第8話 過ぎ去っていく者たち(完)

 私はトムに替って、この古いホテルの一室の住人となった。大小の変化があった、些細なことでは一階で営業している屋台のバーミー屋のおばさんの愛想が激変した。今まで胡散くさそうに汁そばを手わたしていたのが、道路がわの椅子まで運んでくれて、冷たい水までもってきてくれるようになった。


 かるくショックだったのが、ノックやジューンが私に敬語で話すようになったことだった。

 タイ語では男性が話者の場合はクラップ、女性はカーと語尾につけるのが尊敬語の基本で、あとは自称をかえたりして相手への敬意をしめす。今まではノックはわたし、ジューンはおれと自分を呼んでいたが、私がジュライの住人となって、二人とも「わたくし」といったニュアンスで話すようになった。


 ジューンはたまに昔の笑顔を見せることもあったが、ノックは完全に心をとざしていた。ノックは私の秘書のような立場になった。朝と夕方に私のジュライの居室をおとずれる。カオサンのゲストハウスにいたときのようなTシャツに短パンということはなく、襟つきの無地のシャツに長めのスカートかスラックスできた。


 あらためて彼女の美しさを認識したが、距離はとおくなっていた。私がトムの手下のころはそれほど頻繁に顔も合せていなかったのにくらべて、今は毎日二度も会っているのだから、すこしはラフに接してほしかったが、彼女のほうが自分のエリアを割らせなかった。

 

 肩にかかる長さの漆黒の髪と、怜悧な横顔で朝はその日の日程を報告し、夕方は損益の集計を淡々とこなす。上客のところへ行くときは濃い色のパンツスーツで黒縁の伊達メガネをかけてきた。


 客先へはジューンと同行することもあったが、はなやかな色のドレスと私に対する態度がやわらかいので、ジューンと出かけるときのほうが気が楽だった。ジューンはどんどん顔の色が白くなり、もともと色白の背中がパックリとあいたドレスを着ると見栄えがよかった。


 またジューンの人懐っこい笑顔にもずいぶん助けられた。髪も男の子のようなショートカットからボブくらいに伸びている。


 ジューンが日灼けから解放されて、ノックが高級なスーツを買えるようになったように、私も生活水準が大幅によくなった。


 なによりもありがたいのは体をつかわなくていいところだ。実際の業務は若い日本人たちがやってくれる、若いと言っても私より年上がほとんどだったが。ジューンとノックも部下にきつい交渉や実務をまかせて、ある程度ほおっておいても毎日キャッシュが入るようになった。


 朝は七時くらいにおきる、すぐにノックがコーヒーと書類の束をもってくる。書類はタイ語でメモがあちこちにあるが、見慣れているのでコーヒーを飲みおわるころには目を通しおわっている。それを裁可してやるとノックは去る。


 ちかくのシークロンホテルのカフェで朝食をとる、スクランブルエッグやサラダもついたアメリカンブレックファストを、新鮮なオレンジジュースとたのしむ。


 午前中は自由時間だ、王立博物館や国立美術館にゆく。そのどちらからも近いタマサート大学の図書館や学生食堂にもお世話になった。


 美術館の油絵や彫刻などのいわゆる西洋美術はあまり見るべきものがない気がした、もちろんこれは当時の10代の少年の感想で今のタイの現代美術を批評したものではない。


 私が感動したのは、王立博物館の常設展示だった。常設とあえていうのは後年エアコンつきの説明センターのような建物ができ、短時間のツアーではそこしか見ないことがあるからだ。


 もともとの博物館の敷地は広大で、古い建物や、破風の半屋外の展示まで、古来のランナー王朝からチェンセーン、チェンラーイ、チェンマイからアユタヤへと遷都してきたタイ族の来し方がわかるようになっている。


 もっと言うと、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』でかたられた異相の楚のたみぐさ、入れ墨をして水に潜ってサカナをとるという中原の常識からはずれた人々が、日本人との親和性を感じさせるのかもしれない。


 中原の漢民族が小麦を主食とするのに対して、日本や朝鮮半島、中華人民共和国の南部とインドシナ半島はコメをたべるというのもよい対比とおもう。


 展示物のなかで目を引くのが、王族の車輌である。おそらく水牛にひかせたのだろうが、木製の車軸や車室にじつにていねいな装飾がほどこされている。木目の色かげんだけで、ラーマヤーナ、タイ語でいうラーマキエンとよばれる古代インドの物語が、彫刻刀でえがかれている。


