阿賀沢 周子

第1話


 暗闇だった。道路沿いの盛り上がった雪は見える。その向こうは平原だ。どこか、子どもの頃よく通った隣家への道に似ている。突然、雪原の向こうが明るくなった。波打った濃厚な七色の光があった。光はゆったりと近づいたり、遠ざかったりした。あたりは少し明るくなったが不安になり、家を目指して走る。走っても走っても、家には着かない。虹のような波もついてくる。

 敦子は眼が覚めた。

「うなされていたぞ」

 肩に夫の達郎の手があった。

「夢を見たの。虹色のきつい光が空にあって、走ったの。怖くて」

「虹って・・・きれいだろ」

「暗い空に、油が流れるような感じ」

「疲れているんだな。眠剤飲むか」

 壁の時計を見ると、3時だった。達郎は明日、出張で台北へ行く。家を朝7時には出なければならなかった。

「ごめんなさい。休みましょう。大丈夫、眠れるわ」

 翌朝、達郎にコーヒーを淹れ、サンドイッチを持たせて送り出した。

 夢で目覚めてから一睡もしていなかった。達郎は間もなく寝息を立てたのでよかったと思いながら、2時間余り、夢の意味を考えあぐねて朝を迎えた。夢で眠れない経験は、40歳にして初めてだった。

 家へ帰れなかった、ということが怖かったのか、闇の中の油のような虹色の光が怖かったのか。

 午後、敦子は出勤した。歩いて5分ばかりのところに、夫の父逸郎が開業している眼科医院があった。敦子はここの薬剤師だった。

午前中は義母の幸子が薬局にいた。

「敦子さん。達郎は無事に発ちましたか」

 幸子が医院の玄関前にある花壇に水遣りをしていた。

「はい。台北へ着いたらメールをくれます」

 敦子は残りの水遣りを引き受けた。半夏生の白い小花がいくつもうつむいて咲いている。花の下の葉は半分白くなり清楚だ。患者の何人かと立ち話をする。昼の休憩時間だが患者はやってくる。午後の診察を早く済ませたいために診察券を受け付けのケースに入れに来るのだ。午後診療は2時からだが、待合室の半分は埋まっていた。


 受付は午後5時までで、診察終了は順調にいって5時30分ごろになる。

「お大事にしてください」

 最後の患者を送り出すと、敦子は義父母に声を掛け、帰り支度をした。

 受付カウンターのカーテンを閉めようとしたとき、待合室のテレビが臨時ニュースを流し始めた。ジャパンエアシャトルの台湾行きが沖縄の近くで消息を絶ったといっている。

 叫び声を挙げたのは、自分だったか、周りの誰かだったか。気が付いた時は逸郎と幸子がそばに立っていた。

「達郎が乗ったのはJASか」

「そうです。9時30分発の桃園国際空港行きです」

「僕が確認するから、ここで待っているように。多分違うだろう」

 義父は冷静だった。はっきりするまでは騒ぐなといわれたような気がして、待合室の椅子に腰掛けた。

「パパは、いつもああよ。優しくなく見えることがあるの」

 幸子は眉間に皺を寄せて敦子にこぼす。敦子はうなずくことも出来ず、テレビの画面を睨んでいた。沖縄近辺でレーダーから消えたのが午後5時過ぎといっている。達郎の便はもっと早いはず。たぶん。

 夢のことが思い起こされた。左右に頭を振る。家へ帰れない夢なんて、縁起でもない。再び頭を振る。油が流れるような虹なんて。冷や汗が額を伝った。

「敦子さん、汗がすごいわよ」

 幸子はニュースには現実味を感じていないようだ。自分のような夢を見ていないからなのか。

「お父さんはまだですか」

 濃厚な虹色が空に浮き立つ。走る自分。不安の原因が分からず走り続ける自分。夢が何度もフラッシュバックする。

 逸郎が来た。 

「消息を絶ったのは、貨物便だそうだ。達郎の便は無事だ」

 敦子は両手で顔を覆った。

「今日はここに泊まっていくといい」

 逸郎の声がする。敦子は頭を振り、そばにあったティッシュで顔の脂汗をふき取り鼻をかんだ。動悸は冷めやらないが、取り乱した自分が恥ずかしく一刻も早くここから出たかった。

「申し訳ありませんでした。お騒がせしてしまって。家へ帰ります」

 幸子が職員玄関まで送ってきた。

「私だったら鬼の居ぬ間に息抜きするわよ。ナーバスにならないで、楽しむといいわ」

 礼を言って医院を出た。寝不足とから騒ぎで疲れ切っていた。夢一つのせいであんなにうろたえた自分が情けない。これから、空の虹をきれいだと思えるだろうか。

 街路樹がサワサワと音立てて揺れる。まだ明るく、夕の木漏れ日が住宅の窓に反射して眩しかった。

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阿賀沢 周子 @asoh

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