水たまりコンビニ

あまくに みか

水たまりコンビニ

「高校三年生? 受験は?」

 尋ねられて、僕は「ああ、またか」と思った。


「大丈夫です。一貫校なので。そのまま大学に」

「ふーん。そうなんだ」


 店長と思われる薄毛のおじさんは、再び履歴書に視線を落とした。

 今回もダメだな、と僕は思った。この後に続く会話は決まってこうだ。


 ——いいねぇ、大学まで繋がっているって。

 ——人生、楽だね。


 大人というのは、だいたいそういう風に判断したがる——。


「はい、合格」

「え?」

「いつから入れる?」


 予想外の結果に、僕は腰を浮かせたまま言葉を失った。


「いつから働ける?」


 店長はにこにこしながら、僕の返答を待っている。


「えっと。いつでも、大丈夫です」

「じゃあ、明日。来られる?」

「あ、はい。大丈夫です」


 とんとん拍子で進んだことに、僕は嬉しさよりも不安の方が勝る。


 小さな町のコンビニだから、よほど人手が足りないのだろうか。ブラックだと嫌だなと頭の片隅で思う。


「ああ、最後に一つだけ」

 事務所から出ようとした僕を、店長が引き留めた。

「なんでバイトするの? 小遣い稼ぎ?」

「まあ、そうです」

「ふーん。本当は?」


 店長の丸くって、意外と可愛らしい二つの目が僕をとらえる。そのフクロウみたいな視線に、僕は焦った。


 フクロウに追い詰められたネズミって、こんな気分なのだろうか。逃げ道を必死に探しながら、頭の片隅では、身をゆだねたら楽になれるのかな、なんて考えている。


 僕はいったい、どうしたいのだろう。

 僕はいったい、何に期待しているのだろう。


 僕は、何者かになりたい。

 そのきっかけを、ただ探したいだけなのかもしれない。


 口を開けば、スルリと薄っぺらい言葉を並べることが出来る。今までそうやって、大人の前でやり過ごしてきた。なのに、その時の僕は、小さな子どもみたいに素直に、曖昧あいまいで形をもたない僕のもやもやを言葉にしていた。

 


「なんか、いつもと違うことをしたかったっていうか。ほら、いつもとちがうルートで帰ってみたくなることって、あるじゃないですか。そんな感じ。それに正直、一生懸命働かなきゃいけない理由がある訳じゃない。何かを変えたいほどの情熱は持っていないくせに、何か落ちていないかって、探しに来た」


 たぶん、そんな感じ。僕は、心の中で付け加えた。

 突然生意気な口をきいた僕を、おっさんは不合格にしたくなっただろうか。伏せた視線を上げると、店長はまだにこにこ笑っていた。


「いいね。きっと楽しくなるよ。だって明日は、雨予報だから。明日、待ってるからね」


 僕は二度瞬きした。一応、まだ合格ということでいいのだろうか。


 それに、雨だから楽しいとはどういうことだろう。僕は首をひねったけれど、聞き返すのも面倒なので「明日からよろしくお願いします」とだけ言って、そのコンビニを後にした。




 僕の人生初のアルバイト初日は雨ではなくて、うだるような暑い晴れの日だった。


「あっついねえぇぇ」


 店長は首にタオルを巻きながら、僕にレジの操作方法や品出しの仕方を教えてくれる。


 ここで働いているのは、店長とヤンキーみたいな格好の女性だけのようだった。


「アヤさーん、雨雲レーダーどう?」


 ヤンキーみたいな女性ことアヤさんは、気怠げな動作でジャージの尻ポケットからスマホを取り出した。人差し指と親指の二本で、器用にスマホの頭をつまんで、画面をのぞき込む。