 猿の神様であるハヌマーンや、大陸ふうの、つまり足のあるドラゴンなどが木のうえにおどっている。ヤックという子鬼の表情にも変化がある。


 中庭には南国の午前中のあまりにもさわやかな風がふき、ベンチでは本を読んだり、今では無理だろうが当時は、タバコを吸ったりし、犬の散歩をしているひとまでいた。


 ここで安いコーヒーをのんで二度寝というか仮眠をとるときが至福であった。


 昼食はむかしは敷居が高かった花屋などの高級店のランチ、午後はジュライにもどって人と会うことがあったり、文庫本を読んですごしたりした。


 夕景にはノックの代わりにジューンが報告にくることもある、ノックよりはざっくばらんだったが、要点をおさえてその日の会計を締める。ノックとちがいジューンはたまに懐かしげな笑顔をした、それは私にとって心やすまる一瞬だった。


 つまりトムはジュライのこの部屋のシステムを私にうつして去ったのだ。お金には困らなかった、それより大きくなりすぎた預金の投資先に悩むといった贅沢なことになった。


 当時のタイの銀行預金は年利七から八パーセントという高利で推移しており、寝かしておくだけでもいいのだが、税金対策の意味でも投資をしたほうがよかった。


 投資先は株式インデックス連動の、つまりタイの景気とともに上下する投資信託や公社債投信からはじめた。すると複利での資産の上昇比率がますます上がる。お金がお金を呼んでくるといったサイクルに入る。


 ジュライの部屋にいて責任を果たすだけで、カラダをほとんど動かさずにお金と商品がながれていく。私は銃器の販売を担当していたが、ほかにも美術品や嗜好品のルートもトムから引きついでいた。しかし商品は実際に手に取ることはなく、帳簿上の出入りで巨額の手数料がはいってくる。


 責任というのは重大で、万が一にもあぶないグループに恨みを買ったりすると、月のない夜がこわくなる。


 トムは最終的に資金を郊外のコンドミニアムやゴルフ会員権など安定している資産にかえて逃げたようだ。もう広東人とは私が直接契約していた。


 トムが入学したサシン経営大学院を擁するチュラロンコン大学近くのサヤームスクエアという一角でランチをともにしたことがあった。


 彼は無精ひげを剃りおとして、髪もクルーカット、アイヴィリーグふうのアウトフィットだ。店はチュラ大生や教員と職員でうまっていた。


「このランチセットは笑止ですね」


 私が言った、小盛りで三、四種類のカラダによさそうなプレートで百バーツ以上する、ドリンクもたのむと税込み二百バーツだ。中華街ならちょっと贅沢な晩飯の値段だ。


 トムはまあまあというように手で私のほうをおすようなしぐさで、


「どないやねん」


と関西特有の主語の無い訊きかたをした。


「まあ、かえって健康的になりましたよ」


 私はこの何か月かをふりかえってこたえた。


 まず夜にクラブでバカな飲みかたをすることが無くなった。


 以前の職責では二日酔いでも自身が危険になるだけだったが、いまは私が間違いをおこしたり、部下が間違えたときに即座に対応できなければ、他人の命にかかわる可能性がある。すくない可能性だが、そこから想起する不利益は非常におおきい。


 阿刀田高が書いていたが、天国を信じる者が救われるのは数学的に正しいという説を思いだす。彼は死後の世界を信じるか否か、そしてその信念にしたがって行動したかをマトリクスにした。


 信念を縦に行動を横に、逆でもいいが、表をつくってそこから得られる効用をかんがえた。すると、信じていた者が無事天国についた場合、得られるしあわせは無限大であり、信じていない者が地獄にいった場合の効用はマイナス無限大なのだから、死後の世界があるかどうかにかかわらず、よい行動をしたほうが合理的に得である。


 責任を負うとはこういうことだとおもう、いくら飲んでもしらふにすぐもどれなくてはいけない。風邪や下痢をしないようにつとめる。そうしておかないとナニかあったときに人の人生にかかわる。


