11月15日・水「淡柿、そして異世界へ」
その日の夕食が終わって、シャワーを浴びたあと、わたしは中古で買ったパソコンを食卓代わりのテーブルの上へ、丁寧に乗せた。家具の類いはまだ少なくて、がらんとした何もない部屋だったけれど、それでもお金を貯めて一番に買いたかったのは、このノートパソコンだった。……スマホで文章を綴っていると、どうしてもあの日のことを思い出してしまって、何も、書けなくなるのがわかっていたから。
わたしは小さく息をつき、母の死に顔を払拭するように少しだけ目を閉じたあと、書きかけの小説のファイルを呼び出して、続きの文章を打ち始めた。
あの日から、すべてが変わってしまったのに。
未だに執着している。小説なんてものを、まだ、書いている。誰かにせがまれたわけでもないのに。書く必要なんて、ないはずなのに。それでもわたしはほとんど夢中で指を動かし、文章を紡ぎ続けた。プロットは頭の中にはっきりと思い描けていた。ただただ出力していくだけだった。それはあのとき綴っていた小説とは違う……妹との合作のものではない、わたしの、わたしだけの、物語だった。
でも、恋、と文字を打ったらそのあと、何も書けなくなってしまった。
こんなの、まるで『斜陽』みたいだ、と思って。わたしは数分間泣いた。
わたしの小説のモデルは、虹那だった。
主人公の名前は「
十九歳で亡くなってしまった虹那の、美しいかけらのような話を梅乃さんから時々聞いていて……彼女が着物を残したように、梅乃さんが虹那の思い出を抱えているように、わたしは、彼女をモチーフに小説を書きたい、と思った。
でも実際の彼女を、わたしはほんのわずかな伝聞でしか知らない。だから、思う。もしも彼女が生き続けていたならば、と。例えば、……違う世界で、違う生を得ていたら。そんな絵空事みたいな物語を夢想した。
この小説はもしかしたら……あの人の目に止まるかもしれない。ううん、きっと目に止まる。そんな確信めいたものを感じていた。なぜなら異世界への転生物語は、彼女の、現代の魔女であるあの人の、得意としている分野なのだから。
わたしはその日、自分に課しているノルマの分量を書き終えると、何度か推敲を重ね、誤字や脱字がないのを確認し、任那が使っていたのと同じ小説投稿サイトに最新話をアップして、そのままパソコンの電源を落とした。やっぱり少しだけ悪いことをしている気がする。いつまで経っても、慣れない。
任那が去った……更新の途絶えてしまったこの投稿サイトに、わたしは「月庭一花」という名前をペンネームとして登録していた。それは、もしかしたら一花さんに対する挑戦状だったのかもしれない。
自分の名前をつけた作者がわたしだと、いつか、気付いて欲しかったのかもしれない。
これは……意地なのだ。最終的に沈花がまとめたわたしとの合作の小説は、わたしの違和感を解消した、もどかしさを払拭した、素敵なラストを飾っていた。サキノハカとクラレは旅を続けていた。ふたりで。手を取り合って。白の王国なんて見捨てるように。見限るように。旅は続いていく。色を知覚しない少女と、色を持たない少女の旅が。……なんて広がりのある終わり方なのだろう、と思った。このラストを読んだとき、最初からわたしの力なんて必要なかったのかもしれない、とさえ思った。わたしはあの小説に、負けたくなかった。それは姉だったわたしの、最期の最後の意地だった。
十一月になると海辺のこの町にも冬の訪れを感じさせる冷たい風が吹くようになった。借りているアパートの窓ガラスが、時折かたかたと鳴った。母と暮らしていたあのアパートの窓ガラスも、冬になると同じような音で鳴ったものだった。
部屋の明かりを消し、薄い布団にくるまりながら、色々と湧いてくる雑念を振り払い、わたしは、物語の続きを考えていた。
……そうしなければ、書き続けていなければ、泣いてしまいそうだったから。
回遊魚が泳ぎ続けなければ、死んでしまうみたいに。
リューシカの船は消えていた。
