vampir în lentilă

綿雲

ceașcă

「あの、違うのこれは、そう、トマトジュース!だ、から」


清潔な洗剤の香りと熱を孕んだ空気に混じる、鉄のにおい。ワインを湛えたグラスをひっくり返したみたいに、タイル張りの床一面に飛び散った深紅の液体。傍には掌を唇を頬を真っ赤に染めた女生徒がしゃがみ込んで、ビニールのパックからぽたぽたとこぼれ落ちる雫を指の隙間から滴らせていた。

困り果てた様子で歪められた口の端から鋭い犬歯がちらと覗き、青白い蛍光灯の光を受けて鈍く輝く。夜海のように黒い長髪の下で、不意に目が合った。

ランドリーにごろごろ響く雷鳴と洗濯機の稼働音が遠く聞こえて、


「あ」「お願い!誰にも言わないで……」


やけに大きいシャッター音が耳に届くのと、レンズの向こうの彼女に縋り付かれたのはほとんど同時だった。無意識に構えてボタンを押していたらしい。

赤赤とぬめる液体に濡れた彼女の顔が、吐息がかかるほどまで近づいていた。掴まれた肩口に強く爪が食い込む感触を覚える。意外なほどの力強さとは裏腹に、淡く水分を含んで揺れるその色素の薄い瞳に、思わず見入ってしまっていた。雨上がりの空を反射して光る水溜りのようだった。


彼女は何も言わない私にかえって狼狽える様子で、握り込んでいた私のパーカーからおずおずと手を離した。グレーのスウェット地に朱色の跡が残る。濡れて重くなっていた布はずるりと肩を滑り、タンクトップの肩紐が引き連れて二の腕に落ちる。はっとして目を逸らした彼女は、ぶんぶん頭を振って、ウェーブのかかった髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜながら再びタイルの上へしゃがみ込んだ。


「ご……ごめんなさい、あの……違くて……」

「……手伝おうか」「え?」「片付け」


へたり込む彼女に背を向けて掃除用具の詰まった灰色のロッカーを開けると、薄汚れたモップや雑巾、バケツなんかが行儀良く収まっていた。おろおろと立ち上がって、いいよ、とか自分で、とか言いかけた彼女は、そこでようやく自分が全身撒き散らした赤に塗れてひどい有様になっていることに気づいたらしかった。赤く汚れた顔を青くして、血の気が引いたよう、というのはこの惨状を見るに不自然な形容ではある。


「脱いだ方が良いと思う」「えっ」

「固まると落ちないし」

「あ、そ、そうだよね……」


ごめんなさい、と俯いて、彼女は大人しくTシャツを脱ぎ始める。脱いだついでのように着ていたもので真っ赤な顔をごしごし擦って、やっと少し赤みを帯びたくらいになった彼女の顔は、やはり同大学・同級生の蘇枋 唯その人に間違いは無かった。私はその憂えた横顔に、舞い込んだまたとない好機に、心臓からどろどろと流れて溢れ返りそうな情動を覚えずにはいられなかった。首から提げたカメラのストラップをぎゅっと握り締める。

くすんだオレンジ色をしたブラインドの隙間からはしとどに雷雨を受ける闇が漏れるばかりで、こんな時間に人が来るとも思えなかったが、念の為入口に鍵をかけた。身につけるものが頼りないレースの下着のみになった彼女は、特に恥じらう様子もなく、しゅんとしたまま空いている洗濯槽に脱いだばかりの衣服を放り入れた。どうせならと私も水を吸ったパーカーを乾燥機に突っ込み、タンクトップにジーンズだけの格好になる。


「あ、あの……もしかして、黒銀 明日夏さん?」

「なにか」

「えっと……あたしのこと、覚えてる?高校、同じだよね」


当然だ、と口をついて出そうになって、悟られないように唇を引き結んだ。曖昧に頷くだけにとどめてほとんど裸の彼女を振り向く。蘇枋はチープな青色のベンチのそばに膝をついて、もう乾いて黒ずんできているタイルを雑巾で拭いていた。こびりついたものを拭き取る動きに沿って、黒い髪が波打つように揺らめく。