「もうすぐかなー」

「もうすぐだって。よかったね、福田くん」

「はあ」


 僕は気のない返事をした。雨が降ると何かいいことでもあるのだろうか。例えば、お客さんが来なくなるとか。でもそれって、コンビニ的には痛手じゃないのだろうか。


「意味がわからないって顔をしているね。ふふ。そうだろう、そうだろう」


 何故だか店長は嬉しそうだ。


「少年、はまじで経験しておいたほうがいいって。ガチでやばいから」


 スマホ片手にアヤさんも、にやついている。あれとか雨とか、先ほどからわからないことばかりをこの人たちは言っている。

 不信に思いながら僕は店の外を見た。灰色の雲が重たそうに垂れ下がりながら、空を這いつくばって近づいてきている。


「ありゃ、ゲリラだな」


 アヤさんは誰もいないイートインコーナーの椅子にどかっと座って、頬杖をついて外を眺める。


「雨が降ると何があるんですか?」


 アヤさんはちらと横目で僕を見上げると「ゲヒャヒャ」と悪魔じみた下品な笑い声をあげた。僕が眉根を寄せた時、両手いっぱいに長靴とかタオルとか、よくわからないものを抱えた店長が隣にやって来た。


「おー! ゲリラゲリラ! 福田くん、長靴履いて。あと、スマホとか大事なものは外してね」

「あ、はい。あの、これから何するんですか?」

「何って、そりゃあ——」


 店長が言いかけた時、店内の空気が震えた。バケツの水をひっくり返したような、滝の中に放りこまれたような、雨の大群がコンビニを襲う。


 あっという間に雨雲は僕らの真上にきて、コンビニは濁流に取り残された孤島みたいになった。


「いい降りっぷりだ! 福田くん、見てホラ!」


 店長の指差す方を見ると、店の入口に大きな水たまりが出来ていた。これではお客さんが入って来られない。


「あの水たまりを潰すんですか?」


 だから長靴なんだ。僕はそう思った。意外と肉体労働なんだなと面倒な気持ちになってくる。


「潰す? ダメダメ、そんなことしちゃ。入れなくなっちゃう」

「水たまりがあったら入れませんよ」

「私たちが入るんだよ、水たまりに!」

「はぁ?」


 思わず大きな声が出た。このおっさんは何を言っているのだろうか。


 中年の薄毛のおっさんと平凡な男子高校生が水たまりに入って遊ぶ姿を想像して、僕は大いに身震いした。


「ウケる。まあ、そうなるよね。あたしも同じ反応したよ。このクソジジイやばいってね」


 いつの間にかアヤさんは隣に立っていて、長年の友達であるかのように、僕の肩にひじをのせて寄りかかった。


「もうすぐ、雨があがるぞ!」


 小躍りしながら店長が自動ドアに駆け寄っていく。扉が開くと、濃い水の匂いが店の中に染みわたった。


 雨雲の塊の向こう側には、透き通った青空と蜂蜜色の光がちらちらと見え隠れしていた。


「おいでよ、福田くん!」


 満面の笑みで振り返った店長は、そのまま大きく飛び跳ね、水たまりにダイブした。


 微かな水しぶきをあげて、店長の体はすっぽり水たまりの中に消えた。


「ええええ! 店長!」


 絶叫にちかかった。


 僕は駆け寄って水たまりを上から眺めた。そんなに深くはない、ただの水たまりだ。それなのに、隅々まで見渡しても店長の姿は見当たらない。


 どこに消えたのだろう。


「ホラ、少年も行け!」


 アヤさんが僕のお尻を蹴り飛ばした。


「ちょっと」と抗議する間もなく、僕の体は斜めになる。重力に引っぱられた僕は、落ちた。水たまりの中に。


 水の膜が僕を包みこむ。

 頬の上を水滴が走って、上へ上へと昇っていった。

 水たまりの中は深い。

 僕の体はゆっくりと沈んでいき、細かい泡のベールをくぐると、目に光が差しこんだ。

 僕の体は縦になって、両足が水底につく。

 纏っていた水が一斉に、落ちた。



 目の前には、コンビニがあった。



「いらっしゃいませ、福田くん」

 自動ドアが開いて、店長が中から手招きをしている。

「これって、どうなっているんですか?」


