サイダーと枯れた花束

水神鈴衣菜

花束

 私が好きだったあの人は、いつだったか、死んでしまった。これは、それに立ち会ってすぐの話だ。


 あの日は、すっかり晴れた夏の日だった。

「こういう日はサイダーよねえ」

 あの人はそう言って、二本の瓶を持ってレジへと向かった。私は後ろからついていくだけだ。

 典型的と言われても仕方がないくらいの、『エモい』が詰まった時間、空間だった。青空。夏。蝉。汗。セーラー服。ボロボロの駄菓子屋。赤く『氷』と書かれた看板。瓶に入ったサイダー。そして、ひとりの少女。夏の匂いを嗅いで、私は少しクラクラしそうになった。

「はい、二十円おつりね」

「ありがとうおばちゃん」

 少女──あの人は、にっこりと笑っておつりの二十円と瓶一本を手に取る。

「自分で持ってって」

「……うん」

 私は駄菓子屋の店主さんにぺこりと礼をし、あの人の後ろをついていった。


「ぬるくなってたらやだなあ」

「……飲まないの?」

「今日は海まで行きたいかな」

「……いいね」

 海を見ながらサイダーを飲む。たぶんこれが『エモい』だね。その言葉はついぞ口から出ることは無かった。そんな風に形容するのが惜しいほど、美しい空間に思えたから。

「今日も暑いねえ」

「……汗が、ベタベタするね」

「そうだねえ」

「……うん」

 私たちはいつもこうだった。何もないけれど、一緒にいた。あの人が話して、私が少し返事して。私が少し話して、あの人が返事して。そこには生産性とか、そんな高尚なものは存在しなかった。けれど私にとっては、その時間があまりにも尊かった。

「あー、こんな日に死ねたらな」

「……そうだね」

 そう返事してから、え、という顔をした。死ねたら? 今のは返事をするべきでなかったのではないか。後悔がぐっと顔を出した。

「そうだよねえ」

 けれどあの人の顔は、晴れやかだったのだ。満面の笑顔を青空に向けて、瓶を持った腕をぐっと伸ばしていた。希死念慮などないような、晴れやかな笑顔。屈託のない笑顔。少し、それでもゾッとした。本当に消えてしまいそうで。けれど私は何も言わなかった。もしその気持ちが本当ならば、聞いては不躾だと思ったから。

「サイダー冷えちゃうし、ちょっと急ごっか」

「……わかった」

 私たちは、さして舗装がきちんとされているわけではない、砂埃が立つような道を走った。あの人は私より少し先を走っていた。髪が翻り、スカートが揺れる。私はそれを眩しく思って、直視はしなかった。


「ついたついた」

 その声の反響が鎮まった後に残ったのは、海のさざなみだった。寄せては返し、寄せては返す。その度に白い泡をたて、波は揺れる。

 いつもの流木に座って、私たちはサイダーの瓶を空けた。あの人が先に飲むのが、私たちの間の──というよりは、私の──暗黙の了解だった。くっ、くっ、くっ、と、静かな漣の間に、あの人がサイダーを飲み干す音が入り込む。

「はぁー、おいし……」

 その声はいつも、幸せに溢れていたのだ。

 そしてそのすぐ後、私がサイダーに口を付けるよりも先に、あの人がまた口を開いた。

「私、死のうと思うんだよね」

 ぱち、ぱち。私はゆっくり瞬きを二回した。その後は、また漣と、そして私のサイダーが立てるシュワシュワという音が、ふたりの間を埋めていた。

「……いいと、思うよ」

「ほんと? 止めるかと思った」

「……私がどうこう言う筋合いなんて、ないから」

「ふーん」

 今思うと、あの時にあの人は止めて欲しかったのかもしれない。けれど私には、そんな度胸も、そんなことを叩ける大口も、持ち合わせていなかった。

「あ、そうだ。ちょっと寄り道して帰ろ」

「……、どこに?」

「内緒」

 私は困ったような笑みを浮かべることしかできなかった。サイダーの蓋を閉めた。

「飲まないの?」

「……あとで飲もうかな、って」

 嘘だ。ただあの人の言ったことがショックで、サイダーなんて飲む気にもなれなかった。

「そっか。じゃあちょっと待ってね」

 あの人は少し笑って、瓶に口を付けて一気にサイダーを飲み干した。

「ぷは……、よし」

 あの人はよいしょと立ち上がった。私も勢いをつけて立ち上がって、あの人の後ろをついていった。


 あの人はどんどんと来た道を引き返していった。どこに行くのかと思えば、田んぼのあぜ道の途中でふと立ち止まる。

「あ、あったあった」

 そう言いながらあの人はしゃがんで、地面に手を伸ばす。小さくぷち、という音が聞こえた。

「……何してるの?」

「花を摘んでるんだよ。タンポポとか、ほらあるでしょ」

「……あるけど、なんで?」

「そりゃ、君にあげるんだって」

「……え?」

「思い立ったが吉日ってやつかな? わかんないけど」

 そう言いながら、あの人はタンポポとかシロツメクサを探しては摘み、時折季節外れに咲くナノハナを見てすごいねえと意味もなく声をあげていた。


「よし、このくらいでいいかな」

 そうあの人が言った頃には、太陽と地面の成す角度は四十五度ほどになっていた。少しずつ空が赤を混ぜ始める頃だった。

「最後に、葉っぱで下の方を結んで、完成っと」

 白と黄色、時折ピンクが混じる花束が完成した。

「はい、どうぞ」

「……ありがとう」

 よく見ると、茎の下の方はまだ土で汚れていた。だがまあ、そんなところもあの人らしいと思って、私は満足していた。そしてなにより、好いている人から貰ったものなのだ。愛おしくて、可愛らしくて、仕方がなかった。

「私が死んでも、大事にしてね」

 小さく言って、あの人は私に背を向けた。その言葉を吐いた彼女の表情を見ることは、私には叶わなかった。


 その日はそのまま帰った。分かれ道であの人は手を振って、そうしてそのまま。私はサイダーと花束を持って、あの人は空になったサイダーの瓶を持って。

 そのまま、顔を合わせることは無かった。学校で噂に聞いた話によると、海に身を投げていたらしい。あの後、また海に戻ったのだろうか。

 私はその日の放課後、海に行った。漣は今日も変わらず、静かな空間を満たしている。この海が、あの人が選んだ死に場所だったのだ。この、青に塗れた場所が。

 いつも座っていた流木を見に行った。もしかしたら、あの人が何かを残してくれているかもしれないと思って。けれど、そこには何もなかった。あの人は何も残さなかった。

 そういえば、あのサイダーを買った時の百円を、私は返しただろうか。


 逃げるように家に帰った。机の上に置かれた花束は、少ししなびている。

 私はそれを、あの人が生きた象徴にしたかった。あの人が私にくれたものを、一緒に纏めたかった。だから、サイダーの蓋を開けて、そこに花束を差した。

 それは歪に枯れた花となって、私の机の上を飾っている。

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サイダーと枯れた花束 水神鈴衣菜 @riina

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