あの夢を見た夜は結局朝まで眠ることができず、始発に乗って出かけて、確かめた。
彼女の船は影も形もなかった。そればかりでなく、左さんと右さんの住まうあの屋敷も取り壊され、更地になっていた。あんなに生い茂っていた桑の葉も、樹木ごと綺麗に引き抜かれてしまっていた。痕跡すら残っていない。
わたしは呆然として立ち尽くし、はらはらと涙を落とし続けた。太陽が真上を通り、沈んでしまうまで。動くことができなかった。わたしには訪ね歩くツテすらなかった。
祝日の日でよかった。
お店が休みの日で、よかった。
梅乃さんに迷惑をかけずに済んで、よかった。
わたしは帰りの電車の中、そんなことばかりを思っていた。
だって、リューシカの不在を考えたら、たとえ人前でも、泣いてしまうのがわかっていたから。座席から立ち上がれず、顔を覆うしかないのが、わかっていたから。
あの人たちは、どこに行ってしまったのだろう。理不尽な喪失感。本当に胸に穴があいてしまったみたいだった。もちろん、全部、自分が悪いのはわかっていて、それでも……悲しくて、つらくて、心が張り裂けそうだった。指先がいつまでも震えていた。どうやって駅まで戻って電車に乗ったのかさえ、わたしは覚えていなかった。
「……旅行、ですか?」
「ええ、と言っても本の買い付けが主だから。半分は仕事なのだけれど。それにあなたも同行してもらえないかしら、と思ったの」
久しぶりに蔵に訪れた梅乃さんは少し思案げな様子で顎に指を添え、わたしに訊ねた。
相変わらずの綺麗な白髪だった。でも、その髪色が、京都で知り合った夜々子さんとはやはりどこか違って見えるのは、不思議だった。年齢のせい、だろうか。
「もちろん、旅費は経費で落とすから、花さんは身一つで来てもらえればいいわ。これから先、古物商の資格を取るにしてもいい勉強になると思うのよ」
そういうことでしたら、と首肯して、
「お役に立てるように、頑張ります」
わたしは頭を下げた。
体を動かすと、二階の部屋で薫きしめられている沈香の香りがカウンターの、こちらまで下ってきていて、かすかにたゆたう。
今日もお互い着物姿である。わたしが着ていたのは、平織りの金属的な光沢が美しい秩父銘仙で、青と黄色がベースの幾何学模様の上に白い大きな椿が散っている。羽織もそのアンサンブルだった。
一方の梅乃さんは、蔵に顔を出す際には……その機会はあまりないのだけれど……正絹の、江戸小紋を着ていることが多い。今日は舛花色の極鮫。名古屋帯は色味の薄い源氏香の柄で、取り合わせが若々しい印象を与える。
彼女は急階段を登るのがしんどいという理由で、今日も二階の、秘密の部屋には訪れない。ちらり、と視線を差し向けただけ。その眼差しには、わずかに憂いのようなものが漂っている。
「お茶をお入れします」
「ううん、大丈夫よ。今日はもう帰るから。……ここは好きだし思い出の場所だけれど、波の音を聴き続けていると、どうしても悲しくなるの」
それで旅行の日取りは、と訊ねると、十一月十五日の水曜日でどうかしら、と逆に質問された。もちろん、わたしに否む理由なんてなかった。平日だろうが、土日や祝日であろうが、わたしはあまり関係がない生活を送っているのだから。逆に休日でない分、仕事なのだという気がして、身が引き締まる思いだった。
それにしても、この波の音がつらいだなんて……。
わたしは梅乃さんが蔵を辞したあと、ぼんやりと目をつむりながら、波が小石を洗う音に耳を傾けていた。
わたしはそのとき、しがらみ、ってなんだろう、と考えていた。
元々の意は水の流れを堰き止めるために河中に杭を打ち並べ、それに横木を通したもの。漢字では「柵」と書く。そこから転じて、引き止め、まとわりつくもの、邪魔をするものの意味となった。
……多分、わたしは、あのとき一緒に死んだのだろう。
あの薄暗いアパートで、母が死んでいるのだと、理解したときに。
それでわたしの人間関係は全部終わったのだろう、と、そう思っていた。