「それでええねん」


 トムは片頬にあかるい笑みをうかべた、彼がそんな微笑みをするのをはじめて見た。


「そもそもトムさんが大卒とはおもわなかったですよ、失礼ですが」


「これでも某国立外大やで」


「タイ語を専攻したんですか」


「もともとはヒンドュー語や、でもそこからインテツ、インド哲学にいったりアルタイ語族のほうに興味がいったりしたな」


「その経歴でよくサシンにはいれましたね」


 私は素直に称賛した。サシン経営大学院はGMATのスコアも高いものが要求されるし、学部のGPAや学長推薦、すくなくとも所属学部長推薦がなければというほどに当時は厳しかった。


「まあ、そこはここやで」


と二の腕を指す。彼は今の私の立場だった何年かで、こつこつと努力をしていたのだろう。


「僕はどうすればいいんですか」


 私の質問は心からでた。トムの築いたピラミッドは受けついだ、しかしその儲けのピラミッドももっとおおきな仕組みのなかでこそ動いている。


 高価なランチプレートをほぼ食べおわったトムは、ナプキンで口もとを拭いながら、


「それは君が探さなあかん」


 そう言って、伝票をもっていってしまった。


 そのときが人生でトムのうしろ姿をみた最後であった。彼が生きているのか成功しているのかはわからない、でも彼は自分の人生を生きていったとおもう。


 私の役目は投資の責任者だった、もっと上にタイの支配階層が重石のようにあった。


 彼らは客としてはありがたい存在だったが、トムのような外国人が力をつけすぎるのは好まなかった。


 私も将棋の駒になったような気分があった。けっきょく上の人々にとって、私がジュライにいようがトムがいようが、機能として彼らをより豊かにする作業をしていればそれでなにもこともなしだ。そのおこぼれが手数料という名目で私にはいる。


 税の要るお金、いらないお金、お金に色はないとむかしトムが言った言葉の意味がわかるころには、私はのっぴきならなくなっていた。


 続々と増える資産の残高とともに、いかにこの地位を脱けでるかが勝負だった。


 トムがジュライの金庫に、八十枚つづりの分厚い、いわゆる昔の大学ノートを置いていった。これはトムの前任者がつくったものに、トムが加筆しており、ジョブフローと責任の所在が明確に記されていた。


 日本語と中国語、英語の記載もあり、複雑な構成だったが、実務を経験した身には砂が水を吸うようにあたまに入った。見開きの左のページに概要やグラフをかき、右に詳細や数式があった。


 要するに彼がやっていて私が引き継いだ仕事は、派生商品の取り引きだった。


 派生商品とは英語のデリバティブをそのまま訳した言葉で、金融派生商品などとつかわれる。派生というからには元になるものがあり、原証券や原資産がある。原はプライマリーの訳とわかった。


 トムとの雑談や、金持ちの顧客とのあいだで何度も聞いた言葉が有機的に線でつながれる気持ちがした。


 私の原資産は拳銃や嗜好品などの動産だ。それらは方向としてはカンボジアからタイに流入している。その分の代金の現金や、経営学でほぼ現金と呼ばれる有価証券などが、タイからカンボジアにながれていく。


 しかしそれらは数字上のもので、しかもジュライホテルという安いホテルのちゃちな金庫のなかで激しい動きをしていた。その動きは私のスタンダードなボールペンでノートに書きこむという古典的な方法によった。


 カンボジアの先はあえてかんがえなかった、トムのノートにも私が払っているお金の行きさきの情報はカンボジアまでだった。それ以降どこにいくかは私の地位では知る必要がないことだ。


 当時はカンボジアが内戦のあとようやく無政府状態から立ちなおったくらいで、ベトナムもラオスも共産圏、そのうしろには中国がひかえている。私がせっせと稼がせている相手はだれかは詮索しないほうがよい。


 詮索しないほうがよいが、気にはなる。また知りたくなくても知ってしまうこともある。


 われわれがせっせとおさめている上納金は、バンコク中華街のボスを経て、中国本土の広東省にながれているようだった。広東省のなかでも客家、日本語読みで「はっか」、とよばれる人びとがビジネスオーナーだった。


 客家はのちにタクシン首相がその出自で有名になったが、もともと中原にいたが迫害などで南の海南島まで下った。ゆえに一族の結束力がつよさは有名であった。「客」という語は現在の中華人民共和においても、志那とよばれたころからも、やはり過ぎ去りて行く者というイメージが強い。


 彼らは円形の中心に広場のある建物をたてて、各家族が円の弧の一部を占有し、一族で子育ても介護もする。どこのだれの子どもは優秀だから留学させようと決めるのも一族の長老たちがきめる。


 そのなかかからバンコクのビジネスをまかされているのが、二十四、五歳の若造だった。


 若いといっても私は当時二十歳そこそこで、彼のほうが年上なのだが、トムやジュライの長老たち、ノックやジューンと付きあいがあったので、ずいぶんと幼くみえた。


 ノックやジューンも若かったが、それぞれの人生経験が老成した見ためにしていた。トムも二十代後半ときいたときはおどろいた、三十半ばのつもりで接していたが、私が彼の立場になった今は、部下には私も年上にみられているだろう、またそういう感じをあたえる服装や身の動かしかたもしぜんとできるようになっていた。


 タバコの火は年上でも部下に点けさえるし、車のドアもあけさせる。繁華街では露はらいのように部下を先行させ、空いた道をゆったりとあるく、夜の街でも私はトムの後継人とみとめられるようになった。


 客家のお兄ちゃんは、すらっと高い背を上品な濃紺のスーツでつつみ、ペンと箸より重いものを持ったことがないようなきれいな手指で会計をはらってくれた。名をオンという、もちろんタイ語のあだ名で、パスポートの本名は漢語だろうが。


 オンがつれていく店は、これまで私がつきあいで行ったことのある店より一段上だった。タイに来はじめたころにゴーゴーバーなどの下品なところはひと通り見た。その後トムの仕事をするようになり、五つ星ホテルのバーやクラブの顔なじみになった。オンは踊るほうのクラブではなく、女性が横にすわるクラブによく私をさそった。


 スクンビット通りのソイトンローの店が彼のお気に入りだった。ソイは横道の意だが、トンローはそれ自体が長く盛況なエリアなので、またトンローのソイいくつと細分されていた。


 そのトンローの若い番号、つまりスクンビット通りにちかい偶数のソイのちかくのクラブがあった。タイでは通りのはじまりからみて左が偶数という規則がある、より中央に近い側から番号をふる。中央は全国的にみればバンコクであり、バンコク市内では王宮が中心だ。


 オンの車は内装の贅沢な日本製のボックスカーだ、お仕着せの制服の運転手が安宿街のジュライホテルのまえのロータリーにむかえにくる。本来なら三列の座席を二列に改造して、後部座席は二人しかすわれない。空いたスペースに小さめのデスクと冷蔵庫があり、グラスや葉巻のケースもある。


「大兄」


 オンは私をそう呼ぶ。くりかえすが携帯電話の普及していないころだ、ジュライ下のバーミー屋のおばちゃんがホテルの従業員にオンがきたと告げる。


 従業員はこのときはいつもとちがい俊敏に私の部屋の内線をならす。私は準備がすんでいても、煙草一服ぶんくらい待たせてから、木造手びらき式のエレベーターでおりる。運転手がドアを開けると、オンが上座をゆずる。


 中華街の力関係では、彼の父親はたしかに私の雇用者で目上だが、息子のオンは仲介者にすぎず、私より目下だった。これは日本の上下関係とすこしちがって、大陸文化では力をもっているものがえらいという気風があった。


 オンが私を飲みにつれていくのは接待であり、私は接待される側としてゆったりとする必要があった。


 店の敷地の大半は駐車場だ、ここでは街で多数の日本車は逆に肩身がせまく、ドイツやイタリアの高級車がならぶ。車寄せにも階級があり、正面はタイの貴族やそれにつらなる人用だ。オンは二番目くらいの海外要人の場所が定位置だ。車をおりてしばらく歩くところは海外企業の接待ぐみで、日本人街で大きな顔をしている大企業の部長さんもここでは形なしなのが小気味よい。


 駐車場がやたらと広いだけで、店内もじゅうぶんに広い。一段低くなったところにグランドピアノと小さな楽団。そこから三段ほど徐々にたかくなるアリジゴクの巣のような席の、今度は一番上がより高い地位で、楽団近くの席はテーブルも若干せまくなり、日系企業や大手でない欧米企業が席についている。オンと私はやはり二段目の広いコーナー席がいつもの席で、四隅のコーナーは高位な軍人や、欧米でも金融系の大手の重役、そして私やオンのようなグレーな人間が占めている。


 このタイの支配層をあからさまにした店の構造は有意義で、貴族はその仲間で話をするし、私たちも軍や外資金融のダイレクターあたりと顔見知りになっておくと物事がスムースにはこぶ。べつに彼らと直接連絡を取ったりはめったにしないが、お互いが認識しており、なにか不測の事態のときに名前を出すだけで助けられることがある、私どもから向こうへのお願い以外にも、彼らも私たちの力がいることがまれにあるのだ。


「大兄、いつものでよろしいでしょうか」


 私の一杯めはいつもアイスビールだ。ビールに氷を入れただけだが、げっぷが出にくくなる効用がある。ここは上品なグラスにきれいな角の氷だが、昔のタイはでは氷が希少だったので、ビールジョッキの下に三センチくらいの水を入れてジョッキごと凍らせた。それに室温のビールを注ぐと、きんきんに冷えて、ちょうど二、三杯のんだころに氷が底から浮きあがってくる。まあ屋台の文化だ。


 この店ではシャンパンやブランデー、紹興酒や日本酒をのむ客が多かったが、私は一杯めはいつもビールにした。ビールはちびちび口をつけずに、ぐーっとあおる、これは東海林さだおの真似だった。


「今日も険しいお顔ですね」


 サオリという源氏名の日系人ホステスがほとんど訛りのないきれいな日本語でからかう。


 このころ、私は自分ではわからなかったが、眉間に縦すじをうかべていることがおおかったようだ。


「今日は三本ですね」


 サオリは私の額のすじの数をかぞえて、やわらかく長い手指でほぐしてくれた。


 やっと日常の肩の力がぬけて、おちついたきぶんになる。


 私にとって非日常のこのような場所でこそリラックスできた、それだけ日常生活が張りつめていた。


 オンはひと口だけビールに付きあいあとはブランデーをのむ。私はサオリの肩から背中まであいたドレスの腰を遠慮がちにだきよせる。


 彼女は日タイのハーフで、日本に行ったことはないが、教育大学で日本語学を専攻しているそうだ。蒼白いほどの白い肌に、つよい近視でうるんだ目をしている。


 はじめて来たときに玄関の番をしている壮年の、スーツの下の発達した筋肉をおもわせる男に好みを訊かれたときに、ショートカットがいいと告げたのは、ジューンのイメージからかもしれない。


 そのときについたサオリはロングだったが、次に来たときはばっさりボーイッシュな短髪にしていて、それがまた似合っていた。


 だいたい紹介がないとまず入れないし、紹介者から客の好みをきいておくのだが、初回か二回目くらいまでにすわった女性がそのまま固定されるシステムなので相性があったのは助かった。


「大兄は今度の欧州リーグのサッカーに賭けますか」


 オンが訊く。


「イングランドに賭けようかなとおもってるよ」


「イングランド、それはだめですね、なぜなら今年のドイツには」


とそこから続く議論をする、意味はないが友好の証しである。実務レベルの交渉は部下がやっている、我々は毒にもならない話をするのが仕事だった。


 サオリが今年の欧州リーグのフォワードとミッドフィルダー、キーパーにも一人前の批評をくわえる。


 意味のない話をくりかえす、それで私とあなたは敵ではない。味方ではないかもしれないけど、少なくとも敵対していませんよ、というメッセージをお互いの組織に送れた。


 オンの組織は客家の典型で、家族が中核だった。家族といっても日本では一族、風魔忍者とか伊賀甲賀のような外に閉鎖しているような人びとだ。


 それが現代中国でいう南東部にむかしからいた。彼らのタイへの進出はゆるやかだったと思う。おなじ稲作文化で資源の豊富なインドシナ半島は、広東人には近しく感じたのではないか。すくなくとも中原の漢文化よりもという意味である。


 インドシナ半島の各国の政治と経済をはなすうえで欠かせないのが、華僑である。タイなどでは、経済の過半を華僑に占められ、政治も徐々に侵害されているというのが現状の混乱ではないか。


 他国の現地人と華僑はよく摩擦をおこすが、タイは融和政策をとってうまくいっていた。さきの大戦で枢軸に協力していたにもかかわらず、戦勝国となり、また激動の時代に独立をたもったところからも、この国のしたたかな外交政策がわかる。


「なにかうたいますか」


 ビールがバーボンにかわったあたりでサオリが訊く。ここでは外国語しばりだった、タイ語の歌をうたう客はいない。たまに日本語の歌が駐在員氏のテーブルからきこえるくらいで、だいたいは英語か仏語の歌がおおかった。


 生バンドがいるのでどんな曲にも対応できる、シャンソンをしっとりうたったり、アリアを高らかくうたいあげる客もいた。


 私はだいたいビートルズの歌でお茶をにごした、オンもうたいたいのだが、私が一曲うたわないと順番がまずいのだった。カラオケには苦手意識があったが、トムに下手でもいいから一生懸命うたってみろと言われて吹っきれた、トムも上手なほうではない。


 カラオケといってもバンドが入っているので、基本的にはピアノのちかくのマイクでうたう。私はテーブルにマイクを持ってきてもらうが、オンはステージで堂々と英語のポップやオールディーズをうたう。


 だんだんと酔いがまわってくる、店の正方形の小さめの公民館くらいある天井をみる。品のよいシャンデリアや間接照明で、うす暗いが建物の輪郭がきわだっている。


 眼鏡をはずしてテーブルにおく、私はごくすこしだけブラウンの色の入った近視の眼鏡をかけていた。腕時計もはずす、これはトムからもらったセイコーだ。


 最後に伊達の結婚指輪もぬいて、眼鏡と時計と三角になるところにおく。結婚指輪は二十四金でプレーンなものだ、タイでは十八金より明るく純度が高く、やわらかい二十四金が好まれた。女性関係のトラブル防止に若干の役にたつ。


 心地のよいソファーに頭をあずける、体の力をぬくとソファーにしずむ。


 いつもこのタイミングでサオリの冷たい掌が私の両肩にかかる。遠慮がちに節度をまもって肩をほぐしてくれる。


「きもちいいな」


「ありがとう、あなたは働きすぎなんじゃない」


「そんなに働いてはいないよ」


 トムの手下で国境越えをしていたころのような仕事はながくしていない。


「まじめすぎるのよ」


「僕がまじめにみえるのか」


 目をつぶったままこたえる。サオリの掌がとまって、私は目をあけた。思わずの真剣な表情でサオリは居ずまいを正していた。私も体をおこして彼女のほうに正対すると、


「あなたはそんなにあせらなくていいの」


「なにをあせっているのかな」


 さっきからの先生と生徒のような会話におたがい苦笑いする。


「それはしらないけど、人生はもっとゆっくりすごすものよ」


 視線を私の空のグラスにそそいで、ゆったりとした動作であたらしいハイボールをつくる。


 トムはその地位と座を私にゆずるとき、私がなにをしたらいいかは、「自分で探さないといかん」と言って去った。


 私はまだ自分の人生でなにをするかがわからなかった。


 カンボジア国境で働いていたころは毎日が引きつっていた、私の運命がなにものかに委ねられたような気分だった。


 それはわるくなかった、親でも常識でもないなにかが私の行く先をきめる。


 いまはジュライの一室にいることに、またオンやジューンの中間に介在するものとして、私の価値はあった。しかしひりひりとした焦燥感はまだ続いていた。


 その正体がつまり若さだったといまはわかる、人間と時間は不可逆なので無為な質問だが、昔にもどりたいかと訊く人がある。


 私はインドに行った経験に似て、「すばらしかった、しかしもう一度やれと言われたくはない」とこたえたいとおもう。


 私は二度目の雨季をすごしたあと、ノックにすべてをゆずってヨーロッパへ旅立った。


 ジューンには多分に私情があり、つまり私が惚れていて冷静な判断がくだせなかった。


 ノックのほうがしたたかな広東人との交渉にはむいているともかんがえた。


 彼女たちがどういう人生を送っているかを知るすべはない。

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