「ごめん、こんな……こんな気味悪い奴と、ずっと同じクラスで、しかも大学でまた同じ学校にいるとか……キモいよね」

「キモいかどうか決めるのは私だから」

「でも、キモいから、おかしいと思ったから、その……撮ったんでしょ?」

「違う」「じゃあ、」


なんで、と彼女が言い終わらないうちに、こちらを見上げる非難めいた眼差しと私の視線がかち合った。びかりと窓の向こうに閃光が走り、どこかで雷の落ちた音が聞こえる。

沈黙。降り頻る雨の音に溶け込むように、響き渡る衝撃音が遠ざかる中、私はひとりごとのように呟いた。


「綺麗だったから」「え」

「……綺麗なものしか撮ろうと思わない、私は」


掃除の間も提げっぱなしにしていた黒い一眼をゆるりと撫でる。急な雨に見舞われたせいで少し濡らしてしまった。

彼女は面食らったようにぽかんと口を開けて、私の顔とカメラとを交互に眺めていたが、少しして不思議そうに首を傾げながら、そっか、と小さく言った。

バケツの中の水がどす黒く濁る頃には、ランドリーのタイルはあらかた本来の色を取り戻したように見えた。いつまでも降り止まない雨はしつこくアスファルトを穿ち続けている。

初夏の室内とはいえタンクトップ一枚では少し肌寒く感じた。彼女は寒くないのだろうか。照明のせいか体質か、不健康なほどに白く透き通る肌には血も通っていないように見える。


「黒銀さん、こんな夜中に、外で写真撮ってたの?」

「蛍がいるって聞いたから」

「あ、この裏の土手?おっきい川あるもんね……」


蘇枋は上下揃いの下着にサンダルをつっかけただけの格好のまま、黄色い洗濯機にもたれていた。手持ち無沙汰なのか胸の下まで垂れた髪を編んでは解きを繰り返している。

先ほどまで血溜まりの中で取っ組み合っていたとは思えない、普通の大学生同士みたいな会話だった。それでもやはり、どこか非日常的な雰囲気を感じるのは、微かに残る鉄のにおいのせいだろうか。

だが果たしてこの空気の味は、彼女にとっては日常のものであるのかもしれない。


「蘇枋さんこそ」「うん?」

「なんでこんなところで……食事してたわけ」

「ち!違うんだって、違うの……いや、ううん……もう誤魔化してもしょうがないよね……」


弄んでいた髪の毛で顔を覆い隠して、はああ、と大きなため息をつく。しなやかな髪は濡れたように黒く、照明や金属の光を反射して艶めいていて、同じ黒のロングヘアでも私の髪とは全く違う気がした。


「私ってつまりその……いわゆる、吸血鬼……なんだよね」

「まあ……そうだろうね」

「し、信じてくれるの?」

「逆に人間だって言われた方が混乱する。あんなとこ見たら」


朱に染まった彼女の姿を思い出して、掴まれた肩の感触を確かめるように肌を撫でる。つかみかかったりしてごめん、としょぼくれる彼女は、こうして見るだけならどこからどう見たってただの人間の女の子だった。しかしその顔立ちやプロポーションはまるで人形みたいに整っていて、高貴な雰囲気すら感じる印象は高校の頃から変わらない。こんな寂れたコインランドリーなんかにほとんど裸で佇んでいるのが哀れに思えるくらいだ。

そうしたある種近寄りがたい感じを和らげるために、普段からTシャツやサンダルといったラフな服装をしているのかもしれない、と思った。


「あの……とは言ってもね、人を襲って血を吸うとか、そんなことしないから……普通のごはんも食べるし。必要な分だけ、ああいうふうに輸血パックを買わせてもらってて……」


彼女は溜まった洗濯物をやっつけついでに夕食を嗜む週末のルーチンをこなしていたところ、突然の闖入者に仰天し、吸っていた輸血パックを盛大にぶちまけたのだった。まさかこんなうらぶれたランドリーに人が来るなんて思いもよらぬ出来事だったらしい。しかも見られるだけでは飽き足らず、写真まで撮られたのだから、その瞬間の彼女の慌てようは凄まじいものだったようだ。


「だからなんていうか、安心して……ほしいんだけど、でも、説得力ないよね……」

「まあ、信じるよ、それも。まだ人を襲ってるとこは見たことないし」

「で、でも……怖くない?」

「ちっとも」

「気を使わなくていいんだよ」

「綺麗だって、さっき言った」


私たちは一瞬の間、お互いに見つめ合っていた。頼りない蛍光灯の明かりと雨の音、そして湿った生温い空気だけが私たちの間にあった。

蘇枋は視線に耐えきれなくなったのか、顔を背けて頬を僅かに赤らめる。


「あんな……血まみれの幽霊みたいなあたしが?」

「見る?撮ったの」

「いや……その、気持ちは嬉しいけど……見れないと思う」

「なんで?データでならすぐ見れる。なんなら後で現像してあげるけど」

「そ、そういうことじゃなくって……写れない、というか」


蘇枋の台詞が終わるのも待ち切れず私はカメラのデータを呼び出していた。いつもならローディング時間も撮ったものの記憶を辿りながら期待とともに待っていられるのだが、今はそれすら焦れったい。