あのとき、わたしを取り巻く環境は一変した。今まで築いてきた関係がリセットされて、新しいわたしが生まれた。新しい町での生活が始まった。新しい人間関係。初めての仕事。
でも、それでも。
……すべてが消え去るわけではなかった。
龍烏さんが再びわたしの前に現れ、わたしと妹との小説が書かれた部誌……『虹の橋』を置いていった。
わたしはまた、小説を書き始めた。
あんなに面倒に思っていたくせに。
一花さんの目を気にして、一花さんの名を借りて、異世界ものの物語を綴っている。
あんなに彼女のことを、不気味に思っていたのに。
自分から求めてしまう。
去ってしまったものたちを。
……目の端を、景色が流れていく。
列車に乗って、もうだいぶ経った。ここがどの辺りなのかも、見当がつかない。
ちらりと横を見やると、ボックス席の通路側で、わたしと同じく着物姿の梅乃さんが静かに目を閉じている。
たぶん眠ってはいない。でも、何を考えているのか、よくわからない。
しがらみ、と思う。
この人も、新しいしがらみの一つになったのだ……と。
いっそのこと。
あの暗黒星……『渚』が落ちてきて、全部、滅んで仕舞えばいいのに。
それとも。
もう、ここはすでに死んだあとの世界、なのだろうか。
そんな風に思ったら、背中がひゅっと寒くなって、わたしは慌てて首を振った。姉の小説の感想をして、『まるでみんな、死んでいるみたいね』と。最後に会った日にリューシカの言ったセリフが、不意にリフレインした。
わたしは、いったいどこにいて、どこに向かっているのか。
「どうしたの? ひどく青ざめた顔をしている」
「……梅乃さん」
梅乃さんがこちらを見ていた。彼女の目尻のしわが、少しだけ深くなった。
「怖い夢でも見たのかしら」
夢。……夢なんかじゃない。
これは全部、うつつのこと。
「もう少しで着くから、起きていた方がいいわ」
わたしは、はい、と小さく返事をして、それから気づかれないように、少しだけ深く、息を吐いた。
鄙びた田舎町だった。
わたしは茅葺屋根の家々の連なりを、初めて見た。もちろん、新しそうな家もあるのだけれど……そういったものが混ざると余計に古びて見えるのは、なぜだろう。
山間の小さな集落で、所々で白い湯気のようなものが上がっているのは、もしかしたら温泉なのだろうか。そういえば秋の空気の中に、わずかに硫黄の匂いがする。
道のはたの柿の実が赤く熟れている。
山に囲まれた狭い空の高い場所には、儚げなうろこ雲が浮かんでいた。
わたしは故里というものを持たない。それでも、目の前に広がるのは郷愁を誘う、懐かしい景色だった。
「少し寒いわね」
梅乃さんが言った。
「わたしも紬にすればよかったかしら」
わたしが今日着てきたのは、「本場」と呼ばれる方の結城紬だった。薄桃色の生地には雪輪と白百合、そして亀甲の絣。まるで空気そのものをまとっているようで、軽く、ふんわりと温かい。
わたしは無意識に胸元を撫でた。とても高級な生地なのだけれど、紬は、格としては普段着の扱いになる。前に着ていた更紗と一緒だったが、買い付けの仕事に着てくるには少し場違いだったかもしれない。そのことを梅乃さんに告げると、彼女は苦笑して、そんなルール、きっと誰もわからないわ、と笑った。
「首周りに巻けるように、ストールを持ってきましたので、お使いになりますか」
「そうね、貸していただこうかしら」
わたしはバッグから取り出した浅葱色のストールを、そっと梅乃さんの肩にかけた。
「……こうしていると、……ううん、なんでもないわ」
梅乃さんが誰を思ったのかはすぐにわかった。
でも、わたしは曖昧な笑みを浮かべて、それを流した。
先に仕事の方を済ませてしまいましょう、と言われ、宿に荷物を置くのもそこそこにして、わたしは梅乃さんのあとをついて行った。町中を進むと温泉の匂いが濃くなっていく。海辺の閖町よりも気温が低いせいか、木々の紅葉も進んでいる。桜の朽葉がアスファルトの上で、かさかさと音を立てていた。
