第2話 あの日の出来事
珍しく仕事が早く終わり、6時頃に帰路についていた日のことである。公園を通りかかると不穏な声が聞こえてきた。
「おーい!聞こえてますかー!?俯いてちゃ分かんないですよー!?」
対話をする気は無い、相手を糾弾するための声の圧。さらに、声変わりしていない子供の甲高い声質が不快だった。
というか、この声聞き覚えがあるような‥‥‥。それも、日常的に聞いているレベルの。
視線を公園に向ける。
「オラ!もう一発いくかー!?」
そりゃ、聞き覚えがあるわけだ。
己の息子の声なのだから。
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その小さな公園は、大輔が自転車に乗ることに成功した思い出深い場所だった。
盛大に転んで膝や脛に傷を作る息子を見て、こんな思いをしてまで自転車に乗れるようにならなくてもいいんじゃないかと何度思ったことか。
しかし、今も昔も小学生の遊びに不可欠な移動手段である自転車をマスターしていないと、仲間はずれにされるかもしれない可能性を考えて、心を鬼にした。
友達関係でしくじると、昔の僕のようになってしまうかもしれない。あんな苦労をさせないためにも、コミュニケーションに使えるものはたくさん揃えてやりたい。
大輔も、涙を流しながらも懸命に練習に打ち込んでいた。子供の世界は時に大人の世界よりもシビアだ。劣っている者は容赦なく排除される。
大輔もそれが分かっていたのだろう。
父に似て運動のセンスはあまりなかったが、練習を怠ることなく取り組んだ。
その甲斐あってか、土曜日の夕方に夕日が刺す中、僕の補助無しでも軽快にペダルを漕ぐ息子の姿を今でも鮮明に思い出せる。
そんな、僕にとっても大輔にとっても大切な場所で、何をしているのだろう?
自分でも意外なくらいに、何の迷いもなく現場へと向かう。
近づくにつれ、いじめられている少年の姿が鮮明に見える。その両頬には酷いアザがあった。この傷の要因の一つが大輔であることを、まずは受け入れる。
「ん?なんだ?おっさん、文句あんのか?」
息子といじめられている少年以外目に入っていなかったから気づかなかったが、仲間が数人いるみたいだ。
揃いも揃って、全員が口を少し開けている。
息子は、こんな奴らの仲間入りをするために自転車をマスターしたのか。
下腹部に重い鉛があるかのような倦怠感がある。
「と、父さん‥‥‥」
さっきまで楽しそうに甲高い声を上げていた大輔は、突然の身内の登場にたじろいでいた。
昨日まで、一緒にレースゲームをして笑っていたのに。
家と外でキャラクターが違うのは、ある程度仕方がないが、これは度が過ぎているぞ。
「え?何?大輔のオヤジ?まさか大輔、オヤジにビビってんの?ダッセー」
だらしない口元からは、下らないことしか発せないようだ。
「そ、そんなことねーよ!」
しかし、息子は焦ったように傷だらけの少年へと向き直る。
そのチンケなプライドを僕に向けてくれたら、まだ正気を保っていられたと思う。
しかし、大輔が小さなコミュニティでの地位を守るために傷つけたのは、またしても傷だらけの少年だった。
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「この時の記憶は曖昧だ」みたいな逃げ方はしない。僕は、自分の意思で息子を殴った。
大人の力で、小学生の子供を思いっきり殴った。
その時の拳の感触は、今でも残っている。
いくら忘れようとしても、人間を殴った時特有の不快感を拭えないでいる。
いじめを許せないという正義感もあるにはあったが、1番の理由は他にある。
恥ずかしさからだ。
この世で僕が最も忌み嫌ういじめという、ただの犯罪を息子がしている事実が、ただ恥ずかしかった。
それと同時に、子供に暴力を振るうことも犯罪だということも重々承知していた。躾などと言い訳もしない。僕は罪を犯した。
だから、口半開きのガキの1人が通報しても止めなかった。
大輔を殴ったことに後悔はしていない。しかし、全く罪のない妻にまで迷惑をかけてしまう結果になったのには、申し訳なく思っている。
1番損な役割を押し付けてしまった。
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