蘇枋は何故だか申し訳なさそうにちらちらと画面を覗き見ている。真っ黒なロード画面が終わって、私はこれ以上一秒の間さえもどかしく画面に顔を近づけた。

暗く、赤い画像がそこにあった。


「吸血鬼って、写真に姿を写すことができないんだよね。仕組みはよくわかんないけど……」


そう言われてみると、いくらか思い当たることがあった。蘇枋は友人と一緒に写真を撮らない。流行りの写真投稿系のSNSも使っていない。卒業アルバムにも1枚たりとも他の誰かと一緒に写っているものはなかった。クラス集合写真の中に至っては、よくある「居なかった人」枠としてクラスメイトたちの右上に小さく切り抜かれた形で微笑んでいるばかりだ。

それに、私だけはずっと、彼女の写真に対して決定的な違和感を持っていた。


「道理で、撮れたことがなかった」

「やっぱり、写ってないでしょ?」

「そうじゃなくて、高校の時から」


少しだけカメラから目を上げて様子を伺うと、蘇枋はきょとんとして私の顔を眺めていた。中途半端に顔を動かしたせいで耳にかけていた髪が落ちて目元にかかる。すると蘇枋は何を思ったか、小さな貝のような爪の先を私の頬に寄せ、落ちた髪をさらりと掬い上げた。


「……どういうこと?もしかして」

「……隠し撮りしたことがある、何回か」


蘇枋は顔を青くして、掬った髪を指から取り落とした。私は動揺を隠すように耳に手を当てて、彼女から視線を外す。何かやましい事がある時、ピアスをいじるのがいつの間にか癖になっていた。

なんで、とかいつの間に、とか慌てふためく彼女だったが、一度もそういう可能性を考えたことは無いのか。そう問うと蘇枋は、ぐう、と呻いて眉を顰める。


「だって……そんな、も、物好きがいるなんて、思わなかった……」

「外見はよく褒められる方でしょ」

「そんなのみんな、社交辞令で言ってるだけだよ」

「まあ、もし勝手に撮って失敗したところで、本人に言うわけないしね。私みたいに」


彼女を写したはずの写真には、いつも薄く黒い靄のような何かが写るばかりで、まともにその姿を収められたことは一度もなかった。カメラの設定からオカルト的現象すら疑って、何故アルバムの写真には普通に写っているのかと不思議に思っていたのだが。


「アルバムに何枚か写ってるのは、鏡写しにして撮った写真をプロの人に加工してもらって…」

「それはいけるの?鏡に映らないって話なら聞いたことあるけど」

「けっこう個人差あって、私は写真は全然だけど、鏡なら大丈夫なの。時々ちょっと映りにくくなるけど…良かったよほんと、身だしなみ整えらんないと困るもん」


記憶を辿っていくと、彼女は女子グループと集ってトイレに行くようなこともあまりしなかったように思える。総合してほぼ全くと言っていいほどに彼女の写る写真を手に入れる機会を得てこなかった私だが、しかし今日この日、この土砂降りのランドリーの中でやっと、これまでが報われる時が訪れたのだ。

私ははにかんでいる彼女にぐっと詰め寄って、カメラの画面を手のひらで覆い隠す。蘇枋は驚いた様子で、しかし何も言わず、その場から逃げることもしなかった。


「ねえ。見たい?この写真」

「え……え?だ、だから、写ってないん……でしょ?」

「そんなことひとことも言ってない」


暗く、真っ赤な写真。そっとカメラを差し出すと、彼女は目を見張った。


「うそ、」


そこには赤く染まった彼女が、長い髪を振り乱してこちらへ向かってくる様子がはっきりと写し出されていた。


「ねえ……あんたが人間じゃないってこと、ばらされたくないんでしょう」


蘇枋は衝撃からか暫くは微動だにしなかった。私の囁きにやっと観念したように目を伏せて、小さく震えたかと思ったが、どうやらそれは弱々しい肯定の頷きだった。長いまつ毛に縁取られた瞳に滲む涙。

