唾と蜜 後編

 僕は目を開けた。部屋は薄暗い。

 ぼんやりとした思考のピントが少しずつ像を結び、ついさっきまで見ていた夢の内容を思い出した僕は、強烈な吐き気に襲われた。

 ベッドから跳ね起きてトイレに走る。電気を点ける余裕なんて微塵みじんも無い。

 ドアを開け、三点ユニットバスのトイレに顔を突っ込む。

 その拍子にすぐ隣の浴槽に肩をしたたかにぶつけた。痛い。

 胃袋が裏返り、晩飯のカップ麺とコンビニのおにぎりが食堂を逆流して、口と鼻から吹き出た。

 母さんの中指の断面を思い出して、吐いた。

 母さんの中指の噛み応えと舌触りを思い出して、吐いた。

 父さんの笑顔と母さんのしかめっ面を思い出して、吐いた。

 徐々に吐き気の波が落ち着いていく。便器から顔をゆっくりと引き上げ、浴槽に背中を預ける。

 胃液でのどがかなり焼かれた。呼吸がしづらい。体をどうにか持ち上げて、洗面台に向き直る。

 吐瀉物としゃぶつで汚れた口元を洗い、口をゆすぐ。蛇口に直接口を付け、冷たい水道水をがぶ飲みする。

 幾分か痛みがましになり、ようやく電灯を点けることにまで頭が回るようになった。

 蛍光灯のスイッチを押すと、さえない二十五歳のサラリーマンが鏡の向こう側に姿を現した。大きなクマを目の下に作り、皺のよったワイシャツを脂汗で湿らせている。

 あの夢は、いや悪夢は、殆ど事実だ。十二年前の出来事をそのままなぞらえている。

 違う部分はたったの二つ。母さんは指を切り落としていないということと、信治は水溜まりの上に転んだわけじゃないってことだ。

 あの日あの時、僕に突き飛ばされた信治は、縁石に躓いて速度超過と脇見運転をしていた大型バイクに、僕の目の前ではねられた。

 信治の体は吹き飛んで、大型バイクも運転手を投げ出して横転した。愚鈍で自己中心的な中学一年生の僕でも、信治がもう死んでいることは明確に理解できた。

 目撃者は誰もいなかった。僕以外は。

 僕はその場から一目散に逃げ出した。でも走ったのは路地の中だけのことだった。小賢こざかしい僕は他の通行人に怪しまれることを恐れ、努めて平静を保っているように見せかけるため、いつもの様に歩いて帰った。

 十数分後、気絶していたバイクの運転手が目を覚まし、一一〇を押したらしい。家でそのサイレンを聞いた母さんは、どうしたんだろう、と言った。父さんはテレビを見ながら、さあ、とだけ言った。

 僕は何も言わなかった。

 次の日、学校で全校集会が開かれた。内容は、この中学校の生徒が交通事故で死んだ。その生徒は通学路以外の道で下校していた。くれぐれも通学路以外の道を登下校に使わないこと、というものだった。

 僕は何も言わなかった。

 家に帰ると両親も既に事故の全貌ぜんぼうを知っていた。報道ではかれた中学生が見通しの悪い路地から飛び出してきた、ということになっていた。母さんは僕に、死んだのは小学生の頃から仲の良かった高橋信治だと聞いているが本当か、と問うてきた。

 僕は何も言わずにうなずいた。

 母さんは、かわいそうに、きっとショックよね、と言った。

 皮肉にもそれはその通りだった。父さんは仕事で家にいなかっ

た。

 その夜以来、僕は時折悪夢を見るようになった。

 両親が人ほどもあるナメクジとカタツムリになっていた時もあった。僕がシャープペンで両親を惨殺するのもあった。

 多種多様な悪夢が僕を度々襲った。悪夢を見るタイミングに規則性は無く、一ヶ月丸々見ないこともあれば、一週間見続けることもあった。

 洗面台の時計を確認する。五時五十分だった。

 今のうちに仕事に行く準備をしておこう。僕は鏡から目を離し、汗を吸ったワイシャツとスーツのズボンを脱いだ。家のあちこちに散らばる洗濯物を拾い集めて、洗濯機の中へ放り込む。

 あの日以来、僕は自分の中に「僕」と「人殺しの僕」が同居しているのを自覚するようになった。

 悪夢を越えた朝、昨晩の夕食と胃液の混合物で便座と床を汚しながら、「僕」は切に願う。

 これで最後だと。これで果たされたと。

 そんな時、「人殺しの僕」は「僕」を尊大に小突き、厳かに

わめき立てる。

 この凄惨せいさんな悪夢こそが、唯一の恩寵おんちょうなのだ、と。

 洗濯機に洗剤を入れ、スイッチをオンにする。

 もう一度鏡の前に立ち、顔を洗ってひげるために剃刀かみそりを手に取った。

 悪夢はこの十二年間、常に僕を悩まし続けた。毎夜眠りにつく前に、今夜は大丈夫だと自分に言い聞かせながら、睡眠薬を口に含む。

 悪夢を見た後の朝は言うまでも無く、たとえ見なかったとしても、それは何千何万の内のたった一夜をやり過ごしただけだということを、僕は身をもって理解していた。

 髭を洗い流し、歯を磨く。口に歯ブラシを突っ込んだまま、昨晩買い込んでおいた惣菜パンを、色んな物が乗っかっている冷蔵庫の上から一個だけ引っ張り出す。

 これだけの苦悩を抱え込みながら、一方で悪夢が今の僕にとって必要であることも、頭の隅の方で理解していた。

「人殺しの僕」がささやくのだ。

 これは贖罪しょくざいだ。そして免罪符だ。

 ただし、「高橋信治を殺した罪」に対してでは無く。

 僕が真人間として今日と明日と明後日辺りまで生活するための。

 惣菜パンを口に詰め込み、水道水で流し込む。もう一度時計を確認し、クローゼットから比較的皺が少ないワイシャツを探し出す。

 もしこの囁き声が的を射ているのならば、悪夢は終わらないだろう。

 後ろめたい日常に、別れを告げない限り。

 ネクタイを締める。そろそろ出発だ。

 玄関に移動する。

 傷だらけの革靴に靴べらを突っ込んで、足を無理矢理ねじ込んだ。火曜日に出し忘れた燃えるゴミを避けつつ、鞄を持って玄関を開けると、ドア越しに何か重たい物を突き飛ばした

 衝撃が伝わってきた。

 その衝撃は手に、腕に、肩に、全身に伝わった。身に覚えがあった。心臓が悪魔にわしづかみにされ、有り得ないほど収縮した。気味の悪い耳鳴りが脳を貫いた。

 ドアを開け放つと、信治の姿がいた。

 ドアに押されてよろけたように車道へ体を投げ出している信治がいた。

 そして、今まさに大型バイクが信治に激突しようとしていた。

 その光景が僕の目の前で、粘性の高い液体に鉄球を投げ込んだように、スローモーションで展開されていた。

 思わず目を瞑ろうとするが、僕のまぶたもスローになっている。

 信治に大型バイクが接触する。信治の体がゆっくりとくの字になり、背骨がへし折れる音が僕の鼓膜を震わせる。

 信治の目が今にも飛び出しそうな程に見開かれ、口から舌が飛び出し、くの字の体が徐々に宙に浮いていく。

 唐突に時の流れが元に戻る。信治が吹き飛んでいき、バイクも横転して豪快に転がっていく。

 僕はどうにか一度だけまばたきをした。

 目を開けると、吹き飛んだはずの信治が目の前にあった。

 首はあらぬ方向に曲がり、両手両足はひしゃげていた。どこからか吹き出した血が、色んな体液と混じり合って臭くて汚い水溜まりを作っていた。

 見上げると空は黄色と青色で渦巻いていて、翼の生えた鼻が上空を何匹も羽ばたいていた。

 全裸の中年の男が、電線にぶら下がって痙攣けいれんしながら煙を上げていた。

 遺影を胸に抱えた老紳士が、タップダンスを踊るちょび髭の男に拳銃を突きつけていた。

 口の中を血まみれにした歯の無い女子高生が、道端のタンポポに土下座をしていた。

 頭にゴミ袋を被った少女が、笑顔を浮かべた郵便ポストと肩を組んで手を振っていた。

 スーツ姿の若い男がカッターナイフで腹を切り裂き、傷口から名刺を取り出していた。

 花柄のワンピースを着た老婆が、泣きじゃくりながら手の爪をむしり取っていた。

 選挙カーが「幸せはあなたの手に!」とわめきながら、注射器をばらまいて走り去った。

 遠くの方で巨大な大仏が、乳色の涙を流しながら街を踏み荒らしていた。

 僕が人生で発してきたありとあらゆる笑い声が、はる彼方かなたから延々と響き渡ってきた。

 呆然と辺りを見渡す僕の目に、一人の少年の姿が飛び込んだ。

 学ラン姿の少年はびて赤茶けたパイプ椅子の上に直立し ている。首にはロープが巻かれていて、そのロープは天空からつるされていた。

 少年はおもむろに顔を上げて、満面の笑みでこちらを見つめた。右手でピースサインを作ったかと思うと、椅子を力強く蹴飛ばす。

 少年の体重で、たわんでいたロープが一気に張り詰め、「びーん」という不愉快な音を発した。

 僕はその場にへたり込む。震えるひざを抱え、顔を押しつけて、一心に目をつむる。

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唾と蜜 / 中野 弘貴 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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