唾と蜜 / 中野 弘貴 作

名古屋市立大学文藝部

唾と蜜 前編

 十月下旬にしてはやる気のある夕陽が、家路に着いた僕の体をじんわりと加熱している。僕が今朝食べた八枚切りのトーストも、きっとこんな風に焼かれたんだろう。僕が食パンなら、西の空に傾く太陽は電熱線で、地面はさながらトースターの金網だ。トーストは僕に食べられてしまったけれど、ありがたいことに僕は誰にも食べられる予定は無い。

 食パンはいつトーストになるのだろう。どうでもいい疑問が脳味噌のうみそをよぎる。頭を空っぽにして歩いていると、たまにこういうことが起きるから面白い。

 トースターに入れられた時? 焼き目がついた時? トースターから取り出された時? もしかしたら僕が母さんに「今日はトーストがいいな」と言った時に、既にトーストになっていたと言えるのかも知れない。

 僕はどうなんだろう。今の中学校を卒業し、数年後僕が会社に就職したとして、僕がサラリーマンを名乗れるのは、いつなんだろう。それだけじゃ無い。僕が何者かになる時、そして何者かじゃ無くなる時。それはいつ、決まるんだろうか。考え無しに踏み出された右足は、道端の小石をっ飛ばし、前方の丁字路まで綺麗きれいなアーチを描いた。

 両側を民家の壁に挟まれている路地の前で、僕は足を止めた。今日はどうしようか。念のため今来た道を振り返って、誰も見ていないことを確認すると、五時限目まで降っていた雨で湿った路地に踏み込む。

 ここは通学路に指定されていないから、本当は通っちゃいけない、らしい。何でも、事故に遭っても保険の適用外になるからなんだとか。知ってはいるのだけど、何故だか泥で薄汚れた運動靴はそっちを向いて歩き出す。

 何で僕がこの路地を気に入って、こうやって下校の度に通るのか、自分でもいまいち分からない。いつでも薄暗くてミステリアスな雰囲気が漂っているからなのか、たまに野良猫と出会えるからなのか。

 多分だけど、この秘密な感じが良いのかも知れない。ほとんどの人が知らないこの路地を一人っきりで通れば、その間だけ僕はイーサン・ハントで007だ。

 学ランは防弾チョッキに、雨傘はスナイパーライフルに早変わり。カラスに擬態した小型偵察機の監視をい潜りながら、縦横無尽に張り巡らされた赤外線センサーを僕は華麗にかわす。

 つまらない大人たちや不愉快な同級生が知らなくて、僕だけが知っているこの路地では、とびきりひどい平日の夕暮れに、妄想に耽って好き放題したって、誰にも笑われない。

 シーズンオフの室外機たちが「おやおや、お客だ」とでも言うように、ファンをカラリと回した。側溝のふたが僕の体重で、コンクリート製の体を鳴らし、音は反響して細い路地のその向こうまで跳ねていく。蓋ごとに音が違うので、気分は一歩進むごとにピアノの鍵盤けんばんで遊ぶ小人のそれだ。

 小人は素敵なステップと小綺麗な革靴で、グランドピアノを駆け巡る。美しい調べがホール全体に響き渡って、お客は皆立ち上がって拍手喝采かっさいだ。僕はタキシードのすそを翻して深々とお辞儀をした。

 突然、遠くの方からバイクのエンジン音が鳴り響いた。接近してくる轟音ごうおんに、巨大なピアノのメロディは遮られ押しつぶされてしまった。反射的に僕は顔をしかめる。

 獣の様なうなり声は低いところから徐々に上ずっていって、また元の低さに戻る。それを繰り返しながら、害獣は走り去っていった。

 バイクは嫌いだ。

 理由は、特に無いかも知れない。強いて言えば、全部だ。エンジン音、漏れ出した機械油のにおい、運転手、ブレーキこん、散らばった部品の破片。どれも僕の心の平穏を乱す。

 それ以外の嫌いなものと言えば、予防注射とジェットコースターだろうか。こちらの理由は簡単、抵抗できないからだ。

 全然うれしくないことが起きようとしているのに、僕に出来ることは針が皮膚を突き破るのを見守るか、重力に身を任せるかのどっちかしかない。そんなのアンフェアだし、第一人間の本能から外れている気がする。

