の模様ではない、黒くて丸い、小さな穴が見えていた。
……穴? 違う。あれは……あれは『渚』?
蔵の鍵は開いていた。
戸をくぐり抜けるとランプにも明かりが灯っていて、鏡がその光を反射させている。古い紙の匂いに混ざるように、沈香の甘い香りが漂っている。
カウンターには一人の女性が座っていた。
見たことのない人。でも、わたしが知っている人。わたしを知っている人が、そこには座っている。
「はじめまして、でいいのかな」
彼女は、小さな、はにかむような声で、わたしに笑いかけた。夢の中で聞いたのと、全く同じ声だった。
白地の着物がとてもよく似合っていた。合わせた帯色は裏葉柳。地紋は雪輪。袖の下に薄梅色の襦袢が見える。雪の下の襲。その出で立ちは、まるで……雪女、あるいは冬の精のような。
「はじめまして、ですよね。あなたのことは……なんてお呼びしたらいいですか?」
「花ちゃんの好きなように」
「じゃあ、お姉さん、と」
わたしが言うと、彼女はおかしそうに、くすくすと笑った。お姉さま、とは呼んでくれないのね、と。……わたしのお姉さまは一人しかいない。それ以外の人をお姉さまとは呼べない。たとえ彼女が、わたしの最推しだったとしても。
「お姉さんは、……幽霊?」
「さあ、どうなのかな。自覚がないからよくわからないよ」
カウンターから、するりと滑るようにわたしの前に立った彼女は、そっと、わたしの髪を撫でた。
彼女の指には温度がなかった。冷たくもなく、温かくもなかった。ただ、触れられている、という感覚だけがあった。
ランプの明かりが、彼女の顔を薄暗がりの中に、ぼんやりと浮かび上がらせている。
「こっちに来て」
わたしの手を取り、彼女は階段を上っていく。二人分の荷重を受けて、足元がぎしぎしと軋んだ音を立てる。彼女にも当然のように重さがある不思議。二階にあがれば、そこは彼女の秘密の部屋……沈香の香りがより強く、より深くなっていく。
彼女はわたしと同じ背丈で、体つきもよく似ていた。でも、一番似ていたのは顔だった。わたしたちは双子のように、鏡合わせのように、瓜二つだった。似通っていた。改めて向かい合うと、そのことがよくわかった。
「まるでわたしが右で、花ちゃんが左、みたい?」
彼女がわたしの服を脱がせていく。
コート、ニットの上着、シャツ、スカート、タイツ、ブラとショーツまで。全部。
寒くはなかった。ただ少しだけ、恥ずかしかった。
最後に彼女の手が、ネックレスに触れた。
それは。
「これも、ね?」
わたしは小さく唇を噛んで、目を閉じた。首の後ろに両手が回って、龍烏さんにもらった大切なネックレスは、彼女の手の中に収まった。
「ねえ」
わたしの胸の先端に指先を這わせながら、彼女が言う。
「リューシカに逢いたい?」
会いたい。本当に会えるのならば。
でも、……会ってどうしたらいいのか、わからない。リューシカと何を話したらいいのかわからない。わたしにリューシカと会う資格があるのかも、わからなかった。
「今でも好きなの?」
好き、だと思う。リューシカのことを思うと、胸の奥が重く、苦しくなる。でも、それが本当に好きということなのか、その表れなのか、最早わたしには判断ができない。
「もうすぐ船が来るよ」
……船?
「ええ、補陀落に渡る船が」
彼女がわたしの首筋を撫でながら、やさしい声で、言う。それはリューシカの、あの船のことなのだろうか。
「花ちゃんはあの学園を見限ったんだよね。制服も捨ててしまった」
別に見限ったわけじゃない。母が死んでしまって、もう、通うことができなくなっただけだ。通う必要がなくなっただけ。あんなに馬鹿みたいなお金をかけて、通い続ける意味がなくなっただけだった。制服は……確かに捨ててしまったけれど。
「売ればよかったのに」
そんなこと、考えもしなかった。もしかしたら好事家が、高く買い取っただろうか。
ううん、あんな傷物の……繕いのある……。
「リューシカが縫ってくれた? 初めて出会った日に。……思い出した?」
思い出した。
全部。
満員電車の中でスカートを切り裂かれたこと。
水の匂いのする見知らぬ町をさまよったこと。
彼女に出会ったこと。
彼女の船に招かれたこと。
彼女に救われたこと。
全部。
思い出した。
……リューシカ。リューシカ。
わたしは、あなたが好き。今でも好き。胸が引き裂かれるほど、好き。逢いたい。逢って謝りたい。どうして……どうしてわたしはあのとき、母が死んだあの日、リューシカを頼らなかったのだろう。本当に好きだったら、リューシカを信用していたのなら、全部話せたはずなのに。
正直に話してわたしが惨めに感じたって、それがなんだと言うのだろう。彼女が消えてしまったことよりひどいことなんて……リューシカを裏切ってしまったことより、ひどいことなんてない。なかったのに。
「わたしの最後の着物を……あの振袖をあげようと思ったのに。でも花ちゃんにはもっと、似合うものがあったみたい」
わたしはぼろぼろと涙をこぼしていて、彼女の言葉が耳に入っていなかった。拭っても、何をしても、涙が止まらない。こんな冬のさなかなのに、わたしは裸で。涙の通った跡が焼けるように熱い。
「大切なものは、いつだって失ってから、捨ててしまってから気付く……っていうけれど」
わたしは自分の手を見つめた。
震える両の手のひらを。
「受け入れられないなんてことはない。絶対的な他者なんて存在しない。……リースだってそう、消えたりしない。ずっとくすぶり続ける。人から大事なものを奪いつづける。わたしの中にもそれは残っている。でも捨てても、失っても、消えないものがあるんだよ。だから」
わたしには、彼女が何を言っているのか、理解できない。話がすぐに脱線してしまう。どこかに飛んで行ってしまう。繋がっているようで繋がっていない気がする。だから……だから?
