第一話 現世は所詮死ぬまで暇つぶし

「うゥっ⁉……えっ?ちょ、マっ⁉」

 混濁した意識の中で目にした光景は、少年を絶望に落とすには十分過ぎた。

「あ……僕、死んだ」

 見渡す限りの――果てしない大空が広がっていた。他には純白の雲海が横たわるのみで、さえぎるものは何一つなかった。

 全身を打ちつける強烈な風を受けながら、物憂ものうげにぼ〜っと虚空をながめる少年は、理由はさておき落下中である事を理解した。

 しかし、絶対絶命の窮地きゅうちにも関わらず、顔色を一つも変えない少年は、一つの疑問に取りかれていた。

「ん〜……それはそれとして、なんだ空?いやだがしかし何にせよ、ずは現状把握だ」

 サラッと思考を切り替えた少年は、使えそうな物はないかと身体をまさぐり出した。

 長くない程度の黒髪、やや小柄な体格でシャツにズボンといった普通の装いで、靴下と靴も何の変哲もない格好だった。

 ポケットの中も何も入っておらず、何ともまあ期待外れな結果となった。

「どうやら自力で飛んで来た訳では無さそうだが、ならば誰かに落とされた?どこに?なぜ?何をしたら僕はここに……ん?ぼく?俺?わたくし?待て待て待てよ!これは……誰だ?」

 動揺で震える指先で顔を執拗しつように触っても、馴染なじみ深さなんて微塵みじんもなく、まるで違和感の塊でしかなかった。

 その時初めて、限界近くまで張り詰められた恐怖が、心の奥に忍び込み深々と刻まれた。

 少年は、自身の記憶までもが完全に欠落していたのである。

「ははっ、笑えねェ……一体全体、何がどうなっているんだぁああああああッ⁉」

 心許こころもとない絶叫は、大空の前ではむなしく響きもしなかった。しかし、乱雑ながらも鬱憤うっぷんを吐き出したおかげで、少年は完全なる諦観ていかんにあと一歩の所で踏み止まった。

「すぅ~~……はぁ〜~~~っ……。んん。こりゃダメだ。こういう時は自分会議だ。まず僕は死ぬ!こんな高所から落下して生き延びられる訳がない。ならば、自分が誰でも関係無い。死ぬまでの僅かな時を楽しく過ごせば良くないか?……異議無し!そう思うと、この状況はむしろ好都合じゃね?スカイダイビングって、一度やってみたかったんだ!」

 決してあらがえぬ死を前に、少年は希望を掲げ、清々しいまでに開き直った。

 少年は両手を翼のように広げて限界まで息を吸い込み、大きく口を開ききる。

「うぅおおおおおおおおおおおおぁぁああああああアアアアアアァァァァ〜〜〜〜ッ!」

 はばかりない大絶叫、蒼穹そうきゅうを裂く爽快感に酔いしれて、少年の胸中はとめどない興奮が満ち溢れ、笑いが止まらなかった。

「なんて爽快感っ!鳥になった気分だ!これは面白い!暇つぶしにはもってこいだっ!」

 全身で落下を楽しむ最中、地表すら見えない蒼の世界に僅かな濃淡が現れたと思いきや、急に少年の視界が白一色に覆われてしまった。

「ぶぅっ、くっ、雲!?いきなり!?上から見えなかったぞ!?急に薄っぺらい雲が次々と……。もしかしてだが、濃度かなんかで空間が歪んでいるのか?空気の地層みたいなものか?……次の瞬間に死んでも不思議じゃ無いな」

 額に滲んだ汗が一瞬で離脱して、ゆっくり降下しているかのような錯覚をしていた少年は、カッと目を見開いた。

 またもや景色が一転したのだ。

 薄く伸びた白い境界を早々に通り抜けて次に突如として現れたのは、山をも一飲みにできそうな入道雲だった。

「おぉ!?また景色が変わった!?ちょいとちょいと見なさいな、あれ!でっっかい雲だなぁ〜!……誰しも一度は思うはず、あの中に飛び込んでみたいとっ!」

 好奇心がニヤつき始めるや否や、身体を雲塊の方に傾けた少年は、何の躊躇ちゅうちょ遠慮えんりょなく巨大な入道雲の中へ飛び込んだ。

 突入した瞬間、全身汗だくで冷房を効かせた部屋に入るような急激な温度変化が身体の隅々にまで澄み渡った。

「うぉ〜涼しい~!白くて何もない!霧と同じだからな!」

 雲の内部は薄暗かった。分厚い雲で日光も遮られ、速度も方向も定かではなかった。前に進めば進む程、退路が遠ざかっていくことも知らずに。

 ――だが、今が楽しければそれで良い!