私は高揚感のまま彼女の手首を掴んだ。ひゅっと喉が鳴る音が間近で聞こえて、思わず笑みが零れる。彼女の体は硬直して、すっかり腰が砕けてしまった様子だった。


「ご覧の通りだけど……ばっちり写ってた。全身真っ赤にして私に襲いかかってくる、可哀想なあんたが」

「お、お願い……やめてよ、」

「ねえよく聞いてよ、黙っててほしいなら、わかるでしょ」


じいっと蘇芳の薄い色の瞳を見つめた。金にも近い色をした瞳が緊張にきょろきょろと動き回る。彼女は震える唇をどうにか一文字に閉じ合わせた。

ずっと焦がれていた。


「私のモデルになってよ」

「……えっ?」

「呼んだらいつでもどこにいてもすぐ私のところに駆けつけて、カメラの前に立って、服を脱いでポーズをとって」

「そ、そんなの……」

「そうしたら黙っててあげる。一生誰にもばらさないし、この写真もあんた以外には絶対見せないって誓うよ」


彼女の喉が僅かに上下するのが見て取れた。その表情は不安と困惑でいっぱいで、そんな姿すらも私のやり場のない欲求を掻き立てる。

他のどんなものを撮っても満たされなかった。

いや、少し違う。杯から溢れてとめどないこの衝動を受け止めて、あわよくば飲み込んで欲しいと願っていた。降り止まない雨が海を作るように、私の内側は来る日も来る日も彼女のことで溢れかえっていた。


「それに…あんただって興味あるんでしょ?私に」

「な、なにそれ…」

「私がパーカー脱いでから、じろじろ見てる」


見せつけるようにゆっくりと首の付け根をさすると、触れられてもいない彼女の方が弾かれたようにびくりと肩を揺らして、みるみるうちに顔を真っ赤にした。


「やっぱり、吸ってみたいんだ」

「ち、ちが、そんなことない、」

「ねえ、悪い提案じゃないでしょ?あんたが私の言うこと聞けば、私はあんたのこと秘密にしててあげるし、おまけに食事も与えてあげる」

「く、くろがね、さん……」

「正直、私も好奇心が湧くし、血を吸われるなんてさ……なかなか体験できないでしょ」


なおもしどろもどろになって力無く項垂れる彼女の、柔らかなくちもとに触れた。上唇をそっと指で押し上げて、白い牙を優しくなぞる。そのまま歯列の隙間に指先を差し込むと、蘇枋はとうとう抵抗らしき動きを見せた。とは言ってもそれもほんの些細な、私の肩をゆるく押し返すだけのささやかな抵抗だったのだが。彼女の顔はここへ来た時と同じくらい赤くなっていて、私の指から逃れようと口を開けて後退する。


「ま、待って……指、切れちゃうよ」

「……いいよ。吸わせてあげるって言ったでしょ」


彼女の内側は思っていたよりずっと熱かった。湿った粘膜とエナメル質の感触を求めて追い縋る指を、蘇枋は顔を覆って退ける。指の隙間から潤んだ瞳がおずおずと覗いた。

こんなに近くでゆっくり眺められるなんて初めてだ。澄んだ水底のような虹彩をじっと見つめていると、そんなに見ないで、と蚊の鳴くような声で呟いた。


「な、なんか、どうしたの、さっきから……く、口説き文句みたい」

「そのつもりだけど」

「え」「今の顔も撮りたい」


彼女はこれ以上ないくらい顔を真っ赤にして、困り果ててどうしようもなくなった人間がよくそうするように、眉を八の字に下げて潤んだ目を細めた。唇からは小さな牙が覗いていて、私は反射的に一眼を構えた。

レンズの中で慌てて顔を伏せた彼女は、私がいつまでも音もなくカメラを構えたままなのを訝しんでそろりと顔を上げる。


「……と、撮らないの……?」

「撮ってもいいの?」

「さっきは勝手に撮ったくせに……」

「綺麗なあんたが悪い」「なにそれ……ずるい」


空気にほどけてしまいそうな、 いいよ、の声と同時に、ぴしゃり、シャッター音と烈しい雷鳴。青白い灯りがふっと消えて、辺りが闇に包まれる。くすくす吐息だけで笑う声が耳元で聞こえるくらいそばにあった。滑らかな背中に回した腕に性急に力を込める。


