三枚のお札 最終話

 勢いよく地面を蹴ると、後ろに土が飛び散る。風のごとく森の中を駆け抜ける山姥。全ての動くものに目を光らせ、標的を探す。

 やがて山姥は、暗闇の中に大きく手を振って必死に走る人影を見出した。

「見つけたぞ!」

 山姥が叫ぶと、小僧は驚いた顔で振り向いた。息を切らし、一段と速度を上げて振り切ろうとする。が、何せ相手が悪すぎる。普段から寺で遊びほうけている小僧が、この山を毎日駆け回っている山姥に、足の速さで敵うわけがないのである。このままいけば、追い付くのは時間の問題であった。じわりじわりと、小僧と山姥との間が埋まっていく。

「さあ観念するが良い!」

 いよいよ双方が手を伸ばせば届くだけの距離となり、山姥は両腕をガバッと広げ、一気に小僧へ飛びかかろうとした。

 突然、小僧は後ろを振り向き、何かを掲げた。

「砂の山、出て来い!」

 小僧が叫ぶや否や、小僧が手に持っているものが光り輝いた。と同時に、小僧と山姥との間に、砂山が出現した。

 小僧を捕えようとしていた山姥の腕は、砂山をつかんでいた。掴んだ部分が下に流れ落ち、それにつられて山姥の体もずるずると落ちていく。慌てて山姥はもがき、砂山を乗り越えようとするが、砂を掴む度に下の方へと滑り落ちてしまい、なかなか上ることができない。その間にも小僧の姿が離れていく。

「ええい! こんな砂山、吹き飛ばしてくれる!」

 山姥は一度砂山から離れ、大きく息を吸い込むと、それを一気に吐き出した。

 強烈な突風が山姥の口から発生し、砂山に激突する。砂が向こう側へ押し流され、たちまち砂煙が巻き上がった。山姥は目をつむり、なおも猛烈に息を吹きかけ続ける。やがて砂山は崩壊し、大量の砂の塊が地面に落ちた。

「お前が妖術を使おうとも、わしには効かんのだ!」

 再び山姥は小僧を追いかける。距離を離されてしまったとは言え、もう一度追い付くには充分であった。

 小僧はまた追い付かれることを察し、木々の間を次々とすり抜けていき、山姥の視界から外れようとする。しかし相手はさすがの山姥、山の中の地理は網羅していると見え、小僧がどこをどう通っても必ず小僧の後ろをついて来た。小僧は一向に振り切ることができないどころか、またもや山姥の姿が大きく見えてきた。

「大人しく捕まれ!」

 山姥は小僧に向かって手を伸ばす。ここで小僧は、再び懐から何かを取り出した。

「大きな川、出て来い!」

 小僧の手に持つものが光る。次の瞬間、轟音ごうおんと共に、小僧の背後から大量の水が流れてきた。

 水は通り道にある木々を根こそぎ倒し、山姥目がけて押し寄せてくる。さすがの山姥も立ち止まらざるを得なかった。今だとばかりにその場から走り去っていく小僧。しかし今は慌てて追うわけにはいかない。このままでは流されてしまう。

「こんな水、飲み込んでくれる!」

 山姥はガバッと口を開け、迫りくる水を飲み始めた。瓢箪ひょうたんに入っている酒をぐい飲みするかのように、川の水をどんどん腹の中に入れていく。止まることのない水を前に、上半身が後ろに倒れかけたが、下半身の粘りでなんとか持ちこたえた。そして時間はかかったものの、やがて川の勢いが弱まり、水が全て山姥に飲み込まれた。

小癪こしゃくな真似をしおって。こんなものでわしを倒せるとでも思ったか!」

 再び山姥は走り出す。が、先程までと同じように全速力では走れなかった。というのも、水が腹の中で前後に揺れ動き、走りにくいのである。水が背中側に揺れて体が後ろに傾いたと思ったら、今度は水が前に揺れて体の平衡が崩れ、転びそうになる。腹の中でたぷんたぷんと自由に揺れる水の制御に苦しみ、なかなか本気で走ることができなかった。

 しかし山姥と小僧の差は広がるどころか、むしろ再び縮まってきている。小僧もまた、逃げ始めた時ほど速くは走れていなかったのである。既にだいぶ疲れてきたのか、息も絶え絶えになり、横っ腹を押さえ、苦しそうに走っている。とうとう限界を迎えたようで、小僧は立ち止まり、肩で息をし始めた。