 空中一回転や側転、変なポージングを決めて空遊びを満喫する少年は、景色が変わらないために得られる特別な浮遊感を目一杯めいっぱい楽しんだ。

 ――不意に、寒気がした。

 鳥肌が次第しだいに立ち始め、身震いと全身に突き刺さるような痛みが襲いかかり始めた。

「あえ?ちょっ、なんか寒すぎじゃね?それになんだか皮膚が白い……って、凍ってるゥ!?冷たっ!?いやもう痛い!イタタタタッ!?ちょっヤバ、出口ィ!デグチミィ〜!!」

 少年の身体が急に凍りついた原因は、雲に滞留たいりゅうする水蒸気の粒が体表面に付着した衝撃で、瞬く間に水から氷に変化した為である。

 まばたきと呼吸が痛いッ!このままじゃ氷漬け、間近まじかっ!?

 満遍まんべんなく霜が降りた身体の異変に狼狽ろうばいする少年は、血眼になって雲の外を追い求めるが、白い迷宮はひたすら同じ光景を繰り返すのみだった。

 指先の痛みが徐々に失われていく。唇がひび割れてまぶたが開けなくなるほど、更なる冷気が痛烈に襲いかかる。

 時間が経つに連れてみるみる悪化する状況に、いよいよ凍死が視野に入り始めた矢先、ほのかな光明が映し出された。

「あァッちだァ!?光りダーッシュ!」

 歯をガチガチと鳴らして、もう二度と雲の中には入らないと誓いを立てた少年は、勇猛果敢に明度の強い方に舵を切った。

 はやる気持ちが、体を前へ前へと突き出させる。

 脈動が止まる瀬戸際に見た微かな希望は薄暗かった白霧を一転させ、晴れやかな暖かさに包まれた。

「デレたぁ〜っ!くぅ〜このみ入る暖かさはまさに氷解!いやぁ〜動けなくなってマジ焦った〜。一時はどうなることかと思ったよぉ〜!でも全身の氷が溶けていく感覚は意外と悪く、く……黒い?」

 白い巨城からやっとのことで抜け出せた少年は、燦然さんぜんと輝く太陽に、ほんの小さな違和感を見た。

 ほくろのような黒い点がはっきりと目に映ったのだ。

 それは見る見るうちに大きくなって、人よりも、いや家よりも、いやもっと遥かに大きな塊となって陽光を完全に遮り、一直線に向かってきた。

 ――上ッ!

 突如の声に反射で動いた少年は、上着を裏返して空気抵抗を大きくして減速した。

 直後、直下を何かが過ぎる一瞬の刹那せつな――幸か不幸か、少年は異様の正体を忘れていなかった。

 強靭きょうじんな羽根が生えそろう白銀の翼、猛々たけだけしき黄金のくちばし、生命を断つ凶爪きょうそう威厳いげんに満ちた凛々りりしい頭部、刃物を思わせる気高けだかき眼光、そして視界に入りきらない超巨大な姿――

「――モウッキンッ⁉太陽から奇襲って頭良いなっ⁉てか今のは誰!?何!?」

 堂々たる空の王の威風は、先程とは比較にならない程の脅威だった。

 目にも止まらぬ速さを誇る猛禽もうきんの何より特筆すべき点は大きさだった。常軌じょうき凌駕りょうがして余りある規格外で、体高が目算で約五十メートル、翼長に至っては百メートル超えの化け物であった。

 入道雲の中を悠々と飛び回る巨躯の瞳が、標的の矮躯わいくを明確に捉えた時、殺気を向けられた死の恐怖が、少年の総身を震わせる。

「いやちょ待てェっ!鳥葬ちょうそうなんてむごくて痛いの死んでも嫌だ!是が非でも落ちておっ死ぬぞぉッ!」

 無意識のうちにこびりついた独自の価値観がそうさせるのか、少年の運命に抗う意志が目の前に迫る結末を断じて許せず、生きようとする力がみなぎってきた。

 方針転換した少年は、手足を密着させて流線型を作り、捕食者から全速力の逃避行を開始した。

 しかし、羽ばたき一つで速やかに巨躯をひるがえして追いついた猛獣は、追撃するかと思いきや、不気味にこちらの動向をうかがっていた。

 喉元に突きつけられた凝視の鋭さは、彼の捕食者としての有能さと堅実な用心深さを物語っていた。

 自力とんずらは不可能だ!

