煙草三本、掌二つ、首一つ
目々
残煙あるいは残像
縄みたいな、蛇みたいな、首輪みたいな。そういう類の──どうしようもないくらいに、疚しく赤い跡でした。
やらしい話かったら、微妙なところですよ。少なくとも俺の中ではそういう仕分けはできませんでしたね。
そもそも聞いてきたの先輩でしょう、俺の前職というかどうしてここに来たんだみたいな──身の上話を聞きたがったの、そっちでしょう。ぶつ切りで話したのは、俺の過失ですけど。一番大事なところというか、決定打だったんですよね。そこから始めないと、俺が何となく納得できない。
そうですね。
そういうものを見たから、仕事もなんもかんも放り出して逃げてきたんですよ。
今の時代で就職先ほっぽってってのは中々でしょう。二年勤める寸前、だったはずです。だからまあ、盛大な不義理ですよね。後始末とか全部ぶん投げてきてしまったんで、実家にも帰ってません。帰れません、って言ったほうが正しいですかね。連絡先は、まだ持ってますけど。ここに履歴書出すときに書いたけど、どうかな……偉い人には内緒にしといてくださいよ、先輩。最もそんなの気にするような会社だったら、最初っから俺みたいなのは取らないでしょうけど。ブラックだからなってのは、まあ。給料出てますし、こうして飲みに来られるくらいならマシな方ですよ。素鼠ぐらいじゃないですかね。こう、暗めの灰色くらいです。Kのみで出せるやつ。
実家どこだったら、結構な田舎ですね。あ、どこってのは──あれですよ、冬がひどくて波が荒いところで、県民揃ってそこそこ貧乏ぐらいの説明でいいですかね。社会の勉強ちゃんとしとけばそこそこ分かる感じですけど、どうですか先輩。別に馬鹿にしてませんよ、普通に確認です。馬鹿にするんならもっと直にやりますって。つうか、仕事上がりに飲みに連れてってくれるような人相手にそんなことしませんよ。奢りなら尚更。でしょ? ……冗談ですよ。ちゃんと折半だって覚えてます。
会社の喫煙所だったんですよ。最初に見たの。
めちゃくちゃ疲れた日で、帰り際に一本吸わないと駅まで歩く気力も持たないな、って具合になってたんですよね。切り替えのタイミングが欲しかったんですよ。上がりの区切りに一本吸って、今日の分の労働については全部忘れよう、みたいな。
先客がね、居たんですよ。
誰かはすぐ分かりました。喫煙所でよく会う先輩で……名前、どうしようかな、そっちも先輩なんですよ。ほら、当時の俺は新入社員だったわけですから。八割くらいは先輩ですよ。あとはほら、名前出すと迷惑がかかるかなって。だから、勘弁してください。先輩じゃない、先輩の話ですから。
で、何だかんだで今日顔見てなかったなって思いながらお疲れさまですって挨拶して、そっちもお疲れさんっていつも通りの返事が返ってきた。
煙草片手にこっち見て笑う先輩の首、一周ぐるりと覆うように、痣がべったり張り付いてました。
普通なら見て見ぬふりするべきだったんでしょうけど、不意だったのと……その、あんまり見事だったんで、無理だったんですよね。先輩それどうしたんですかって、聞いちゃった。万に一つくらいなら、客先で揉めたとかってのもあるかもなって考えもしましたね。そんなの警察沙汰だろったらその通りですけど。動転してたんですよ。
そしたら先輩、煙草咥えたまんまで「朝起きたらついてた」って言ったんです。
昼に何食べたか、みたいなテンションの答えだったんですよね。拍子抜けっていうか、それでいいんだって──ああ、あっけに取られた、っていうのが正しいですね。それで終われるんだ、みたいな。
どう見ても、思い切り手の跡なんですよね。喉の正面に親指揃えて、本気で絞め上げましたみたいな掌の形の痣なんですよ。ぶつけたとか擦ったとかそういう言い訳が利かないくらいに。本当に恨まれて憎まれて執着されて、それで手が出たって具合の痣でしたから。