 その隙に山姥が一気に距離を詰める。走っているうちに腹の中の水の動きにも慣れ、体をうまく前後に傾けながら、小僧の方へ突き進む。

「これでお前も終わりだ、小僧!」

 三度みたび山姥は小僧を射程圏内に捉えた。今度こそ山姥が小僧に追い付きそうになったその時。

「火の海、出て来い!」

 小僧がまたもや何かを手にして、枯れた声を振り絞って叫ぶ。その言葉と同時に、小僧と山姥の間にあった木が燃え始めた。あたりは木々ばかり、火は風にあおられてどんどん他の木にも燃え移っていく。あっという間に一面火の海となり、山姥の進路が断たれた。

 小僧はき込みながらも再び呼吸を整え、その場から逃げていった。それを追いたい山姥であったが、火の壁に阻まれて進めない。むしろ自分が火の海に飲み込まれる危険もあった。

 だが山姥は冷静であった。

「さっき飲んだ川の水を吐き出してしまえ!」

 そう言うと、山姥は再び大きく口を開けた。すると、腹の中にまっていた水が逆流し、山姥の口から放出された。先程山姥に向かって押し寄せた時の勢いそのままに、水が火に襲い掛かる。竜のごとき水流を前に、さしもの火の海も全く歯が立たず、次々と冷却されていく。程なくして鎮火が完了し、後には黒く焦げた倒木がいくつも残った。

「ふう。これで鬱陶しい水を腹から追い出すこともできたし、一石二鳥だわい」

 れた口元を袖で拭き、またしても走り出そうとする山姥。

「……ん? これは?」

 ふと見ると、焼け跡に一枚の紙切れが落ちている。拾ってみると、太く力強い字で「御守」とだけ書かれてあった。

「なるほどな」

 山姥はその場で大きく頷き、にやりと笑うと、紙切れを引き裂いて後ろに放り投げた。

「逃がさんぞ、小僧!」

 山姥は走り出す。腹が空になったおかげで走りやすくなり、水を飲む前と同じくらいの速度で小僧を追跡することができた。

 一方の小僧、やはり体力切れで満足に走れず、おまけに先程まで見せていた妖術も使う気配がない。ついに小僧を追い詰める時がきたと、山姥は確信した。

 しかし、ここで山姥は一軒の寺を視界に捉えた。もしやと思っていたら、果たして小僧はその寺の中へ駆け込んでいった。

「そんなところに逃げても無駄だぞ!」

 逃げているところを追い付くよりも、隠れているところを見つける方が、小僧を捕まえるには好都合である。構わず山姥は寺を目指す。

 その時、小僧を隠した寺の扉が再び開いた。何事かと見ていると、中から黒い袈裟けさを着た大人の僧が出てきた。そして扉を閉め、後ろで手を組み、走る山姥の方へ体を向け、悠然と待つ構えを見せた。

 門番のように立ちはだかるこの男に、山姥は少なからず興味を抱いた。その寺に到着するというところで走る速度を落とし、彼の数歩手前で立ち止まった。

 近くで見ても、この僧は自分を恐れている様子はない。眉に白いものが混じり、額の皺が深いことから、だいぶ老齢であることが見て取れる。強がりめ、と山姥はほくそ笑む。こういう虚勢を張っている者を脅し、その化けの皮を剥がすことほど面白いものはない。

「お前はここの寺の者だな?」

 おもむろに尋ねる山姥に対し、黒衣の老僧は山姥から視線を外さずに頷いた。

「そうだな。わしはここで和尚をやっておる者だ」

 老いているのに腰は曲がっておらず、堂々としている。さすが和尚を名乗れるだけの風格はある。

「なるほど、お主が山姥か。一度顔を見てみたかったのだ」

「わしのことを知っているのか。それならば話は早い」山姥は自分の名が知られていることを内心嬉しがりながらも、和尚をきっと睨みつけ、寺を指差した。「今逃げ込んだ小僧を出せ。さもないとお前から殺してやるぞ」

