憧憬の記憶
サトウ・レン
憧れの彼女は、ふたたび
はじめて見た時、「彼女」は桜並木の中にいた。
年齢が大きく上に離れたそのひとを、彼女、と呼ぶにはためらいもあるけれど、その年齢を大きくこえてしまった僕がそのひとを、彼女、と呼んだとしても、誰も違和感は覚えないはずだ。
彼女と出会った時、僕はまだ小学生だった。特別な出会いではなく、ただ彼女は僕たちのクラスの担任で、正門前にいた彼女は同僚の先生と話していた。彼女のそばで一枚の花びらが舞って、ゆるやかに落ちていく、その薄紅色がやけに記憶に残っている。
確か僕は四年生で、一緒に通う友達もいなくて、ひとりで通学路を歩いていた。目が合った時、彼女が薄くほほ笑んだのを覚えている。
はじめて恋を自覚した日を、初恋、と呼ぶのならば、あれこそが間違いなく、僕の初恋だった。
彼女はその年、僕たちの通っていた学校に赴任してきて、年齢はまだ二十代なかばだったはずだ。
「僕が大人になったら、結婚してください」
そう僕が告げたのはいつのことだったか、あまり記憶は定かではないけれど、彼女と出会ってから、すくなくとも三ヶ月は経っていたはずだ。言おう言おう、と思いながら、いつまでも伝えられずにいたことに、焦りを覚えていた記憶があるからだ。
僕の通っていた小学校には、ピロティ型の駐車場があり、学校から帰ろうとする彼女を呼び止めたのだ。どうしたの、と笑みを浮かべる彼女の髪が風で揺れていた。長く、黒い髪は彼女のトレードマークだった。
この世界が、家族と近所と学校だけしかなかった世間知らずの少年の、馬鹿げた一世一代の告白を、彼女はどう思ったのだろうか。その本心までは分からない。もしも叶うならば、彼女に聞いてみたい。いまの僕に聞くすべはないのだけれど。
ただその本心はどうあれ、あの時、彼女は決して馬鹿にしたような表情を浮かべず、
「大人になっても、私が残っていて。きみがまだ、私を好きだったら、ね」
と、ほほ笑んでくれたのを覚えている。残っていても、という部分を言葉にした時だけ、彼女はすこし寂しげだった。理由を知るのは後になってからで、この時の僕は多少の違和感は覚えていても、彼女の答えが嬉しくて、浮かれているだけだったのだ。
彼女が、僕の通っていた小学校で、先生をしていた時間は短い。
僕が卒業する前には、もう辞めてしまっていた。心の調子を崩した、と聞いている。
『あのひと、本当、すぐひとを好きになるね。他愛もないことを運命だって、勘違いしちゃうのかもしれないね。それは良いことでもあるけど、悪いことでもあるんだ、と思う。あぁいや、悪いことに転がるほうが多いか』
こんな言葉を誰かが言っていた。誰かが彼女に向けた言葉だ。母だったかもしれないし、同僚の先生だったかもしれない。もう誰かなんて覚えてないけれど、彼女について流れた噂を聞き、嫌な感情を吐き出すような言葉だったことだけは覚えている。
本人としてはひたむきに、自分の想いにストレートだったとしても、他人からはいびつにしか映らないことがある。パートナーのいる同僚教師や児童の父親との恋は、本人がどれだけそこに「純愛」を見出そうと、周囲が「純愛」として理解してくれることはない。あったとしても稀だ。
男を破滅へと導く魔性の女、ファム・ファタール。当時は知らなかったその言葉をはじめて聞いたのは、僕が高校生の時だ。当時、同級生の恋人がいて、文芸部だった彼女が一冊の小説をすすめてくれたのだ。フランスの古典小説で、タイトルはもう忘れてしまった。「こんな都合の良いヒロイン、物語の中にしか存在しないよ」とその子は鼻で笑っていたが、僕はその小説を読みながら、彼女の姿を思い浮かべていた。
小学生のあの時、僕が彼女に告白したあの時にはもう、破滅のカウントダウンはゆるやかにはじまっていたのかもしれない。
実はその高校時代、僕は一度、彼女と再会している。彼女はもう教師ではなく、派手な格好をしていた。いや僕が知らなかっただけで、当時からプライベートではそんな格好を好んでいたのかもしれない。とりあえず事実と言えることがあるとすれば、その変貌に驚いてしまった、という僕の心だけだ。
「久し振りだね」
