元カノからの電話
真花
元カノからの電話
その土曜日は仕事がなくて、朝から起きもせずにベッドの上でまどろみ続けていた。願わくばこの時間が永遠に続いてくれ、半ば起きたときにはそう思い、浅い夢の中でも一切快活には動かずにだらだらとしていた。
黄金のサイクルは電話の音で刻まれた。
見れば、十年も前に別れた元恋人だった。連絡先を消してなかったのは、僕に未練がまだあったからかも知れない。だが、連絡なんて全く取っていなかった。カーテンの隙間からは夏の陽光が覗いている。いや、今更復縁なんてあり得ない。ひどい浮気癖にどれだけ傷付けられたことか。そんな話になったなら僕はカーテンをきっちりと閉めなくてはならない。
部屋の空調と外気の熱がせめぎ合っている境目とカーテンは同じ位置だった。僕は僕の世界を守らなくてはならない。特に付き合っている人がいる訳じゃないが、アユミに入り込まれたら引っ掻き回されるのは目に見えている。だから、この電話を無視する。かと言うとそれもどうかと思う。別に敵じゃないんだ。
電話は鳴っている。もうすぐ止まりそうだ。
元々大事だったのは間違いない。だが、今はもう僕の人生には必要のない人物だ。だが、だからこそ、親密だった他人として対応することが出来るのではないか。そうだ。そうに違いない。
「もしもし」
「あ、ハルト、久しぶり。分かる? 私、アユミ」
「分かるよ」
十年経っても声はあまり変わらない。思っていたほどの動揺は僕にはない。手を伸ばしてカーテンを少し開けた。眩しさに熱気が乗っている。
「突然電話してごめんね」
「別にいいよ」
「寝てた?」
「うん。まあ、でも十分に寝たから気にしないで。……で、どうしたの?」
僕はアユミが結婚でもするのだろうと思っていた。もしくはもうしていて、子供がどうこうとか。わざわざ他の誰かの噂話をするために電話はしないだろう。それとも誰かのために連絡をくれたのだろうか。
「あのね。私」
「うん」
「癌になったんだ」
「マジで?」
「結構進んでて、内臓もだいぶ取った」
この部屋は汗をかくような設定になっていない。だが、僕の顔から汗が噴き出る。辺縁の現実感がないのに、リアリティが中心だけを撃ち抜いた感じで、それは心臓に至って鼓動を激しくさせる。死ぬのだろうか。
「そうなんだ」
「余命三ヶ月なんだって。その間にいつ死んでもおかしくないんだ。毎日、寝るのが怖い。明日、目が覚めなかったらって思うと、明日が来ないんじゃないかって、怖い」
「でも、今は生きている」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「自殺する人の気持ちが全然分からない。そんなに死にたいなら、私の代わりに死んでくれればいいのにって思う」
「代わることは無理じゃないかな」
「そうだよね。……たくさん泣いた。生きることも子供を産むことももう出来ないんだ」
辛いね、って言おうと思ったのに、声にならなかった。
「それでも死ぬまでは生きる。色んな人に支えられているんだ」
「それは、よかった」
「でも死ぬときは一人で死ぬしかないから、時々意味がないのかも知れないと思う」
「生きている間には意味があるんじゃないかな」
「ハルトは元気?」
「おかげさまで」
「仕事してるの?」
「働いているよ。週五日」
「私多分、死ぬ前に、ハルトの声が聞きたかったんだと思う。私を一番愛してくれたのはハルトだから。でも、今またそうしろとは言えない。これが最後になると思う」
「そっか」
「じゃあね」
「うん」
電話は切られて、部屋に取り残された僕。さっき半分開けたカーテン。ベッドの上に座って、アユミの言葉を反芻する。十年間、僕よりも愛した人がいなかったのか。そして癌になって死ぬ。どうして僕に電話をかけた? 声が聞きたい? 胸の中に青い悲しさと赤い怒りが交差している。まるでアユミの無力感を押し付けられたみたいだ。
かけ直そうか。
いや、違う。それはアユミの思う壺だ。この状況に来ても、十年前の傷が発言権を持つ。アユミは人を操作する。一番操作されたのが僕だ。だからそのやり口は体に染みている。だから、かけ直してはいけない。
アユミは僕に染みを作った。他の人にも同じようなことをしているのだろう。連絡なくひっそりと死んでいれば生じなかった、だからこそアユミはそれをした、まるでこれは、アユミの生きた証を僕に刻み込まれたかのようだ。そして、今日を逃せばもう電話を僕からかけることは出来ない。出なかったときに死を感じてしまうから。出たとしたら、操作されるから。
だから、僕はアユミの連絡先を消さなくてはならない。
それはアユミを僕から消そうとする行為で、そんなことをしても出来た染みは消えないだろう。それでも、消さなくてはならない。
だが、出来ない。きっといつまで経っても、アユミが死んだ後だとしても、出来ないままだ。
(了)
元カノからの電話 真花 @kawapsyc
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