 山姥はできるだけ怖い形相をして和尚を脅そうとした。しかし、和尚は顔色一つ変えない。

「お主、妙にうちの子に執着しておるみたいだな。理由を聞かせてはくれまいか」

 和尚が全然怖がっていないことに腹を立てた山姥は、さらに声を荒らげた。

「あいつはわしの孫じゃ。わしが手塩にかけて育ててきたのに、その恩を忘れてこのわしを山に捨て、あろうことかわしを侮辱しおった」

 拳を握り、許せん、とつぶやく山姥。しかし、和尚の反応は冷ややかなものだった。

「それは、お主があの子に侮辱されるようなことをしたからであろう。当然の報いだ」

 山姥の頭にかっと血が上った。

「お前! わしを愚弄する気か! それならばお前もただでは置かないぞ!」

「では聞くが、お主は知っておるのか? ……何故あの子がお主のことを嫌っておるのか」

「知るか! 身に覚えがない! あいつが勝手にわしの恩を忘れただけで、わしに非など一切ない!」

 和尚はため息を吐いた。

「……本当にお主は、自分・・が《・》した《・・》こと《・・》を忘れたのか?」

 和尚の目がギラリと光る。まるで山姥の心を見透かすかのように。

「うるさい! うるさい、うるさい、うるさーい!」

 山姥は割れ鐘のような大声を張り上げ、和尚の話を遮る。

「我が体よ、大きくなれ!」

 そう怒鳴ると、山姥は見る見るうちに大きくなり、寺と同じ高さにまでなった。

「言わせておけば良い気になって……不愉快だ! 先にお前を血祭りに上げることに決めた!」

 大きくなった山姥が、山全体が震えるほどの大声で叫んだ。

「これが、お主が山姥と呼ばれ、恐れられる能力か」

「そうだ! わしは何でもできるのだ!」

 どうだ、恐れ入ったかと得意気な顔になる山姥。しかし、和尚は相変わらず泰然としている。

「まあ大きくなるのは構わんが、わしの話はまだ終わっていない。とりあえず最後まで聞くが良い」

 和尚は首を鳴らし、続けた。

「わしがあの子に持たせたお札には、人の力を超越した、強大な霊力が宿っておる。その力を使えば、厠の柱に話をさせることもできる。砂の山を生み出すことも、大きな川を生み出すことも、火の海を生み出すことだってできるのだ。ただお札を持って、願いを唱えるだけでな」

 和尚は山姥を射るように見ながら、よどみなく語る。

「お主はここに来るまでの間、うちの子が作り出した様々な自然に妨害されたろう? あれは妖術などではない。お札の力だ。だからこそ、途中でお札を落としてしまったら、もうあのような足止めができなくなるわけだが」

「ふん……知っていたさ」山姥は不敵に笑う。「そのような道具に頼らなければいけないなど、人間とは不便なものだな」

「お主とてそれは変わらないだろう」

 和尚は片目を閉じ、もう一方の目で山姥を見据えた。

「このお札は反対に、うちの子によって生み出された自然を消してしまうこともできてしまう。……そして、今のお主のように大きくなることだって、お札の力があれば容易いことなのだ」

 徐々に山姥の顔が曇ってくる。

「つまりわしが言いたいのは、お主もうちの子に持たせたお札と同じものを持っている、ということだ」

 山姥は歯ぎしりをした。自分が山姥として名をとどろかすことができているのは、領主を亡き者にした時のように、自然を操ることができたからである。しかし、それは山姥自身の力ではない。山姥の懐奥深くで眠っているお札があってこそ、自然を自由に扱えるのである。

 つまり、お札に頼らなければ人知を超えた力を操れないのは、小僧も山姥も同じなのである。それを知られてしまっては、山姥としての威厳は大きく損なわれてしまう。現にこの和尚は山姥のことを全く恐れていない。

「そしてこのお札は、最初からお主が持っていたわけでもあるまい。お主の前に、このお札の持ち主がいたはずだ。そうだろう? 誰からもらった?」

 まるで全てを知っているかのような目で、和尚は問いかける。山姥は苦虫をみ潰したような顔で黙っている。

「いや、聞き方が悪かったな。誰から奪い取った《・・・・・》のだ?」

 山姥は何か言葉を発しようとした。だができなかった。今山姥は、思い出してはいけないことを思い出しかけていたのである。

「今、お主の頭の中に、一人の女子おなごが浮かんでおる……違うか?」

 山姥の中に抑え込んでいた記憶が、今再び解放されようとしていた。山姥が思い浮かべたのは、彼女の嫁――つまり彼女の息子の妻であった。

「その女子こそ、お主が今持つお札の真の持ち主、というわけだ」

 山姥の記憶が蘇っていく。包丁を持ち、血しぶきがついた自分の手。その向こうには、髪を乱し、腹のあたりから血を出して横たわる、若い女性の姿。

「お主はどうしてその女子を殺した?」

 気に食わなかった。自分が何年もかけて立派に育て上げた息子が、ぽっと出の嫁の言いなりになっているということに。嫁の尻に敷かれ、辛そうにしている息子を救うには、こうするしかなかったのだ。