 やめだやめだ。僕は頭を左右に振った。いつの間にやら止まっていた足を前進させながら、遠心力で雑念を頭から振り払う。

 この貴重な時間で、こんなどうでもいいことに脳の容量とブドウ糖を使うだなんて、ただただ勿体もったいない。

 僕は気を取り直して、再び空想に肩までかろうとした。が、間もなく後方から近づく不穏な音に気が付く。足音だ。

 眉間みけんしわがよる。公衆トイレの個室に入っている時に、不躾ぶしつけに何度もドアをノックされ、その上問答無用でドアをこじ開けられたら、多分こんな気分になるんだろう。

 足音が段々大きくなるのが、たまらなくなる。気分が重い。

 足音が僕の背後で突然ペースを落とした。何を考えているのか、僕の後ろをぴったりと付けてくる。

 誰なんだろう、こいつ。距離を開けようと僕が歩幅を大きくした時、足音の主が僕の横に並び、ちょっと強めに肩をたたいた。

「やっぱり亮介りょうすけじゃん。お前もこの道使うんだ」

 高橋信治たかはししんじだ。僕より十センチ程高い視点から 、僕を軽く見下ろしてくる。

「ああ、まあ、たまにね」

「良いよな。なんか秘密の抜け道みたいで」

 はっきり言って、面白くなかった。それは信治がこの路地のことを知っていて、更には時折通っていた、ということを察してしまったからでもあり、信治がこの路地に対して僕と同じ様な感想を抱いていたからでもあった。他の誰かなら、まだ違ったかも知れない。何でよりにもよって信治なんだ。

 黙りこくった僕を尻目に、信治は軽薄なおしゃべりをつらつらと口から吐き出していく。

「今日の体育のサッカー面白かったよな。グラウンドが滅茶苦茶めちゃくちゃぬかるんでたから、ちょっとぶつかるだけで皆転んでたじゃん。俺も転んだけど」

 僕と信治は同じ小学校出身だ。お互いが唯一の友達で、その頃は仲が良かった。身長は僕の方が二センチ高かったし、漢字テストの点数も毎回僕が勝っていた。信治が分からない宿題を僕が教えることもあった。

「あ、知ってる? 三組の大垣おおがきがわざとボールを泥まみれにしたの。あいつ西田にしだゴリラにすっげえ怒られたらしいよ」

 僕たちは、殆どの生徒がそうした様に、地元の中学校に入学した。そこから僕たちは色々おかしくなった。

「着替えの時間に上半身裸で廊下に引っ張り出されて、怒鳴り散らされたって。あー、西田ゴリラがキレてるの見たかったな」

 具体的には、信治の身長がかなり伸びた。足も速くなって、サッカー部の有望株になった。僕以外の騒々しい友達を沢山作って、四六時中話すようになった。

「てかさ、お前もあの泥ボールにぶつかって転んでなかったっけ?」

 変わってないのは、バカなところだけだ。あれはぶつかったんじゃない。お前のサッカー部のお友達に当てられたんだよ。

「体操服の上にボールの跡がくっきりついてて、亀の甲羅みたいですっげえ笑えた」

 信治はバカだ。バカ過ぎて自分のお友達が、僕をいじめていることにも気付いていない。僕が一緒に楽しんでいると本気で思ってる。

大島おおしま富田とみたも『亀亮介』って言って笑っててさ」

 一昨日の昼休みだってそうだ。大島たちと休み時間中ずっと僕の筆箱でキャッチボールをして遊んでいた。僕が休み時間の終了間際にどうにか取り返すと、日に焼けた満面の笑みで「楽しかったな」と言ってきた。悪気なんて一切感じさせない、最高の笑顔だった。

「あいつらネーミングセンスまじですげえよな」

 路地の終わりが見えてきた。素敵な下校になるはずだったのに。信治とまた鉢合わせるかも知れないと思うと、当分この路地は通れない。

「てかさ、お前ちょっとどんくさ過ぎるぞ。あのパスを背中で受けるって」

 僕は初めてちゃんと信治の顔を見た。半笑いで、ちょっとあきれたように、こっちを見ている。

「今度俺が教えてやろうか? ちゃんとしたパスの受け方」

 色んな何かが、ちょっとだけ溢れ出した。コップの縁から、表面張力でパンパンになったブラックコーヒーが、一筋伝ってテーブルクロスを汚した。

「なあって、『亀亮介』」

 信治は笑っていた。

 僕はコップをひっくり返した。

「信治は、分かんないの?」

「へ? 何を」

「僕が、さ、その、嫌がってるの」

「嫌がってるって、何を」

「上履き隠されたり、僕の本でサッカーしたり、ボールぶつけたりとか」

「え。でも、お前、笑ってたじゃん」

 僕はもう一度信治の顔を見た。心底不思議そうな顔で、首をかしげていた。僕は立ち止まる。信治も立ち止まった。

「じゃなくて、さ、本当に嫌なんだよ」

「じゃあ、笑ってないで、そうやって言えば良いじゃん」

 いぶかしげに眉をひそめて、信治は僕を指さした。

「お前さ、中学上がってから、なんか変だよ」

 そう言うと、信治は歩き出した。何でも無いように。

 僕はバカみたいに突っ立っていた。

 テーブルクロスは真っ黒になっていた。ブラックコーヒーはテーブルクロスの下の、立派なテーブルを溶かし始めた。

 なるほどね、と僕は納得した。そりゃああんなに苦くっても仕方が無い。何てったってテーブルを溶かすんだもの。

 しょうがないよね。そう思った。

 信治の背後に駆け寄る。その足音に気付いたのか、信治は僕の方に体をひねった。振り向こうとしたのだ。

 僕は力強く右足を踏み込み、両手を目一杯伸ばす。開いた右手から傘が滑り落ちる。勢いをそのままに中途半端に斜めになった信治の腰辺りを、思い切り突き飛ばした。

 振り向きざまに突き飛ばされた信治は、後ずさりする形になって路地に面した歩道に押し出された。

 こっちを向きながら、信治は一歩二歩とよろける。

 バイクのエンジン音が、僕の耳の中で響く。

 信治は歩道の縁石につまずき、縁石の車道側に出来ていた水溜みずたまりに尻餅しりもちをついた。泥水が跳ね上がり、信治はもろにそれを浴びた。

 呆気あっけに取られた表情の信治は、当然のことながらその顔のまま路地に立っている僕を見た。

 僕は泥水まみれの信治を見た。

 突然くぐもった笑い声が、どこからか聞こえてきた。

 周りを見渡すと、反対側の歩道で二人組の女子高生が手で口の辺りを押さえているのが目に入る。

 その姿を見て、僕は気付いた。路地の外からは、薄暗くて細い路地の様子はかなり分かりづらい。だから彼女たちからは、まるで信治が不注意にも縁石に足を引っかけて、水溜まりの上に転んだように見えた。そういうことだ。

 二人組の一人がついにはっきりと笑い出した。釣られたのか もう一人も。静閑な住宅街に笑い声がこだまする。

 自分の現状をようやく理解したのか、何か言いたげな表情の信治を見下ろしながら、僕は心の中で叫んでいた。

 笑えよ。

 笑ってみろよ。

 僕がしたように、ほら。

 信治はうつむいて、小さく固い笑みを浮かべた。

 幼いプライドを押し潰して取り繕った、必死の微笑だった。

 僕ははっきりと、信治に聞こえる声で、言った。

「だっせえ」

 信治は苦しそうな微笑と困惑をり付けた顔を、こちらに 向けた。僕は手加減無く、悪意をたっぷり練り込んで、嘲笑ちょうしょうで焼き上げたパイを、力任せにその顔へ叩きつける。

「だっせえ」

 水溜まりの上で座り込む信治を尻目に、僕はきびすを返して元来た路地を走り出した。

 笑い声はまだ止まない。

 信治は追ってこない。何故か僕はそれを分かっていた。

 細く長い路地をスキップで駆けていく。

 秋の風を肩で切って、黄金色の夕陽をバックに。

 スキップの勢いをそのままに僕は路地を飛び出すと、回れ右をして今度は坂を駆け上る。くたびれたサラリーマンを追い抜き、散歩中のおばさんとイヌを躱し、わらわらと下校する小学生の一団をすり抜けて、僕はぐんぐんスピードを上げていく。

 僕の脳の中からクイーンの「ドント・ストップ・ミー・ナウ」があふれ出し、辺り一帯に鳴り響いた。フレディ・マーキュ

リーの力強い歌声と勇猛果敢なピアノが、僕の背中を押す。

 最高だった。

 僕は走り続けた。解放感と爆発した鬱憤で、僕の足は回り続けた。

 遠くに小さく見えていた二階建ての一軒家が、あっという間に大きくなった。白い玄関のドアがみるみるうちに目の前に迫る。僕の家だ。

 肩で息をしながら、玄関を開ける。

「ただいま」

「おかえり。もうご飯できるから、手を洗って手伝ってね」

 母さんの声だけが台所の方から聞こえてきた。醤油しょうゆと味噌の夕ご飯の香りがそこはかとなく漂っている。

「はーい」

 階段を上って自分の部屋に入り、電気をける。無秩序に漫画が詰め込まれた本棚の前に荷物を下ろし、椅子いすに引っかけてあった部屋着に着替える。ベッドに腰掛けて一息つきたかったが、母さんの言葉を思い出し、一階のリビングへと向かった。

 リビングのドアを開けると、味噌汁の温かい匂いが僕を包んだ。エプロンを着けた母さんはグリルから魚を取り出している。父さんはソファに座ってテレビを眺めている。

「ほらほら、テーブルいてコップとおはし並べて。肉じゃが冷めちゃうでしょ」

「分かったよ、今やるから」

 母さんの小言も今日は気にならない。鼻歌を歌いながら台ふきを洗って絞る。

 包丁が食材を切り裂き、まな板に当たるリズムが台所からリビングへと流れ出す。

 とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん

「きゃっ」

 母さんの小さな悲鳴でリズムは途切れた。

「どうした」

 父さんが体を起こして台所をうかがった。

「ううん、何でも無いの。うっかりしてて指を切っちゃっただけ」

 母さんは第二関節から上がすっぱりと切り落とされている左中指を見せた。表皮と筋肉と骨で構成された断面が、はっきりと見えた。血が水っぽいトマトケチャップみたいに床を汚す。

「気をつけてね。昨日研いだばっかりだから、いつもみたいに使ってると大怪我するよ」

 父さんはそれだけ言ってテレビに向き直った。そう言えば昨日父さんが包丁を研いでたな、と僕は思い出す。

「ねえ、亮。切れちゃった指知らない?」

 母さんが洗ったばかりの食器が干されている食器かごを探りながら僕の方を見てきた。

「ええ、失くしたの」

「しょうがないじゃない。文句言ってないで探してよ」

 仕方なく僕と母さんは手分けをして、台所のあちこちを見て回ったが、さっぱり見つからない。仕舞いには火に掛けっぱなしだった味噌汁が吹きこぼれそうになり、母さんが慌てて火を止める羽目になった。

 母さんは諦めた様子で肩をすくめた。

「まあ、後で探せば見つかるでしょ。もうご飯にしようか」

 じゃあ僕が手伝わなくても良かったじゃないか、と言いかけて、止めた。僕は余計な争いを好まないのだ。

 食事をテーブルに並べ、コップにお茶を注ぐ。

「父さん、ご飯だよ」

「ああ、はいはい」

 父さんは名残なごり惜しげにテレビを消し、椅子に座る。母さんも席に着こうとしたが、エプロンを外していないことに気が 付いたようで、背中側にある結び目を解こうとした。

 が、中々手間取っている。

「解いてあげるよ」

「あら、ありがと」

 やっと全員がテーブルを囲んだ。走って帰ってきたせいか、 結構お腹が空いている。

「いただきます」

 僕は真っ先に肉じゃがを自分の小皿によそう。母さんは料理が上手なのだけど、カレーと肉じゃがが断トツで美味おいしい。

「で、今日学校はどうだった?」

「うーん、普通」

 父さんのお決まりの質問に、僕は適当に答える。

 何でこんな意味の無い質問をいつもするんだろう。そもそも何か特別なことがあったら、こっちから勝手に喋ってる。

 なんにも言わないってことは、本当に何も無かったか、親に話せないことがあったかのどっちかだ。

「もうすぐ定期テストのはずだけど、ちゃんと勉強してる?」

「ぼちぼちかな」

 母さんは的確に痛いところを突いてくる。僕はこれ以上の厳しい質問を回避するべく、味噌汁をすすった。

「ん」

 何かが味噌汁と一緒に口の中に入り込んできた。ソーセージみたいに細長い。んでみると軟骨を硬くした様な気持ちの悪い食感があごに伝わってくる。

「何? 髪でも入ってた?」

 母さんが心配そうに僕の顔をのぞき込んでくる。

 口の中に箸を突っ込んで、異物をつかんで取り出した。

 出てきたのは指だった。

 味噌汁の中ででられて、白く変色している。血の臭いが味噌の香りをかき分けて、僕の鼻の周りを漂っていた。

 ちょっとした沈黙の後、父さんが愉快げに笑い出した。

「大当たりじゃないか、亮。良かったな」

「ええ、何で味噌汁の中なんかに」

 母さんは驚いたように指を見て、

「早く生ゴミのところに捨ててきなさいよ」

 と言った。

 何故か僕は動けない。

 父さんはまだ面白がっている。

「亮、どうだった? 意外と美味かったろ」

「ちょっとお父さん。そういう冗談はやめて」

 母さんは父さんをにらみつけ、僕に向かってもう一度言った。

「早く捨ててきなさい。気色悪い」

 笑っている父さんを見つめた。

 しかめっ面の母さんも見つめた。

 バイクのブレーキ音が食卓に響き渡った。

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