 僕は上を仰ぎ見た。空は遠く、光の網が微かに揺れている。


「水の中?」

「正しくは、水たまりの中だけどね」

「水たまりの中に、もう一つのコンビニが?」

「うん、そう」


 店長は僕を店内へと促す。

 店の中は、地上のコンビニと変わらなかった。ただ一つ、違っているのは、置いてあるものだ。どう見ても、ガラクタとしか思えないものばかりが置いてある。


「これは?」

 僕は陳列棚の隅に置かれていた、少し崩れかけた化石みたいなものに触れようとした。


「ああ、ダメ! それ、犬の糞だから!」

 慌てて手を引っこめる。

「なんでそんなの置いているんですか!」

「しょうがないじゃん。落ちてきたんだから」

「落ちて?」


 ちょうどその時、チンッと音が鳴った。僕と店長は、カウンター内にある電子レンジを同時に見た。


「ホラ、落ちてきた。開けてみて」


 店長は電子レンジを指差す。僕は半ばヤケクソになって扉を開けた。


「なんだこれ?」


 電子レンジの中には、小さなビー玉が一つあった。僕はそれをとって、手のひらの上で転がす。透明で、冷んやりとした、水の結晶みたいなビー玉。


「この町の水たまりに落ちたものが、ここに集まるんだよ」

「なんのために?」

「買うひとがいるからだよ。だってここはコンビニだからね。なんでもあるよ」


 僕は店内を見回した。汚れたぬいぐるみ、石ころ、錆びた鍵、虫食い穴の葉っぱ、紐の切れた御守り。


 誰かの、落としもの。

 誰かの、記憶のカケラ。


「買うひとって……」


 言いかけた僕は口を大きく開けたまま、目を見開いた。

 ドアの外。うねり、水をまといながら猛スピードでやってくる。


 それは、龍だった。


「水龍様だ!」


 店長が叫ぶと同時に、自動ドアが開いて店内の空気を震わせた。衝撃に僕は顔をそむける。


 一拍置いて目を開いた時、漆みたいな瞳がすぐそこにいた。水色の胴長の体がとぐろを巻いて、銀の光を煌めかせた龍。鼻先を僕の手に当てる。


「福田くん、ビー玉だよ」

 店長の声がして、僕は我に返る。

「えっ、あっ、これ……ですか?」


 長い二つの髭が肯定するように動いたような気がして、僕はとっさに聞いた。


「袋はいりますか?」


 自分でも何を聞いているんだって思った。けれど、龍のあのとんがった爪を持つ手では、この小さなビー玉を持ち帰れないんじゃないかって思った。


 一番小さな袋にビー玉を入れて、僕は龍の手にかけてやる。鱗があって、でも、獣みたいな手。


 これが正しい接客なのか、僕にはわからなかったけれど、店長は何も言わずに、相変わらずにこにこしていた。


 ビニール袋をぶら下げた龍は、再びものすごい勢いでコンビニから飛び出していった。僕の前髪が持ち上がって、少しだけ水滴が額にかかった。


「ああ、福田くん。良いもの、もらえたねぇ」


 店長が僕の右手を指差す。手を開くと、龍の鱗があった。僕の手のひらくらいの大きさで、しゅわしゅわの夏のソーダみたいな色と淡いピンク色が溶けて混ざった色をしている。


「大事にするんだよ」


 顔をあげて僕は、ドアの外を見た。

 龍の姿はもう小さくなっていた。




 バイト初日を終えた僕は、まだ雨の匂いが残る道を歩いていた。


 雨の匂いは、土の匂いに似ている。大地と空が繋がったような、生命の匂い。その中を僕は通り過ぎる。


 ふと、足を止めた。


 灰色のアスファルトの一部を、子どもが破いたみたいに、突き抜ける青があった。僕はそれをのぞき込む。


 いつもの帰り道に、水たまりが出来ていた。


「どこにでも、あったんだな」


 ポケットの中にある龍の鱗の輪郭を指先でなぞり、水たまりを飛び越えた。僕が作り出した微かな振動が、水たまりの中の空を揺らして、景色を変える。


 それを見守ってから、僕は走り出した。

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