「まあ、聞くまでもないか。大方、女子の勝ち気な性格と折り合わなかったのであろう。お主も頑固そうだからな」

 しかし、残った家族にこの一件を知られるわけにはいかなかった。すぐに血まみれの女を片付けなければならなかった。

 その時、死者の懐に、一枚の紙があるのを見つけた。取り出してみると、そこにはただ二文字、「御守」とだけ記されていた。だが、その文字以上に、紙からただならぬ雰囲気を感じた。

「それにしても、家族の一員を殺してもなお、残った家族と共に暮らそうなどと思うとは、お主も面の皮が厚いな。家族に知られなければそれで良いとでも思っていたのか」

 遺体を括りつけた背負子を背負い、月明かりのない夜闇の中をひたすら進む。重い足取りで山の中を歩いていく。

 もっと遠くへ。

 もっと奥へ。

 決して誰にも見つからないように。

「お主の家族には、女子は事故で死んだと伝えたそうだな。だが、あの子の目はだませなかったというわけだ。たとえ直接現場を見ていなかったとしても、幼い子の勘というものは恐ろしくえている」

 遺体の処理は滞りなく終わり、息子には疑われることもなく葬儀を済ませた。この時取り出したお札がやはり普通の紙ではないことに気付いたのは、それから間もなくのことだった。

「今、寺の中に隠れておるあの子にとって、その女子は母親だ。その女子を、お主は殺した……お主が嫌われるのは至極当然のことと言えよう」

 山姥はわなわなと震え出した。

 さっきから何なのだ、この和尚は。あの小僧に色々吹き込まれたのか、部外者のくせにあたかも自分のことをよく知っているかのように語ってくる。腹立たしい。一介の和尚ごときに、自分のことが分かってたまるか。

「関係ない奴が、人の家庭事情に首を突っ込むな!」

 あたり一面に響くほどの大声で、山姥は一喝した。あまりのうるささに、さすがに今度は和尚も一瞬目を背けたが、すぐに山姥と目を合わせ直した。

「……お主は何か勘違いをしておるようだな」

 秋の夜風が二人の間に吹く。しばらくの沈黙の後、和尚が口を開いた。

「わしはあの小僧の祖父だ」

 山姥にはその意味が理解できなかった。

「何を言う! 小僧の祖父はわしの夫だ! お前などではない!」

 やれやれ、といった様子で和尚は首を振った。

「人は誰だって、二人の祖父を持つものだが」

 そう言われて山姥は初めて気が付いた。そういえば、自分は嫁の親の顔を知らなかったということを。

「お会いしたのは初めてであったな、岳母がくぼ殿どの。うちの娘が随分世話になった」

 普通なら、自分の息子の結婚相手の親とは、もっと穏やかな状況で対面するものであろう。まさかこのような形で初めて会うとは、誰が予想できただろうか。

「ところで、だ」

 山姥が呆気あっけに取られていると、和尚が目配せをしてきた。

「このお札はこの世に三枚ある。そのうちの一枚は今お主が持っているもので、元々わしが娘に授けたものだ。そしてお主も知っておる通り、別の一枚はわしが孫に持たせたものだ。どうやら途中で落としてきたようだがな」

 まだ何か言うのかと山姥が思っていると、突然和尚は後ろで組んでいた手を解き、その手を自分の懐へ伸ばした。

「つまり、これと同じものがこの世にあと一枚ある。その意味が分かるな?」

 そう言うと、和尚は懐からお札を取り出した。

「お前……!」

 山姥はそのお札を奪おうと手を伸ばした。だが遅かった。

「豆になれ!」

 和尚がそう言うと同時に、お札は光った。巨大な山姥は一瞬にしていなくなり、彼女がいた地面には豆粒と一枚のお札が残った。

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三枚のお札 / 栃池 矢熊 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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