だから、なんだと言うのだろう。
「だから。選べばいいんだよ。花ちゃんも好きなように」
気がつくと、わたしは蔵の中にひとりだった。そしてなぜか成都御心女学館の制服を着ている。この服、捨ててしまったはずなのに……。恐る恐るスカートをたくし上げて裏地を確認すると、そこには確かに、かけ継ぎの跡が残っていた。
蔵から出ると空が赤かった。
真夜中のはずなのに。
どうしてだろうと思って振り返り、空を見上げてみた。
そこに浮かんでいるのは、巨大な、とてつもなく巨大な、何かだった。それが空の半分以上を覆い隠して、傷口から滴る血のように、赤く輝いている。
ううん、違う。あれは、何かなんかじゃない。……あれは、
「そう、『渚』だよ」
声がする。とても、とても懐かしい声。
わたしは慌てて辺りを見回す。
小石の敷き詰められた海岸に、一艘の小さな、清らかなる箱船。
その船の舳先に立っているのは、
「……リューシカ」
「久しぶり、花」
リューシカが笑みを浮かべて、わたしを見ていた。
「あんまり遅いから、迎えに来たの」
「わたしを?」
「他に誰がいるの?」
くすくす、と笑うリューシカの顔は、あの頃と少しも変わらない。赤いフレームの眼鏡も。左耳に吊るしたピアスが、ちりちりと揺れるその様も。
「おいで」
リューシカがわたしを手招く。
浜に渡された舷梯代わりのあの木の板も。蔀に絡みつく季節外れの夕顔の花も。
……本当にすべて、現実の出来事なのだろうか。わたしは夢を見ているのかと思って、手の甲を軽くつねってみた。それとも、もしかしたら……全部、わたしの願望が生んだ妄想だったりするのだろうか。
「右さんと、左さんは? 中にいるの?」
わたしが訊ねると、リューシカは黙って首を横に振った。
「メアリーとシェリーは先にいってしまったわ。この国の……政府の配った薬があったでしょう?」
……わからない。
わからなかった。それは任那の……小説の話じゃないの?
「ごめんね」
わたしが疑問を口にするより早く、リューシカが不意に、小さな声でつぶやいた。
どうして彼女が謝るのか、わたしには全然理解できなくて、思わず体が硬くなる。
「花をずっと待つつもりでいたのに、あの場所から離れてしまって」
リューシカの悲しげな声に、表情に、わたしは強く、激しく、かぶりを振った。
「わたしこそ、わたしの方こそごめん、ごめんなさい。ずっと、ずっと謝りたかったの。お母さんが死んで、わたし、誰にも頼れなくて、頼りたくなくて、でも……でも、リューシカと会えなくて、会えなくなって、どれだけリューシカにひどいことをしたのか、わかったの。だから」
お願い。
わたしを許して。
泣きながらその言葉を口にすると、リューシカは少しだけ目を伏せて、許して欲しいのは、わたしの方だわ、と言った。
「わたしも寂しかった。花を否定して、それからずっと会えなくて……寂しかった。後悔したわ」
わたしは足元の悪い小石の浜を駆け、リューシカの船に飛び乗った。彼女の胸に顔を埋めると、優しい、懐かしい、リューシカの匂いがした。
灰色の髪が、そっとわたしの頬を撫でた。
「もうすぐ『渚』が落ちてくる。どこにも逃げ場がないのなら、わたしは花、あなたと最後を迎えたい」
船が、ゆらゆらと波に揺れている。
川に浮かんでいたときよりも、深く、ゆっくりと、大きく。
わたしはリューシカを見上げて、
「わたしも」
と、答えた。
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