 相手の知能の高さを見てそう判断した少年は、わらにもすがる思いで、口を開いた。

「だ、誰だか存じ上げませんがありがとうございますっ!大変恐縮ではございますが、できればアレを何とかして欲しいのですが如何いかがございますでしょうかァアッ⁉」

 千載一遇せんざいいちぐうのいとまに、正体不明の声に向かっていとまごいと命乞いを慣行するが――風を切る轟音だけで――ついに返事はなかった。

「ん?……アレェ⁉空耳ですか?空だけにィ⁉そらぁねェだろ!空空そらそらしい!ホントは聞いてるんでしょ?」

 軽口に混じる僅かな動揺を見透かしたのか、相対する猛禽の目の色が一変した。

 何もなかった虚空に円状の虹が輪を広げながら出現するや否や、鳥の身体にまるで鎧のようにまとわり付いた。

「はっ?……虹を……まとっ――ッ」

 理解の及ばぬ現象に思考回路を奪われた、瞬間、ほとばしる殺意が爆発的に増大した。

 ――左ッ!

 聞き終わるより先に少年は背骨をへし折る勢いで大きくのけぞり、指示された方へ僅かに移動した。

 目と鼻の先を何かが通り過ぎた後、空気を弾く激烈な爆発音が後から駆け抜けた。

「マ?……ハァ〜ッ!?無理無理ムリムリッ!?これ死んだわっ!あの虹、反則じゃねっ⁉」

 音を置き去りにした怪鳥は、遠方で大きく旋回しながら、虹の帯をミサイルのように何十発も放ってきた。

 更なる追撃としていくつもの曲線を描いて飛んでくる虹の道の幻想的な光景が、檻のように少年を囲い込んだ。

 退路を立たれた獲物の瞳に、色鮮やかな七色の光が差し込んで煌めいた。

「ぅわきれぃ……万華鏡に閉じ込められたみたいだぁ〜」

 ――馬鹿言ってないで一度きりよ、よくお聞き。

 無邪気な感想を打ちのめす無粋な突っ込みで、少年は目が覚めた。

「あ、ごめん!物覚えは良い方だ。すぅ〜〜〜〜っ……どうぞ!」

 少年は息をゆっくり吸い込んで集中しながら、指示を待つが――

 ――右から見て左からの右下の後ろの前の回れ右斜め左上の右よ!

「何言ってだァこいつはァッ⁉全然分かんねェッ!?」

 無茶苦茶過ぎる難題を投げつけられた少年は、それでも遂行を目指したばかりに、珍妙で滑稽こっけいな動きをさらした。

 だが小癪こしゃくな陽動を歯牙にも掛けない頂点捕食者は、瞬時に間合いを詰めて鋭爪を寸前まで向けていた。鷲掴みにされれば原型も留められないだろう。

 あ〜ぁ、せめて落下死が良かったなぁ〜。ってか、あの声は誰だったんだ?

 気の抜けた感想を呟く少年は、直後、強い衝撃が全身に伝わり視界も暗転、死の訪れをいさぎよく迎え入れた。

 ――……あれ?と、しばらくして疑問を抱いた。

 ――いまァッ!

「え?あ……今だあッ!」

 切迫せっぱくした叫びにうながされて開眼すると、羽根が何本も抜け落ちる乱暴な飛び方をして、猛禽が遥か遠くで旋回していた。

 訳が分からないが兎にも角にも少年は脱兎だっとの如く急降下、その間に様々な思いが脳内で錯綜さくそうした。

 ――逃げた?何で?何が起き、いやず逃げるっ!あの速さ相手に距離は意味が無い!せめてフィールドだけは変えなきゃ勝負にならん!鳥がいる以上、足場があり獲物がいる。つまりこの下には必ず――

 髪を逆立たせた少年は、ついに雲海の層をくぐり抜け、下一面に生い茂る緑を見た。

 形状から普通の森だと安堵あんどしたのも束の間、接近するにつれて違和感が増大しにじり寄って来た。

「でっ、デっカァ!デカいぞ!デカ過ぎる⁉️何がどうしてこうなったァ!?……ふふっ、はははっ笑えないなァ!ここでは奴も標準サイズかァ!?」

 枝先にポツポツとみのる新芽が数メートル、平べったく広がる葉は屋根かと見紛みまごう大型看板のようで、樹幹じゅかんは断崖絶壁、高さに至っては高層ビルも真っ青の一キロメートル超えがずらりと並んだ超巨大な原生林だった。

