古本屋のしおり

桜川ろに

古本屋のしおり

 重苦しい鈍色の空の下で、ずぶ濡れの街は陰鬱な影を落としていた。地上ではビニール傘の群れが蛞蝓ナメクジのようにのそのそと這いまわっている。

 雨の降る日、大学の帰り道。俺はふと大学近くの古本屋に立ち寄った。梅雨の時期特有のジメジメとした空気に、古本のかび臭い匂いが広がる。陰気この上ない。

 俺自身読書に対して特別な思い入れがある訳ではなかった。ただの手軽な娯楽だ。50円や100円で2時間も潰せれば、映画よりもはるかにコストパフォーマンスがいい。文庫本なら場所も取らないし、電車の中で時間を潰すのにも便利だ。スキマ時間を埋めるだけの、単なる暇つぶし……

 1年ほど前に話題になった小説が、もうこんなに値下がっているとは思わなかった。大した中身ではなかったのだろう。俺はその本を手に取り、レジへ持っていく。



 電車に乗り込むと、俺はおもむろに本を開いた。どうせ古本だ、水滴が付いても構わない……そして片道30分弱、そろそろ最寄り駅というところで読書を中断する。本には前の持ち主が挟んだのだろう、しおりが挟まっていた。ちょうどいい、これを使わせて貰おう……そう思ったのだが。


「……何だこれは」


 しおりを手に取った俺は、思わずそう呟かずにはいられなかった。形はどこにでもある細長い紙のしおりである。だがしかし、一点だけ奇妙なところがあった。

 ──顔。顔である。そのしおりにはモノクロの写真で人の顔が載っていた。虚ろな目、歪んだ表情。見ていて不安を覚えるような、およそ広告に適する類の人間ではない男の顔である。そんな男の顔がアップで映っている。説明は何もなかった。しおりを裏返してみたものの、男の写真以外は何も書かれていない。

 首筋がぞわっとする。どうにもこうにも気味が悪いと言わざるを得ない。……何だろうか。その写真を見ていると、こちらを見つめられているような気分になるのだ。ハッキリと写真から視線を感じる。眼だ。本物の眼……ああダメだ、その眼を見ていると今にも吸い込まれそうに錯覚する……

 ──バタン、俺はそのしおりを本に挟み込むと、臭い物に蓋をするかのように本を閉じたのだった。





「……ひょっとしてその写真、行方不明者とかじゃないのか?」


 翌日、大学の友人にしおりの件を話すとそう返って来た。


「これは韓国のハナシだけどね、カードゲームのトークンに『行方不明の子供』の写真が使われたことがあったとか。子供だからカードで遊ぶだろうと考えたんだろう」


 そう云って友人はネットの画像を見せてくる。確かに有名なゲームのカードの横に、子供の顔の写真を載せたカードが並んでいた。彼によれば一時期韓国でそのカードゲームのパックを買うとそれが付いて来たのだそうだ。

 行方知れずとなった子供がいつか手に取ると期待して刷られた、人探しのカード……確かにこのしおりと似ている部分がない訳ではなかった。


「じゃあこの男は本好きだったってことか?」

「あくまで可能性の話な」

「その割には連絡先とか書いてないけどな……」


 その韓国のトークンにも写真のほかに連絡先やその子供の情報が記されている。だがこのしおりには、見知らぬ男の写真しか載っていない……仮にこの男の家族が行方不明の彼を探すためにこのしおりを作ったとして、写真だけを載せるだろうか。連絡先すら記さずにである。確かに尤もらしい話ではあるが、俺にはどうも違和感が拭えなかった。とその時、友人が何やらしおりをジッと見つめていることに気づいた。


「うん? どうしたんだ?」

「いや、一瞬眼が動いたような……」

「しおりのか? 怖いこと云うなよ」

「多分気のせいだ、うん。そうに違いない……」


 そう云いながら友人は目を擦っている。そして手を額に添えて少し考え込んでいたのだが、やがて一人で納得したように云うのだった。


「これは本好きの行方不明者の写真だから、もし処分するなら『古本屋に売る本』に挟んでやった方がいいかもな。このしおりを作った人だって、それを望んでいるだろう……きっとな」