街で目が合った時、先に気付いたのは、彼女のほうだった。僕のほうが子どもの頃から成長する過程で、大きく見た目が変わっていたはずなのに。嬉しそうに近寄って来た彼女からは、あまいにおいがした。
「久し振りです」
「大きくなったね」
「もう小学生じゃないですから」
「格好よくなったね」
その口調には、でも、まだ僕を小学生扱いする色があった。
「いまは何をしてるんですか」
「んっ? フラフラしてるかな」
何の仕事をしているか、彼女は答えてくれなかった。それからすこしだけ話をして、その中で、あの日の告白の話題が出た。話を振ったのは僕からではなく、彼女のほうからだった。
「そう言えばむかし、私に告白してくれたよね」
「あぁ、そうでした、っけ」
もちろん忘れるわけなどなく、振りをしただけだ。
「あれ、そっちからしておいて忘れるんだ。『僕が大人になったら、結婚してください』なんて言ってたのに。私、期待してたのになぁ」
「何を……」
冗談めかして彼女は言ったが、本当に冗談なのかどうか、僕には分からない。他のひとだったら冗談と決め付けていたと思うけれど、彼女だったらもしかしたら、という気持ちがあったからだ。
「ちなみに高校生はさすがに、大人って呼ぶには幼すぎる、って感じかな。じゃあまた次に会う時、だね。何年後かな」
僕が生前の彼女と交わした最後の会話だ。
別れ際、僕は遠ざかっていく彼女の背中をぼんやりと眺めていた。もしもあの時、呼び止めていたなら、また違った結末を迎えていたのだろうか。そう思ってしまうことはあるが、結局どれだけ頭を悩ませようと、それは無意味な仮定にしかならない。
小学校の先生になろう、と僕が考えたのは、大学に入っていたからだ。彼女と同じ道を進もう、という気持ちから目指したわけではなく、偶然だ。同じゼミに、先生を目指している友人がいて、なんとなく、いいな、と思っただけで。ただ彼女の存在がなかったら、目指していなかった気もする。
彼女が死んだことを聞かされたのは、そんな大学時代の話だ。
地元から離れて暮らす僕のもとに一本の連絡があり、それは小学校から高校まで一緒の学校に通っていた数少ない友人からだった。大学は夏季休暇で、蝉時雨が降っていた。小学校の頃の仲の良かったメンバーで集まらないか、という誘いで、何人かの名前を挙げる彼の言葉を聞きながら、僕は乗り気ではなかった。彼とは仲が良かったものの、それ以外で仲の良い同級生なんて、ほとんど思い出せないくらい、彼以外の彼らとの関係性が薄かったからだ。だけど断れなかったのは、彼の頼みだったからだ。
僕たちが集まったのは、地元のちいさな居酒屋で、小学生時代の同級生と酒を飲んでいる状況、というのはどこか不思議な感覚がある。ホッケの塩焼きが美味しかったは美味しかったのだが、かなりくどかったのを覚えている。
「なぁ、あの先生、覚えてる?」
と誰かが言いはじめたのだ。あの先生、とは彼女のことだ。そして誰かが返すように、覚えてるけど、と言うと、その誰かが、
「死んだんだ、って。たぶん事故らしいよ」
その口調がやけに軽かったのを覚えている。酒に酔っていたのもあるのかもしれないが、それ以上に、長く会っていない他人の死なんて、そんなものかもしれないな、と思った。
「たぶん、って?」
僕は思わず聞き返してしまった。
「あぁ、なんでも自殺の可能性もあるとか、なんとか。まぁ噂なんだけど」
僕はそれ以上、深くは聞けなかった。追及して、変な目で見られるのも嫌だったからだ。僕はホッケを食べることに集中する振りをした。その話を聞いてから、ホッケの味はさらに、くどく感じた。
『じゃあまた次に会う時、だね。何年後かな』
あの時の言葉が脳内にリフレインする。おそらく僕は彼女の死と何も関係がないはずなのに、どこかで繋げて考えてしまっている。
居酒屋からの帰り道、僕は集まりに誘ってくれた彼とふたりで、夜道を歩いていた。もしかしたら彼は、僕の表情から何かを察していたのかもしれない。「さっきの先生の話だけど……俺、あんまり、あの先生、好きじゃなかったんだ」と言い出した。
「えっ」
「ほら、永川、覚えてる? 俺たちと小学も中学も一緒だった」
「えぇっと、たぶん」
「本当にお前、クラスメートの名前、覚えないよな。ほら、ちょっと口うるさかった、女子の」
「あぁ、うん。思い出した。大丈夫」
「あいつの親父と、さ。あの先生、不倫してたんだよ。俺、子どもの頃、母親とショッピングモールに行った時、偶然見ちゃってさ。ふたりが楽しそうに買い物してるところ。子どもながらに、無神経だし、もうちょっと隠れてやれよ、って思ったんだ。結局、ばれて大変なことになってたみたいだし……」
その不倫の話は僕の耳にもすこし入ってきていた。彼女が学校を辞める何か月か前の話だったはずだ。結構大きなトラブルになった、という噂話を、母が楽しそうにしていたからだ。
「そんな話、あったね」
「お前さ」
「何?」
「あのひとのこと好きだっただろ?」
「覚えてないよ、そんなむかしのこと」
と僕が嘘をつくと、
「俺に嘘が通用すると思うなよ」と彼が笑って、「まぁ俺が言いたいのは、あのひとが死んだことを、もう何の関わりもないひとなんだから」と続けた。
彼は周囲のひとのことをよく見ているし、はっきりと言葉にする。そこが彼の良いところでもあり、僕にそれなりにダメージを与えてくるところでもある。
そんな彼女の死と彼の言葉に痛みを感じた五年後、僕は母校の先生になった。最初は別の学校だったのだが、僕自身が強く希望したわけではなく、偶然に偶然が重なり、自らが何度も通った学び舎で教える立場になってしまったのだ。
それから何年の月日が経っただろうか。僕の髪には白が混じるようになり、気付けば、彼女の年齢を抜いてしまっていた。
妻も子どももできた。妻の顔は、どこか彼女に似ている。だけどそれは本当にたまたまだ。僕は別に妻の顔に惹かれたわけではないし、性格は彼女とはまるで違う。僕は意識的に、何度もそう自分に言い聞かせた。そうじゃないと、あまりにも妻に失礼になるからだ。だけど言い聞かせている時点で、僕はまだ彼女に囚われ続けていることにも気付いていた。
僕は今年、四年生の担任だ。
春、まだ桜も散らない時期に、転校生が来ることになった。まだ四月なのに、と思ったが、家庭の事情は時期だって選べないだろう。
はじめて見た時、「彼女」は桜並木の中にいた。
まったく違うはずのふたりの「彼女」が重なり、僕は思わず息を呑んだ。赤いランドセルを背負った、見知らぬはずの少女に、僕は彼女の面影を見ていて、そのことにまるで彼女が気付いているかのように、意味ありげな笑みを浮かべる。
「はじめまして。転校してきた――」
と彼女が自分の名字を告げる。人生で一度も聞いたことのない名字だ。あのひとの名字とは重なるところもない、名字だ。
彼女は、僕の前でだけ、小学生とは思えないほど、大人びた口調になった。児童や他の先生に話す時には年相応の口調なのに。背伸びをしているような口調ではなく、一度人生を繰り返してきたような。
そう、僕はもう確信してしまっている。
だけどなんで僕なんだろう。僕は彼女とかつて密接な関係を持っていたわけではない。僕が勝手に想いを寄せていただけだ。
ふと、言葉がよみがえる。
『あのひと、本当、すぐひとを好きになるね。他愛もないことを運命だって、勘違いしちゃうのかもしれないね。それは良いことでもあるけど、悪いことでもあるんだ、と思う。あぁいや、悪いことに転がるほうが多いか』
誰が言ったのかもう覚えてもいない、誰かが言った言葉だ。
小学校時代の僕の告白、高校時代の再会。
それは別にきっと、他愛もないことだ。だけどもしかしたら本当に、彼女は運命と勘違いしたのかもしれない。
「先生」
と帰ろうと駐車場に向かっていた僕を、彼女が呼び止める。あの日と同じ場所で、僕と彼女の立場だけが逆転している。
彼女の髪が、風で、揺れる。
彼女と同じ、長く、黒い髪。
僕はすでに彼女が何を言うのか知っている。まるで答え合わせでもするかのように、彼女は僕に告げるのだろう。それを怖いと思いながらも、待ち望んでいる自分がいることにも気付いている。
彼女が言った。
「私が大人になったら、結婚してください」
憧憬の記憶 サトウ・レン @ryose
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