なのに先輩は何でもないみたいに平然と煙草吸ってる。この人何なんだろうなって思いましたね。気まずいとか通り越して、訳が分からない。いや、仕事以外で親しいわけでもないんで、分からないのが普通ではあるんですけど。ただの職場の同僚で先輩、名前は知ってるけどってぐらいの──あ、煙草の銘柄は知ってましたね。ラークのメンソール。結局その程度の間柄なんですけどね。
先輩、どっちかっていうと色白い方だったんですよね。こう、不健康な方の。日に当たんないから焼けないし血の気とかも足りてないから結果として色が薄くなってるみたいな白さ。
だから余計に首の痣が生々しいっていうか、ああこの人にも血って流れてるんだみたいな感じになってて。先輩も絞めたり刺したりしたらちゃんと赤い血が出るんだろうなみたいなことが、想像できるっていうか。だから余計に動揺した、ってのもあるかもしれません。
普通はそうだろって言われたら、そうなんですけど。なんか……生きた人間っぽさがあんまりない人だったんですよ、先輩。昼食とか食べてるとこも見てますけど、何か、ひと気のないところで腹開けて中身捨ててそうだなとか。さすがに言ったことないですけどね、本人にも、周りにも。
いい人だったんですけどね、本当に。何だろうな、そこは別枠なんですよ。上手く説明ができませんけど。
そうやってぼうっと見てたら、いきなり先輩が俺の片手を掴んで、首に当てたんですよ。
「お前の手の方が大きいな」
痣の上、赤黒い手形に俺の手を重ねてから、そんなことを言ったんですよ。
──当たり前じゃないですか。
手を引き剥がしてから、俺はそれだけどうにか言った、はずです。
先輩、横目で俺を見てからちょっとだけ口の端っこを吊り上げて、それで話は終わりになりました。先輩が先に吸い終わって、お疲れ様って同僚らしい挨拶しながら出ていきました。
俺はその後、もう二本吸いました。吸った気、全然しなかったんで。
その日、夢を見ました。
知らない部屋にいるんですよ。作りからして、どっかの集合住宅だろうなってぐらいしか分からない。マンションっぽいよなとは思ったけど、俺の部屋でも友達の部屋でもない。覚えのない部屋でした。夢なのに、足裏のフローリングの床がやたら冷たかったのを覚えてます。何だろうな、確か冬じゃなかったとは思うんですけどね。
ちょっと怖いくらい物がなくって、ベッドとテーブルにPCぐらいしかない。一人暮らしだろうなってのは見当がついたけど──そうですね、独房みたいな部屋でした。最低限のものしかない、ただぎりぎり死なないために生きていけるような。それくらいに生活の気配がないっていうか、人間の気配がないっていうか。そんな印象がありました。
その何にもない部屋で、床に座り込んで寝てる先輩がいました。
ベッドに寄っかかって、周りに酒の空缶がごろごろ転がってた。飲んでるうちに潰れて寝ました、みたいな。ああ、缶に混じってリモコンが落ちてたな。照明弄れるやつですよ。酔いが回ってどうにか照明だけ落としてそのまま寝たんだ、みたいな納得をしました。
その真っ暗な部屋で、俺は真っ先に先輩の首を確認しました。缶を避けて、息を殺して、冷たいフローリングに跪いて。
痣、嫌になるくらいによく見えました。
室内に満ちた夜の暗さにぼうっと浮かぶ青ざめた喉と、それを取り巻く赤黒い手形。光源なんてぺらぺらのカーテン越しの薄明りしかないのに、それでもはっきり見えるんです。
俺の手、その痣よりも大きいんですよ。昼間に先輩が言った通りに。
だから、上書きしてやろうって思ったんですよね。
酒のせいか生温い首に手を掛けて、喉元の真ん中に親指が来るようにして、ちゃんと痣を俺の手が覆い隠せているのを確認して嬉しくなって、そのまま力を込めようとした──その瞬間に目が覚めました。
アラームが時間通りに鳴ってて、なんとなく腹立たしいのと安心したのとでスマホ放り投げようかと思って布団の上に叩きつけました。八つ当たりにしたって意味がないですよね。小物なんですよ、そういうところから。
安い化繊みたいな肌の感触と、真夏に道端で放っておかれた水たまりみたいな温さが両手に纏わりついてたのが……嫌だったのかどうか、分からないです。だろうなって、妙な納得はありました。