 バチバチと窓ガラス越しに雨音が聞こえてくる。大学帰りの一人暮らしの古アパートはまるで人から忘れ去られた廃墟のように薄暗かった。板張りの床がキイキイと軋む。堪らず俺はスイッチを入れて電灯を点けた。そしてカバンから本を取り出すと改めてしおりを眺める。

 しおりに載せられた不気味な男の顔。ああ、やはり何度見てもしおりから視線を感じてしまう。それどころか俺は、単なる写真でしかないこの男にどこか生気さえ感じていた。これは果たして俺の被害妄想なのだろうか。それとも……本好きの行方不明者を探すために、誰とも知らない人物が作った不気味なしおり。そんな与太話でさえも結局気休めにはならなかった。

 ああ、いっその事ゴミ箱にでも捨ててしまおうか。そうすればこれ以上このしおりに悩まされる心配はない。構うものか、どうせこのしおりの代わりなんて幾らでもあるのだから……そう思ったその時。

 ──冷やり。顔面を包み込むような冷たい感覚が俺を襲った。瞬間「掴まれた!」と、俺は思った。前が見えない。これは……灰色の手だ。写真から灰色の手が伸びている!  やばい、なにかやばい。急いで逃げないと。このままだと恐ろしいことが起こる、そんな確信があった。


「やめろ! 離せ!」


 俺はその灰色の手から逃れようと必死に抵抗する。だがしかし、その手はまるで万力のように俺の顔を掴んで離そうとしない。まずい、……! ああ、灰色、灰色、灰色、灰色。俺も、俺自身も。灰色、灰色、灰色、灰色。いやだ、やめてくれ……! 灰色、灰色、灰色、灰色。これ以上は、まずい……! 灰色、灰色、灰色、灰色。

 ああ──そして俺は、意識を手放したのだった……。





「う、うーん……」


 俺は唸り声を上げる。どうやら俺はしばらくの間気を失っていたようだった。時間の感覚が分からない。どれだけの時間俺は気を失っていたのか……ああ、頭がぐらぐらする。思わず俺は頭を押さえていた。湿った土のにおいがする。ここは一体どこだろうか。そして俺はゆっくりと眼を開いた。

 最初に目に入ったのは灰色だった。土だ。土が灰色をしている。火山灰……などではない。このじっとりとした感触は紛れもなく土の感触だ。俺は空を見上げる。空は白色だった。周りを取り囲む木々は濃い灰色をしている。

 ──こんな場所、俺は知らない。こんな不気味な場所、俺のいるべき場所じゃない! 帰らないと。早くどうにかして元の場所に帰らないと……

 だがその時、俺は背後に人の気配を感じていた。俺は立ち上がると、背後を振り返る。そこには写真の男が立っていた。何を考えているのか分からない、ただ不気味なだけのニヤニヤ顔を浮かべながら……どうしてこんな場所に? そう思う間もなく、男は俺に向かって話しかけてくる。


「私がこの日をどれほど待ち望んていたことか……本当に感謝しているよ、君には悪いけど。向こうに家があるから、しばらくそこを使うといい。その後は知らないけどね。最後に一言……本当にありがとう」


 男はそれだけ云い残すと、突然俺の目の前から消えた。居なくなったのではない、消えたのだ! まるでプロジェクターの電源を落としたかのように、男の姿はプッツリと消えてしまった。


「どういうことだ、ここはどこだ!?」


 しかし幾ら虚空に問いかけてみても、返事は返ってこなかった。





 俺がいる場所は、果たして深い森の中だった。狂った色彩感覚の白黒の森である。ダメだ、下手に動くと迷ってしまう……そう思った俺は、結局男に言われた通りに家に向かうことにした。

 言われた方角に進むと、しばらくして俺は寂れた一軒家を見つけた。その家の中には、至る所に生活の痕跡があった。恐らくあの男が拠点にしていたのだろう。俺もしばらくこの家を拠点として、元の場所に戻る方法を探るとしよう。


「ん? これは……」


 家の中を物色していると妙なものを見つけた。これは……手記、だろうか。白の紙に黒のペンで書かれたその手記は、一目見て分かるほどに達筆な文字で綴られていた。あの男のものなのだろうか……もしそうだとしたら、この中にもしかしたら元の場所に戻る手掛かりが書かれているかもしれない。だが……何か嫌な予感がする。

 俺は恐る恐るその手記を手に取ると、中身を読んでみることにした。





────────


……ああ、現実はクソだ。

私は常々そう思っていた。こんな醜悪な世界などではなく、本の中の世界で暮らせたとしたら……好きな本の世界で生きることができれば、どれほど素晴らしいだろうか。だがそんな私の夢想はどうやら夢物語でしかないらしい。

ああ、今日も世界は変りなくクソだ。


…………


なんという日だろうか。

今日、私の前にある男が現れた。彼は私の言葉を否定するどころか、私の夢想を肯定してくれた……それだけではない。彼によれば本当に本の中に住むことができる方法があるらしいのだ。

彼とはまた会う約束を取り付けた。世界は依然クソで出来ているが、希望はあることが分かった。


…………


『しおり』だ。このしおりを本に挟めば、その本の中の世界に入り込むことができる。二度と戻ることができないなど知ったことか。後悔などする訳がない。

私は男の言う通りに本にしおりを挟んだ。男の言っていたことは事実だった。

全てが完璧に構築されていく……

それから私は幸せな時間を過ごした。


…………


ある日異変が起こった。突然世界が真っ暗になったかと思うと、私は見知らぬ場所にいたのだ。ここはあの本の場所じゃない。私が考えて導き出した結論は、別の本にしおりを挟まれてしまったということだ。

現実世界では私は行方不明扱いになっている。誰かが部屋に立ち入って、本をどうにかしたのだろう。

ふざけるな。ここは私の望んだ世界じゃない。しかし一度本の中に入れば、外に出ることはできない。このしおりを売った男はそう言っていた。

私は絶望した。夢遊病者のように本の中の世界を彷徨った。

そして見つけたのだ。

外の世界を覗く方法。外の世界を見てみると真っ暗だった。それも当然だろう、しおりは本に挟まっているのだから。しかし本に挟まっているままでも、そこが古本屋だろうということは推測できた。男はこうも言っていた。


「本の外に出る方法は実は一つだけある。それは自分の代わりに誰かを本の中に引きずり込むこと……」


希望が出てきた。誰かがこの本を手に取るのを待つ。そしてソイツを自分の代わりにこの本の中に引きずり込むのだ。

現実はクソだ。でも望まない世界にいるくらいなら、現実に戻った方がマシだ。


…………


ようやく本を手に取る者が現れた。大学生の男だ。

ありがとう、彼のおかげでやっとこの忌々しい世界から脱出できる。

苦しかった。恐ろしかった。しかし、遂に私は解放されるのだ。


──この『紙檻しおり』の中から……


────────





 俺は全てを読み終えると、震える指で手記を机に置いた。そこに記されていたのはにわかに信じがたい内容だった。なんなんだこれは。本の中の世界……? 外に出るために俺を引きずり込んだ……? ふざけるのもいい加減にしろ。

 こんなもの、本に憑りつかれた狂人の世迷言でしかない。早く家に帰らないと。そして俺は早る足取りで空き家を出る。ああ……そして絶望する。


「そんなこと……全て嘘だ、でたらめだ!」





…………





 ……そして月日が流れ、季節は幾度目かの春へと移り変わった。

 ガランガラン。柔らかな春の陽光が降り注ぐある日に、大学近くの古本屋に一人の女性が立ち寄った。彼女は特に目当ての本がある訳でもないようで、しばらく本棚の間をブラブラとしていたが……無造作に一冊の本を手に取ると、おもむろに立ち読みを始める。

 やがて内容が気に入ったのか、その本を閉じるとレジへと持っていくのだった。


「これ、お願いします」






──もしあなたが古本屋で本を買ったのなら、『しおり』に気を付けて。


──ひょっとしたらあなたを本の世界に引きずり込もうとする『何か』が、そこに潜んでいるかもしれないから……







「ありがとう。本当に、ありがとう……」







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