旧家と呼ばれるような古めかしい大きなお屋敷に入り、主人に挨拶を済ませたあとで。わたしたちは早速書庫に案内された。蔵書は漢籍の類いが多数を占めていて、わたしには珍紛漢紛だった。まず、タイトルからして何が書かれているものなのかわからない。
梅乃さんは眼鏡をかけ、丁寧に本を選り分け、確認していく。大多数を占める漢籍は除外されて行ったので、わたしとしてはありがたい限りだった。
買い取り用の台帳に梅乃さんが読み上げた書籍の名、何年発行の何刷か、傷の有無などを記入する。どのくらい作業を続けていただろうか。梅乃さんの声がいつの間にか聞こえなくなった。手を止めて、一冊の本をじっと見つめている。
それは深い緑色の複雑な装丁の本で、タイトルは一文字だけ。白抜きで『啞』と書かれている。表紙には著者名も出版社名も何も書かれていないようだが……私家本だろうか。
でも、これに似た本を、わたしはどこかで……見たことがあるような気がする。
「長年探し続けた本の、その片割れなの」
愛おしげな表情を本に向けて、梅乃さんが言った。なぜか、彼女は急に老け込んで見えた。どれだけの歳月をかけて探し続けたものなのだろう。わたしには想像もつかなかった。
最後にご主人と買い取りの手続きを済ませてお屋敷を出ると、外の景色はすでに夕闇の中へと沈んでいた。山の稜線の向こう側では小さな星がちらちらと光っていた。
「ごめんなさいね、すっかり遅くなってしまって」
「わたしは大丈夫ですけど……梅乃さんはお疲れではありませんか?」
わたしの言葉に梅乃さんは苦笑を返した。
「そうね、わたしももう年だわね」
温泉の白い蒸気が、歩き出したわたしたちの足元にそっと流れてくる。
ふと道の側に、何か大きなコンクリート製の水槽のようなものが見えて、足を止めた。
青いトタンの屋根の下から、水の音がする。それからかすかな白い湯気。看板か何かが出ているが、ここからでは暗くてよくわからない。
「あれはなにをしているのでしょう?」
「柿の実を浸けているのよ。温泉に」
「……温泉に?」
どうしてそんなことをする必要があるのか。わたしにはさっぱりわからなくて、思わず首をかしげた。
「硫黄の成分で渋が抜けるのよ。さわす、という言葉を知らない? 普通は焼酎につけたりするのだけれど」
「すみません、不勉強で」
「少し見させていただきましょうか」
そう言うと、梅乃さんはつつ、とトタン屋根の下へと歩いて行った。慌ててあと追って、水槽を覗き込むと、オレンジ色のネットに入れられて、大量の柿が湯に浮かんでいた。こぽこぽとお湯の流れる小さな音がする。なんだか圧倒されるような、それでいて懐かしいような、不思議な光景だった。
「こちらでは淡し柿、と呼ぶそうよ。花さん……柿はお好き?」
「ええと」
どうだろう、柿なんて最後に食べたのがいつだったかすら、覚えていない。
言い淀んだわたしを見て、梅乃さんは何を思ったのだろうか。やさしく微笑み、小さく頷いていた。
鄙びた宿の、古い、素敵なお部屋で。
先にお湯をいただいたわたしは座卓の前で足を崩し、ぼーっとしていた。浴衣の上に薄い丹前を羽織り、見るともなく、NHKのニュース番組を見ていた。テレビなんて久しぶりすぎて、なんだか変にそわそわしてしまった。
手首を鼻に押し当てる。
体から温泉の、硫黄の匂いがする。
その匂いに、帰りがけに見たあの水槽の、柿の実を思い出していた。
考えてみると、わたしは世界を知らなすぎた。ものを知らないというのは、怖い。今、ニュースで流れている情報についても、そうだった。
遠い、中東の、戦争の映像。
可哀想、悲惨だな、と思うけれど、それ以上はどうしても心が動かない。それはわたしが、戦争のバックボーンを知らないから……なのかもしれない。一方的な虐殺が続いているとキャスターは言う。天井のない牢獄のような場所で、市民が殺され続けている、と。なぜ? どうしてそんなことが起こっているのか。その背景は?
……一花さんはこの惨劇を予見し得たのだろうか。
数多の虚構で構成された物語の中から、この戦争を予知することはできたのだろうか。それとも遠い異国のことは、埒外なのだろうか。異国には……異国のカサンドラがいるのだろうか。
ぼんやりと、そんなことを思いながら、ニュースを見ていた。
「なんだかまた、ひどい世の中になってしまったわね」
不意に梅乃さんの声がした。いつの間に部屋に戻ったのか。少し濡れた髪が、首筋に流れていた。また、というのはどういう意味だろう。彼女はわたしの隣に座ると、ひっそりとした声で続けた。
「わたしの母はね、満州からの引き上げの、最後の世代だった。色々とひどい目にもあったし、ひどいありさまを見たと言っていたわ」
満州。戦時中、日本によって作られた虚構の国。映画の『ラストエンペラー』は残念ながら、途中までしか見たことがない。彼の名は……溥儀だったか。
「船で向こうから帰るでしょう? 足の踏み場もないくらい、すし詰めの状態で。食べ物も乏しい、劣悪な環境で。赤軍やらが攻めてくるから取るものも取りあえず。そのときにね、母の隣に座っていた……若い母親の抱いていた赤子が、死んでいたのですって。でも、周りに知られると海に投げ捨てられてしまうから、必死で隠そうとしていたと。ずっとしゃべりかけていた、って。わたし、それを聞いていたら悲しくなってしまって……でも、日本も向こうで散々悪さをしたのだわ。五族共和、王道楽土、なんて言ったところで、奪い盗った土地だものね。あちら様にしたところで恨みつらみはあったでしょうしね」
わたしがお茶を淹れると、梅乃さんは小さくありがとう、と言った。
「わたしたちはね、ものの見方を学ばなくてはならないの。大局的なものの見方を。何が起きているのか、これから何が起きようとしているのか、一部の人たちだけが苦しんでいないか……ごめんなさいね、年寄りくさいことばかり言ってしまって」
わたしは首を横に振った。
「あ、そうだったわ、柿をもらってきたのだけれど、一緒に食べない? ほら、昼間の」
「淡し柿、でしたか?」
「ええ。折に幾つか詰めてもらったの。皮も向いてもらったから、すぐに食べられるわ」
そう言うと、梅乃さんはリモコンに手を伸ばしてテレビを消した。
微かに水の流れる音が聞こえてきた。
折の中の柿は、六つに切られ、つやつやと赤い、夕焼けみたいな色をしていた。一つ摘んで口に入れると、素朴な甘さが広がった。あとを追うようにほんのりと硫黄の匂いが鼻に抜けた。元々は渋くて食べられない柿が、温泉に浸かることで甘くなるなんて……原理はやっぱりよくわからない。でも、昔の人の食への探究心と知恵はすごかった、ということは身に沁みてわかる。
「甘いです」
わたしが言うと、それはよかったわ、と。梅乃さんが微笑んだ。
「虹那さんは」
わたしはそっと種を手の上に吐いた。
「柿、お好きでしたか」
どうだったかしら。梅乃さんが首をかしげた。
「あの子も甘いものは好きでしたね。でも、洋菓子の方が好きみたいだったから……柿なんて好んで食べたのかしら」
口の中で、みずみずしい柿が、しゃく、と音を立てた。
「不躾でなければ……もう少し、虹那さんのことを訊いてもいいですか」
「あの子のこと?」
生前の彼女について、わたしから訊ねるのは初めてだった。梅乃さんは少し驚いた顔をしたあと、そうね、と前置きをして、静かに話し始めた。
「甘いものとおしゃれが大好きで。わたしに似て着道楽だったのはお話したことがあったかと思うけれど。誰に似たのか、灰色の癖っ毛で、目の色も同じような灰色で。それから……ふふ、今にして思えば随分と夢見がちな子だったわね。インターネットで発信するのだと言って、何やらずっと、パソコンを使って小説を書いていたのを覚えている。でも、恥ずかしがって一度も見せてくれなかったわね。だからどんなお話を綴っていたのか、わたしは知らないの。今でもネットのどこかに残っているのかしら。亡くなる直前まで……あの子元々体が弱くて、生理にときには起き上がれないくらいだった。直接的にはリースのせいで死んだのだけれど……暇があるとよく窓から空を見ていたの。今書いているお話はね、空から星が降ってくる物語なのよ、って。書いている小説の内容を話してくれたのはそれが最初で最後だった気がするわ。あとは、そうね……とても熱心に感想を送ってくださる読者の方がいて、更新をするとすぐに読んでくれるのが嬉しくて、励みになるって……花さん?」
声をかけられて、自分が泣いていることに初めて気づいた。
「ごめんなさい」
わたしは言いつつ、涙をぬぐった。梅乃さんは心配そうに、わたしの顔を覗き込んでいた。
その日の夜、わたしは竜の夢を見た。
それはあるいは宿に染み付いた温泉の……硫黄の匂いのせいだったのかもしれない。
わたしは現実ではない、けれども不思議と見憶えのある、別の世界にいて、白い、手足のない、大きな竜と対峙していた。蛇ではない、額の角とたてがみとを持つ、立派な竜だった。
あの竜の心臓には宝石が埋まっている。わたしはそれを最初から知っていた。硫黄の吐息を牙の隙間から漏らす白い竜を倒し、宝石を得なければならない、と。わたしには竜の胸の宝石が、どうしても必要だった。
それさえあれば、病がちの……ううん、酒浸りで夢見がちな母を、楽にしてあげられる。
夢の途中で、これが、わたしの見ている夢だとわかった。荒唐無稽で、滑稽で、拙い。わたしの書いた小説の世界だと、わかった。
でも、竜との戦いをやめることは、できなかった。必要だったから。どうしても、必要だったから。
まるで映画を見ているように、わたしたちの戦いの場面が続いていく。日頃運動しないわたしには、短剣を振ることすら難しく、もどかしいのに、疲労感はまったくなくて、激しい炎に焼かれても、息が苦しいとか、痛いとか、感じないのは全部、そう、夢だから。小説の世界だから。
けれどもとうとう、わたしの持っていた短剣が竜の心臓を貫いた。わたしは昂揚した気持ちで竜の体に手を差し入れる。血で濡れるのも構わずに。指先が固いものに触れる。そっと取り出すと、それはなぜか、リューシカがいつも左耳につけていた、あの、ピアスだった。
これが……竜の宝石?
鎖に吊るされた乳白色の美しい宝石が、血にまみれて赤く光っている。わたしの心臓が、どくん、と大きな音を立てる。なぜ、と思う。どうして……このピアスがここにあるのだろうか。
それは人工宝石、貝の火だよ、と。不意にまだ若い、女性の声がした。
見ると竜の骸が女の人の屍体へと変わっていた。リューシカにそっくりな……ううん、リューシカの姿そのもの。こんな、こんな展開、わたしは知らない。
声は彼女の、胸に空いた穴から聞こえていた。
聞いたことのない声。それなのに聞き覚えのある声。
わたしにはわかった。
それが、虹那の声だと。
「あなたにあげる。童話の中だと生涯を通して貝の火を所持できたのって、鳥に二人、魚に一人だけだったけど。花ちゃん、リューシカを殺したあなたに、それを持ち続けることができる?」
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