仄かに痺れるような痛みに伴って、どろりと熱い赤が迸って滴った。


――


「いっ…たあい!」「じっとして」


無理無理、と泣き喚く蘇枋を宥めすかして、反対側の耳にも容赦なくピアッサーを突き立てた。うわあ、と悲鳴をあげる彼女は今にも泣き出しそうで、ついスマホのカメラアプリを起動させる。


「ちょっと!また撮ろうとしてる!人が苦しんでるのに!」

「ごめんつい、似合ってるから」

「ほ、ほんと?変じゃない?」


褒め言葉を口にするところっと機嫌を直して、手鏡とにらめっこをはじめる。蘇枋の両耳には今や一対のピアスが埋め込まれていた。黒い髪と白い肌によく映える、銀色の耳飾り。

吸血鬼は銀に弱いなんて逸話があるけれど、聞けば今は昔の話で、彼らも時代と共に進化しているのだということだった。


「それにしても、脅しをかけられてる相手にほいほい弱点を晒すなんて、油断しすぎじゃないの」

「いいじゃん、これであたし、いつでも明日夏に撮ってもらえるんでしょ?」


あの雷雨の日、偶然にも撮影できた赤い写真。あの時の条件、雨や雷や時間帯、ランドリーという場所など、可能な限り再現していくうち、特定の金属、つまりは銀を身につけることで彼女の体を写真に写すことが可能である、という一応の結論に落ち着いた。あの時私は今の彼女と同じように銀のピアスをしており、因って撮影できたようだ。

とはいえまだ定かでなく、何故か日によってはダメな場合もあるのだが。そう伝えれば彼女は、わかってるよ、と微笑んだ。


「それでも嬉しいの、あたし。今までさ、家族はもちろん、ずっと友達と一緒に写真撮れたことなかったし」


いつでもどこでも定義のはっきりしない美を求めて無遠慮に他己の姿を切り取る行為は、今や日常的で当たり前のものになっている。かく言う私もそれを繰り返す一員だ。

けれど彼女は違う。その当たり前から、外れた場所で指を咥えて見ていることしかできなかった。


「せっかく一緒に撮ろうって言ってもらっても、苦手だからとか誤魔化して、断り続けるしかなくて……申し訳ないし、罪悪感みたいなのもあって」

「唯が悪いわけじゃないでしょ」

「ふふ、ありがと。でもやっぱりね、憧れだったから。そのうち友達とか、家族は難しいかもだけど……明日夏と一緒に撮った写真も欲しいな」

「……考えとく」

「約束ね!嘘ついたら血吸ってやる!」

「いつもしてるくせに」


柔らかく頬を綻ばせる横顔をファインダーから覗き見る。シャッターを切る瞬間、耳たぶできらりと存在感を放つ銀の根本から、赤いものがほんの少量滲んでいることに気付いた。そっと触れると、指先に鮮やかな赤が移る。くすぐったそうに笑う彼女を見るに、もう痛みもないようだった。


「ねえ、あたしもどんな感じか見たい!ていうかちゃんと撮れてる?」

「撮れたよ」「やった!」


はしゃいでスマホの画面を覗く彼女には悟られないように、色づいた指を唇でなぞる。仄かに鉄の味がして、陶然とした心地が胸を震わせた。

撮るそばから次はどんな彼女を撮ろうと夢想してしまう私は、これからも飽くことなく、彼女を追い続けることだろう。

私だけのモデル。そう考えてふと、邪な考えが頭に浮かんだ。浮かぶと同時に口に出て、しまったと思った時にはもう遅かった。


「やっぱり嫌だ」「えっ?」

「……嫌なんだけど」「なにがよ」

「友達と写る時って、誰が撮るの」

「へ?そりゃあ、あたしとか、一緒にいる友達でしょ」

「……私以外に撮られたいの?」


彼女は目を丸くして、やがてばつが悪くなってカメラの手入れを始めた私の背中で、くふくふと心底楽しそうに笑い始めた。あまり笑うと私が無言を決め込むことをわかっているから、どうにか笑いを堪えつつ、ぎゅっと白い腕を私の胴体に巻き付けてくる。


「明日夏のわがまま!」

「もう血あげないよ」「えー?」


そんなわけで駄々を捏ねる子供をあやすみたいにして撮影された初めてのツーショットには、顰めっ面の私と満面の笑みを浮かべた蘇枋が、揃いのピアスを着けて写っている。

こんな風にふたりで過ごすとき、溢れるばかりだった杯の雫が、彼女に奪われてちょうど満たされるような心地がするのだ。

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