普通に出社して、昼休みに喫煙所で会いました。やっぱり首の痣は変わんなくて。先輩も挨拶してから一瞬だけ目細めて、でもそれ以上何も言わずに煙を吐いて。
つまるところ何事も起きなかったし、変わらなかったんです。当たり前ですよね、ただの痣と、ろくでもない夢を見たってだけのことなんだから。
ただ、目で追ってしまうんですよ。
先輩というか、先輩の首を。日焼けとか全然しないなとか、スーツ着てると意外と分からないものだなとか、痣が──薄れてきてるなとか、油断するとそういうことを考えてしまう。
夢も見るんです。同じ夢を何度も。マンションの独房みたいな部屋で、空缶散らかして酔っ払って寝こけてる先輩がいて、その喉に手を掛ける。でもどうしても絞められなくって、朝が来て、会社に行けばまた先輩は喉に薄くなってく痣を張りつけたままで喫煙所の灰皿の傍で何でもないように煙草吸ってる。
そういう生活を繰り返しているうちの、何回目だったかな、夢の中、だと思うんですよ。いつもみたいに座り込んで目閉じてる先輩に向かい合って、喉を見ながら思ったんです。
──痣、消えるんだよな。
ずっとそのことを考えてたんですよ。今先輩の喉にある痣、俺じゃない、俺より手の小さい誰かがつけた痣は随分薄くなっていってる。暗い部屋の中でただ先輩の生白い首だけがぼんやり光るように見える。それは喜ばしいことだったんですけど、それじゃ困るんですよ。
だって俺が首尾よく先輩の喉を絞めても同じ顛末を辿るわけじゃないですか。それが嫌で。
消えたら、また誰かがつけるかもしれないじゃないですか。先輩の首に、違う手形を。俺がしたみたいに。
それがたまらなく不愉快だったんですよね。
じゃあどうすればそんなことになるのを防げるかってのを、膝をついてた床が温くなるくらいの時間をかけて、考えたんです。
切り落とせばもう痣もつかないなって思い至って、ああその手があったなってめちゃくちゃ嬉しくなった。晴れやかな気分でしたね。数学で引っかかった問題を考えてるうちに、最適な公式を思い出せたみたいな感覚です。
切り落とすんなら刃物だよな、じゃあ探さなきゃなご家庭ったら台所だよなって立ち上がったときに、空缶を蹴ってしまったんですよね。その音がどこまでも響いて──
目、覚めたんですよね。
布団の上に起き上がって、しばらく浮かれてから、吐きました。
だって、全部まともじゃないじゃないですか。やりたいことも分かるし、理屈もまあ分かるけど、それで喜んだら駄目でしょう──まともな人間なら。
でも、嬉しかった。それで、解決策に気づいてしまった。だからもう駄目だなと、結論が出たわけです。俺としては。
先輩を殺したかったわけじゃないんですよ。ただ、誰にもあの首を触らせたくないから、そうするには切り落とすしかないんですよね。で、人間って首を落とすと死んじゃうじゃないですか。仕方ないんですけど、そうなっちゃうじゃないですか、仕組みとして。
その辺全部納得ずくで、自分がろくでもないこと考えてるなってことも分かってて、それでもいいなって思ってしまった。
このままだと俺先輩のこと殺すなって思ったんですよね。そんで、飛んだんです。
土地を、というか先輩から離れてからは夢も見てません。そういうことを考えたりも、一度も。逃げ出してからどうにか寝床と仕事を見つけて、こうして社会人やってるってわけです。
後遺症、みたいなものも一応ありますよ。そこまで物騒なものではないです。メンソールの匂い、駄目になりました。喫煙所入ったときに匂うと、一瞬身構えたりはしますね。ちょっとだけ動悸がするくらい、なんで大したことはないです。
先輩──違いますよ、あんたのことです──メンソール、嫌いだって言ってましたよね。だから俺としては安心してます。勝手な話ですけど。
煙草三本、掌二つ、首一つ 目々 @meme2mason
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます