奥の間にはだれもいない 神の章
この町で盗みに入るなら
集まった者たちの半数が威勢のいい声を上げ、半数が嫌そうに眉を寄せた。その半数はこの近くから集まってきた者たちである。
クロはどちらでもなかった。黙っていた。
クロは酒を飲まないから、座敷の隅でひとり、黙々と刀の手入れをしていた。
磨き込まれた刀身に写る己の姿は今日もまた、醜かった。左の目は潰れている。右の顔半分は大きな傷が走っている。傷は引き攣れて癒着し、クロの唇の形を変えてしまっていた。このせいでひどく喋りづらいため、クロは無口になった。
片目を潰しのはクロを産んだ女だった。立ち寄る先々で踊りとも占いとも言えぬ奇妙なものを見せては金を稼いでいた。古代の神の声を聞き、失せものを探したり先見をする巫女であると触れ回っていた女の稼ぎのほとんどは客と寝ることで得られていたのだろう。たまたま堕ろしそこねて産まれてしまったのがクロだった。その頃、クロには名前はなく、女が商売をする時には「ヨリシロの子」と呼ばれていた。名前に意味はない。女は聞きかじった単語をそれなりに繋げてそれらしく喋っているだけである。
「古代の神はこの子に降りお前たちの罪穢れを肩代わりをしてくれる」という講釈を垂れる女の後ろ
飯は足らず、傷は治らず常に膿んで熱を持っていたから、クロは毎日をぼんやりとやり過ごした。女の後をついて行けなくなればその時には置いていかれて野垂死ぬのだということは理解していた。
結局、女のほうが早く死んだ。
クロが殺したのだった。
その日、女を買ったのは、今の長だった。
神楽の真似事をして踊り終えた母を長は呼び止めた。
宿の前で、女はいつものように終わるまで何処かに行っていろとクロをあしらったが、長は子どもも連れて行けと言った。
女がそういう趣味かと笑った。長はにやりともせず、女の手に銭の詰まった袋を押し付け、同じ額を終わったらやると約束した。
事が済むと、長はクロに小刀を渡して、女の首を掻き切れと言った。
だから、そうした。
まだ裸で布団の上にいた女に刃を向けた。当時の非力なクロでは女の首の薄皮一枚切っただけで刃は止まった。冗談だと笑っていた女は、それで顔色を変えた。
この餓鬼。死にぞこないがと喚いて、小刀をクロの手から奪うと、女はそれを滅茶苦茶に振り回した。刀はクロの頬に当たり、貫通した。舌に冷たい刃を感じた。
痛いのには慣れていた。死は常に身近だった。
たが、口の中に血の味とは違う小刀の鉄の味をおぼえたとき、体が動いた。クロは体をひねって小刀を引き抜くと獲物を狩る山猫のような俊敏さで床に散らばった女の着物にかけ寄った。あった。懐にいつも入れている。焦げ跡がついた火箸を握りしめると今度こそ女の喉を突いた。よろけた女の手から小刀を奪い取ってまた刺す。吹き出す血が、女のものなのか自分のものなのかわからなくなるまで刺し続け、そうして――。
「もう死んだ」
長の声で刀を取り落とした時、彼はもうヨリシロの子ではなくなっていた。
長は前渡しにした金をちゃっかり懐に収めるとクロを連れて宿を出た。
そうして、彼はクロになった。
カタシロではなければクロだと長に言われて、クロはクロと名乗ることにした。
長はクロを気に入り、傍に置いて殺しや盗みの術を教えた。
クロもよく覚えた。子どもの頃に栄養が足りなかったせいか、クロは背の丈が伸びなかった。
その代わり、軽くて素早く小回りがきく。片目の割に暗闇でもよく目が見え、床下や屋根裏に潜り込むことが容易だった。
ならず者の集まりの中でも、クロは異質だった。
長が率いる集団には、様々な素性の者がいた。罪を犯して逃げてきた者、家族を手に掛けた者、あるいは盗みや殺しが楽しくてたまらぬ者もいた。
痩せた田畑を耕すことに膿み疲れ、家族を捨てて出奔したという鍵開けが得意な男は、かつての生活をクロによく語って聞かせた。クロは何を聞いても表情を変えない。いくら耕しても麦が育たない土の話も、家族で囲んだ薄い大根の汁の話も、何度でも同じような態度で聞いていた。
ある男が、かつて抱いた女の体の温かささを語るときも、別の男が、切り下ろした体から溢れる臓物の温かさについて語る時も、ただ黙って頷くだけだ。
だからこそ、男たちはクロに自分の話を語って聞かせる。人は、自分の物語を語りたいのだとクロは知った。真実かはどうでもいい。皆が語りたい自分を語る。
クロは語らなかった。
カタシロの子と呼ばれていたことも、自分を産んだ女を刺殺したことも、クロの中では物語としてちっとも立ち上がってはこなかった。起きたことを羅列するだけでは、物語にはなり得ない。自分がどのような形をしているのか、どのように自分を見せたいのか、それがなければ物語にはなり得ない。
クロは何も思うことはなかった。女から刃を奪い取った時も、激情はなく、生きようとする本能で体が動いただけだった。クロは、語るべき物語を持たない。
クロを構成するのは、顔の傷だけだった。
この傷に――。
この傷に、なにか逸話でもつければ皆のように語れるのだろうか。
長の首にはぐるりと輪になった刀傷があり、斬首されても首が飛んで体に戻ったのだと語っていた。
自分がやられたから、一太刀で首を落とすのも上手いのだと豪快に長は笑う。本当なのかもしれない。
クロが出会った頃から、長の外見はほとんど変わっていなかった。
長が移動する先で集めてくるから構成員は頻繁に入れ替わったが、クロはもう十年も長についてあちこちを回っていた。長も文句を言うことはなかった。
殺しがうまくなった。盗みがうまくなった。
強盗に入る前に屋敷に忍び込んで経路を調べるのは、すっかりクロの仕事になっていた。図面を書く技能も身につけた。
「クロ、どうだ。見てきたのだろう」
名指しで長に呼ばれ、クロは、ああ、とぼそりと言った。
「一ツ木屋の見かけは儲かっているが、商いがそう上手く行っていないらしい」
「そりゃあいい。そういう店には隙がある」
長が手酌で酒を注いだ。
「あそこは変なもんが置いてあるから、俺は嫌だなあ」
誰かが不満を口にすると、別の誰かが笑った。
「
「しかしあの家、店主が狂うたと噂があったな」
「嫁と下のガキいっぺんに亡くしておかしくなっての木乃伊集めじゃと言われたなあ」
「いや、代替わりして先代からの客が離れておかしくなったと聞いたぞ」
事情を知る者たちがとたんに騒がしくなった。
「木乃伊か」
長に視線を投げかけられ、クロは頷いた。
「奇妙な化生の木乃伊がたくさんあった」
長は頷いた。
「流す筋を上手く選べば薬も高く売れる。商いを案じてたんなら家財をまとめてあるやもしれん。やるぞ。何、火を放っちまえば化け物の供養にもなろうよ」
次の新月の夜、決行が決まった。
※
クロは毎日屋敷を探り、図面を作っていった。
新月にはまだ二十日あまりある。
一ツ木屋の屋根裏や床下から様子を窺う事もあれば、そっと内部に忍び込むこともあった。
商いが傾くと人は取り繕おうとする。そうすると隙ができる。
人の心にひび割れが生じたら、そこに潜むのが鬼の仕事だと長はよく言っていた。
一ツ木屋の内部は亀裂だらけだった。
華やかに見える生活の裏に、いくつもの歪みと罅が走っている。住み込みの使用人への給金が滞っていた。逃げられるものは逃げ、逃げられぬものは仕事の手を抜く。
屋敷の空気は淀んでいた。
皆が噂をしていた木乃伊は、薬を保存してある蔵の中にしまわれていた。
瞳が入っていない目の虚に、闇が蟠っている。ものすごい量だった。壁を埋める店一面に木乃伊の納まった箱が並ぶ。箱の表面を撫でると、指に埃がついた。
何かがおかしい気がする。人の気配を感じて、クロはするりと梁の上に身を潜めた。
一ツ木屋にはあまり頭の回らない子どもがいた。
動作が遅く、言葉もうまく出てこない。
それでも誰かの手伝いをしようと、使用人や兄の後を追ってはあしらわれていた。
その子がよたよたと蔵の中に入り、木乃伊の箱に手を合わせていた。
おぼつかない足取りが、熱に浮かされながら母の背中を追っていた自分と重なった。
※
「狂いが治るか?」
長はクロが口にした問を同じように繰り返した。
書きかけの図面を確認のため渡すとき、長に尋ねた。長が図面に目を通すのを待って、クロは「狂いは治るか」と尋ねたのだった。
いつまでも三十手前のように見える長は、蓬髪を搔くとしばし考えた。ほとんど口を利かないクロが発した問の意味を探るようでもあった。
「何でそんなことを言う?」
「一木屋の店主は狂っては見えない」
「どこがだ?」
「狂ってあれだけ集めたにしては、扱いがぞんざいだ」
長が黙っているから、クロは続けた。
「狂った者は物語の中に住む。だが、あの男はもう物語の中にはいない気がする」
「ふむ」
長は顎をさすった。クロは時折不思議な物言いをする。もとより感受性が高いのだろうと長は踏んでいた。
「狂い続けられなかったのかもしれんな。嫁と子どもを失って、失意から狂った男であり続けられなかった。しかし、狂い続けたかったのだろうよ。狂っておれば、煩わしいことは何も考えなくていい。商いのことも、娘の嫁ぎ先も、自分の人生すら考えなくていい。しかし正気に戻ってしまった。それで今でも木乃伊集めがやめられん」
「……そういうものか?」
「わからん。人の心の内など何一つわからんよ」
長はまた頭を掻き、長い前髪の間からクロを見つめた。
人の心などわからんと言う割に、何もかも見透かしている目だった。
図面は着々と出来上がっていった。
高価な薬の位置、火付けしやすい場所などが細かく書き込まれた。
一木屋の内情も手に取るようにわかってきた。
店の跡目の件で、長男は店主と揉めている。
末息子の面倒を見ることを、長兄は厭っていた。姉はもうすぐ出産のため里帰りするが、それを伝える文は、金の無心をする内容が大半を占めていた。
そして、弥助という末の子は、女中頭に毎夜嬲られていた。それがどのような意味を持つのか、友もおらず大人も相手にしない弥助にはわかりもしない。終わった後に夜具に丸まって泣く背中をクロは何度も見た。
女中頭は、店に居続ける代わりに目こぼしをもらっていた。
――神様によくお仕えするのですよ。
弥助の痩せた背中を撫で回しながら、女中頭が湿った声で囁いていた。湿って、腐って、粘液が垂れるような声は、かつてあの女がクロの体に火箸を押し付けていたときの笑い声に似ていた。
一晩中、クロは屋敷の中で過ごした。
夜明け前に弥助が部屋を抜け出すのをつけて、屋敷の地下に隠された座敷があるのを見つけた。
弥助は回らぬ舌で、異形の神に祈っていた。
家族の安寧を、家の安全を、痛々しいまでに一心に祈願していた。
異形の神の後ろに身を潜め、クロはもう少しで「よせ」と声に出しそうだった。
やがて弥助が座敷を出ていくと、クロは闇の中に聳える巨大な神と対峙した。
店主の妄想の結晶だった。しかし、妄想と言うには計算された恐ろしい姿だ。恐ろしく、異様で、悪趣味である。見た者がそう思うように作られすぎている。
周囲を一周し、様々な虫や獣の革を張り合わせた体を探ると、引手がついていた。引き開けると、中には金がしまってあった。
「狂ってなど、おらぬではないか」
クロは唾でも吐いてやりたい気になり、自分がひどく心動かされていることに静かに動揺した。
弥助は体に傷を作っていることが多かった。
その原因が父親からの折檻であることも、すぐに知れた。
狂い続けていたいのだろうよ。
長の言葉が蘇った。
父親は息子を自分の妄想の生贄に捧げたのだ。
語る間は物語に浸かり、異形の神を信仰する狂った男でいられるのだ。経営も、家族の不仲も、金のことも忘れている。今度は狂っている自分という物語に首まで浸かり、息子を打ち据える。
弥助は、何もできない。
屋敷から出ていくこともできない。だから、自分を包む世界がもう、どうしようもなく腐ってしまっていることを理解できない。
いや、わかっているのかもしれない。
打ち据えられ、血まみれの衣のままいつにも増してよたよたと歩く弥助を眺めながら、クロは気がついた。
この子は言葉が出ないだけで、理解できていないわけではないのだ。
父からの理不尽にも、兄が己に向ける冷たい目にも、使用人たちの陰口にも気がついている。
それでいて、自分が悪いのだと思っている。
自分が神様に祈り、犠牲となれば、家族が守られると信じようとしている。
クロは悩んだ。ふと気がつくと、弥助のことを考えている。時間は矢のように過ぎる。図面には、奥の間と呼ばれているあの場所のことは書けずにいた。
決行まであと十日になって、クロは決めた。
弥助が来る前に、神の後ろに潜り込む。