 そんな桁外れのスケールを誇る巨大樹が鬱蒼うっそうと横たわる様を尻目に、少年は上からの圧を察知して空を見下した。

「そりゃ追ってくるよな、だが今の僕には頼りになる助勢じょせいがいるんだ!先生ィ、次はどうすれば⁉️……あれ?先生?先生ィ!?またですかァ⁉️まさかこれを自力で逃れろってェ!?いやはや全く、仕方ないなァ!」

 少年の活路はただ一つ、木々の隙間を掻い潜り逃げ切ること――

 絶望的な状況を前にして笑みを浮かべた少年はついに空を脱して、命が燃え立つ樹海の深部に飛び込んだ。

 横に広がりを見せる大きな葉がいかに柔かく平べったいとしても、自由落下の速度で激突すれば衝撃はすさまじいものだろう。

「おっ!うお!?ぬぉおおおおっ!!!!」

 度重なる死を紙一重で避ける至難の業の応酬。風に揺れる葉の動きを先読みして、曲がりくねった枝先を見据えて軌道修正を行いながら、少年は必死で抜けていく。

 秒単位の修羅場の度に痛い程の鼓動を刻みながら、新緑の群勢を掻い潜る。

 当初の目的であったはずの落下死も、既に少年の頭から抜け落ちていた。

 むわっとした暖かさに迎え入れられて、気温に変化が見られた。いよいよ舞台は地上に到達しようという時だった。

 雲とは異なる白い何かが、突発的に立ちはだかる。

 あまりに一瞬で何もできなかった少年は死を認識した。

 直後、ぽふんっ、としたトランポリンでねたような感覚に襲われた。

 高速回転する体のせいで、上下左右が分からなくなってしまったが、少年は必死で手足を伸ばすと、みょんとしたしなる感触、きめ細やかな羽毛に似た棒状の束、そして白い物体の下に一本の糸が伸び、先端に塊がくっついているのが見えた途端――それが綿毛だと気付いた。

「掴め!」

 ガッチリ掴んだ少年は、巨大綿毛を引き寄せて抱きついた。

 人が落ちても跳ね返す程に大きく柔らかな綿毛達は、一気に落下の勢いを殺してくれただけでなく、隠れ家にもなった。

 このまま遅れてやってくる猛禽をやり過ごす――なんてことはなかった。

 立ち塞がる枝葉を物ともせずにぶち撒けながら急降下する猛禽は通り過ぎ様に眼球だけがスッと動いて、少年をしかと見咎みとがめた。

 ギュッと心を掴まれた少年は、緊迫きんぱくした様子で次々と別の綿毛へ飛び移る。

 対する剛翼のひと振りで最速の転回を見せた猛禽は、再び帯状の虹を複数飛ばしながら、音速を超えた勢いで突進する。

――交差する死線と眼差し。少年は腕を回して、揚力を得る為に広げられた綿毛を全て折りたたんだ。

――間一髪ッ!重力に従って急速落下する綿毛のおかげで、辛くも強襲を回避した!

 必殺の突進を避けられた猛禽は、勢い余って巨木に真正面から激突した!

 大質量同士の衝突は凄まじく、家より大きな木片が四方八方へ飛び散り、巨木に深く亀裂が走る様が見てとれた。強大な衝撃波で周囲の空気が震撼しんかんし、いで、耳をつんざく鋭い大爆音をとどろかせた。

