第3話 未完成な者同士

 トイレ掃除は嫌いではない。

 全体的に面倒な掃除の中でも、トイレ掃除は忌み嫌われる。排泄物の残骸を感じる空間をゴシゴシ磨くのは精神的に辛いのだろう。


 さらに、刑務所のトイレ掃除は基本的に素手でやらなくてはならない。

 全ての受刑者がやりたがらないこの仕事を、僕は率先してやっている。

 そんな変わり者に受刑者も看守も、これ幸いと仕事を押し付けてくれた。


 しかし、汚いところを綺麗にする作業に没頭していると、自分がマシな人間だと錯覚できるから、僕としてはありがたかった。

 最初のうちは看守の目が厳しかったが、僕の仕事ぶりが良かったのだろう。次第に緩んでいき、今では僕ひとりでトイレ掃除をすることができている。


 小便器をキュッキュと右腕で磨いていると、大輔を殴った時の感触が少しだが和らぐ。

 最近は、寝ても必ずあの時のことを夢に見る。睡眠時間さえも、本当の意味では安らげない僕にとってはトイレ掃除の時間は貴重だ。


 コツッ。


 そんな大切な空間に誰かが入ってくるのが分かった。

 誰だ。空気読めねー奴だなと視線を向けると、金髪のデブがいた。

 看守の制服を着ていないところを見ると、受刑者のようだ。


「‥‥‥何?」


 この時間は別のトイレを使うルールのはずだ。


「あ。えっと‥‥‥」


 目を泳がせている様子に、さらに苛立ちが募る。そっちから現れといて焦るなよ。焦りたいのはこっちだよ。

 なんで自分がこんなにイライラしているのか分からない。しかし、この男を見ていると、どうしようもない不快感が腹の中で渦巻く。


「えっと、神田だよな」


 やっと喋ったと思ったら、僕の名前を告げた。

 ん?ここにきてから受刑者の誰にも本名を名乗っていない。だとしたら、このデブはどこからその情報を知ったんだ?

 警戒レベルを上げて睨みつける。


「いや。そんな怖い顔しないでくれ。俺だよ。小学校の頃一緒だった村上だよ」

「‥‥‥」


 あぁ。

 何故、この男を見ると苛立つのか合点がいった。

 かつて、僕をいじめていた馬鹿だからだ。

\



「自由時間にお前を見てから今まで、ずっと謝りたかったんだ」


 口が開くたびに唾の糸が垂れていて気持ち悪い。頼むからもう喋るな。


「俺、ここから出れたら真面目に働こうと思うんだ。社会の役に立ちたくてさ」


 多くの日本人が当たり前のようにやっていることを、この俺がしてやるという傲慢さを感じる。


「だからさ、昔お前をいじめていたのを謝りたいなって思って。ごめん」


 さらに、自分が楽になりたいがための謝罪をしだした。


 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


 他人のオナニーを無理やり見せつけられているようだ。

 本人だけが気持ちいい謝罪という名のパフォーマンス。


 未だに何か言っているが、脳が言葉を理解するのを拒否しているため、全く知識のない外国語を聞いているようだ。

 早く失せてほしい。


 だけど、息子とこいつは同じ種類なのだ。

 だったら、こいつのことを知るのは、息子のことを知ることに繋がるのかもしれない。


「いじめって、なんでやるんだ?」


 シンプルだが、長年の疑問をぶつける。

 自分のパフォーマンスを邪魔された金髪デブは、軽く表情を歪ませながらこう言った。


「んー。暇だったから?」


 暇。

 やりたいことや、やるべきことがある人間からしたら、縁のない言葉。

 生きていて、本当に暇な時間ってどれくらいあるんだろう。


 学生だったら、勉強や部活で忙殺されるはず。

 大人だったら仕事で暇なんて言っていられない。

 趣味人だって、楽しむことに忙しい。

 だったら、暇ってなんだ?


「何にも、面白いと思えないんだ」


 デブが、さらに言う。

 娯楽で溢れているこの世の中だが、その全てが退屈で、やるべき義務もない。

 その状況って、想像すると凄く怖い。


「分かった。許す」


 ボソッと呟き、デブは大声で何かを言って去っていく。

 再び、静かになったトイレで考える。

 大輔は、その空っぽな地獄にいるのか?

 あいつ1人がいっているだけだ。何の根拠もない。


 だけど、その地獄から抜け出す手助けをするのは、父親としの当然の義務なのではないか?


 一度は暴力に訴えた情けない親父だ。

 でも、もしもう一度大輔と話せる機会に恵まれたら、一緒に人生の目標を見つける手伝いがしたい。


 自分の子供だからいじめをしないと、ある種の盲信していたのだ。

 所詮は、別の人間だ。

 次に会ったら、1人の人間として接しよう。


 そう決意して、まずは今の自分の役割であるトイレ掃除を再開した。

\



 5年後。


「うるせークソ親父!大丈夫だっつってんだろ!」

「何が大丈夫だ!怪我しといて大丈夫なわけがないだろ!」


 大輔がデコに傷をつけて帰ってきた夜の11時、僕は救急箱からガーゼを取り出しながら、反抗期真っ只中の大輔と怒鳴りあっていた。


 妻のサヤカは、天女のような笑みを浮かべながら「男の子だもん。喧嘩くらいするわよね」と言っている。


「今日は何で喧嘩したんだ!?」

「拓也のヤローが、鈴木の小説を破りやがったんだ!鈴木、全然悪いことしてねーのに!」


 中学生になってから、大輔が喧嘩をする時は人のための場合のみになっていた。

相変わらず、友達はヤンチャな子が多い。しかし、地味めな子とも仲が良く、どちらとも仲の良い大輔はその間のトラブルに首を突っ込んで喧嘩をすることも増えた。


「まあ、最終的には拓也も分かってさ。鈴木に謝ったよ。鈴木ってメッチャ優しいから許してくれた」


 さっきまでの怒鳴り声とは打って変わり、優しい声音でそう言う拓也。

 良い奴に育ったのは良いけど、少しは自分のリスクも考えてほしい。


 すぐに暴力に訴えるな。まずは対話を試みろ。

 治療しながら、そう説教する。

 明らかに納得してなさそうだったが、夜も遅いので中断する。


「まあいい。さっさと寝ろ!」

「ウッセーわ!」


 大ヒット曲みたいなことを言って自室に引っ込む。


「‥‥‥はぁ」


 やっぱり説教は向いてない。そんなことができるほどの人間ではないのだ。


「どうぞ」


 サヤカがホットココアを持ってきてくれる。


「ありがとう」


 こんな馬鹿な夫と息子を待つ優秀な妻は、僕の隣に腰を下ろし、自分の分のココアを飲む。

 僕も一口含む。

 少しずつ落ち着いてきた。

 大輔と話す時は必死になり過ぎていけない。


「あの子ね。パパみたいになりたいんだって」

「‥‥‥え?」


 そんなわけないだろう。この間なんてハゲてないのに「ハゲ!」って言われたぞ。


「恥ずかしくてパパには言えないんだよ。私に友達のことを相談しにきてくれた時、<オヤジだったらどうするかな?>って聞いてきたよ」

「‥‥‥」


 だとしたら嬉しい。

 少しは、良い父親になれているのだろうか。

 あの汚いトイレでの誓いを、少しは守れているのだろうか。

 人間として未完成な僕は、父親としても未完成だ。


 大輔の部屋の方に目を向ける。

 未完成な者同士、頑張っていこうぜ。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

息子がいじめをしている現場を目撃しました カビ @adatitosimamura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