そうして、声をかけた。
その時、クロは初めて語るべき物語を得たのである。
「この家は絶えるぞ」
弥助が考えようとしなかったことを、神となったクロは暴き続けた。
頬の傷が引き攣れて熱を持っても、まだ喋り続けた。
こんな家をもう見放してくれ。見放して――。
こんな家を捨て、俺と来てくれ。
※
「……誰かに懸想でもしたのか」
長は飄々と言い当ててみせた。
顔には出さなかったが、クロはたいそう驚いて、図面を取り落とすところだった。
長はにやにやと笑う。
「何を驚く。お前もそういう歳だろうよ。相手がいるなら攫ってしまえ。顔を見られたくなけりゃ、目でも潰してしまえ」
唇を笑みの形に歪めたまま、長は物騒なことばかり言った。本気なのか冗談なのかわからない。
「お前が何をしようと、俺の邪魔にならなければいい」
長はクロの肩を軽く叩くと、瞬きの間に夜の闇に消えた。
※
月のないその夜、クロたちは屋敷に押し入った。
白刃が閃き、逃げるものを次々に斬り伏せていく。
クロは、女中頭の背を袈裟懸けに斬った。
倒れた女中頭の指がふと目に入った。
弥助の身体を触っていた指だ。萎びた唇は弥助の肌を吸ったものだ。
背中を灼熱の蛇が這い上がるように、クロはその指を落とし、悲鳴を開ける唇を切り裂いていた。
「やけに今夜は
黒布で顔を隠した男たちがからかう。
クロの、片方しかない目に怒りのような哀れみのようなものが燃えているのを見て、彼らは口を噤み、仕事に戻る。
金になりそうな薬が片端から運び出されていく。
クロはその隙間を駆け抜けた。
店主と長男を殺そう。この手で殺し、彌助を繋ぐ軛を取り払ってやるのだ。
だが、もう二人は死んでいた。
木乃伊の蔵の中で、首が落とされていた。
「鍵をかけて立て籠もろうとしていたから、やった。
長が首を足で転がしてくる。
「お前が黙ってる金は持ってけ。十年楽しかったぞ。クロ。そろそろお前も名乗りたい名前を名乗れ」
すれ違いざまに、クロの手に冷たい何かを握らせる。そのまま長は火の手が回り始めた庭に出ていった。
2つの首は、豚の木乃伊に繋いでおいた。
弥助は、屋敷の廊下で立ち竦んでいた。
男の一人に押しやられ、血溜まりに尻餅をつく。
「阿呆のガキじゃ。ロクに喋れん。捨てておけ」
クロは声をかけ、座敷の屏風の影に隠れている女を斬った。命乞いは聞かなかった。
脂で切れなくなった刀を捨てると、クロは奥の間に向かった。
血の匂いで気づかれる心配はない。どこもかしこも血なまぐさい。火も広がっている。
弥助は必ず奥の間に戻って来る。
弥助が縋れるのは、神様だけだ。
長に渡された小瓶の中身を少し床に垂らすと、煙が上がった。酸なのか、なにか別の薬なのかは分からない。
弥助に苦痛を与えることだけ、気がかりだった。
やはり、弥助は戻ってきた。
異形の神としてクロは、弥助に触れた。
頬を包み、小瓶の中身を弥助の目にかける。
肉の焼ける匂いが、かつての記憶を呼び覚ました。
自分を重ねるから愛しいのか?不憫だから愛しいのか?
戦慄く弥助の身体を抱きしめて、クロは首を振った。
出会うべくして出会ったのだ。そういう物語にしよう。
「信心せよ」
「信心し、我を広めよ。この形は捨ててゆく」
ああ、神様――。
弥助の焼けて爛れた目から涙が落ちた。
「役目をくださるのか……」
クロは頷いて、その瞬間にクロという名を失った。
やがて、奥の間が燃え落ちたとき、そこにはもう誰もいなかった。
※
しばらくして、山を三つも超えた土地である噂がたった。
まだ十くらいの子どもが、札を売っているのだという。
両目の見えぬ子どもには、黒衣の小さな男が付き従っている。こちらは全く喋らない。少年の影のように付き従い、時々少年に耳打ちする。
その札が、奇妙なのだという。頭に角のある、男とも女とも獣とも魚ともつかぬ魔性が描かれている。それは古代の神で、札を貼れば家内安全無病息災厄除けと何にでも効くのだという。
少年は神の声を聞く【ヨリシロ】と呼ばれていたそうだ。
奥の間にはだれもいない いぬきつねこ @tunekoinuki
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