 煙が轟々ごうごうとうねり、樹皮が空中で漂い、破片が降り注ぐ現場は、物々しい破壊の痕跡を残すのみで、あの猛禽は、ついに姿が確認できない程の奥までめり込んだようだ。

 突然の急展開に茫然自失、脱力のあまり綿毛の束が再び解き放たれて開花した。

 一拍いっぱくおいて、ようやく憔悴しょうすいした精神が我を取り戻し始めた。

「えェ……あっ――これぞ飛ぶ鳥を落とす勢いだァ!どうだ思い知ったか!僕の実力、ひとことで言うなら……マアジィ!?」

 まさに油断大敵。反対側の木の内部からメキメキと割れる木の悲鳴が届いた数秒後、爆発したように破裂した。

 噴出する粉塵の中をドリル状の虹のベールを被った猛禽が、側転しながらえぐり抜いて飛び出してきた。

 終わった。そう諦観せざるを得なかった。

 あそこまで変幻自在に操れるとは想定外だった。

 壮大なる勇姿と絶大なる力を誇示しながら執拗しつように迫る猛禽を、しかし、壮麗な虹をまとう比類なき美しさに羨望が小さく募る。

 でも、ま、こんな美しくてかっこいいのに殺されるなら、悪く無い。

 万策尽き果てた彼は大人しく、潔く、運命を享受きょうじゅする気になった。

 しかし、熾烈しれつな加速で距離を殺した猛禽は、少年へあと一歩の所で急浮上した。鋭利な爪で綿毛をかすめ取っただけで、獲物をみすみす逃す愚行を犯した。

 一秒にも満たない少年の動揺は、その後直ぐに吹き飛んだ。

「ガッ――ハぁっ……⁉」

 雷に打たれたかのような、全身が砕けたとさえ思わせる衝撃が痛烈に天と地を交互に回転させる。

 小さな体は、水切りのように地面を跳ね回り、背中が急激に焼けた様に高熱を帯びる。

 泣けなしの空気抵抗が慣性を奪い、重力と摩擦が膨大な運動エネルギーをこそぎ落として削いでいく。

 やがて減速し尽くして、はるか空の彼方から落下した少年は、平らな場所で這いつくばった。

「痛ッ、てェッ、セっ、何がッ!?」

 周りでは石つぶてが落ちて転がる音に埋もれながら、何とか動く両の手で這いずり、死に体ながらも辺りを確認する少年。

 ぼやけた視界には、無色透明な地面に紫色の石柱の残骸が散らばっていた。

 ――鉱物とぶつかった!?のに!?なぜ生きてる⁉️おいおい、前提をくつがえすなよ!なんで死ななっ、いや違うぞまだ終わってない!鳥葬が残ってるッ!

 疑問は色々に多々あるが、一切を忘れて猛禽の痕跡を探すも、影も形も無く羽ばたく音すら聞こえなかった。

 風に揺れる葉擦れの音が頭上を満たして、部外者の浅はかをせせら笑う。

 状況が指し示す重く苦々しい解答に、少年は臓腑ぞうふねじり返る心地だった。

 ことここに至り、奴にとって森の中も独壇場どくだんじょうであると気づいた時には、遅かった。

 背後にそびえ立つ大木から回り込み、死角から凶爪を繰り出してきた。

 ――尽きた。空では落下速度を頼りにからくも逃れられたが、地に落ちた人間にはどうする事もできない。

 死を目前にいよいよ立ちすくむ事しかできない少年は、乾ききった苦笑を漏らした。

 ――現世うつしよは、所詮しょせん死ぬまで暇つぶし。目的は達成された。もう十分なはずだ許せるはずだ。後悔だってない……僅かながらも楽しく笑っていられたはずだ、なのに……。

 どうしてこんなに、悔しいんだろう――

    ――

      ――

        ――そらが落ちてきた

 視界を埋め尽くす夜空の星々が、激流の如き荒々しさで通り過ぎる。

 漆黒の天の川は、妖艶ようえんな輝きを魅せたのも束の間、夜が明ける時の闇のように、照り透かされて消え去った。

 風が吹く。

 空を覆っていた木々の枝葉が、バクンと一口で喰われたように無くなっていた。

 辺りはおごそかな静寂せいじゃくに包まれて、あの凶暴な猛禽の音も姿すらも、影も形もない。

 後に残るのは、解放された大気中にただよう微細な光の粒子がまるで粉雪が舞い落ちるような幻想的な痕跡こんせき

 夜空がこぼした涙の清廉せいれんさは、まるで白昼夢はくちゅうむを見ているかのようで、少年は事切れたように腰を抜かした。

 これは夢か?うつつか?幻か?……今までの全てが虚構だったのか?

 ふと、少年は自身の周りだけ不自然な暗がりで満ちている事に気が付いた。

 光を遮るは、ひとりの人影。唐突に現れた暗闇は、やがて少年に重なり合うようにしてだんだんと小さく、黒々くろぐろと濃さを増していく。

 何かが近づいてくる……。

 確信を抱いた少年がこびりつく恐怖を無視して振り返り、顔を見上げて――少年は見た。

 燦然さんぜんと輝く純白の光球と、それをたたえる七色の光輪が後光のように煌煌きらきらしい壮麗な神秘を。

 高度を下げながら太陽に相似そうじする光がほのかにしずまり、円形の虹の輪の揺らめきから、正体をおごそかに覗かせた。

 すらっとした足先、そこから伸びる白い脚、透明感のあるみやびな衣装に包まれた柔らかな体躯と細腰に、うるわしき指先がはかなげに現れる。

 凛とした端正な顔立ち、水晶のような絢爛けんらんな耳飾りが小さく揺れ――絹糸きぬいとのようにしなやかな金色の前髪がふわりと浮かび上がり、氷のように透き通った青い左目と、いびつなほど奇妙でいて、とても清澄せいちょうな、虹色を帯びた右の瞳と目が合った。


 ドクンッ――


 鳴いた心。

 目に映る情景以外のことごとくが消失し、赤熱を帯びて脈動する血潮が、凍てつく身体を麻痺させていく。およそ言葉で表現しきれぬ暴威に少年は襲われた。

 まるで一瞬を永遠にまで引き伸ばされる感覚、または、全ての因果律が集約して丸く閉じていく狭心感が全身を駆け抜けた。

「な……ぁ……」

 ――なんて、美しい。

 瞬きも呼吸も我をも忘れてさえ見開いた眼は閉じられず、雷に打たれたような衝撃で脳裏を焼き焦がし、痙攣けいれんした肺からはかすれた声しか零れない。

 激震する感情に揉まれながら、飛んでもない浮遊感に襲われながら少年は思った。

 これが、心を奪われる瞬間なのかと。

 しなやかな髪をなびかせた麗人れいじんの乙女が無駄のない静かな着地を決めた。

 重力を取り戻した髪のすだれに右目を隠した彼女は、見惚れる少年の方へと近づき、目の前まで来ると清らかな手を差し伸べてきた。

 少年は驚きを隠せなかった。

「え、あ……」

 考えるより先に、手を伸ばしていた事に。

 風がいだ。

 芳醇ほうじゅんな花の香りが届く距離を詰めながら、彼女のきめ細やかな柔肌に触れた、同時にブツっと鈍い音がした。

 彼女の手首に巻かれていたミサンガのような紐が、千切れて地に落ちたのだ。

 彼女が刹那の内に驚嘆する様子を見逃さなかった少年は、サッと手を離そうとした。

 がしかし、彼女が痛むまで強く握りしめたせいで、それは不可能だった。

「うわっ⁉」

 さらに強引に引き寄せられた。

 されるがままの少年に、彼女は遠慮なくかなりの至近距離で顔を覗き込んだ。

 呼吸すれば息がかかり、少し傾けば顔のどこかが触れてしまえるまでともなると、流石に鼓動が高まった。

 近くで見ると、ことさら彼女は美しかった。端麗たんれいな顔立ちに、シミひとつない肌、黄金に比類する長髪、絢爛な装飾品に勝る凛々しい佇まい。そして何より曇り一つ無い澄み切った眼差しは一番星みたく綺麗だった。

 もし彼女が陽だまりのような優しい笑顔で微笑むなら、きっと周囲の人に幸せを与えるに違いない。

 その可憐かれん美貌びぼうに没頭していた少年は、それはもう完全に油断していた。

 ペロリ――

「ひゃあ⁉な、なな、なななっ⁉」

 跳ねるように飛び上がり、勢いそのまま後ろに下がるが、背中に硬い木がぶつかった。

 生暖かい湿り気を左頬に感じて、即座に彼女に舐められたと理解した。

 なおも彼女は表情一つ変えずに、じりじりと距離を詰めてくる。

 退路を失った少年は、次は何をされるかと思い胸が張り裂けて、緊張が限界を超過ちょうかする。

 冷や汗を浮かべて渇きを覚えながらも、少年は全神経を総動員して身構えた。

 そして彼女の口が小さく動くのを見た。


「あなたが…………殺してくれるの……?」


 ――空気が死んだ


 透き通るような素朴そぼくな声で――しかしあまりにも唐突だった。

 まるで意味が解らず、混迷を極め過ぎた結果、無反応を示した少年。

 その反応に対し、彼女は無表情のまま一旦後ろへ退がり、そしてきびすを返して振り返る事なく、颯爽さっそうとその場から立ち去ってしまった。

 空気が再び息を吹き返すのに数十秒も要した。

 苛烈かれつな印象だけ残して遠ざかる華奢きゃしゃな背中を眺めながら、少年はひんやりとする頬を指でなぞる。

「ふ……不可解、極まれり……何がどうしてこうなった?」

 溜め息混じりに呟きながら、何はともあれ追うしか無いと自解じかいした少年は、仕方なしにと、自身の足で第一歩を踏み出した。

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